被告人の陳述


元ヴァジラパーニー師こと豊田亨被告の陳述上申書
1995年12月11日
(見出しは掲載者がつけました。)


(はじめに)

私が関与した多くの事件が発生してから、半年余りが経過しようとしていますが、自分の中における罪の意識というものは日々重くなるような気がいたします。これはもちろん、自分のなした犯罪の重さ、そしてその被害の甚大さというものを改めて認識しつつあるということに他なりませんが、それと同時に自分が少しづつ普通の思考というものを取り戻しつつあると言うことだと思います。

今回の一連の事件が私という個人のなした犯罪であることは言うまでもありません。申し訳ないという表現がありますが、自分の犯した犯罪について言うならば、文字通り弁明のしようがにも言葉がなく、弁解の余地がないというのが正直な気持ちです。今の私にできることは、一連の事件やそれに関係する事実について自分の知っていることを申し上げ、それによって事件の全体像ほ少しでも明らかにすること以外にはありません。そしてそりこそが、今の自分がしなければならないことであると思っております。以下においては、私がこのような事件を引き起こすに至った経緯を、主に私の個人的な事情と教団の変遷という観点から申し上げたいと思います。

(生育歴、入信)

自分の幼少の頃を振り返ってみますと、特に不幸であった訳だはなかったにもかかわらず、苦しみというものに対してやや敏感であったような気がします。一例をあげるならば、自分は小学校の低学年の頃に「人は死ぬものだ」という事実に対して非常に悲しみ、虚しさ、あるいは恐怖を覚えた記憶があります。また、特に外的制約があったわけでもなかったのですが、煩わしいことのない「自由」な生活というものに憧れたりしていたのも同じ頃だったと思います。

そして、その後私はいわゆる「輪廻」という考えを知るようになりました。この考え方が、自分がそりまで持ち続けていた「死」に対する一つの回答を与えていたこともあり、この思想が自分とって非常に魅力的に感じられるようになってきました。このことが後の自分にかなりの影響を与えているというということは言えると思います。

私はその後、東京の大学に入学し、当時出版されたばかりだった「超能力・秘密の開発法」という本を目にして、数ヶ月後にはオウム真理教の前身であったオウム神仙の会に入会しています。このときの自分は、ヨーガ等の修行によって自分の能力が伸ばせれば、という位の軽い気持ちでした。そして、入会してからも大学の方等で色々と忙しかった自分は、一応会員であったものの、真面目に修行していたとは言えず、思い付いたときに道場に通う程度の、いわばつかず離れず、といった状態が長く続いていました。

このように、私は修行や活動を熱心に行っていた訳ではありませんでしたが、教団から出される本については目を通すようにしていました。そして、そこに説かれていた世界観に対しては、自分がそれまで漠然と持っていた考え方と共通するところがあったためか、次第にある種の共鳴を覚えるようになっていきました。例えば、初期に出版された「生死を超える」という本にあった、「人間が死んだらどうなるか」ということについての記述には、厳しい修行をして高い段階に到達し、実際に体験したものでなければ書けないような具体性が感じられ、「この人の言っていることは、本当なのではないだろうか」というような強い印象を受けた記憶があります。

(出家とワーク)

その後、私は平成4年の4月に出家をしておりますが、これは教祖、及びその当時既に出家していた何人かの出家者の強い勧めによるものでした。自分は最初、出家を勧められたときに、それを一度は拒否しています。これは、一つには自分がそれまでに作ってきた人間関係その他を全て断ち切り、捨てなければならないという点に引っ掛かったものであり、また一つには教団に出家してからの修行や生活は、在家とは比較にならないほど厳しいということを聞いていたためでした。このような障害があったにもかかわらず最終的に出家に踏み切ったのは、もちろん、前にも述べたように教祖の説いていた世界観や修行をかなり強く信じる気持ちがあったからに他なりませんが、また、修行、あるいはより良く生きるということが人間の一生において最も重要な事柄であるという考え方が、教団というものを知る以前から自分の中にもあったことも大きく影響していると思います。

さて、自分は出家してから、科学技術省の前身で、当時広報技術部と呼ばれていた部署に所属し、いわゆるワークをすることになりました。ひひで、「ワーク」という言葉を説明しておきたいと思います。というのは、これは単なる「奉仕作業」ではなかったからです。

ワークというのは、各出家修行者に対して与えられる作業であり、同時に修行でもあるとされていました。これが修行と見なされていた理由としてあげておかなければならないのが、ワークの、俗に「カルマ落とし」、あるいは「観念崩し」と言われていた側面です。「カルマ」というのは、各人がそれまで経験し、自らの内に蓄積してきたという意味で、観念という言葉も同じような意味ですから、わかりやすく言うならば「各修行者がそれまで培ってきた、悟りや解脱の妨げとなるけがれを取り除くこと」という意味になると思います。教団内では、かなり無理な指示が出されることもありましたが、上述の通り、出家者は「無理だと考えるのは自分のけがれである」と考え、自己のけがれを落とす修行と考えてワークを行ってきました。端的に言うならば、「無理であるにかかわらず指示に従う」のではなく、「無理であるからこそ指示に従う」という、通常の基準からは大きく逸脱した思考の下に行動していたのです。

(ヴァジラヤーナ)

話を元に戻します。自分はその後、平成5年の1月頃に突然村井さんから、

「ロシアに行って、勉強をしてもらう」ということを言われました。このロシア行きが、自分がいわゆるヴァジラヤーナに深く関係するようになった最初の出来事でした。この「ヴァジラヤーナ」という言葉についても説明する必要があると思います。

仏教の修行は大きく三乗、すなわち小乗、大乗、金剛乗に分けられるとされています。「小乗」とは、各個人が修行によって悟り、解脱に到達し、救われるという修行の形態を指します。これに対して、「大乗」というのは、個人の修行だけでなく多くの人々の救済をも目指す修行の形態です。内容を考えればわかるように、大乗の修行は小乗の修行よりも困難であり、そのため非常に長い時間が必要であるとされています。この極めて長い期間を要する大乗の修行を非常に短い期間に短縮して達成しようというのが「金剛乗」(ヴァジラヤーナ)の修行体系で、これをやりとげるためには、?切りや指導者と、修行者の「金剛の(極めて堅固な)心」が必要であるとされていました。また、このような心を養うために、修行としてかなり過激なことが行われていた例もある、と教団では説かれていました。

さて、私はロシアに行って、それまで知らなかった教団の一面を知ることになるのですが、当時まだ新人であった自分を心配してか、ロシア滞在中、村井さんは私にいろいろ話してくれました。私は、そのとき次のようなことに引っ掛かっていました。

「我々は極めて危険なことをやろうとしているのではないか。またヴァジラヤーナの修行ということでその点を黙認するとしても、ヴァジラヤーナというのは修行の進んだ、非常に素質のある修行者が行うべきであって、まだ出家して一年にもならない自分のような者がやるべきものではないのではないか。」

これにたいする村井さんの回答は、おおよそ次のようなものであったと記憶しております。

「危険なことはなりたくない、と考え、尊師の指示に従わないというのは自分の煩悩であり心のけがれである。また、小乗、大乗、そしてヴァジラヤーナというのは、修行の形態を仮に分類したものに過ぎないのだから、最終解脱者である尊師がやれと言っている以上、それにこだわる必要はない。」

自分はこの答えを聞いて完全に納得したわけではありませんでしたが、結局、村井さんの言うように、「自分の考え」というもの自体が自己の煩悩であり、けがれである、として自分の疑問を封じ込めるようになりました。このようにして、私は次第に「指示に対する疑問は自己のけがれであり、疑問を持たずに指示を実行することこそが修行である」という考えを持つようになって行きました。

この年になって、私は廣瀬さん、横山さんらと共に教祖から自動小銃の製造を指示され、自分は銃弾を担当することになりました。幸いにして銃弾は最後まで完成しませんでしたが、私自身、このような作業が非合法であることを知りつつ、前述の通り疑問を持たないようにして作業をしていたと思います。

そしてこの年の10月末頃、村井さんの補佐をやるようにということで、私は第七サティアンに常駐するようになります。私は、この頃にはもう、第七サティアンがサリンのプラントであることを知っていたと思います。それにもかかわらず作業の従事することを拒否しなかったのは、一つには組織上の命令ということもありますが、このように非合法な活動に対する抵抗が最初の頃よれも薄くなってしまっていたこともあると思います。ただ、その頃、プラントの作業自体が挫折しかけていたため、自分が実際に現場での操業にかかわることはほとんどありませんでした。その後、平成7年の1月に入り、上九一色村近辺の土からサリンの副生成物が検出された、という新聞報道があったことで、第七サティアンは宗教施設として偽装することになり、プラントの作業は中断されています。

(地下鉄にサリンを)

これまで述べてきたように、かなりの非合法活動をしていた教団は、そのためもあって絶えず警察の強制捜査というものに対する恐怖を感じていたと思いますが、平成7年に入って、警察の捜査に対する教団の危機感は一層切実なものとなったようでした。そして、教祖が再び警察の捜査の恐れがあると判断したためか、同年3月18日に私は、村井さんの指示によって小銃部品を隠匿する作業をしています。そして、隠匿作業から帰ってきた私は、第六サティアンにあった村井さんの自室で、村井さんから

「地下鉄にサリンを撒いてもらう。井上らと連絡して行動してくれ。」

と指示されました。ほとんどこの通りの短い指示だったと思います。私は最初、何を言われたかわかりませんでした。それはこの指示が余りにも唐突に思われたからでしょう。自分の場合、「やりたくなければ、やらなくてもいい。」というような言葉はありませんでしたが、実際のところ、当時の自分であれば、やはり他の方と同様、そのような言葉があったとしても実行を承諾せざるを得なかっただろうと思います。ただ、「やらずに済むならばなりたくはない」という気持ちがあったことは当時の偽らざる気持ちとして正直に申し上げたいと思います。また、これまでにも非合法なことをやってきたとはいえ、これまで直接このようなことをやったことがなかった者たちの抵抗感を少しでも減らすために5人に実行させたとするなら、そしてそれによって「やらずに済まない」状況が作られてしまったということを思うと、何とも言えない気持ちがします。

このようにして、私は半ば否応なく承諾の返事をして、同じ第六サティアンにあった自室に戻りました。そして私は暫くしてから部屋を出て、同じ第六サティアンの廣瀬さんの部屋に向いました。部屋にした廣瀬さんに、彼も同じ指示を受けているのかどうか確認すると、非常に重苦しい顔で「指示というのは、地下鉄にサリンを撒くと、というものだ」と言いました。私は、「やはりそうか」と思い、再び自室に戻りました。

それからのことは調書になっておりますのでここでは繰り返しません。ただ、犯行時のことは申し上げておく必要があると思います。私は地下鉄日比谷線の列車内で、サリンの入った袋に傘で穴をあけ、その結果多くの死傷者を出し、取り返しのつかない甚大な被害を与えてしまいました。この犯行時の気持ちは、とても一言では言い表せません。

「これは教祖の指示に違いない。そしてそれは善なのだからやるしかない。」

「わたしはとんでもないことをやろうとしているのではないだろうか。」

「いや、教祖の指示は救済だ。やはりやるしかない。」

「そもそも、どうして私がこのようなことを」

「…………」

このような様々な思いが去来したように思います。そして、それらが何か「もの」のように自分に押しよせてきて、結果として何も考えられない状態だっというのがもっとも近いように思います。

こうして結局、私はとんでもない凶悪犯罪をなしてしまいました。このときのことを考えると、気が狂いそうになります。

(教祖からの詞章)

この後、上九一色の教団施設に戻った自分は、村井さんに連れられて、廣瀬さん、横山さんと共に教祖の部屋に行きました。村井さんが簡単に報告した後、教祖が実行犯3人に対して、

「偉大なグル、シヴァ大神、全ての真理勝者にポワされて良かった。」

という言葉を唱えるように指示しました。「ポワ」というのは、教団の用語で「意識を高い次元に引き上げること」という意味です。簡単に言うならば、「被害にあった方は、結局救済されるのだ」ということになると思います。私は何か胸がつかえるように思いを抱いたまま、それを打ち消そうとしてこの言葉を唱えました。

3月21日の夜になって、教団に対する強制捜査があるようだということで、私は上九一色の教団施設を抜け出し、逃亡生活に入りました。これ以後のことも既に調書になっておりますが、3月の末頃に、千代田区一番町にあったマンションで、村井さんから指示を受けたことが、この後さらに2つの犯罪に関与する直接の原因となったのです。

ここで、彼は、「逃げているだけでは駄目だ、教祖と教団を守らなければならない。地下鉄事件によって厳しくなった捜査を撹乱するようなことをやってくれ」という内容のことを言いました。地下鉄事件の指示を出した人間の言葉とはとても思えませんでしたが、村井さんの指示は結局教祖の指示であり、それは嫌でもやらねばならない、という考えにまだ固まっていましたので、これも拒否することができず、彼の指示に従い、結局その後さらに2つの罪を重ねることになったのです。

(逮捕、被害の悲惨さを知って)

さて、私はまず、公務執行妨害罪で逮捕され、その後、地下鉄事件の殺人・殺人未遂罪で逮捕されました。逮捕された当初、自分は黙秘をしていました。それは、教団のことを漏らすことが、教団の「戒律」に反するからであり、また「逮捕それたら黙秘をするように」という村井さんの生前からの指示があったからです。

しかし結局、私は数日後に逮捕事実を大筋で認めています。その最もおおきな理由は、もちろん自分の知ったのはごく一部に過ぎませんが、自分のなした犯罪によって被害を受けられた多くの方々の、極めて悲惨な状況を教えて頂いたことです。教団の教えによれば、我々の行為は崇高な「ポワ」であり、「善」である、ということになっていました。そして私はそれを、「人間の通常の思考では及びもつかない深遠な意味がある行為」として納得しようとしていました。しかし、それがもたらしたものを直視すると、通常の人間としての部分を完全に失っていなかった自分の、思考の許容範囲をはるかに超えていました。そして、それと同時に、自分達の行為が、純粋に宗教的な目的を持つ「ポワ」ではなく、教団自身の非合法活動に対して行われる警察の強制捜査を撹乱する目的のための、そして悲しいことですが、恐らくはその目的のためだけのものであったことを認識するに至って、もはや自分は、自分のやったことを正当化する、いかなる方法も見出せなくなりました。

それまで黙秘していた自分は、こうして事実を認めるようになりました。そして多くの犯罪を含めて、自分がこれまでやってきたことをもう一度考え直すことにしたのです。

(教義)

結局、自分にとって教義というものは、「最終解脱者」であるとされていた教祖を根本としたものでした。簡単に言えば、教祖という存在を絶対とし、その指示に対しては疑問を持たず、ひたすら実行することが修行であると考えていた訳です。自分が教団にいた頃にも、かなり無理な指示を受けたことがありますが、そういう場合にも、教祖がなにを考えているのか、という点についてはつとめて考えないようにしていました。そうするべきだと思っておりましたし、考えてもわからない場合が多かったからです。そして、悲しいことですが、今の状況はまさにそれであるというしかありません。ただ、現時点で、自分が教団で提唱していた教義、「ヴァジラヤーナの救済」に関して申し上げたいことは、それがどのような理念に基づいているとしても、人間が決して実行してはならないことである、という普通に考えれば極めて当然のことです。

(自分のなしたこと)

先にも述べた通り、私は教祖が何を考えていたのか、あるいは何を考えているのか全く分かりませんし、教祖が最終解脱者であるかどうかもわかりません。ただ、いずれにしても全ての人がなしたことに応じて裁かれるのは避けられないことです。

自分のなした犯罪の重さは、日に日に自分にのしかかってくるように思われます。今更ながら、このような犯罪をやらずに済んでいればどれほど良かっただろうかと思うばかりです。しかし、このおおきな犯罪をなした主体である自分の責任は極めて重く、それは厳しく裁かれなければなりません。罰をもって罪をつぐなう、という言葉がありますが、自分なした犯罪がいかに重いものであるかは自分自身でもよくわかっているつもりですし、それをのがれるつもりはありません。今後、自らの裁判の中で、自分の弁明をするのではなく、事実を明らかにし、それによって事件の全体像を少しでもはっきりさせるようつとめることが、自分のなした、文字どおり人間として許されざる犯罪によって取り返しのつかない被害を受けられた多くの方々に対する自分の反省とおわびの気持ちの表現であると考えております。

以 上


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