1994年つづき 

第7サティアン 戦慄の秘密ワーク

1994年、この年、私は科学班に移動になり、師のステージに昇格され、裏ワークに配属となる。よく裏ワークという言葉を聞いてはいたが、他部署にいた私はその実態を知るわけでは無い。第7サティアン。そのプロジェクトは最も秘密性が高く重要なワークと聞かせれ、事実、科学班のそうそうたるメンバーが顔を連ねていた。巨大なプラントの正体は私には明かしてもらえなかった。科学班になってからというもの、嫌嫌着ていた作業着に防臭マスクにゴム手袋という異様な姿で、私は呟いた。「俺は今、オウムの最前線に来ている」と。この第7サティアンで、最も尊師が意思されるワークで功徳を積むのはサマナにとって光栄なことと思う反面、心は妙にさめている。強アルカリ水の水槽に溶けていく蛾の死骸を見るのも嫌だが、ここにいるサマナは皆どんよりしているように見えた。私が前々から師と尊敬していた彼らの何人もがだ。

 

第7サティアン 戦慄の秘密ワーク

第7サティアンの内部は非日常的な空間だ。不気味な形をした反応釜。異様な悪臭。錆びついた金属。硫酸が水と反応して白い煙を発している。床にこぼれた強アルカリは人の爪をも溶かす。不気味に響く周期的な機械音はこのプラントの可動実験を行っているのだろうか。ある日ここで死ぬ思いになった事がある。プラント全体を白い煙が包み、それを吸い込み息が苦しくなった。逃げ遅れたら確実に死んでいると確信した苦しさだった。私はこの場所が怖かった。

 

クシティガルバ棟 記憶の中の白い残像

第7サティアンに隣接する化学班施設クシティガルバ棟。私は物を届けに1度だけここに入ったことがある。一番奥の部屋に白い理科室のような部屋がある。試験管やビーカーみたいなものがあったような気がする。中のサマナは白衣を着ていた。こんな光景どっかで見たと思い、富士総本部の1階の研究室を思い出した。化学好きのオウムのする事だと思うと今さら不自然には思わないが。

 

1995年 

清流オウム施設 新型サリン噴霧車

1995年3月、マスコミの「地下鉄サリン事件」のオウム犯行説の噂話がサマナたちの間で飛び交う中、教団施設に2000名を超える機動隊が周りを包囲した。私は坂本弁護士事件と同様、とんだぬれぎぬだとか、フリーメイソンの陰謀だとか思い、オウム犯行説など信じなかった。尊師が否定しているわけだし。緊張状態が続く中、私は清流施設で1台のトラックの解体の作業にまわされる。上からの急ぎだとかで、師たちが大慌てで作業している。私はトラックの内部を見て、急に妙な戦慄を覚えた。私は自分のことを、ものすごく鈍感なタイプだと自称している。しかし鈍感な私でさえも気がついてしまったようだ。

 

清流オウム施設 新型サリン噴霧車

トラックの内部は大きな金属製の水槽に煙突が取り付けられ、その煙突の先がトラックの天井から上に突き抜けていた。その横に大型のコンピューターが備えており、さらに奥には制御モニターとオペレーター用の椅子が据え付けられている。その椅子には正大師と書かれた紙が貼られている。正大師とは科学班最高責任者マンジュシュリー正大師(故村井氏)である。私はその時それが気体噴霧装置であるという事を知った。そこで謎が解けた。点は線で繋がれた。裏ワークの謎が解けてしまった。 「毒物を撒く・・。プラントや実験室やこんな車もあるわけだな。」尊師のヴァジラヤーナ説法を思い出した。「殺す事もまた救済・・」今の悪業の多い人類はむしろ殺してあげたほうがその人のためになると、教義にはある。それにしてもこの裏ワークを知らされた師は少しも憤りを感じなかったのだろうか?

 

警察署 殺人容疑

1995年5月、麻原が警察に逮捕され、その2日後に私も逮捕された。罪状は殺人容疑。第7サティアン関係のサマナは大体逮捕者リストに上がっていた。私は地下鉄サリン事件に直接関わってはいないが、警察の取り調べは激しく続いた。幹部の自供でオウムの犯行を聞かされたが、麻原がなぜそうしたのかを理解出来ずにいた。タントラヴァジラヤーナの教義では、殺すことも結果的に善の行為とされる。殺されたほうも高い世界へポアされると教義ではそうなっているが。確かにオウムは選挙活動以降、戦うことを強調していた。敵は巨大な闇の勢力と思っていた。しかしオウムが攻撃したのは何の罪の無い一般市民だ。多くのサマナの顔が浮かんでは通り過ぎる。私たちが人に良かれとしてきたつもりがまさかこんな結末をたどるとは・・。拘置所で私の心は麻原に向かって叫んだ。「お前は何者なのだ!?」と。

 

検察所 帰還そして空白の未来へ

事件に直接には関わっていない事から23日間で釈放となった。私はこれから人生をどう生きていけばいいか正直言って分からなかった。空白の未来だ。例えば、好きな物を食べる。好きな趣味を楽しむ。友達と遊ぶ。恋をする。どれもが今の凍りついた心には関心を示さないようだ。確かなことは、「何もかも信じられない」ということだ。救済だの悟りだのきれい事で自己を肯定し、そして自己を犠牲にしたらどんな災いが生じるのか思い知った。自分を愛せない人間は世界もその人を愛さない。もう2度と過ちは犯さないとそう心に誓った。

おわり

 

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