読者の手紙

 


● 手紙 ーーーーーー 一 読 者 主 婦

1999年3月

はじめまして、大阪府在住の主婦です。

宇宙関連のHPでこのサイトを見付けました。
読み進めて行って、正直苦しくて全部を読めませんでした。
宗教と信仰は違うものです。私には私の中だけに居る創造主が存在します。
それを信じて日々頑張っていますが、たまに主人に向かって説法を説きたくなりやってしまいます。
そうすると、首を掴まれ「オウムにでも入ったのか?」と聞かれます。
情けなくて涙が出ます。

私の信仰は只一つ。自分を知り、自分を信じる事です。
個性の無い私でしたが、最近は我慢をするしないの分別をつけ言わなくてはいけない事ははっきり言う、です。
困っている人を見かけたら、大きな声で声をかける。
何かの宗教に属する事は決して悪い事ではないと思いますが自分自身というのをキチンと持っていれば、何の宗教も必要ありません。自分という、家族という、他人という、
全ての人々に接する事が可能な信仰は、己の中にあるのです。
カナリヤの会の方々の、これからの幸せを心から祈ってます。
雑文ですいません。


● 脱マインド・コントロールにおけるセルプ・ヘルプ、及びカルトとSHGの比較考察

1999年3月 読者 学生 男性

本稿は、大学での研究において、自ら上記課題を設定し、「カナリヤの詩」なども資料に作られた
ものです。簡潔して、洞察に満ちた研究がされているので、転載をお願いしました所、快く了解
していただけましたので、ここに掲載します。     

はじめに カルトについて調査するに至った経緯

あるカルトの脱会者にインタビューをするための交渉にあたったとき、私は相手からかなり訝しがられていた。脱会者に報復するためにカルトから派遣されたスパイではないかと疑われていたのである。カルトの中にはかなり巧妙で悪質な手口を使うものがあり、それは私も知っていたので、そのような疑いをかけられるのはしかたがないし、予想はしていたが、その際聞かれたのが、なぜこの問題について調べようと思ったのか、ということだった。

こんなことでわざわざやってくるのは、よほどの物好きか、さもなくばスパイのどちらかに違いない、ということなのだろう。なまじ私がその教団についての知識を持っていたものだから、よけいに怪しいと思われたらしい。

オウム真理教の一連の事件が明るみに出た1995年、当時私は受験生をしていたのだが、幸か不幸か浪人生で、暇な時間が多かったことも手伝って、この事件については新聞やテレビなどから情報を集めたり、書籍などにも目を通したりしていて、それなりに問題意識を持っていた。

そして調べていくうちに、オウム真理教のみならず、他のカルト集団や、さらにはそこで用いられているマインド・コントロールという技法についてまで自分の関心は拡張することになる。その後私は行動科学科に入り、現在社会学という学問を専攻しているわけだが、進路決定にこのことが少なからず影響していることは否めない。しかし、大学入学後もこの問題については考えていくつもりではいたものの、大学に入ってからはなんだかんだと他にやることができ、ほとんど放置していたというのが正直なところだった。

今回、調査実習においてセルプ・ヘルプ・グループ(以下SHG)を調査することに決まった際、私は、カルトの元メンバー達が協力しあって、脱会後の心の傷を癒しあったり、今もなおカルトに残っているメンバーを脱会させるための手助けをしたりしていることを思い出し、カルトとマインド・コントロールの問題をSHGをテーマに扱えるのではないかと思った。これを機に、さぼり気味だったカルトとマインド・コントロールの問題についての考察にもう一度取り組んでみよう思い立ったわけである。

さて、SHGに関することで主に取りあげるのは以下の二つの事項である。

一つは、カルトによるマインド・コントロールを解き、脱会させる過程と、脱会後のケアにおける自助活動について。

いま一つは、斎藤学の論文と、他の学生が行ったSHGについての調査結果を参考にしたカルトとSHGの比較、である。

しかし、その前に、この問題を考える上で、カルトとマインド・コントロールについての一応の理解をしていただきたいので、まず、カルトとマインド・コントロールについてのおおまかな説明をさせていただく。詳しく知りたい方は、後述する文献を参照していただきたい。

今回の調査で、あるカルトのメンバーとなった子供を脱会させた母親二人へのインタビューを行い、また、オウム真理教の脱会者の集まりである「カナリヤの会」の会報、『カナリヤの詩(うた)』を頂くことができた。以後随時その内容を取り上げたい。

1.カルトとマインド・コントロール

カルト

"cult"とは、本来は儀礼、熱狂、崇拝などの意味を持つ英語であるが、そこから派生して、既成宗教の側から、既成宗教と対になる存在としての新宗教、異端宗教をさす言葉として用いられるようになったものである。

しかし現在では、宗教集団に限らず、何らかの強固な信念を共有し、その信念に基づいた行動を熱狂的に実践するように組織化された集団を指すようになる。さらには、マインド・コントロールを用いて詐欺的商法をするマルチ商法や自己啓発セミナーの類もカルトと呼んでもさしつかえないだろう。

カルトが注目されるようになったのは、カルトの反社会的な活動が明らかになってきたためである。もちろんすべてのカルト集団が非難されるべきものであるわけではなく、個々人の精神状態にとってプラスの作用が認められる場合もあるが、カルトの反社会性がクローズアップされたため、カルトというと即危険視すべき集団という意味にとられることもしばしばである。厳密に区別するために、危険なカルトを「破壊的カルト(destructive cult)」と呼ぶことがある。本論文では、この「破壊的カルト」という意味で「カルト」という語を以後用いる。

カルトの反社会的活動として、まずメンバーを酷使することが挙げられる。多くの破壊的カルトにおいて、メンバーは24時間カルトの管理下におかれ、長時間労働を強いられる。入信時に全財産を寄付させるカルトも少なくない。そうした隷属的なまでのカルトおよびそのリーダーへの従属を強いる手段として、後述するマインド・コントロールが用いられる。マインド・コントロールによって、メンバー達はそれまで持っていた自己のアイデンティティを破壊され、カルトへの絶対の服従を促す価値観を植え付けられるのである。

マインド・コントロールされたメンバー達が駆り立てられる作業は、主に、新たなメンバーの勧誘と、資金集めの二つがある。勧誘は、そのカルト集団の名を明かさぬまま、勧誘であることすら知らせずにセミナー等に参加させ、徐々にマインド・コントロールしていくという悪質なものが多く、資金集めも、難民救済のためなどと称して募金を集め、実際にはすべてカルトの活動に使われていたり、あるいは霊感商法に代表されるような詐欺的な方法がとられ、カルトの反社会的活動として指摘されている。そして、最悪の場合、「人民寺院(People's Temple)」の、合州国下院議員1人、報道関係者3人、元信者1人が殺害され、同時に信者約900人が服毒による集団自殺を行った事件や、冒頭に挙げたオウム真理教のような犯罪集団へと発展してしまうこともある。

注意しなければならないのは、こうした反社会的活動に携わるメンバー達は、自分たちが悪いことをしているとはまったく感じていないことである。マインド・コントロールによってその集団に全身全霊をささげるようにしむけられている彼らは、カルトのリーダーと、その教えに従うことしか頭にない。たとえ嘘をつくことになっても、信者の勧誘や資金集めをすれば、例えば世界が救われる、と思うことでそれは正当化され、懸命にカルトから与えられた仕事に励む。そしてその一生懸命さ、誠実さが、説得力を生み、新たなメンバーの獲得や資金集めに功を奏することになる。だましてやる、という意識がまったくないのだから、だまされていると感じることが困難なのは当然である。「こんなに親切で誠実で一生懸命な人達が、悪いことをしているはずはない、と思った」というのが、元メンバー達が口をそろえて言うことである。

それほどまでに人の心を操ることのできるマインド・コントロールとは一体いかなるものなだろうか。

マインド・コントロール

マインド・コントロールを理解するには、洗脳との比較が有効であると思われる。マインド・コントロールと洗脳という言葉は、しばしば混同されて使用されてしまうことが多いが、本来この二つは区別されるべきものである。結論を先に言えば、洗脳の進化した形がマインド・コントロールであるということになる。

洗脳という言葉は、朝鮮戦争の際、捕虜になったアメリカ兵が受けていた尋問と教化のプログラムを取材して公にしたジャーナリストのエドワード・ハンターが、中国語の「洗脳」をbrain washingと訳して発表したことで一般に広まったものである。しかし、人間のアイデンティティを任意に作り変えることはできないのだろうか、という研究は、すでに第二次世界大戦中のアメリカ、ドイツで行われていた。

その内容は、主に肉体的な負荷を科すもので、長時間の拘束、拷問、食事・睡眠の制限、さらにはLSDなどの薬物の使用、などが挙げられる。催眠術も導入された。

しかし、洗脳の研究は結果として目立った成果を残すには至らなかった。効果がなかったわけではないが、成功例は少なく、価値観の変化もそれほど劇的なものではなかったのである。

一方、マインド・コントロールという言葉は、破壊的カルトの反社会性が指摘され始めた際に、カルトがメンバーに対して用いている手法が従来の洗脳とはまったく違った方法でなされ、そしてその効果も洗脳に比べはるかに強力であることが明らかとなり、洗脳に変わる新たな概念の必要性が生じたため使われるようになった言葉である。

マインド・コントロールは、洗脳と違い、暴力などの肉体的な負担を強いるようなことはほとんどしない。それでいて、洗脳に比べて相手のアイデンティティに作用する力は遥かに強いことをまず理解する必要がある。

人は、自分で意思決定をしてそれに基づいて行動していると自分では思っていても、実際には周囲の状況に気づかないうちに影響され、いってみれば特定の行動を選ばされてしまっていることがある。社会心理学の分野で主に明らかにされていることだが、マインド・コントロールではこうした「状況の力」を巧みに利用する。

具体例を出すと、まず我々は、自分に好意を示してくれる人の言葉を信じやすい傾向がある。カルトの勧誘のセミナーにおいては、メンバー達は皆一様に親切で、誠実であり、そして相手を褒めちぎる。ターゲットとなっている人はついつい彼らの話に耳を傾けてしまう。繰り返しになるが、「こんなに親切で誠実で一生懸命な人達が、悪いことをしているはずはない」と思わされてしまうのである。

また、我々は、「返報性」といって、何か価値のあるもの(有形、無形は問わない)を受け取ると、それに対して報いなければならないという意識が働いてしまう傾向も持っている。先に述べたようにセミナーで親切に扱われると、ついつい自分も何かしなければと思い、次回のセミナーにも参加する約束をしてしまったりするのである。

人々が権威に弱いことも利用される。聖書を教典としているカルトが多数存在することからもそれがうかがえる。実際にはそのカルトに都合のいいように解釈され、内容をねじ曲げられていたとしても、我々の教義は聖書を元にしている、と言われると、ついつい信用してしまいがちになる。

説明会には、当然メンバーが扮するサクラが潜り込んでおり、演者の話に大げさに感心したような声をあげたりする。周囲の意見に流されてしまうという人間の心理を利用するものである。

こうした形で実際には「状況の力」によって行動させられてしまっても、本人はそれに気づいていないので、これらの行動は自分の自発的な行為で、ひいては自分自身がもともと望んでいたことなのだという自覚をするようになり、そのカルトの教えを次第に受け入れるようになる。通常、人間の行動は、まず動機があってそれが行動を導くのだと思われがちであるが、マインド・コントロールにおいては、それと逆の過程、行動がまずあってそれが動機を作り出すという現象が生じているのである。

勧誘のプロセスを大まかに説明すると、勧誘に携わるメンバー達は、街頭のアンケート調査や大学内のサークルの勧誘活動を装ってターゲットに声をかける。友人、知人としてそのセミナーを紹介する、というやり方もある。その際、カルトの団体名などは一切言わずに、「生き方について自由に語りあう集まり」などといった適当な題目を言って、セミナーに参加する約束を取り付ける。「一度だけでいいから」「気軽に来てくれて大丈夫」と言うのが常套手段。

セミナーにおいても、いきなりカルトの名前や教義を教えるようなことはせず、最初の段階ではとにかく居心地のよい集まりであることを印象づけることに重点が置かれる。そして、その人が人生や世の中について真剣に考えていることを称賛し、褒めちぎる。セミナーの最後では、次回のセミナー参加の約束を必ずとりつけるようにする。「一度だけでいい」というのは当然嘘である。人間は、なにか頼まれ事をされるとき、一度手軽にできるもの引き受けると、それに関連したものなら多少やっかいなことでも引き受けてしまいやすい傾向があることを巧みに利用している。相手がまた来ると言ってくれればしめたもの。徐々にセミナーの段階を上げていってカルトに引き込んでいくことになる。

はじめのうちは耳に聞こえのいいことしか言わないのだが、やがてそれはターゲットに気づかれないような周到なやり方で、個々人の人格への攻撃に変わっていく。世界が悪徳に満ちていることことさらに強調し、人間一人一人が持っている悩みや、エゴを指摘して、さらには両者を関連づけ、不安感をあおりたてる。そしてそれらの問題を解決し、苦悩から逃れるためには、自己を捨て去り、カルトの教義に従えばよいことを説いていく。自身の人生や社会に対する問題意識が高い人は、そのような不安感を元々抱えているので、余計にマインド・コントロールにかかりやすい。「まじめな人ほどひっかかりやすい」というのはあながち嘘ではないのである。

多くのカルトでは、ある程度段階が進むと、ターゲットを泊まりがけの合宿に誘う。外界との接触をある程度まとまった期間絶たれることによって、孤立間を深め、周囲の人間やカルトに対して依存しやすいようにしむけるのである。過密なスケジュールを組み、睡眠時間もあまり与えないようにして、肉体的、精神的に疲れさせて、判断力を鈍らせる。寝泊まりは初対面の人達との相部屋で、一人になる時間は与えられず、セミナーの内容や自分の置かれている状況(=アイデンティティが攻撃され破壊されるかもしれないという危機)について考える余裕を時間的にも空間的にも奪われ、個は埋没していく。このような環境は、メンバーになった後も維持される。

マインド・コントロールは、カルトのメンバーになった後も絶えず行われる。カルトの活動が反社会的で、虚偽に満ちていれば、それを完全に隠し通すことは不可能で、メンバーが矛盾を感じることは当然ありうる。外部からそのカルトにとって都合の悪い情報が与えられることもあるだろう。ほとんどのカルトでは、そのような情報にふれてはいけないと厳しく教える。カルトに対して疑問を抱いても、それは教えに対する理解が足らないからであるとし、そのような疑念を抱くこと自体が堕落であり、それが深まれば、あなたは地獄に墜ちるだろう、あなたの家族も末代まで祟られるだろう、という具合にして相手の恐怖心をあおる。

結果メンバーはカルトに対して疑念を抱くということ自体を一切しなくなってしまう。あるいは、過酷なスケジュールを組むことによって、メンバーに自分の頭で考えるゆとりを与えない。このような「思考停止」の状態を作り上げるのが、マインド・コントロールのもっとも恐ろしい点の一つであり、この結果家族の説得にもまったく耳を貸さなくなり、脱マインド・コントロールがさらに困難となる。

2.脱マインド・コントロール

信頼関係の構築 自主性の尊重

一度マインド・コントロールの支配下に置かれると、そこから本来の自分を取り戻させることは非常に困難である。どうすればその呪縛を解くことができるのか。子供をカルトから脱会させることができた母親へのインタビュー調査を元に説明していきたい。

まず、カルトから子供を取り返す、だとか、マインド・コントロールを解かなければ、というような意識で事に当たってはだめだということをおっしゃっていた。正常な親と子の関係を取り戻すこと、親子で普通に会話ができる状態を取り戻すことがまず第一である、とのことである。逆に言えば、マインド・コントロールによってそれすらままならならい状態になってしまう、ということが言える。

親子の信頼関係を取り戻すため、文字通り腹を割って話し合う。過去にお互いが気づかないうちにすれ違い、傷つけあっていたことを理解し、自分の過ちを認め合う。

このように書くと、親子間の軋轢が子供をカルトに走らせる、という構図があるように見えるかもしれないが、そう考えるのは早急である。程度の差こそあれ、親子間の軋轢というものは誰しも抱えている問題だと思うが、カルトは、マインド・コントロールの過程で、その軋轢を拡大させるのである。カルトが最も恐れるのは、メンバーの家族、特に両親や、もしいれば配偶者が、脱会させるべくメンバーに働きかけてくることである。結局のところメンバーを脱会させるという困難な事を為せるのは肉親しかいないからだ。

そこでカルトは、メンバーと家族との接触を厳しく制限し、家族や元メンバーの言葉に耳を貸さないよう教え込む。聞けば堕落する、地獄に落ちる、と脅迫したりと、やり方はいくらでもある。同時に、親子の信頼関係を裂くため、誰にでもあるような親子間、夫婦間の軋轢につけいって、ことさらにそれを強調し、不信感をあおるようにしむける。元々はそれほど問題はなくても、カルトによって問題が拡大されてしまった以上、それを埋めることから出発しなければ対話は始まらないのである。

交通事故のようなものである、と話を聞いた母親はおっしゃっていた。誰にでも遭遇する可能性はある、という比喩である。

脱マインド・コントロールにおける対話の結果として、親子関係は以前よりもよくなり、信頼し合える仲になったと、多くの人が手記などで述懐している。お会いした母親もそのようにおっしゃっていた。

脱会カウンセリングを行っているカウンセラーもいるが、同様にメンバー達はなかなか言うことに耳を貸そうとしないので、信頼関係を築くことが重要なのだそうだ。

対話により不信感を払拭し、信頼関係を築いた後、徐々にそのカルトについての話をしていくことになる。カルトの中にいては知らされることのないそのカルトについての情報を与える。ここで気をつけなければいけないのは、「こんなに悪いことをしている組織なんだからやめなさい」と頭ごなしに言っては決していけない、ということ。あくまで考える材料やきっかけを与えるだけで(今までは与えらえなかった、あるいはカルトにより嘘の材料を与えられていた)、自分の頭で考えさせるようにしなければいけない。やめさせるのではなくて、あくまで本人に選ばせなければいけない、とおっしゃっていた。

オウム真理教の脱会者の場合、多くの人は一連の事件における強制捜査や報道を目にし、教団の犯罪行為を認めざるを得なくなって脱会を決意しているようであるが、出家信者の場合、帰るところは家族のもとしかない場合がほとんどで、脱会後の家族との対話は必要なようである。

『カナリヤの詩』に、座談会において家族との関係について語られた内容があったので、引用させていただく(注は私が入れたもの。これ以降の引用文においても同様)。

Eさん「私も未成年とのことで強制的に帰らされました。実は、親が準備が不十分なときに、私が帰ってきてしまったようで」

司会 「予定外に、はやかったんだ!(全員笑う)」

Bさん「よくオウムにもどらなかった」

Eさん「だから、感情的にすごくぶつかり合ってしまいました。怒鳴り合ったり。私、両親に対してすごく愛着があったけど、オウムの教義で愛着はいけないといわれて、冷たい見方で否定していたんです。

でも、牧師さんにあってほしいと両親に頼まれて会ってみて。それがきっかけで、チベット密教に詳しい人と教義について話を聞いたのがよかった。いろんなことがふっきれました。それからこのカナリヤの会を紹介されて、最近入ったんです」

(中略)

司会 「今までの話を聞いていると、親子の間で何らかの信頼関係を作っていたという印象を受けます」

Bさん「…一緒に、例えばオウムの本を読んだりヨーガをしてみたり、他の本を読んでみたりしましたが、結構自分が主導でやらせてもらえたのがよかったのではないでしょうか。自分なら、ごちゃごちゃ言われるのは逆効果だと思います」

Cさん「脱会して戻るところと言えば、多くは家族のもとになるわけです。そうすると、家族、特に親が理解をしていないといけないでしょう。

でも、家族とはいっても、オウム出家前にどう付き合っていたかは千差万別だし、そのことは当然出家をやめてから会うときにも影響するでしょう。それに家族に何を求めるか、ちまたで言われるほど明確だと言い切れないのではないでしょうか、現実には」

Dさん「私の場合、親の協力は経済的なものだけだ。それでも助けられたと感じる。精神面での助けは、牧師さんを始めいろいろな人にあっているうちに、滝本さん(注 滝本太郎弁護士。現在「カナリヤの会」の窓口をしている)とカナリヤにいきついた。そして、ここでは遠慮せずにものが言える自由さがあるし、それがいいところだ」

この内容からも、一時的にカルトから距離を置くために行なうある程度の強制的な措置はともかく、やめなさい、と頭ごなしに言うことは有効ではなく、本人に選択させることが必用であることが分かる。また、「オウムの教義で愛着はいけない」とあるように、カルトが家族との関係を裂こうとする事実が確認できる。

もう一つ、家族との信頼関係の問題とは離れるが、「笑う」という現象にも注目したい。これは他のSHGにも見られたもので、第三者からみると、非常に深刻で笑ってしまってよいのだろうかと戸惑うような内容の「ネタ」で参加者たちがそれを笑い飛ばす、というものである。今まで苦悩として抱えていた自己の問題をみなで笑い飛ばすことにより、それを否定的なものとして認識することをやめさせる効果があるのではないだろうか。この「自己の肯定」という問題については、後でまたふれることにする。

脱マインド・コントロールにおける相互扶助

前述の母親は、自分の子供がそのカルトに入っていると知ったとき、これは何とかしなければ、とは思うものの、一体何をどうすればいいかまったく分からず、とりあえず相談できるところを探したそうだ。そして、その教団や、マインド・コントロール関する書籍を調べたり、その教団について特集した番組を放送していたテレビ局に問い合わせたりして連絡先を見つけ、自分と同じように子供がその教団に入ってしまったが、脱会させることに成功した「先輩」の親たちを紹介してもらって、話を聞きに行ったということである。
しかし、やはりそれぞれの家庭にはそれぞれの事情があり、子供の性格も一人一人違うので、聞いたことをそのままやればいいというわけにはいかない。何人かの「先輩」の話を聞いて、取り入れる部分は取り入れるが、最終的には自分達のやり方を悪戦苦闘しながら見つけていかなければいけない、ということである。

とにかくこの人に相談すれば何とかしてくれるのではと、駆込寺のようにすがりついてくる親が一部いるそうだが、そのようなわけにはいかない、これはあくまで親子の問題であり、外部の人間は何もしてやることはできない、やるのは家族しかいないのだ、とその母親はおっしゃっていた。

ただ、文献によれば、脱マインド・コントロールの過程で、元信者が直接本人と話したりすることが非常に有効であるらしく、そのような援助に感謝の意を表している手記があちこちで見られた。先に述べたように、カウンセラーが加わることもある。後に挙げた文献の著者であるスティーヴン・ハッサンは、統一教会(正式には世界基督教統一神霊協会という。教祖は文鮮明。合同結婚式などで知られる)のメンバーとして幹部クラスにまで昇りつめたあと、脱会し、現在では脱会カウンセラーとして活動している人物である。

ハッサンは、自分が脱マインド・コントロールを受けた際の元メンバーとのやり取りを、次のように述懐している。

元メンバーたちは、私が予想していたような人たちではまったくなかった。私は訓練されていたので、彼らのことを冷たい、計算高い、霊的でない、金に飢えた、虐待を好む人間達だと予想していた。だが彼らは温かく、思いやりがあり、理想家で、霊的な心を持ち、敬意をもって私を扱った。元メンバーなのだから、彼らは惨めで罪意識にさいなまれているはずだった。が、そうではなかった。…これはどれも私を当惑させた。

…元メンバーたちは、…共産主義の中国(敵だ!)が一九五〇年代に囚人達を洗脳するのに使ったテクニックと操作のことを話した(注 統一教会では共産主義は忌み嫌うべきものとされている)。統一教会の用いる操作が、ほとんど同じであることは明らかだった。「理想世界を作るのに、神がサタンと同じ戦術を使わなければならないのか」という大きな疑問がわいてきた。(しかし思考停止になっていたため)この時点で自分の理性を働かしたり、ものを考えたりすることは、胸まである泥沼を渡るようにしんどい感じだった。

…脱洗脳の最終日の朝、私はまるで電気のスイッチをいれたように自分の心が突然開けるというちょっと一口では体験をした。アメリカ議会のメンバーに向けた文鮮明の談話のひとつを元メンバーが私に読んでいてくれていた時だった。その偽善的な言葉を聞いていて、「なんという蛇だ」と思った。彼は、アメリカ人はスマートすぎて韓国人ごときに洗脳されるはずがありませんとか、自分がどんなにアメリカ人を尊敬しているかとか語っていた。私は少なくとも一〇回以上、文鮮明がアメリカ人の、とくに政治家はいかに愚かで怠惰で堕落しているかと語るのを聞く機会があったのだ。

カルトでは、脱会すれば地獄に落ちる、脱マインド・コントロールでは拷問のようなひどい仕打ちをされるのだ、というような具合に教え込んで恐怖心をあおり、先にも述べた「思考停止」の状態を作り出すので、無事社会復帰した脱会者と会い、そして彼らにやさしく語りかけられること自体が、カルトの与えた情報が虚偽であることを示すことなる。

そして元メンバー達は、自分が脱マインド・コントロールを受けたときの経験から、頭ごなしに説得をしても反発されるだけであることは分かっているので、あくまで相手に自主的に気づかせることをこころがけながら、カルトやマインド・コントロールに関する情報を与えていくことができるのである。そして、言うまでもなくこのような活動が元メンバーにとってもプラスに作用する。カルトにいた経験がいかされることで、自己を否定的に捉えることから解放されるきっかけとなるのである。

話を伺った母親も、まだ自分が先輩として話をする、ということはないが、機会があれば、自分もできるだけのことをしていきたい、とおっしゃっていた。世間体を気にして、なかなか言い出せずにいる人も多いそうで、そのような人達のお役に少しでもたてれば、とのことである。

元メンバーの心の傷

脱会した人達は、カルトのマインド・コントロールの呪縛から逃れ、過酷な労働や生活管理から解放され、晴れ晴れとした気持ちで日常生活に復帰しているのだろう、と思う方がいらっしゃるかもしれない。しかしそれは全くの誤解である。ほとんどの脱会者は、カルトにいたころより脱会した後の方が非常に苦しい思いをすることになると述べている。この苦しみに耐え切れず、カルトに戻っていってしまう人も少なくないのである。

まず、自分が全身全霊をささげてきたカルトやそのリーダーが、実は虚偽に満ちており、自分は騙されていたのだということを認めなければならない辛さがある。「心から愛していた恋人に裏切られたようなもの」という比喩でその心境を表現している人もいる。

そして、騙されていて知らなかったとはいえ、カルトの犯罪行為に自分も加担していたという罪悪感を背負わなければならない。勧誘活動で多くの人の人生を狂わせてしまった、多くの人から金銭を騙し取った、など。オウム真理教の場合は、多くの脱会者が、間接的とはいえ人殺しの手伝いをしてしまったと苦しんでいる。悲劇としかいいようがない。『カナリヤの詩』においても、ことあるごとに被害者への謝罪が述べられている。「元信者」というレッテルを貼られ、世間からの冷たい視線にさらされるという辛さもある。

さらに、マインド・コントロールによって、カルトにおける常識を植え付けられ、「俗世」の常識を失ってしまうので、脱会してもしばらくは、他人とまともに会話することすらできなくなる(この問題が脱マインド・コントロールをより困難にする)。カルトにいた間は、「俗世」とのかかわりを断たれるので、多くの友人知人を失う。まさに浦島太郎のような状態である。この社会復帰の困難さが脱会者に重くのしかかることになる。

「出家」のような形でカルトに帰依していた場合は、たいていは財産をカルトに寄付してしまっているので、経済的な状況でも元メンバーは苦しまなければならない。

カルトにいる間、メンバー達は自分自身の判断で行動することをしなくなる。自己を捨て、リーダーや教義に従順であることを要求される。このような依存性は脱会後も続き、日常生活を困難なものにする。着るものや、外食した際のメニューの決定すらままならなくなってしまうのである。

そして、アイデンティティの空白。カルトに入った人の多くは、マインド・コントロールの過程で、各々が抱いていた、世の中の矛盾や自分の人生についての苦悩を増幅させられている。その上でカルトは、このようにすればいいんだよ、と、すべてを解決しうる答え、すなわちカルトの教えを提示する。この教えを受け入れることで、実際今まで抱えていた悩みは嘘のように吹き飛んでしまい、とても楽な気持ちになれると多くの人が述べている。またその快感が、ますますカルトを信じさせる原因となってしまう。まさに「信じるものは救われる」のである。

しかし、脱会者は、それはすべてまやかしであったことを認めなければならない。そして、自分の人生について、また一から考え直さなければならなくなってしまうのである。

『カナリヤの詩』に、脱会者ではない読者からの「教団内より外の方がつらいのはなぜ?教団の中の方がいろいろと制限されている(と報道されている)ので、つらそうに見えるのですが」という質問に答える形での脱会者の手記が掲載されていたので引用する。

回答その一…何から何まで失っちゃってるんですよ。裸一貫からやり直すんですよ。シンドイ。これ実感。

回答その二…オウム信者に対する世間の目はどうでしょう。オウムに居ましたなんてそれこそ口が裂けたって言えません。これって、ハンディーキャップ?

回答その三…友人・知人の類が去っていく。涙が出ました。

回答その四…今まで真理であり正しいと信じていたものが、実はその正反対だったなんて!結婚して初めて化粧してない奥さんの顔を見た時よりショックなんだぞ。

回答その五…この娑婆ってところは、元来、つらく悲しいことが多いものなんです。そうは思いませんか? もしそうは思わないと言う方がいらっしゃったら、はっきり言ってうらやましいです。

「カナリヤの会」は、このような心の傷に悩む脱会者達の集まりである。ここで、「カナリヤの会」についての詳細を述べたい。

オウム真理教脱会者の集い カナリヤの会

「カナリヤの会」は、1995年6月、「オウム真理教を脱会した元信者」の「同窓会のようなもの」として、「カナリヤの会」の活動が始まる。以下は会の主旨について述べたWebページ(URL http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/)からの引用である

1995年3月22日、ようやくオウム真理教に強制捜査が入り、さまざまな事件とおぞましく悲しい実態が明らかになってきました。そんな中、オウムに見切りをつけ脱会していく人たちが大勢いました。彼ら元信者たちは様々な問題を抱えながら、社会復帰に励んでいます。そんな中、事件の真相を知るために、あるいは心の整理をつけるために何人かの元出家信者たちが集まり、オウム真理教脱会者の集い「カナリヤの会」ができました。この様々な情報伝達の場は何人もの元信者の心を癒し社会復帰にむけての橋渡しにもなり有益な成果を現在でも上げています。(中略)悲惨なサリン被害者もなんら回復されていません。刑事裁判もまだまだ続きます。脱会者、あるいは現役信者の人たちでオウムに対して本当のことが知りたいと思う人は多いはずです。会の発行する元信者の声をとりあげた刊行誌『カナリヤの誌(うた)』は23号を数え(注 現在では47号まで出版されている)、いろいろな立場の言葉が聞けます。またそれはオウム問題に対する鋭いアプローチのみならず、カルト問題に対する貴重な資料にもなっています。

会報の内容は、元信者の手記が主なもので、信者であったころの体験談や、現在の心境が述べられている。また、オウム真理教に関する新聞記事や、裁判記録が詳細に掲載されている。ともに、自分達のいたオウムとは一体何だったのか、事実が知りたい、という問いかけであり、また、現役信者の人達に真実を知ってもらいたい、という願いも込められている。会報をオウム真理教の施設に送付していることからもそれはうかがえる。脱会者の手記にも、現役信者へ訴えかける内容のものが多数みうけられる。一部の脱会者は、教団施設への訪問も行っており、オウム真理教の実態を知らせ、脱会を呼びかける努力をしている。「脱会したら地獄に墜ちる」と信者は教えられているので、元気な姿を(もちろん悩みはあるだろうが)見せるだけでもかなりの効果があるそうだ。それは先に引用したハッサンの文章にもみられた。なおこの訪問は、会をあげて行われたものではなく、一部の意気投合した人達の行動であるとのことである。

すでに取り上げたが、元信者達の座談会の様子も収録されており、互いに心境を語り合うことによるセルフ・ヘルプも行われているようである。以下の引用は、『カナリヤの詩』に掲載されていた、「カナリヤの会とは何なのか?」というテーマで行われた座談会の様子である。

司会 「初回から私は参加していたのですが、この会の当初の意図は『オウム元サマナ(注 出家信者のこと)同窓会』のようなノリだった気がしています。メンバーも着々と増えてきた中で、途中から参加してきた人の印象もどうなんでしょう、ここで会の印象を聞いてみたいですね」

Aさん「私も、元サマナだった人たちがどういう心境でいたか知りたかったです。親にも言えないことはありますが、それをこの場で言えるかどうか、そしたら実際に話せる人がいました」

Bさん「そう、元サマナに『仲間』としての感じを持ちました。出家中に知り合った人がカナリヤにも来ていて、その点で気軽に参加できました。本当に同窓会ですね」

Cさん「私の場合、出家中でしりあったおもしろい友人にあえるかもと、この開設立を滝本さんにねだったのだけれど、その人は今のところ来ていない。
その点で残念だけれど、かわりにオウムで面識のなかった人たちと今は友人になれた」

Bさん「その新しい友人といきなり本音をぶつけ合えてしまえるのが、不思議ですごいところ」

Cさん「その通りなんですよ」

「同窓会のようなノリ」という言葉からすると、あるいは明確にセルフ・ヘルプを目的として会が発足したわけではないのかもしれない。しかし、もしそうだとしたら、結果としてセルプ・ヘルプ的な活動をするに至ったということであり興味深い。

同じ経験を共有しあうものが語り合うという形態はまったく他のSHGと変わるところはない。ただ、オウム真理教という社会に大きな影響を与えてしまったカルトにかかわってしまったため、嗜僻や病気のように、個人や家族内の問題ではすまされないという苦悩がある。会員以外の人への会報の配布やWebページの作成、また会をあげて行なっているわけではないが、一部の元信者や弁護士による現役信者や事件の被害者などの外部への働きかけは、それを反映していると考えられる。そしてその活動が脱会者達の傷の癒しにつながっている。以下の引用にもそれが見て取れる。これは、「カナリヤの会」のWebページに掲載されていた座談会の様子である。

司会
…手記集等を読んで被害者の方々の肉声に接すると、何ともいえない申し訳なさや、うしろめたさというのを感じてしまいます。そして、被害者の方々に謝りたいという気持ちが生じても、そのような接点をこちらからは持ちづらい。その面で、やり場のない思いを抱えて落ち込んでしまうことが多くありました。非常にシビアで、困難な問題なのですが、そういった点をじっくり詰めて、話し合ってみたいと思います。

(中略)


自分はたとえ脱会はしたけれども、周りからは、あの凶悪な犯罪集団にいたのだと思われる。被害に遇われた方々には、私のような存在も憎しみの対象として見られている、という先入観を持ってしまうので、実際会うのが恐いという気持ちと、緊張を伴わざるを得ないです。事件の傷痕は予想以上に深く、様々な遺恨を残してしまっているので、今我々の置かれている状況は、一体なんなんだろうと思ってしまいます。

(中略)


事件に関して、直接的な被害者と加害者が否応なく存在していますが、その中で僕たち元信者の存在は一体どういう立場なのかは、そのように明確には定めにくい、いうなれば、それらの狭間に置かれてしまうような、微妙な位置に置かれているように思えます。現役の信者はもっとそうでしょう。社会的に責任を問われてしまう面もあり、被害者の方々が「オウム真理教を許すことは出来ません」というときに、脱会したはいえ、教団の信者だった僕たちも、いわば「間接的な加害者」として含まれているといえます。かといって、事件のことは分ってはいなかったし、直接的に関わってはいないので、意識的な加害者とはいえません。

永岡(注 永岡辰哉氏。脱会後積極的に活動をしている元信者の一人)
実は被害者の方と御会いさせて頂く機会があったのですが、そのとき会うことが正直とても恐かったのです。というのは純然たる被害者に対して、「間接的な加害者」としてどのように接していったら良いのかが、わからなかったからなのです。しかし、実際に、被害者の方から声を掛けて頂けて、非常に感激しました。実際に被害に合われた方と話が出来る、して下さるということが、自分達にとって救いである、救いになったという意味で、御会いできて非常に良かったと思います。それと、これは実際に会って話さなければわからなかったことなのですけど、被害者が被害者として、そのことをそのまんま引きずっていってはいけないように、加害者側でもあるあなた達もそのことを引きずってはいけない、と言って頂けました。そして「辞めた人、間接的に責任があるのかもしれないけれども、関係なかった人々に対して、怒りや憎しみを持っているわけではない」とおっしゃって下さった。百分の一でも千分の一でも責任がある人間を目の前にして、言って下さるということは、非常にありがたいことでした。

会員の人数は不明だが、1997年の時点で会報の発行部数は約450部とのことである。会員は元信者に限定されるが、元信者でなくても、『カナリヤの詩』を講読することはできる。基本的には会員を広く募ることは行わない方針のようだが、ホームページは公開している。会員の個人情報は一切漏れないようにしており、名簿の作成も行わない。

3.カルトとSHGの比較

自我を奪われる快感と奪う快感

さて、SHGを見ていくなかで、一部のSHGにある種の宗教っぽさ、カルト臭さを感じる、という声が他のSHGを調査している学生の間から少なからずあがった。

例えば、アルコール依存症のSHGであるアルクホリック・アノニマス(以下AA)の12ステップには、神、ハイヤーパワー(それぞれの人が信じている神)、といった単語が使われており、知らない人が見たら宗教団体の教義と思われてもしかたがない内容であることは否めない。実際に参加してみると決してそのようなことはないということだが。しかし、他の団体に参加して、ちょっと宗教っぽいな、と感じたという報告はいくつか見られた。

カルトとSHGの類似という問題について、斎藤学は、「カルトと自助グループ」の中で、AAは当時流行していた新興宗教グループの中で誕生したことを指摘した上で、次のように述べている(以下抜粋)。

マインド・コントロールは「我」の粉砕、剥奪である。カルト集団の構成員が新たなメンバーの勧誘に成功することは、他者の「我」を奪うことに成功したことを意味し、これが彼らの万能感を賦活する。これがこの種の組織に入って献身する者への報酬なのである。
AAの12ステップ、我々はアルコールに対して無力である(第1)、ハイヤーパワーを信じる(第2)、それに身をゆだねる(第3)、これらは個人の力の無力の自覚であり、「我」の奪取である。

しかし私はAAがカルトであるとは思わない。リーダーを持たないこと、グループの功績を個人のものとしないこと、個人の名の非顕在化(アノミティの厳守)、これらの12伝統がAAを救った。12伝統のない他のグループがカルト化した例がその証左である。薬物依存者を主な対象にしたシナノン(Synanon)グループでは、神格化した個人が族生し、数々の銅像や肖像画が崇められ、一部は明瞭にカルト化し、一時は犯罪の温床とさえみられた。

12伝統はAAを救ったが、しかし、他者に無力を自覚させることを自己の力と認識しその達成感を得ることを目的とした、12ステップを誤用しているメンバーもいる。こうした人は尊大であり、グループを支配しようとし、いずれ破綻する。このような誇大自己を維持するためにSHGが利用されることは警戒されるべきである。また、外部の援助者はSHGの自立を確認し次第直ちに離れて運営に一切関与しないようにしなければならない。

自己を無力なものと認め、そして自己を特定の集団にゆだねる。この姿勢はSHGとカルトに共通するものである。先に述べたように、カルトは、自我を捨て去ることで、個人が抱えている苦悩がすべて払拭されるかのように思わせ、人を虜にする。メンバー達は、何の苦しみもない世界を約束されるが、その代償として、本人は気がつかないうちにカルトの奴隷として利用されることになる。

しかし、メンバーは利用されていると同時に、利用している立場でもあると斎藤は指摘する。他人の自我を奪うことに成功し、そのことで快感を得ているのだと。そしてこの快感はSHGでも得ることができる。おそらくこの快感もまた依存性の強いもののように思われる。依存症を直すためにSHG参加しても、今度はSHGに依存していることになるのでは、あるいは、傷の舐め合いではないか、といったSHGへの批判は、この快感への不信感から生じるのではないだろうか。

自己を無力なものとすることによる快感と、他人の自己を奪い万能感を感じる快感。この両者は決して矛盾しない。万能感、すなわち自分が優れていると判断するには、基準が必要となる。

カルトのメンバーの場合、カルトの教えがその基準となる。自分はその教義が示すところの最終的な到達点には遠く及ばない無力な存在であることを認め、しかし世界には自分よりさらにそこから遠いところにいて、上をめざそうという意志さえない人々が大勢おり、それにくらべれば自分ははるかにましであり、勧誘活動や募金活動(難民救済のためだとだまされて募金したとしても、募金した以上少しは救われたことになる、とメンバー達は考える)によって彼らを少しでも高い段階に(しかし自分よりは下)導くことによって、自分の誇大自己が満たされるのである。多くのカルトの内部が、ヒエラルキー構造になっていることもその表れであろう。

もちろん、カルトにおける「到達点」はまやかしであり、そこに至ることが許されるのはカルトのリーダーただ一人である。しかしメンバー達はそのことは知らぬまま、いつか到達できると信じて、目の前ににんじんをぶらさげられた馬のごとく、決して至ることはないその到達点にむかって際限なく努力する(=カルトとそのリーダーに奉仕する)ことになるのである。

したがって、「到達点」をことさらに示すこと、そしてその「到達点」が抽象的・観念的で、達成したかどうかが分かりづらいことは、SHGのカルト化を促す恐れがある。その点、12ステップ系のSHGが、例えばAAでは、「飲酒をしなくなる」という非常に分かりやすい目標があり、一方で、その症状は完治するものではなく、一生背負っていかなければならないものであるという前提を掲げるのは、完治という到達点を示す危険性を察知した先見の明であるといえるのではないだろうか。AAの理念には、斎藤学が指摘しているように、非常に示唆に富む内容が含まれている。

自己変革か、自己確認か

カルトにおいては、メンバー達は、自己が変革する、新しい自分になることができる(悟りをひらく、など)といった希望をもって活動に従事する。SHGとカルトの大きな相違点がそこにあるのではないかと思われる。

SHGにおいては、新たな自己を獲得することによって問題を解決する、という考え方はしない。そこで行われているのは、現在の自分の姿を確認し、あるいはそれができるような環境、きっかけを与えることである。例えばAAでは、ハイヤーパワーに身をゆだね、自己の無力さと、アルコールに敗北した自分を認め、あるがままの自分の姿を見つめられるようにする。強姦の被害者に対しては、「強姦神話」にみられるような、被害者にも落ち度がある、という認識から生じる苦悩を取り除くために、あなたは被害者であり、悪いことはなにもしていないのだと言い聞かせることが行われ、それによって被害者は、自分が悪いのでは、という自分自身に対する誤解から解放され、自己を確認することができるようになる。また、「忘れようとする」という不可能なことをしようとすることをやめ、その事実を事実として認めながら生きる道を模索しようとするのである。

そこで行われるミーティングや、文章による自己の体験や心境を語ることもまた同じ効果を持つ。他人に向かって自分の状況を言葉にして話す過程で、問題が整理され、自分自信に対する客観視が行われる。人に話すという形態をとってはいるが、実際には自分自身に語りかけ、己の状況を説明し、理解させているのである。

そして、確認した自己を否定したり、嫌悪したりせずに、それを受け入れ、むしろ肯定しようとすることがカルトとの違いであろう。問題を解決しようとするのではなく、問題を問題として抱え続け、しかしそれを否定することなく自分自身の一部であることを認めて、それとともに生きる、そしてやがてそれは問題としてすら認識されなくなるのである。カルトのメンバーのように、新たな自己を求めてあくせくともがき苦しむこと自体をやめることが問題の解決へとつながるのである。

自己変革を求めることをやめることのできた状態をもって、自己変革した新しい自分を獲得したのだ、とすることができるように思われるかもしれないが、それは結果論にすぎない。自己を否定的にとらえ、変革を強く望んでいる限り、自己確認とその肯定という作業は行われることはないのだ。

再び斎藤の論文から引用する。

AAの12ステップの最初の3つのステップは、「我」が自己と闘ってこれを制圧することを戒めたものである。その第1のステップで、アルコール依存症者は酒瓶と闘い続けたあげくに、これに破れたことを自覚させられるのであるが、彼は別にアルコールや瓶などの物質と闘ったわけではない。彼は自己と闘い、自己に敗れたのである。自己と闘って勝てる人はいない。…無力の自覚(ハイヤー・パワーの認識)は、こうした自己との闘いというパワー・ゲームを終息させる点に効用があるのである。

自己変革(斎藤の論文にそった言い方をするなら、「我」の変革というべきなのだろうが)によってより強い自己を獲得し、その力でもって嗜癖を制圧して依存症を克服することは不可能である、と斎藤は断言する。そして、不可能なことに挑むことをやめさせることがSHGの持つ効用であるとしている。

自己変革による問題解決という達成不可能なことに挑んでいるという点で、カルトのメンバーと、嗜癖などで苦しみ、SHGの門をたたく人達は共通している。その苦悩は、まさに無限地獄のようなものである。

カルトにおいては、その地獄を地獄と思わせないような工夫(「我」を奪う快感と、強い自己を獲得して、全ての苦悩が解決された超人になれるという報酬)を凝らし、むしろ快楽として提供することで人を隷属させる。それとは逆にSHGは、不可能の追求をやめさせることで、その無限地獄から人々を救い出す働きをするのである。

そして我々は、なんとかより「強い」自己を獲得し、その自己の持つ「強い力」でもって問題を解決して、安寧の境地に至りたいという欲求とそこからくる葛藤は、何も彼らに固有のものではないことを認める必要があるだろう。例えば、いわゆる「自分探し」などは、自分の現在の生きかたに満足感が得られず、このままでいいのだろうかという漠然とした焦燥感を感じ、もっと自分にあった生きかたがあるはずだ、そうすれば今自分が抱えている不安は解消されるのではないか、という構造であり、これは自己の変革と不安感の制圧という、先に述べた「無限地獄」となんら変わるところはない。SHGは、このような欲求と葛藤に対処していく術を我々に示してくれたように思う。

この場を借りて、インタビューに応じていただいた方、そしてそのお二人を紹介してくださった方、『カナリヤの詩』を送ってくださった「カナリヤの会」に心より御礼申し上げます。

参考文献
Steven Hassan“Combatting CULT MIND CONTROL”Inner Traditions International 1998(浅見定雄 訳 『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版 1993)
Joan Carol Ross, Michael D.Langone“CULTS :What Parents Should Know”Carol Publishing Group 1988(多賀幹子 訳 『カルト教団からわが子を守る法』朝日新聞社 1995)
西田公昭 『マインド・コントロールとは何か』紀伊國屋書店 1995
パスカル・ズィヴィ 『マインド・コントロールからの脱出』恒友出版 1995
滝本太郎・永岡辰哉 編 『マインド・コントロールから逃れて』恒友出版 1995
南哲史 『マインド・コントロールされていた私』日本基督教団出版 1996
家族機能研究所 編 『アルコール依存とアディクション』第13巻3号 ヘルスワーク協会 1996(斎藤学「カルトと自助グループ」、西尾和美「米国におけるカルト団体と、離脱者の治療」、永野久江「ヤマギシ会の特別講習(特講)について」)
『カナリヤの詩』第1号〜第37号 カナリヤの会 1995〜1998


●1通の手紙(30代・女性・一読者)

  3月20日、霞ケ関駅頭で、地下鉄サリン事件の被害者らが冊子「手記集」
 を配付した。
  春分の日で休みだったが、約700 人もの方が並ばれ、用意した500 部は
 あっという間になくなった。サリン事件の重大さ、悲惨さと、それを感じて
 いただける多くの方がいることに感動した。
  不足したので、後に滝本から十数通を郵送した。下記はそのご返事として
 いただいたものであり、ご承諾を得られたので掲載します。

  本日「手記集」が届きました。送っていただいて本当にありがとうござい
 ました。
  私は毎号「カナリヤの詩」を楽しみにしている一読者です。地下鉄サリン
 事件以降、この不気味な社会現象に興味をもち、報道や文献に接するだけで
 は飽き足らなくなり、月一度は地裁に足を運ぶまでになりました。
  オウム報道については、今では松本智津夫の裁判くらいしか目にすること
 がなくなりましたが、オウム幹部とほぼ同世代(32歳です)ということもあ
 り、そう簡単に風化してほしくないと思っています。私自身、信者・元信者
 などの話(報道・文献から)から、入信した経緯などについては理解できる
 展も数多くありますが、こうした事件は絶対許されない、あってはならない
 出来事だと思っています。
  私は今、学生時代のことや社会に出てから感じた多くの矛盾、悩んだこと
 などを思い出し、そうしたドロドロとしたものを抱えながら、なぜ自分はオ
 ウムに入らずに、グルに自分を委ねずに生きてこれたのか、考えているとこ
 ろです。自分にとってオウムとは何なのか、いつか決着をつけたいと思って
 います。
  オウム現象はいろいろな側面から見なければなりません。今までマスコミ
 でも被害者の現状についてはあまり取り上げられてこなかった、ぜひ知りた
 いと思っていました。
  カナリヤの詩を講読しはじめたころ、何回かFAXを送らせていただいた
 ことがありました。ただ、オウムを知れば知るほど、皆さんのさけびを聞け
 ば聞くほど、自分自身でかけるべき言葉が見つからなくなりました。宗教の
 次元で教義の矛盾を突いたり、トンデモ・オカルト世界観への批判をしたり、
 こうした事件の責任の一端はあなたにもあるのだから責任を感じろといまだ
 罪を認めない教団を非難したところで、部外者の説教にしかならないのかな
 と思ってしまうからです。私自身直接被害にあったわけではないし、単に報
 道に接しただけで責任を強調するのもイヤだし……今はカナリヤの皆さんの、
 そして被害にあわれた方々の悲痛なさけびを素直に聞くことだろうと思って
 います。
  信者・元信者にかかわらず、被害にあわれた方々の悲痛な叫びもまだまだ
 世間には知られていないことが手記集を読んでわかりました。こうした声を
 素直に聞き、どちらの方へも差別・偏見なく接していきたいと考えています。
 サリン事件は、どちらにとっても決して埋めることができない決定的な溝を
 つくってしまいました。幸い、サリンを吸わなくて済んだ、つくらなくて済
 んだ人間として、もっともっと理解したいと思っています。
                          (1997年4月12日)