読 者 ら か ら


・ 34−原題   「誘い(いざない)」               -2005.3.5-108号から

 

あなたが何で生計を立てていようと、わたしには興味はない

知りたいのはむしろ、あなたが何で胸を痛めているか、

 そしてあこがれとの出会いを夢見る勇気を持っているかどうかだ

 

あなたが何歳だろうと、わたしには興味はない

知りたいのはむしろ、あなたが愚か者に見えるのも覚悟のうえで

あえて愛を、夢を、生きるという冒険をもとめるかどうかだ

 

あなたの星座が何だろうと、わたしには興味はない

知りたいのはむしろ、あなたがあなた自身の悲しみの中心に触れたかどうか、

 そして人生の裏切りによって心を開かれたのか

それとも縮みあがり、さらなる苦痛を恐れて心を閉ざしてしまったのかだ

 

わたしの苦痛だろうと、あなたの苦痛だろうとかまわない。

あなたが苦痛に耐えられるかどうか、

 そして苦痛を隠したり、薄めたり、とりつくろったりするためにじたばたせずにいられるのかどうか知りたい

 

わたしの喜びだろうと、あなたの喜びだろうとかまわない。

あなたが喜びとともにいられるかどうか知りたい。

あなたが野生とともに踊り、手足の先まで歓喜に満ちて、

 わたしたちに用心せよとか、現実的になれとか、人間の限界を思い出せなどと警告せずにいられるかどうか知りたい

 

 あなたの話していることがほんとかどうか、わたしには興味はない

 知りたいのはむしろ、あなたが他人を落胆させることを恐れずに、自分に正直になれるのかどうか、

 そして裏切ったと非難されても耐え、自分自身の魂を裏切らずにいられるかどうかだ

 

 あなたが誠実で、それゆえに信頼できる人間なのかどうか知りたい。

 きれいでない日常的なもののなかに美を見いだすことができるのかどうか、

 そして自分の生の源は神の存在にあると言えるのかどうか知りたい

 あなたが失敗に耐え、湖の縁に立って銀色の月の呼びかけに

 答えることができるのかどうか知りたい

 

あなたがどこに住んでいようと、どのくらい金を持っていようと、わたしには興味はない

 

 知りたいのはむしろ、悲嘆と絶望の夜のあと、疲れ果て、骨の髄まで打ちのめされて、

それでも起きあがり、子供たちのためにせねばならぬことをなしうるかどうかだ

 

 あなたが何者なのか、どうやってここに来たのか、わたしには興味はない

 知りたいのはむしろ、わたしといっしょに炎の中心に立ち、しりごみしないかどうかだ

 

 どこで、誰といっしょに、何をあなたが学んだか、わたしには興味はない

 知りたいのはむしろ、ほかのすべてが崩壊したとき、何があなたを内から支えるか だ

 

 ひとりぼっちでも平気かどうか、そして孤独なときの自分をほんとうに好きかどうか知りたい

 

ネイティブ・アメリカンの古老 「オリア・マウンテン・ドリーマーの言葉」より

 

 

   33− 転載  インターネット掲示板の書込みから  「魚のジャンプ」

 

2004/ 7/27 23:24    メッセージ: 12932 / 12961

 

TVで海水に住んでた魚達が川に戻っていくとこを放映してたんだけど、

それが凄かったんだ

川の流れに逆らって上っていくんだ!

障害物がデカイ時はジャンプするんだよねえ

でも、障害物がデカ過ぎて一匹も上れない

それでも何度もチャレンジしてて・・・でも、やっぱり無理で・・・満ち潮を待って又懸命にチャレンジする

それでも一匹も上れなかったんだ

岩に張り付いたり(すっごい!)とか工夫してるんだよね

 

ちょっと回り道をして少し離れた所に行くとナダラカナ所があって、そこに辿り着いた魚達は上れたんだけど、それに気がつかないんだよね

何度も何度もジャンプして(恐ろしく高く飛ぶんだよ!)いて体が傷つかないのかなあって思ったよ・・・・(無謀!)

 

魚達が上りやすくする為に後で人間が途中途中で休みながら上れるシカケをしてあげると魚達は順序よく上れたんだ

 

魚達が無謀とも思える行動をとっているのを見て

「生きるってこんなことだったんだ」

って思ったよ

きっと、多分ね・・・(僕だけかもなあ)

 

うーん、多分「生きるって凄いこと」なんだろな

そして生きることって大事にされるといいなと思う

この魚達だけじゃなくて生き物皆が「懸命に生きること」っていうは大事にされた方がいいと思うよ

 

そして、生き物と生き物はお互いが「恵」になりあってる

生きる事は大事にされるものだとは思うんだけど、相互にその命を食しあってたりするんだよね

 

この「矛盾してるんじゃないの」と思える事実は、やっぱりその重きを「強いモノを残し、命というモノが絶えないようにする」

という(僕個人の意見だよ)ことに置いているんだと思う(辻褄合わせっぽいかもなあ・・・ ^^;)

 

言葉で人にその重要さを訴えるのって僕には難しい

宗教とかに疎い僕には尚更難しいのかも・・・

 

でも、命は皆懸命に生きてる

 

人が命を奪い合ったりして争うのはやっぱり人にとっては不幸なことだと思う(僕は)

でも、

もしかすると、命全体というのはそのこと(地球上の命の中では最強とも思える人と人同士の争い)

さえも他の命の繁栄の為の知恵なのかもしれない

 

ええええ!

自分で言ってて不思議なんだけど、それって有りなのかあ?!

なーんかやっぱり懸命に辻褄合わせをしてる自分がいるなあー

 

 

   32−メールにて  「当 時 中 学 生」  -2005.3.5-108号から

 

いつも「さるさる日記」とか、滝本先生のオウムに関する著書等を読ませていただい

てます。私は現在23歳の、普通の社会人です。 ちょうど、オウム報道が盛んな頃は

中学生でやっぱりワイドショー感覚でしかオウムを見てませんでした。

 

  私が京都出身ということもあり、オウム幹部のなかでも井上嘉浩さんの事は当時から

気になってはいましたが、井上さんが死刑判決を受けるほどの凶悪犯罪に関わってい

ることも、一審判決で無期懲役が出たことも知りませんでした。

二審で井上さんに死刑判決が出て、改めてびっくりして井上さんがどうしてオウムに

走ったのかを知りたいなと思い「オウム法廷H」を読み、正直「読むんじゃなかった・・・」

と後悔しています。

 

  涙がボロボロ出て、食欲も無くなって、仕事中も井上さんの事ばっかり考えてしまう

んです。恋愛感情とかじゃなくて、井上さんのご両親はどうゆう気持ちでこの判決を受

け止めてるんだろう・・・とか井上さん自身はやっぱり京都に(というよりご両親の元)

帰りたいよね・・・・、とかそうゆう事なんですが・・・。

 

  なんか・・・井上さんもオウムに居たときは、マインドコントロールされていたとは

いえ物凄く危険な人だったと思うし、井上さんによって人生を滅茶苦茶にされた人

も現にいるわけだし、同情とかするのはいけないって思うんですけど、あの本を読ん

でから井上さんが家族の元で暮らせたらいいな・・・とか考えてしまうんです。 

それは端本さん、中川さんなど、若くして麻原に取り込まれ、死刑判決を受けた人達

全てに対してですが。(やっぱり結果の重大性を考えると、無期懲役は当然かな・・

と思うので・・。法律は判りませんが・・・)

 

  えっと、滝本先生に何かを伝えたい、というわけではなかったのですが、こんな気持

ちを親にも、同僚にも、好きな人にも言えないのでメールを送ってしまいました。

これからも、何をしていいのか全然分かりませんが、オウムの裁判には注目していま

す。

 

 

   31−お久しぶりです。                                    -2005.4.23-111号から

 

最近ダイヤルアップから、やっとADSLに変えてホームページ等も時間を気にせずに、閲覧することが出来るようになり「カナリアの詩」もじっくり拝見しました。

 

私がこんなこと言うと、被害者の方やそのご家族、オウムによって人生をめちゃくちゃにされた当人やそのご家族には怒られるかもしれませんが、本当に辛くて苦しい、と感じました。特に、「被告人の陳述」のページは見たいんだけど、素直に見れないというか・・・。

  (でも、全部見ましたよ)

 

 オウムによって亡くなられた方というと、坂本弁護士一家や地下鉄・松本サリン事件に巻き込まれた方々が有名ですが、あまり報道されてなかった方々(私が事件当時、若かったのもありますが・・・)も沢山いらっしゃって改めて驚きました。

オウム幹部の裁判の結果も見ましたが、無期懲役や死刑が多くて、オウムって(麻原って)、一体何なんだろう・・・と思いました。

 

オウムの話題って仕事場や、友人との会話の中でもちょくちょく出てきます。

そのほとんどが「あんなエリートがどうして・・・」みたいな内容で、私も「オウム法廷H」を読むまではみんなと同じ感想をもっていました。(中学のときも、先生が井上さんの出身高校をあげて、あいつは秀才、みたいなこと言っていたのを覚えています。)

 

でも私なりにオウム関連の書籍とか読んでみると、死刑や無期懲役の判決を受けた人達は本当に性格が良くて、人格高潔な人が多く、そのことに驚きました。

性格の良さに比例するかの如く、凶悪犯罪に加わっているんだから、まったく他人の私からしても本当にやりきれないし、くやしい、という感情もあります。

新聞報道等で、オウム裁判の被告人が「どのような刑も受け入れます」と発言したとか、林泰男被告のお母さんが「息子の命にかえて・・・」というような文面の手紙を被害者に送ったというのを見る度に、やっぱり辛くて苦しい気持ちになります。

 

凄く、意地悪な見方ですが

「本当は、麻原に騙されて悔しくないの?」とか、

「両親の元に帰りたくないの?」

とか思ってしまう自分がいます。

 

被害者の方に命(一生?)をかけて償いたい、心から自らの行いを反省する、という事と両親や、愛する人の事を考えるということは、やっぱり別だと思うし・・・。

その反面、何の落ち度も無く殺された被害者家族の辛さや苦しみは、こんなものではないはず・・と思いますが、オウム裁判被告人(と、その家族)の苦しみはまさに現在進行形だし、世間的にも同情されにくいし・・・と色々、考えてしまいます。

 

(私自身も井上さんの二審判決から、オウムの事を色々知って、辛い気持ちになったりするけど、その事をやっぱり周りの人にあんまり言えないです。

  一度だけ母に“オウムの井上さんって、京都出身なんだけど今回の判決、井上さんのお母さん、辛いだろうね”みたいな事を言ったら、“自分が母親だったら、気が狂うし、世間の人に麻原みたいな人間に騙されたって事を、知って欲しいと思うけど、被害者の事を考えると何も言えない”って言っていて、世間的には加害者の事を可哀相とか言うのは、親でも許されない雰囲気なんだなぁ、と母との会話で実感したりして・・・)

 

あと、最高裁では本人は出廷しないんですね。滝本先生からのメールで初めて知りました。

一度、関西ローカルの番組で元・社会部記者の人が「二審判決と最高裁判決は大体、同じ結果になる」って言っていたことが少し印象に残っていましたが(一から裁判やり直すのになんでだろう、と思って)、そうゆうのも影響されるのかな・・と思いました。

 

オウム裁判の被告人は法廷を通じて、麻原の間違いに気がついたり、被害者の方々に自分の反省や謝罪の気持ちを伝えたりしてきて、それが良いほうに影響している(林郁夫受刑者なんかは、裁判が非公開だったら別の判決が出ていたかも、と思ったり)場合があるから、本人が出廷しないのは残念です。被害者の方は、被告人のことを見たくもないんだと思いますが・・・。

 

私は、死刑判決を受けるような人間はそもそも人間の姿かたちをしているだけで、人間の感情なんか持っていないと思っていました。その気持ちは今もあるし(最近、死刑にすれば良いのにと思ったのは神戸の大学院生殺人事件。でも、確か無期懲役か懲役15年とか)、麻原なんか死刑判決が出て良かったと思っています。

だから、そんな自分が井上さんや他のオウム幹部の死刑判決に動揺してしまったり、泣いたりするなんてこれまでの自分からして信じられないし、こうゆう感情を持っていていいのかなぁ・・・と思う事もあります。特に地下鉄サリン事件で、ご主人を亡くされた高橋さんが井上さんの事を「死刑判決で良かった」と発言されているのを見て、やっぱり私なんかと実際の被害者との感情は違う、と強く思うし・・・。

 

その反面、林郁夫受刑者ばっかりが世間から同情されて、他の幹部に対する風当たりが強すぎるんじゃないの?とか凄い子供じみた発想も持ったりしてしまいます。(林郁夫受刑者が死刑になって欲しいわけでもない。)

 

と、何だか自分で自分の感情が正しいのかどうかよく分からない日々が続いていますが、私が心を動かされた被告人の裁判の結果はちゃんと見届けたいです。見届けて、何になるのかって言われると答えられないし正直言って、忘れちゃったほうが気持ち的に楽だけど、そんなことは出来そうもないし・・。

 

なんだか凄く長いメールになってしまってすみませんでした。これからも、色々な方面でのご活躍期待しています。

私も、仕事や毎日の生活を自分なりに頑張ります。

では、さようなら                                                                    20代、女性、読者