資 料  24から30


資料30 ● 「麻原さん」 に 最後の意見陳述 2003.3.27

−東京地裁104号法廷にて

本日午前、松本智津夫被告の法廷で意見陳述をしてきました。
「被害者」として、数分、話す機会を与えられたのです。

以前の証人尋問では、弁護側から色々と妨害があったが、本日は、妨害はなかった。

「麻原」さんは、人相がずいぶん変わってしまったなあ、という印象を受けた。破壊的カルトの教祖は、楽観主義でもあるものです。

んだが、もう楽観主義ではいられないはずだが分っているのかなあ、と思った。

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意 見 陳 述

第1に、松本智津夫被告につき、死刑としていただきたい。 死刑廃止論は、人間の素 晴らしさとともにある底知れぬおぞましさを忘れたものであって、人間社会の本質 に反すると思う。

第2に、その他の被告人につき、勿論、極悪非道の行為をしたのですが、死刑にしな いで欲しい。オウム真理教という破壊的カルトの強烈さを考えるとき、死刑は松本智津夫被告1人とするのが適切です。

第3に、オウム真理教すなわちアーレフなどの信者は、この教祖みずからしたことの おぞましさを見つめ、「麻原彰晃」を観想することの罪深さを、どうぞ知って欲し い。

第4に、この裁判の経過の中で、被告人の心を開くことのできなかったことが大変残 念です。それこそが最大の弁護だったはずなのに、被告人ではなく、刑事訴訟法を弁護してきたと思われ、大変残念です。

第5に、被告人の死刑の執行には、どうぞ、刑事訴訟法477条2項に基づき、私を 立ち会わせてください。嘆きながら悲しみながら、しかし当然のこととして死刑に処せられるその場に立ち会わせてください。お願いします。

第6に、最後になりますが、松本智津夫被告において、弁護士でもある私に、もし会う気になったら連絡をください。

以 上


資料 29 ●− 素 敵 な 詩 「人間のうた」 の紹介

素敵な詩がありましたので、紹介します。 −窓口 滝本太郎

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1939/teranisi.html

 

 人 間 の う た       深澤 義旻

「うそをつくな」と、おれはいわない。
大事なときに、うそをつかなければいいのだから。
大事なときとは、
自分を不幸にするかどうかというときだ。

「くそまじめにやれ」と、おれはいわない。
くそまじめにやって損をすることが多いからだ。
だけど、やらなければならないときは、
どんなにつらくても、苦しくても、
やりぬかなければならない。
それは、自分をだめにするかどうかというときだ。

「けんかをするな」とおれはいわない。
つまらないことでしなければいいのだから。
つまらないけんかとは、
みにくい感情の剥きだしのことだ。
そこからは、なんにも生まれてはこないのだ。
だから、けんかは、つとめて避けるがいい。
だが、始めたら、
相手の息の根が止まるまで、
もしくは、
相手が完全に「まいった」と音を上げるまで、
やめてはならない。
なまはんか、相手に同情して、
手をゆるめたら反撃されて、こちらの負けだ。

「だれとでも仲よくしろ」と、おれはいわない。
ほんとうのなかまと、仲よくできればいいのだから。
ほんとうのなかまーーーとは、
手をにぎりあい、肩を叩きあいながら、
自慢話をしあえる相手のことだ。

「いつも誰にでも素直でいろ」と、おれはいわない。
素直になるもならぬも、
それは相手によりけりだ。
言ってることはほんとうか。
それは、ほんとうによいことか、よくないことかを、
よくよく確かめてからにしたらいい。
たとえ、どんな相手でも、決して、
おそれず、ばかにしないでだ。
相手の目つき顔つき、ものの言いかたを、
おちついて、よく聞き、見ていれば、
たいがいピンとくるものだ。
人に対する無條件な素直さではなく、
真理に対する素直さをもつことだ。

「まちがいや失敗をするな」と、おれはいわない。
大事なことをまちがえなければいいのだから。
大事なことで失敗しなければいいのだから。
まちがいや失敗をおそれてはならない。
おれがいう大事なこととは、
二度と立ち上がれなくなるかどうかということだ。
意思と体力で支えきれなくなるかどうかというときだ。
他のまちがいや失敗は、
星の数ほどあったにしても、
少しもこわがることはない。
まちがいや失敗から正しく学んでいくかぎり、
自分を高めていけるからだ。
まちがいや失敗を一つもしない人間は、
結局、なんにもしなかったやつなのだ。
口先だけで、何にもできなかったやつなのだ。

「いつも正しくあれ」と、おれはいわない。
神様にも動物にもなれるのが人間だから。
正しく美しいものに感動しながら、
悪いことをまねるのも人間だから。
喜びと悲しみを同時に受けとめることができるのも人間だから。
いつ、どんなときにも、
うんと喰って、うんとたれて、うんと眠るがいい。
獣の眠りのように眠るがいい。
そして、また、力を合わせて働こう。

「親に心配かけるな」と、おれはいわない。
心と體が丈夫なやつほど、
何かをしなければいられないやつなのだ。
そうであるかぎり、何か、どこかで、
親に心配かけるにちがいないからだ。
親を喰らいつくして
思いっきり勇ましく生きてゆけ。

幸せは祈って待ってるものじゃない。
戦いとっていくものだ。
自分の弱さや醜さと戦いながら、
目的と目標をしっかり決めて、
それに向かって突進していくときに得られるものだ。
それが自分を大切にすることだ。
自分を大切にすることをためらうな。
自分を大切にできないでいて、
どうして、人を大切にできようか。

自分を大切にすることが、同時に、
人を大切にすることになる生き方を、
なんとしてでも、
見つけだし、つくり出さねばならぬのだ。
それは、人間にだけできるのだ。
それが、人間の権利であり、義務なのだ。
そのように生きていったとき、
おれたちのまわりにも、
人間らしい人間がいることに
きっと気づいていくはずだ。
ほんとうのなかまもできるのだ。

そのことが、そうして生きていくことが、
どれほど苦しく悲しく切なくても、
自分の意志で選んだ道を、
もうひき返さないぞと覚悟して、
歩み続けていくならば、
悲しみも、苦しみも、怒りも、
人間の誇りにかえていけるのだ。

雨が降っても、
曇っていても、
見ろ、
雲の上には、太陽がある。


資料 28 − オ ウ ム の 謝 罪 文

−2002.4.24 カナリヤ82号より

3月20日に際して

 1995年の地下鉄サリン事件から7年の月日が流れ、今日、わたくしが教団代表に就任してから初めての3月20日を迎えました。

 この日に際して、改めて、事件で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被害者の方々、遺族の方々がこれまで経験されてきた計り知れない苦しみを思い、教団信者を代表して、ここに深くお詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした。
 あの事件が、取り返しのつかない大きな過ちだったことはいうまでもありません。しかし、その責任は、事件に関与し、裁きを受けている人たちだけに帰せられるものではなく、今、教団に残っているわたくしたちも、また、等しく背負っていかなければならないものだと考えております。

 その償いとして、被害者、遺族の方々への謝罪と賠償を引き続き行なっていくことを改めてお約束するとともに、今日を境に、今後とも、より一層の努力を重ねていくことをここに誓います。

2002年3月20日 宗教団体・アレフ  代表役員 上祐史浩


資料 27
アレフがやっている2001年晩夏の「神聖音楽劇」の内容です。ご参考までに。

−2001.12.22 カナリヤ79号より

救世主とは精神的リーダーであり、魂の先駆者であると考えられます。そして多くの救世主が、この人類を精神的進化へと導いてきました。しかし、救世主とは、わたしたちの外側だけに存在するのではありません。救世主はあなたの中にも存在します。なぜなら、わたしたちは解脱することにより、偉大な力を獲得し、救済者としての道を歩むことができるからです。

あなた自身が体験し、生きられることを願いながら、この救世主の物語を始めましょう。

◇PART1、解脱そして救済へ
救世主は解脱し、自己の感性を達成した後に、救済を決意する。

1、プロローグ(ドーハー、シンセ版)
壮大な曲とともに、救世主の物語は始まります。

2、すがれサマナよ(ピアノ版)
『苦ありて楽あり』というように、苦しみながら、真理に巡り合う救世主の言葉をお聞きください。

3、チッタ
解脱を果たし、いつも透明な光に包まれ、絶対的な自由と幸福と歓喜を獲得した救世主。この曲を聴くとき、その透明な光の状態を直感することでしょう。

4、ヴァジラ・チッタ・ナマ・シヴァヤ
自己の解脱を果たした救世主は、他の救済に目覚めます。

◇PART2 解脱へ導く救世主
救世主は苦しめる魂を解脱へと導き、新たな救済者を育む。

1、すがれサマナよ(歌曲版)

2、ピアノ協奏曲『道』・第二楽章
救済者入門・第一課として、『死の瞑想』が行われます。皆さんも一緒に瞑想してください。

人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けられない。
そして死はいつやってくるかわからない。
死を前にして、何をすべきかを考えなさい。

3、ロードシヴァ(ピアノ版)、甘露
救済者入門・第二課として、『思念処(しねんじょ)』の瞑想を一緒に行います。 思念処の瞑想・公式
@私は魂であって肉体ではない。
A私は魂であって感覚ではない。
B私は魂であって心ではない。
C私は魂であって観念ではない。

4、救世主(ピアノ版)
救世主入門・第三課として、『愛の瞑想』を一緒に行います。『救世主』のメロディーを聴きながら、すべての魂をイメージし、みんなが真理を実践し、今の状態より少しでも幸福になってほしい、今の状態より、少しでも豊かになってほしい、本当に自由で、幸福で、安らぎに満ちた世界に至ってほしいという願いを込めて、できる限りの愛を注いでください。

5、哀(あい)(ピアノ曲)
救世主入門、第四課として、『哀れみの瞑想』を一緒に行います。ピアノ曲『哀』の美しくも哀しいメロディーを聴きながら、苦しんでいる周りの生き物たちを思い浮かべ、彼らの苦しみと同調し、一緒に悲しんであげてください。この哀れみの瞑想により、彼らの苦しみが除かれます。それを見て、あなたの心には喜びが生じます。

6、ウマーパールヴァティーの愛
『ウマーパールヴァティーの愛』の優しく美しいメロディーに浸りながら、愛と哀れみを深めてください。それによって救済者としての芽を育むことになります。

7、愛のために生きる(歌曲)
救済に目覚めた魂は、愛のためにのみ生きようと決意します。成就者の透明な歌声は圧巻です。

◇PART3、解脱そして救済へ
1、安らぎの光の国
美しいメロディーに浸り、魂がもともといた世界、その世界の光と安らぎを思い起こし、実感してみてください。そして、すべての魂をそひに導くこと、それが救済なのです。

2、マハーカーラーの詩
熱い救済のメッセージを胸に刻みながらお聴きください。

3、エピローグ(ドーハー・歌曲版)
魂のふるさと、ニルヴァーナの世界へとそこへ導く聖者を讃える感動的な歌で、救世主の物語は幕を閉じます。
願わくば、シヴァ大神の僕として、救済活動のお手伝いをし、
マハーヤーナに入る最後の魂とならんことを。


資料 26 脱会信者への復帰勧誘について。

ー2001.5.9 カナリヤ71号より

このたび、窓口として、カナリヤに参加されている方に、このところ復帰の勧誘があるかをアンケートで聞きました。話では色々聞きますが、まとめて聞いたことがないので、改めてしたものです。

@ 2000年3月と2001年3月に、いずれも電話で、元上司のそれぞれ別の師から「今日しか車が自由に使えないので、今から行くから逢えないか」「この間○○さんと一緒のとき、貴方のことを話していたんだよ」「今仕事しているの?時給はいくら?」「現世は汚れているからなあ」などと言われた。

A 2000年8月、電話で「あなたも本当は修行したいんでしょう、なにがひっかかっているの」という電話があり、会ったところ、「真理のとびら-批判-」という冊子を布施学1000円で買わされた、教学システムを9万円で買うことはなんとか断りこれで勘弁してくれ、と言った。

B 2000年8月、9月、ポストに手紙を投函された上で、自宅に来訪された。手紙には、修行、解脱のこと、現世は三悪趣(地獄、動物、餓鬼界)のデータに満ちているなどと書いてあった。

C 2000年11月頃、師の人から「人間にとって死を見つめて修行することの必要性、今の社会の弊害について電話があった。

D 1996年7月頃は電話と自宅の訪問で、96年11月頃は書店で突然に、99年12月頃は電話で接触があった。最初のは家族が対応した、次のは「なぜ突然いなくなったんだ」と詰問された、最後のはなんか所在確認みたいな分らない電話だった、ということです。

E 1995年7月頃、「東京で仕事をしないか」と電話があった。

F 2000年8月頃、現役のサマナから、「修行はどうしているのか、会って話をしたい」と電話があった。

というものです。カナリヤの会員の多くは、私が代理となって内容証明郵便で脱会通知を送り、接触をしないように要請しているのですが、それでもこれだけありました。主なのは近時です。それが宗教というものの通性とはいえ、オウムの「拡大方策はとっていない」が偽りであり、何よりオウムの売りとするところが改めて分るような気がします。
 報告まで。


資料 25−2  これは、資料25の正確なものですー反対尋問、最終法廷での発言

資料25につき、より正確に記します。

朝日新聞が2000年5月28日の37面に大きく出しましたが、内容に間違いが多いし、あそこまで白々しい言い方はしていません。右報道については訂正を求めています。

「30秒、被告人と裁判所にお伝えしたい。

先年、熊本に言ったとき、松本智津夫さんのお母さんの入ってる仏壇にお線香を上げさせてもらいました。よく頼んでおきました。
それから、貴方は、もう誰の話も何も聞かないつもりかもしれない。でも、私はあきらめてません。逮捕されて後、取調官から滝本はいつでも面会に行くと聞いたと思いますが、あなたは断った。
で、その後、私の事件の捜査、取調べも始まり、裁判となった。しかし、今日反対尋問を終わりました。
大分縁のあった者として、会ってみてもいいかなと思ったら連絡をください。面会に行きます。立場上、法廷には出られませんが、面会には行きます。気が向いたら連絡をください。
あなたが生まれたことを恨んではいません。あなたのしたことを恨んでいます。中島みゆきの「誕生」という歌をいつかどこかで聞いてください。以上です。

(弁護人ーということは、一番最後の部分、生まれてくれてウエルカムということを伝えたいということですか。)

中島みゆきの「誕生」という歌の、その詞のとおりです。弁護人からも挙げてくれると有り難いです。」


資料 25−麻原さん法廷での、最後陳述予定のもの−2000.5.12

先年、熊本に行ったとき、あなたのお母さんの仏壇に、線香をあげさせてもらいました。
よく頼んでおいてから、心配しないでください。

私は、あなたのことを、あなたが生まれたことを決して恨んでいません。
あなたがしたことを恨んでいます。
あなたにプレゼントしたいのは、中島みゆきの「誕生」という歌です。
できたら、聞いてください。

あなたは、もう誰が何を言っても聞く気がないかもしれない。
でもあなたが言うことを、私は、時間をかけて何度も聞いてみたい。
私はあきらめていない。

あなたは、逮捕されたあと、私がいつでも面会にいくからと伝えてもらった時、ことわった。そのあと、私の事件の捜査、取り調べそして裁判が始まったから、面会することもできなかった。

今日、私への反対尋問も終わりました。明日からは、面会も可能です。
私は、立場上、法廷に出ることはできない。でも面会はできる。
縁がずいぶん深かったものとして
会ってみてもいいかなーという気持ちになったら、連絡をください。

ではまた。

誕生http://home.highway.ne.jp/himafuji/HP/MIDI/tanjyo.htm


資料24−麻原さん法廷主尋問での滝本陳述ー予定していたもの

下記のものは、私へのサリン殺人未遂事件につき、当日陳述することを予定した私が作成した応答集です。

被害感情というものは、事件自体とその背景のみではなく、その後の裁判の状況、被告人の態度などにも当然影響されます。そして、死刑がからむ時、死刑廃止論議についても被害感情を述べる上で避けられるものではなく、さまざまなことを理路整然と述べるためには文章化する必要があるので、私において、用意したものです。

当初、20分程度の話なので了解されたいと検察から申し入れてもらっていましたが、これが裁判所に聞き入れられず、やむなく質問への応答という形で言葉を言うこととしまたが、法廷でこれを手にとって参考にしつつ、話すことさえ、結局は許されませんでした。

弁護側は、裁判の過程での弁護活動の内容がより被害感情を熾烈にしているという所で、最も激しく阻止しようとしてきました。結局、このなかの5分の1さえも、法廷で話すことを許されませんでした。死刑存続論も、中島みゆきの「誕生」を贈りたいということも、旋火輪の教えさえ、言えませんでした。

裁判所には、「刑事裁判では、被害者はその程度の立場なんですか」と申してきました。
なんとか、最後の「嘆きながら、悲しみながら、あなたの死刑執行に立ち会いたいと思います。」は言えましたが、気持の多くを言うことができず、何とも悔しいものでした。

報告と、文章の掲載とします。

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松本智津夫被告への処罰についての意見
    2000.3.9 東京地裁104号法廷 

質問1被告人の処罰につき、証人はどのような刑罰を望みますか。

死刑を望みます。「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」だからこそ、松本智津夫被告に対し、死刑を望みます。そして死刑については、2つのことを望みます。

質問22つのことは後程お聞きします。その前に質問しますが、証人との関係では、公訴事実は殺人未遂です。未遂でも死刑を望むということですか。

私は、目の前が暗くなった時のあの恐怖を今も忘れません。私への殺人未遂事件は、一連のオウム事件の一環でした。だから、私は死刑を望みます。

@ 松本智津夫被告による一連のオウム事件は、まさに極悪非道の行為でした。法廷に現れたものだけで30人の命が奪われました。数千人の人を苦しませました。首を折られて殺された人、首を絞められて殺された人、口を押さえられて殺された子、凄惨なリンチのあげく殺された人、薬物で殺された人、そして化学兵器VX、サリンで呼吸もできず痙攣して死んでいった多くの人たち。オウム内部では、記憶喪失にされた多くの者が今も苦しみ、LSDの副作用や温熱療法で多くの人が死なされました。

 地下鉄サリンでは勿論、松本サリンでも、松本被告が希望していたことは、もっと多くの人を殺し、もっと多くの人を苦しめることにありました。地下鉄サリンでは、サリンの純度がもっと濃く、信州大学付属病院からの治療法を示すファックスが来なかったら、数百人の命が奪われたでしょう。

 95年3月22日朝、上九一色村にいた私が心配したのは、サリンが何トン完成しているか、ヘリコプターが飛ぶか、だけではありませんでした。むしろ、東京都区内で、もしかしたら原爆が使われるのでは、と心配していました。松本被告は、「毒ガスの次はひょっとしたら原爆かもね」と説法で述べていたからです。当時、原爆はロシアのある地方で5億円程度で購入できるとも言われていました。ロシアの暗部とつき合っていたオウムが原爆を密輸入していてもおかしくないし、松本被告の発想ならば、その強烈な破壊願望という煩悩のもとに、原爆を使ってもなんら不思議はないからです。

 そんな犯罪行為をした松本智津夫被告に対しては、死刑以外の選択はありえません。私は、日本刑法に、殺人の場合の死刑という法定刑があることに感謝しました。

質問3証人が、被告人に対し、極刑を希望する理由としては、本件事件における被告人の立場や地位を考慮してのことですか。ーーーもちろんそうです。

質問4その理由は何ですか。ーーー3つあります。

@ 第一に、私への事件を含め、一連のオウム事件の主犯は、「麻原彰晃」こと松本智津夫被告だからです。その主犯性は、暴力団犯罪における組長などの役割とは、質的に異なります。暴力団ではもともと犯罪傾向の高いものが構成員となります。そして組長が倒れれば直ちに次の組長が出てきます。

 しかし、松本被告は、自分の思想を具現したオウム真理教を作り、もともと犯罪傾向のない若者達を、残虐な犯罪に導いたのです。松本被告は、自分を、地獄から天界までの六道、その裏に階段状に高くあるアストラル世界なるもの、さらにその裏にあるコーザル世界なるものをすべて自由に行き来できる「最終解脱者」と言いました。その証拠は、あのあまりに阿呆らしい空中浮揚の写真です。そして、最終解脱者は、すべての輪廻を見極めることができる。だから、人を殺すべき時に殺す。それが慈愛だというのです。

 実行犯たちは、その設定を信じました。だからこそ、松本被告の言うままに、残虐な行為ができたのです。「人は宗教的確信に至った時こそ、ためらいなく完璧に罪を犯す」「悪意の殺人は限度があるが、善意の殺人は限度がない」です。

 松本智津夫被告が作ったのは、単なる宗教団体ではありませんでした。それは破壊的カルトという犯罪組織でした。そして、構成員がグル「麻原彰晃」を信じていく過程は、各人の信教選択の自由と人生選択の自由を奪うマインド・コントロールであり洗脳でした。すなわち、オウム真理教における宗教的確信は、自然にできてきたのではなく、松本智津夫被告が作ったマインド・コントロールのシステムと、薬物まで使った洗脳の技術によるものです。その重大性は、まだまだ社会にも、裁判所にも、知られていないと思います。

 オウム信者を被告とする裁判、勿論この教祖松本智津夫の裁判にあっても、マインド・コントロールと洗脳の実態を明らかにし、最新の社会心理学の知見をえたうえで評価をしなければ、刑事裁判としてまったく不十分です。なぜなら、これが明らかにならなければ、どうして信者は唯々諾々と教祖松本智津夫の指示に従ったか、どうして教祖は絶対的な存在としてどんな指示でもでき、極悪非道の行為をさせることができたのか、そのメカニズムが分らず、責任すなわち非難可能性の度合いにおいて、教祖である「麻原彰晃」こと松本智津夫被告と、他の被告人とに、隔絶した責任があることが理解できないからです。

 それを理解するならば、地下鉄サリンで教祖松本智津夫被告の指示なくして実行できる筈がなく、弁護団が主張したいだろう「弟子が暴走した」など荒唐無稽であること、教祖の地下鉄サリン実行犯らに対する実行後の特別のマントラがいかに重要なものなのか、そしてどうして無造作に大量無差別殺人まで出来たのかが、分る筈です。

 少なくとも、好意性の原理、返報性の原理、同調性の原理、希少性の原理、権威の原理、段階の原理、一貫性の原理、そして恐怖説得、認知的不協和の理論などを理解し、これらを松本智津夫がいかに使ったか、いかに集積させて有機的に使ったかを証拠を掲げつつ研究すべきです。少なくとも、まさに滝本サリンの直前に完成し、大量無差別殺人までさせるに至ったLSDを使ったキリストのイニシエーションの実態を、押収されているだろうその実写ビデオを見るなどして知るべきです。詞章の意味につき信者から聞くこと、決意如意足や決意1から5の朗読、ビデオ「戦いか破滅か」「導きと忍辱」「バルドーの導き前編」程度は、最低限見るべきものです。調書や証言だけで真実を知ることができるなどと考えるとすれば、法曹界は傲慢かつ怠惰だったと、後に評価されると思います。

 オウムの信者とくに出家者にとって、「麻原彰晃」こと松本智津夫被告は絶対的な存在でした。おぞましい話ですが、男性出家者が女性出家者の大便を、教祖の指示で何口も食べたのは実際にあったことです。教祖の指示ならば親でも殺すのは当然のことでした。

 私は、95年春から初夏、マスメディアで、残虐な事件まで起こしたのは、出家者の4ないし5%だ、全信者でいえば0・5%だと何度も述べました。それは真実です。しかし、これにつづく言葉を敢えて言いませんでした。当時は現役信者が社会からリンチで殺されることをおそれ、脱会しても社会が受けていれてくれないことを恐れたからです。後に続く言葉とは、「しかし、熱心な信者は、教祖の指示があれば、親をも殺した」です。

 すなわち、殺人までした被告信者でも、その代りの信者は幾らでも居たのです。少しのためらいがあっても、教祖の指示があれば誰でも人も殺したのです。中川被告と端本被告らが、坂本事件当時、末端の出家信者だったことが、好例でしょう。

これに対し、「麻原彰晃」こと松本智津夫被告に代わる人はいませんでした。松本被告は、信者にとって「最終解脱者」であり、神をも超える存在であり、宇宙の創造・維持・破壊を何度も見てきた魂であり、唯一殺人を指令できる人でした。彼の責任は、他の被告人とそれこそ隔絶した重さがあるのです。

 そんな立場の被告人に対しては、今、いかにナサケナイ態度であっても、死刑以外の処罰など考えられないのです。

A 第二に、たしかに死刑違憲論も当面の停止論もありますが、しかし、私は、死刑という制度は永久は永久に存続させるべき、またそうせざるを得ない制度だからです。その中で、この裁判の過程は、私にそんな確信を固めるものであり、被告人を死刑にすべきだと、ますます確信する時間でした。

主任の安田弁護士は、裁判所で死刑違憲判決を期待するのが不可能である現状を前に、95年12月3日、次の通り述べています。「典型的な死刑が予想されるケースでは結局長く裁判を継続していく以外に方法はないのではないか。死刑の確定をより先に延ばすというのが最大の弁護になるのではないか。そういう視点を踏まえて、一審から着々と弁護をする必要があるのではないか」というのです(「オウムに死刑を」にどう応えるかーインパクト出版界)。まったく冗談ではありません。その時期に、かような発言があったのは、明らかにこの裁判を念頭に置いたものです。刑事裁判を愚弄しています。

 刑罰の本質は何よりも応報です。再犯の予防とか教育目的とかは、この応報という刑罰の本質を当然の前提にした上で、あるものです。だからこそ、法定刑は重大事件こそ重くなっているのです。

死刑の存続について、私が悩むのは2つです。「死刑執行人の苦悩」と、「冤罪事件の存在」です。

 後者は、再審の結果、死刑の確定判決が四件も覆った日本の刑事司法において看過できないことです。しかし、思うに、だからと言って極悪非道の殺人を何件もしていることが確実な事件において、被告人を死刑にするかどうかとは、やはり別の問題です。一緒に論じてもらっては困ります。

死刑執行人の苦悩については、死刑の執行が実は極めて高貴な仕事であること、司法の世界でもっと陽を当てるべきであることを指摘します。すなわち、死刑の宣告と執行は、刑罰権を国民から付託された国家としての、最大の権力の行使であって、国家の任務です。執行をする人には苦悩があります。刑罰権を付与された者として、人間としての苦悩を分かち合う者として、死刑の執行には、これを言い渡した裁判官も、求めた検察官も当然に立ち会うべきだと思います。死刑は、厳粛かつ神聖なものと思います。

 1「国家の存続理由だというならば戦争も同じことだ」とか、2「絶対人を殺してはならない」「絶対人は殺してはならない」という人もいます。

 しかし、1戦争すなわち交戦権と死刑とは次元を異にしたものです。刑罰というものは、実は対立する国家がなくなり只の地域になったとしても、犯罪が発生する以上なくしようがありません。すなわち、刑罰権は国家の成立以前からあったのであり、戦争を存続させている国家が消滅しても残るのです。的を得ていません。

 2「絶対、人を又は人は殺してはならない」というのは、緊急避難の典型であるカルネアデスの舟板の例を出すまでもなく、説得力のないものです。人間はとても素晴らしい存在であると同時に、底しれずおぞましい存在です。人間は、他の自然から、他の生物から、他の人間から、生きるための必要もないものまで収奪し、殺生をします。それをとめたいと言うのは自由です。

しかし、だからといって、極悪非道の行為をした者に対し、例外なく「死刑という殺人をしてはならない」というのは、人間に「神」になることを要求する立場です。失礼な言い方ですが、現世の法理論を超えた宗教論議でしかありません。
宗教論議に対しては「人間はおぞましいものです、殺人などの事件はなくならないし、これに対して究極の刑罰である死刑を求めるーおぞましい気持ちーもなくなりません、死刑は必要です。地獄があろうとなかろうが、最後の審判があろうがなかろうが、現世の責任は現世で究極的にとってもらわなければなりません」と繰り返す外はありません。

 死刑は、諸外国では、残虐な刑罰として、個人の尊厳を守るものでないとして、廃止する潮流だともいいます。しかし、陪審による裁判のとき死刑を法定刑に置いておくままに出来ないなどの背景もあることを別としても、かような潮流が永遠に続くものではないと思います。人間は、先に述べたとおり、素晴らしいと同時に底知れぬおぞましい存在です。死刑を廃止した国も地域も、いつかまた死刑を復活させるでしょう。

 ですから、裁判所におかれては、主任弁護人の言う、死刑を延ばすために「一審から着々と弁護をする」という弁護方針にまどわされることなく、裁判を進め、松本智津夫被告を死刑に処してもらいたいと希望します。

B 第三に、私は、その他のオウム事件の被告人は、いっさい死刑にする必要はなく、またすべきではないと真に思う一方で、松本被告の死刑を求めています。しかし、それは責任の重さに隔絶したものがあるからです。これは、裁判所におかれて、先に述べたマインド・コントロールと洗脳の実態を、真に他人事でないものとして理解するならば、虚心坦懐にその事件発生のメカニズムを見るならば、明らかに彼らの期待可能性の程度が低いのは当然であり、なんら不自然ではないと思います。

岡崎一明被告も、横山真人被告も、豊田亨被告も、広瀬健一被告も、井上嘉浩被告も、中村昇被告も、遠藤誠一被告も、端本悟被告も、早川紀代秀被告も、林泰男被告も、中川智正被告も、土谷正実被告も、新実智光被告も、死刑にできない筈です。あらためて、この場を借りて、どうか彼らを死刑にしないよう、死刑判決が出ている被告信者については控訴審で罰一等を減じられるよう、強く希望することを表明します。

しかし万一、本件の弁護人が、信者である彼らの死刑の執行を遅らせるために、「着々と弁護している」のだとすれば、越権行為です。
松本智津夫被告に対しては、確実に死刑が課せられることを希望します。

質問5証人に対する今回の事件から、約5年と10か月が経過し、かつ被告人の本件起訴から約4年が経過しているが、証人の中で被告人や被告人に対してすべき処罰や、本件に関する見方や被害感情に変化が生じたことはないか。

ありませんでした。被告人の見方についても、時間と裁判の経過においても、その両面で変わりませんでした。

@ まず、被告人につき、ローマ帝国総督に殺されたキリストのような殉教者になる恐れは全くないことが尚一層、明確になりました。

 いまオウム真理教は、着々と崩壊しています。既に一万人を超える信者が脱会し、問題があろうとも戻るしかない、この社会に戻り、社会復帰の過程でもがいています。日々感じていることは、脱会者にとって、犯罪組織に荷担したことの苦渋、自らの責任もあるとはいえ自分の人生観、世界観すべてが逆転したことの苦渋は、見るに忍びないものです。しかし一人又一人と現世で生きるしかない、と決意を固めています。被害者の痛みを和らげるために、坂本がしたかったことを実現するために、信者さんへの対策は続ける外はありません。オウム問題の終わりとは、組織の崩壊だけでなく、「麻原彰晃」を信じる人がゼロになることです。

 「麻原彰晃」なるものは、実はもともと存在していませんでした。今残る信者は、理想型の「麻原彰晃」を観想しようとしています。が、現実の「松本智津夫」がこれを邪魔しています。天井に作った隠れ部屋での逮捕、法廷での不規則発言、弟子だった者に対する威迫、そして弟子に罪をなすり付ける97年4月24日の罪状認否。信者の心の中で、あなたの存在は、着々と光を失っています。

 既に社会においても、あなたの発言など注目する人はまずいません。まあ阿呆な言説を繰り返す一部の知識人ぐらいです。不規則発言を書き取る担当の出家者は一所懸命やってますが、信者に発表さえできず、空しい気持ちでいると思います。信者も、ますます傍聴に来なくなるでしょう。あなたは、破防法の意見聴取の際に、自分がビッグな存在になれたと誤解したようです。公安調査庁は、オウムの「オ」の字も、カルトの「カ」の字も、マインド・コントロールの「マ」の字も知らないのに、あなたに、自由に発言できる機会を与えてくれました。あなたは実に嬉しかったと思いますし、信者も実はワクワクして待っていました。あのお陰でオウム問題の解決はまた伸びてしまいました。

 今、新しい団体規制法が施行され適用されています。組織をつぶす為に真に必要なのは、財産を没収する特別法であり破産特例法の単独立法であり、カウンセリング体制への援助だったのですが。あなたは、オウム真理教を、名誉ある隠れキリシタンと同じに出来るのではないかと期待しているかも知れません。

しかし、それでも、不規則発言もやめることもできなかったあなたの教えを残すのは、もう無理なことです。今後も紆余曲折はありましょうが、オウム真理教は、確実に完全な消滅に至るでしょう。

 そして、オウム真理教もオウム事件も、日本の歴史にも世界の歴史にも残りません。もとより、「真理」として残る筈もありません。せいぜい3つの意味で、エピソードとして残るだけでしょう。

1つは、途方もない極悪非道の行為をし、わけても化学兵器サリンを使った無差別大量殺人をして、テロの限度をなくしたものとしてです。

2つは、これを捜査し事件をとどめるべきだった日本警察の能力低下の事例、その問題点を明らかにした事例としてです。坂本弁護士一家殺人事件における当時の神奈川県警古賀刑事部長の発言と方針の酷さは目に余りました。その彼が未だにエリートコースでいるなど、警察組織の反省のなさを示します。94年11月薬物使用と内部のリンチの事実を指摘し、十分な監視を要請していたのにそれをせず、3月22日の強制捜査を予定しながら指摘していた中川被告、井上被告でさえ尾行体制もとってなかった結果、地下鉄サリン事件が起こされたのです。信じがたいほどの体たらくです。

3つは、強烈な破壊的カルトの一事例としてです。あなたの権力欲と社会への恨みと強烈な破壊願望は、信じがたい程の煩悩でした。その煩悩からオウム真理教を作ったとき、そのいく末は見えていました。その3つの意味で、歴史の中のエピソードになるだけです。
 そして、あなたの死刑も、もちろん歴史の中ではエピソードで終わるだけです。オウム真理教にとってさえ、あなたの死刑は、その頃には特に関心ももたれないし、私には、「殉教」と思う信者もまず居なくさせられると自信があります。

 裁判所におかれては、ためらいなく安心して死刑を判決していいものです。

A 第二に、この間の時間と裁判の経過・状況をみるにつけ、被告人に対する応報感情が弱くなることは全くありませんでした。いや、被告人松本智津夫を弁護せず、刑事訴訟法を弁護するばかりの弁護活動の展開は、松本被告自身に対する応報感情を増すばかりでした。

 すなわち、刑事弁護にあっては、被告人の心を開いてこそ有効な、意味のある弁護ができると思います。まして、本件のような破壊的カルト集団における絶対者「グル」の弁護をしようとするとき、人格障害がある被告人の心を開けるがどうかが、八割方の重要性をもつはずです。

 ある信者の弁護をしてきた方は、毎朝のように接見に行っていました。ある弁護士の方は、マインド・コントロールの実態を知るために専門家を尋ね歩き、私にオウムの資料を求め、研究に研究を重ねました。国選弁護の費用は少ないのに、本当に頭が下がりました。

 松本被告の弁護活動では、人格障害者とどう接すべきか、研究に研究を重ねたのでしょうか。会ってくれなくなっても毎日接見に行ったのでしょうか。会ってくれないとき、房の中ででも接見できるように要望をしているのでしょうか。これをするならば支援するのですが。

 私は、97年9月、熊本県八代に行きました。松本被告の弟さんの、弁護団の人は来たけれど30分もいなかったという言葉が耳に残っています。弁護団副団長は、3月15日は所得税の申告期限だから直前の期日は出られないと法廷や集会で述べていました。冗談じゃありません、恥を知っていただきたい。弁護団団長は、霞ヶ関駅の高橋助役はサリンを片付けた結果亡くなった、しかし日比谷線では片付けずに乗客が亡くなった、それが知られていない、高橋さんは尊いことをした、と集会で言っていました。冗談ではありません。たしかに日比谷線の駅職員はサリンを片付けなかったが故に死にませんでした。しかし乗客が死んだのは、あくまで被告の指示でサリンが撒かれたからです。弁護団にいわれる筋合いはありません。尊かろうと何だろうと死んだ人の命は戻って来ないのです。そして、主任弁護人は、先に述べた通り、「時間をかけて着々と弁護活動をするのが最大の弁護だ」などと言っています。

今後も、弁護団からは、松本被告の精神鑑定を申請するなどありましょうが、罪状認否やその不規則発言の状況からしても、精神異常に陥っていないのは明らかですから、弁護団の方策に乗らないよう強く希望します。

 これまでの弁護の主たる活動は、被害者の心の傷に、塩を撫でつけるばかりです。私の処罰感情は、いよいよ熾烈になってきます。ますます、被告人に対しては死刑判決以外にありようがないと思います。

質問6証人は、最初に被告人に死刑にするについては、2つのことがあると証言したが、その内容と、その理由があれば、証言してください。

私は、松本智津夫被告につき、強く死刑を望みます。
そして、第1に死刑判決が確定したとき、刑事訴訟法475条に定める通り6か月と5日以内に執行するよう強く希望します。
 第2に、死刑執行においては、刑事訴訟法477条2項の許可により、私を立ち会わせて下さることを強く望みます。私は、被害者として、相当に縁があった者として、一緒に生きた者として、死刑執行に立ち会うことを強く希望します。

あなたの実家の近くには田んぼに水を引く小川があり、少し離れて球磨川があります。家を出てすぐ右側には、あなたが少ししか通わせてもらえなかったと聞く「金剛小学校」があります。そして熊本市内には寄宿制の盲学校。球磨川の川岸で、いろいろ考えてみました、感じようとしてみました。

 目が見えているのに盲学校に行かされた。生活が苦しかった。能力があるのに認めてもらえなかった。進学のこと。次第に見えなくなる目の不安。所詮、その悔しさは私に理解できるものではなく、その辛さは私が共感しきれるものでもないだろうと思います。でも、それでも、あなたが、権力欲と社会への恨みを募らせ、現世を「幻のもの」と思いたくなり、それを徹底して破壊したくなっただろうことは、想像できました。

 「現世は幻である、したがって最終解脱者である自分の指示があれば、目的のためには手段を選ばず、人もためらいなく殺せ」がオウムの教義でした。それは、あなたのはぐくんできた思想そのものでした。仏教の重大な教えを説示した「旋火輪の教え」と明白に矛盾するものでした。「現世は幻である、それは丁度縄に火をつけてグルグルと回したようなものである、しかしそこに手を入れれば火傷をする」という教えでした。

 あなたは、火のついた縄に手を入れてしまいました。あなたは、オウム事件の主犯として、命をもってけじめをつけるべき唯一の人間として、死刑にならなければなりません。「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」。
だからこそ、火のついた縄に手を入れたあなたには、刑罰権の行使により死んでもらわなければなりません。そして、あなたの行く末を見守る人が死なない内に、法の定める通り、確定から6か月と5日以内に死んでもらわなければなりません。

 いま、あなたに贈りたいのは、中島みゆきの「誕生」という唄です。私は、被害者として、相当に縁があった者として、あなたと一緒に生きた人間として、湖面に写る虚像のような輪廻の大海をあなたと一緒に、煩悩にさいなまれつつ浮沈する生き物として、あなたの死刑執行に立ち会いたいと思います。嘆きながら、悲しみながら、あなたの死刑執行に立ち会いたいと思います。

以上述べた経緯と理由により、松本智津夫被告に死刑を、確定から6か月と5日以内の死刑を、そして死刑執行への立会いを求めます。
どうか(裁判所あて)お願いします。(検察官あて)お願いします。              以上


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