被告人の陳述(6)


元アーナンダ正悟師こと井上嘉浩被告の勾留理由開示公判での意見陳述要旨
1995年10月12日


 逮捕以来、私の勾留期間も既に5か月になろうとしています。その間、自分なりに真剣に考えたことを踏まえ、現時点での私の心情を述べさせていただきます。

私と関わりのあったサマナと信徒に対して今から話すことは、尊師に帰依し、グルの意思を実践した法友の一人の言葉として、真剣に受け止めてほしい。

もはや、暴力的な方法では、この日本は決して覚醒しない。

今、ヴァジラヤーナを実行することは、決して救済にならない。

私たちの全ては、グルの意思であった。それは本来、自己の覚醒と、多くの人々を煩悩の苦悩から解放し、覚醒に導くことではなかったのか。

自分達が捨て石になったとしても、尊師の救済計画が成功し、この日本が真理に目ざめるならばと痛切に願っていた。

当時私も、君たちの知らない様々な矛盾をかかえ、葛藤しながらも尊師の意思を信じ、ボーディーサットヴァの修行と信じて実践してきた。

しかし、現実は、どうであっただろうか。

マハーヤーなの教えはともかく、私達が、尊師の意思として、真に慈愛や哀れみの実践と信じ行ったヴァジラヤーナは、現実にはいつも理想と反し、現時点においては率先して行った弟子ほど自分自身のカルマを積むこととなり、その結果自ら苦悩し、一方では、ほとんどの事件で、何の罪もない人々やその家族の方々に、全く不合理な苦しみ以外の何も与えられなかったではないか。

 この悲惨極まりない現実を直視すれば、尊師の指示したヴァジラヤーナの実践は、本当に菩提心(ぼだいしん)に基づくものと言えるだろうか。全く救済になっていないことは明らかではなかろうか。それは私達の一人一人の心を正直に見つめれば、自ずとわかるはずではないのだろうか。

  もうこれ以上、君たちが殉教者として生きることは、決してボーディサットヴァの道ではないと思う。

そうであるとすれば、今、君たちが戦う意味は何もない。もともと、オウムの行ったヴァジラヤーナによる救済の手段は間違っていたのではないだろうか。

しかし、私達多くの若者が、私達の知らないところで情報統制され、煩悩的情報によって、自己の正常な思考が生活のあらゆる側面で悩殺され、蹂躪されていくという不透明さや底無しの不安をこの現代社会に感じ、自己の覚醒と人々の救済を目指して、尊師のもとに集まって、オウム真理教が存在したことには、それなりの意味があったはずである。

これからは、オウム真理教の教えの是は是、非は非として見極め、決して私の過ちを繰り返すことなく、修行して、本当の菩提心を培い、自己の覚醒へと至ってほしい。

これからの私自身の裁判では、何故オウム真理教がこのように至ったのかを、戦後50年を経て、経済的勝利とともに物質主義が蔓延し、それと引き換えに精神のよりどころを見失った日本の現状を踏まえ、明らかにしなければならないと思っています。

それこそが、事件の真の解決であり、オウムの犯罪に係わった私のできる唯一の償いと思っています。   

最後に一言あります。

CHSのサマナへ、今までのCHSで行った君達の犯罪行為は、逃げている君達の責任ではない。時間はかかるかもしれないが、君たちには未来があると思う。現実を見つめて自暴自棄にならずに、新たなる人生のために、過去を清算するのも一つの道ではないかと思う。

私達の目的は本当の菩提心を培い、真に覚醒することにあったはずである。                          


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