元 信 者 の 手 記 87〜99

 

   99  手記  救済思想の危険性- 麻原氏の『バガヴァッド・ギーター』解釈2005.12.10-124号から

 

インドには『バガヴァッド・ギーター』というヒンドゥー教の有名な聖典があります。麻原氏はこの聖典についてはほとんど説法で語ってないので、知らない方もいるかもしれません。

 

ヒンドゥー教徒にとってのバイブルともいわれる『バガヴァッド・ギーター』は、『マハーバーラタ』という王位継承に絡む大戦争を題材にした長編物語の一節に組み込まれていますが、もともとはヴィシュヌ教のバーガヴァタ派の人たちの教典で、のちに『マハーバーラタ』に組み込まれました。タイトルの意味は、「バガヴァッド」とは神のことで、これと「ギーター」で「神の歌」という意味です。

 

内容は、王位継承に絡む親族間の戦争の場で戦車(当時の戦車は馬車みたいなやつです)に乗っていたアルジュナが、敵陣にはよく知っている親族の人たちがいるのが見えるし、また殺生すると地獄に落ちるのではないかと戦う意欲をなくし、戦うことをためらっていると、御者のクリシュナ(実はヴィシュヌ神)がアドバイスをして説得し、戦う気にさせるというストーリーになっている。 クリシュナはアドバイスを通して、解脱にいたる3つのヨーガを説いている。それはジュニャーナ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、バクティー・ヨーガの3つです。

 

このような内容から『バガヴァッド・ギーター』は殺生を肯定しているんではないかと言われていました。国学院大学文学部教授の宮元啓一氏は『インド死者の書』すずき出版という著書の中で 『バガヴァッド・ギーター』はテロリストのバイブルともなりえると言っている。

 

苦悩からの解放のために 自分の努力で得るものだとする自力主義と絶対者的存在の神によって救われる他力主義とあるが、自力主義というのは自己責任思想であるとする。自己責任思想では、業の思想、因果応報、自業自得を原則とし、自分のなした行為は自分で責任を負わなければいけないとする考えをする。他力主義を救済思想と呼び、救済思想では因果応報、自業自得の原則は通用せず、たとえ悪業を積んでいたとしても神によって救われるとする考え方で、これは一見すばらしいものに見えるが、テロなどの危険思想と結びつく可能性があると指摘している。

 

宮元氏は著書の中で『バガヴァッド・ギーター』における救済思想について分析している。

『バガヴァッド・ギーター』に出てくる3種のヨーガが救済思想であるという

「『バガヴァッド・ギーター』は、3種のヨーガ(専心、修練)を説く。それは、知識(ジュニャーナ)のヨーガと、行為(カルマ)のヨーガと、信愛(バクティ)のヨーガとである。人は、そのどのヨーガによっても、最高神の無限の恩寵によって、生天あるいは解脱が保証される、つまり救済されるというのである。」(『インド死者の書』p188)

行為のヨーガは因果応報、自業自得の原則を吹き飛ばし、自己責任思想を崩壊させているという。

「行為のヨーガとは、最高神の保証のもと、純粋に行為(業)に専心することによって行為〈業〉を超越することである。ここには、最高神の恩寵は、因果応報、自業自得の原則など吹き飛ばすものだということがはっきりと示されている。自己の行為は自分に帰ってきて責任を負わなければならないという自己責任思想は、ここでは崩壊している。」(同p188)

 

行為のヨーガによって最高神の恩寵を受けることができ、解脱できるという。

「行為のヨーガを完遂するものは、最高神の恩寵により、解脱できるというわけである。みずからの本務というのは、自己の社会的義務(ダルマ)のことである。万民が自己のダルマに忠実であれば、この世は正義と真実の世であり、社会秩序は安定する。当然のことながら、これは最高神の大いに喜ぶところである。その本務を、結果を顧みることなく、一切を最高神に委ねて完遂すれば救われるという考えは、近現代のインドの活動家たちの、かぎりない精神的拠りどころとなった。インド独立の父、マハートマー・ガーンディーも、『バガヴァッド・ギーター』の行為のヨーガを賞賛してやまなかった。」(同p190)

行為のヨーガの考え方はテロリストの心情を正当化する考えにつながるという。

「しかし、行為のヨーガは、主観的なテロリストの心情を正当化する考えであることは、注意しておくべきである。客観的状況を顧みず、結果に責任を負わず、テロこそがおのれの本務だと主観的に強く、ただしきわめて「誠実」に思いこむというのが、テロリストにほぼ共通する心情である。何しろ彼らは、ヒンドゥー教の最高神であれ、イスラームの神であれ、天であれ、そうすることによって救済してくれると確信しているのであるから、どうしようもない。」  (同p190)

 

行為のヨーガは危険思想の温床となりかねないと言う

「行為のヨーガは、動機主義だといえる。動機さえ純粋であれば、どんな結果をもたらそうと許されるからである。しかし、これでは、行為のヨーガは、とんでもない危険思想の温床となりかねない。「救済」というのは美しいことばであるが、この世で、個々人は、結果にも責任をもってもらわなければ困るのである。救済思想の危険性は、ここのところにあり、むやみに賞賛してよいというものではない。宗教的救済思想は、人びと(学者も含む)によってしばしば積極的に評価される傾向にあるが、問題が多すぎる。自業自得の自己責任思想という、あまり人気はないが、きわめて優れた倫理思想を、救済思想は破壊し、かならずどこかで人びとに無責任思想を植え付ける役割をはたすことに注意すべきである。」(同p191)

『バガヴァッド・ギーター』には、信愛(バクティ)のヨーガも説かれている。『バガヴァッド・ギーター』は、知識のヨーガも行為のヨーガもかなわない人でも、信愛のヨーガなら誰でもでき、そして、信愛のヨーガだけでも、最高神の絶大な寵愛によって救済されると説く。

 

信愛のヨーガも自己責任思想を否定した考え方だという

「信愛のヨーガを行えば、業の束縛(因果応報、自業自得)から解放され、解脱をも得られるのである。しかも、どんな極悪人でも救われるというわけで、わが国の法然や親鸞の教えを聞く思いをさせられる。しかし、やはりここで注意しておかなければならないのは、信愛のヨーガによって最高神の絶対的救済にあずかるという考えは、自己責任思想をまったく否定した考えだということである。自己責任思想を否定すれば、やはり、かならずどこかで無責任思想が顔をだす。親鸞が、一部の信者たちの造悪論(絶対に救済されるなら、悪いことでも何でもやってかまわないとする考え)に悩まされたのも、絶対救済思想からくる結果であった。」(同p194)

 

信愛のヨーガの説く最高神の絶対救済思想が危険思想の温床になるという

「 絶対救済思想はすばらしいなどと、無邪気に喜んでいるわけにはいかない。それは、じつに簡単に、危険思想へと陥るからである。人を殺しても、神さまにすがれば罪は帳消しというのは、安易にすぎる。過剰な安易さは、過激な危険思想の温床となることを、われわれは深く認識しておかなければならない。」(同p194)

宮元氏は『バガヴァッド・ギーター』は、ヒンドゥー教のバイブルだといわれるが、テロリストや無責任者のバイブルだともいえると述べている(同p195)

 

以上のような説明は地下鉄サリン事件を連想させる。サリンを撒いた実行犯のそのときの気持ちはまさにそのようであったのではないかと、彼らにとって麻原氏がクリシュナだったのでしょう。宮元氏が心配するように麻原氏もバガヴァッド・ギーターをそういう風に解釈して信者に話しています。その部分の説法を引用します。

「では、タントラ・ヴァジラヤーナにおいてはどう考えるのかと。タントラ・ヴァジラヤーナにおいてはアクショーブヤの法則というものが存在する。アクショーブヤの法則とは何かというと、その生命体にとってどの時期に死ぬのが一番輪廻にとってプラスになるのかという実践である。つまり、例えば毎日悪業を積んでいる魂がいるとしよう。この魂は、十年生きることによって地獄で十億年生きなきゃなんない。とするならば、例えば一年、二年、三年と長くなればなるほど、その次の生の苦しみは大きいと。したがって、早く命を絶つべきであるという教えである。つまり、不殺生の戒と、このアクショーブヤの戒律というものは真っ向から対立することになる。しかし、カルマの法則から見るならば、両方とも正しいということができる。ただ、見ている点が違うんだと。 (略)  したがって、もう一度いうならば、ヒナヤーナ(小乗)は個人の立場に立っていると。それからマハーヤーナ(大乗)は、個人とそれから周りの人を救済する立場に立っていると。タントラ・ヴァジラヤーナは、この宇宙の秩序、そしてカルマの法則を維持する、そういう状況に立っている。つまり、宇宙の秩序を維持する立場、救済者の立場、救世主の立場に立っている法則であると理解してほしい。いいね。 (略)

質問者A)先程の後半に、先生が述べられた話の中で、『バガヴァッド・ギーター』において、クリシュナがアリジュナに自分の兄弟をね、殺せと命じたの

は、ここでいうアクショーブヤの法則、

(尊師)ちょっと聞きづらいんで、もう一度、『バガヴァッド・ギーター』において?

(質問者A)クリシュナがアリジュナに、自分の兄弟をね、殺せというふうに命じる場面があるんですけども、それは戦争の、それは相手がですね、

(尊師)自分の兄弟、

(質問者A)つまり戦争で、戦争する相手がですね、自分の兄弟だとか、そういうものであっても、それはクリシュナがそこで殺せと言えばね、あの、−−そういう話が出てくると思うんですけど、それは先生の今日のお話の中でアクショーブヤの法則、

(尊師)そのとおりです。

(質問者A)はい、わかりました。

(尊師)で、これについては説明を少しつけ加えて、させたいと思いますが、クリシュナはもともと、タントラヴァジラヤーナにおいても、あるいはヒンドゥーの教えにおいても、ヴィシュヌ神の化身、そしてサキャ神賢(釈迦牟尼)の化身と呼ばれています。で、これは何を意味しているのかというと、クリシュナの実践するところは救世主ですから、タントラ・ヴァジラヤーナであったことを意味しているのです。」ホームページ『Aum Text Archive』より

 

宮元啓一氏は『インド死者の書』の終わりに次のように書いています

「社会的弱者の救済は必要であろうが、救済思想に凝り固まると、とんでもないことになりかねない。自己責任思想を中核にすえ、救済という課題を付帯的なものとして扱う智慧が、われわれには要求されているのではなかろうか。これは、オウム真理教のような救済思想の鬼子(鬼子であってもれっきとした子供)をけっしてださないようにするためにも必要なことである。」 (同 p203)

参考文献 

−宮元啓一『インド死者の書』すずき出版

−上村勝彦『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫

上村勝彦『バガヴァッド・ギーターの世界』NHKライブラリー                                     元 サ マ ナ

 

   98  手記  最近読んだ本―『信仰が人を殺すとき』2006.3.11

ジョン・クラカワー著、佐宗鈴夫訳

『信仰が人を殺すとき』 河出書房新書 2005年 2500円 っていう本があるんです。

 

モルモン教徒がおこした殺人事件を題材にした内容の本です。

モルモン教はアメリカではかなりたくさんの信者がいて、分派もたくさんあるそうです。もともと教義で一夫多妻を説いていて、10代前半の少女なんかも結婚させられたりしてアメリカで問題になり、モルモン教も今は一夫多妻を禁止したそうです。

 

たくさんある分派の中で原理主義のグループなんかは、一夫多妻はモルモン教の大切な教えであるとして そういうのを捨てたグループを堕落していると批判して一夫多妻を実践したり、いろいろ問題を起こしているそうです。この本を読むとモルモン教がこれまでいかに反社会的なことしてきたのかわかります。

 

モルモン教はキリスト教なのでオウムとは教義もぜんぜん違いますが、信仰心が殺人をおかすという意味でオウムの問題と通じるものがあるかなと思うんです。あとモルモン教がアメリカ社会で非難され、大切な一夫多妻の教義を捨て、社会に受け入れられるようにして発展しているということと、分派の中の原理主義のグループが一夫多妻は教祖の説いた大切な教えであるとして復活させ、いろいろ問題をおこし社会と軋轢を生じさせていることも、今のアーレフのM派、A派の対立を連想させて面白いなと思いました。

 

林郁夫氏は麻原氏のことを自己愛的人格障害だと言っていますが、この本でも事件をおこしたモルモン教徒の信者はそれだったとして解説しています。この本は450ページくらいあるかなり分厚い本で、本の途中、読むのが退屈に感じる部分もありましたが、最後まで読むと結構面白かったです。

ちなみに昔アイドルだった斉藤由貴はモルモン教徒です。あと昔、「笑っていいとも」などに出ていた外人タレントのケント・デリカットって知ってますか

?大きなレンズのクロブチメガネかけていた人、この人もモルモン教徒で日本には布教のため来ていたそうです。

元 サ マ ナ

●97  手記  サ リ ン の 被 害 者 の 不 安   2005.12.10-124号から

 最近、アスベストのことが問題になっています。

 

私はアスベストが吹き付けられ、むき出しの状態だった、第6、第10サティアンなどで生活していたので、不安を感じ、最近、病院に検査をしに行きました。結果は、今のところは問題なさそうということでした。でも病院に行く前はすごく自分の健康について不安を感じました。

そのことがきっかけでサリン事件の被害者の気持ちになることがすこしできました。新聞などで、サリンの被害にあった人が今でも、「目が疲れやすい」「目がかすんで見えにくい」「体が疲れやすい」「体がだるい」などの症状を訴える人が多いと書いてある記事を読んだりしましたが、しょせん他人ごとで軽く受け流していました。

でも自分の健康のことで不安になったとき、その人たちの気持ちになることができました。オウムでは「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」と唱えさせていましたが、頭だけの理解でぜんぜん実践できてないもんだなと思いました。

 

アーレフの現役の人たちなんかは、たぶん被害にあった人たちの情報が入ってなくて、被害の状況を知らないのではないでしょうか。

自分たちの所属している団体の関係した事件で被害にあっている人たちの苦しみすら感じずにいる状況なのではないのでしょうか?

元 サ マ ナ

●96  手記  お 盆 と 逆 さ づ り 修 行  2005.12.10-124号から

「お盆」というのは正式には「孟蘭盆会(うらぼんえ)」というそうで、これはサンスクリット語の「ウラバンナ」を似たような音の漢字を当てて音写したもので、「ウラバンナ」の意味は「逆さづりにされたような苦しみ」なんだそうです。

 

オウムでは一時期、破戒カルマ破壊修行という戒を破ったサマナを集めた集中修行で、その中でも特に問題のある一部のサマナが逆さづり修行をやらされていました。私はやったことはないですけど、やらされている人は見たことがあります。

アーサナでビバリータカラニー(逆転のポーズ)とかやるんだから、そんなのたいしたことなさそうに思えますが、やらされている人たちは叫んだりもがいたりしてかなり苦しそうでした。なんでも足首を縛っているヒモが食い込んで足を引きちぎられるような痛みを感じるらしいです。やらされていたある人は、その痛みがあまりに激しいので、その時監督してたガフヴァ(端元悟)さんに「ヒザ蹴りして気を失わせてくれ!」と言っていたくらいです。

普通に生活していたら、逆さづりされている人なんて現代の日本ではなかなか見れるものではありませんよね。ほんとうにオウムの空間って特殊な空間だったんだなあと今になって思います。あの逆さづり修行って「ウラバンナ」って名づけてもいいんじゃないかな。

 

お盆というのは8月13日から16日までの間、先祖の霊をお迎えして供養する期間を普通は指しますが、これからお盆って言葉聞いたら、あの逆さづり修行で苦しんでる様子を連想するのが本来の意味に近いんではないでしょうか。                                元 サ マ ナ

 

●95  手記  ザ イ ン と オ ウ ム  2005.12.10−122号から

 テレビで 最近話題になっているカルト集団「ザイン」のことをやっているのを見ました。

ザインのフェロモン大作戦というイベントの様子を放送していました。その番組を見る限りではおバカ集団という印象を受けました。代表がナポレオン風の格好をしているなどメンバーがコスプレの格好をしていました。伯緑姫という代表の美人な妻も出てきて、その人はその団体の初期の頃からのメンバーだった人だそうで、後に代表の伯魔壬旭(ザイン代表)の妻になったそうです。メンバーが彼女の前に皆ひれ伏して「アマテラス クリテラス 卑弥呼大女王!」と叫んでいました。

 

これを見たとき、ザインの石井久子だと思いました。オウムの場合はインド仏教、チベット仏教の世界観を背景にしていて、いかにも本格的っていう印象を受けますが、おバカ集団に見えるザインとはベースにしている世界観が違うだけで、伯緑姫と石井久子を見たときにずいぶん共通点があるなと感じました。石井氏もオウム初期の頃からのメンバーで、妻同然の立場にあったし、「ケイマ正大師」と呼ばれて、信者から崇拝されていました。

 

カルト集団でも他の団体はいかがわしいと感じても、オウムは別と見てしまいがちですが、こんな風に見れば、おバカ集団に見えるザインと似たようなところもあるんだなと思えて、「オウムは特別」から他のカルトと同じカテゴリーで見れる視点を得られたような気がします。

そうすることで、オウムのことをより客観的に見ることができて、何が問題だったのか考え、分析できる視点をすこし得られるのではないかと思います。

元 サ マ ナ

●94−手記 -今だから書けること  2005.6.18−116号より

 1994年7月〜10月にかけて私は独房やコンテナに監禁され、10月下旬に5回目の脱走(下向)をしました。滝本弁護士や上九一色村の人に助けられ、オウムが沢山の嘘をついていたことや危険な集団であることが認識できました。私が知っていることを忘れないうちに記録しておこうと思い、書き始めました。

私が出家している中で、見たこと・聞いたこと・体験したことを図も入れながら書き進めると、A4用紙に27枚となりました。当時、マスコミからの取材依頼が沢山ありました。マスコミが真実を報じても、法の裁きが無い限りオウムは存続すると考えました。

 

私はこの記録のコピーを警察に渡し、私の知っている全てを警察に話しました。警察は私から調書や上申書を沢山取り、立件に向けて内密に事が進んでいきました。私が拉致されたところを見て、警察に通報してくれた人(オウムと無関係の人)が存在していたので、素人の私はすぐにでも事件として成立するのかと思いました。

 

1月になってもまだ、2月もまだ・・・となかなか日の目をみず、結局、警察が私の件で新実被告を逮捕したのは地下鉄サリン事件の後でした。その間、お世話になった上九一色村の人からオウムをつぶすためにマスコミに協力して欲しいと頼まれたこともありました。何度も話したくなったけど、心の中で「あと少しでわかるから、もう少しだから」とつぶやきながら待ちました。今更だけど、もっと早く警察に強制捜査に入って欲しかった。地下鉄サリン事件が起こらなかったのでは・・と思ってしまいます。

 

10年前に書いた記録が今も私の手元にあります。これを元に当時、話せなかったことをこれから書いていきます。

私はAHI(治療省)でワークをしていたので、色々なイニシエーションに携わりました。1994年6〜7月頃、キリストのイニシエーションがありました。

治療省の医師や看護師が2交代制でグループを作り、ワークをしていました。イニシエーションの流れとしては、第2サティアンの3階で信者は教祖(松本智津夫被告)から黄色の液体をもらって飲みます。

       ↓

その後、2階のシールドルーム(2畳位の広さで、壁・天井はステンレスのようなもので覆われ、床には畳が敷いてある)に入ってもらいます。

       ↓

コンクリートの床の上に30〜40室のシールドルームが設置されていました。お香を焚き、教祖のマントラを流していました。

       ↓

治療省のスタッフにはクリシュナナンダ師(林郁夫被告)から導入用の文章を配られていました。

シールドルームに入った信者に私はその文章を読んで伝えました。

 

『 尊師からの伝言です。よく聞いてください。

これからあなたの望んでいたバルドーや過去世や未来での経験ができます。

声を出したり、暴れたり、吐いたりするとプラーナがもれ、高い世界の

体験ができなくなります。また、身体がブヨブヨになったり、感覚がおか

しくなったりしますが、それはバルドーの状態で、当たり前のことなので

驚いたり、騒いだりしないで自己を見つめて下さい。体位は蓮華座か右側

を下にして横になると良いです。

では瞑想を始めて下さい。 』

 

みんな液体を飲んで、15分以内で潜在意識(?)が出てきます。

ある人は自分で裸になってしまったり、トイレットペーパーや紙オムツをビリビリと意味もなくやぶいたり、大声で怖いと叫んだり、暴れたり、扉を開けて飛び出て来たり、私たちスタッフに襲いかかったり・・と行動は様々でした。

 

6〜7時間くらいは言動が激しく、危険行動をする人を男性スタッフが紐で縛ったりしていました。12時間位すると大体の人は静かになりました。

でも、中には具合が悪くなる人がいました。夏だったので室温が高くなりやすい(2箇所にクーラーがありましたが、シールドルーム内まで冷気が届かない)こと、暴れるため発汗が多くなりやすい、更に黄色い液体を飲むと発汗が増えるため、体温が37〜38℃の人が2〜3時間後には40℃を越えてしまい、意識不明、呼吸停止に陥る人が何人かいました。

 

私は一緒にワークしていた看護師から2人が死亡したことを聞きました。それ以上の死者を出さないために、治療省のスタッフは具合が悪そうな人の体温を測り、38℃以上になったら全身にエタノールをかけ、扇風機で風をあて、体温を下げると同時に、点滴をしていました。更に、いつでも使えるように2台の人工呼吸器を用意し、見えないように白い布を掛けておきました。

 

シールドルームで24時間を過ごした後、浴室へ移動となります。サマナは47℃、在家信者は46℃の湯を浴槽に貯め、15分間つかり、45分間休憩を3回繰り返します。治療省の医師・看護師が管理していました。

まず、大きな鍋を火にかけながらにサットヴァジュースを作ります(お湯2リットルにサットヴァレモン1袋の割合)。その隣のコンロで、ラーメンスープ(お湯500mlにラーメンスープの液25ml)を作ります。更に、その隣のコンロで、お湯を沸かしました。

これらの準備ができ、浴槽に水温計で上記の温度の湯を入れ、体温や脈拍に異常がない事を確認したらスタートです。

 

肩まで湯につかり、3分後にサットヴァジュース250mlを飲んでもらい、更にその3分後、また3分後・・15分間で250mlを計5回飲んでもらいます。終了後、ラーメンスープ500mlを飲んでもらい、これが1セットで、1人につき3回行います。

この温熱の途中で、利胆剤、利尿剤、カルシウム剤、ビタミン剤、下剤などを飲んでもらいました。一般向けには、温熱はカルマを落とすためと言われていましたが、キリストのイニシエーションでの温熱は、黄色の液体が身体の中に残らないためでした。この液体は成分が胆汁に含まれるので、利胆剤を飲ませ、胆汁の排泄を促し、下剤で便を出すことで成分が排泄されるのです。(胆汁は便に含まれているから)。そして、水分を多量に飲ませることで脱水予防と成分を尿で出させる・・・とクリシュナナンダ師が言っていました。 

      2005.5.     元サマナ  ペンネーム 海

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●93−手 記  ゲーム-2005.9.3−119号から

最近 よくやっているゲームがあります。 パソコンでインターネットにつなげて遊ぶゲームで「TANTRA(タントラ)」というやつです。MMORPG(多人数参加型オンラインロールプレイングゲーム)型のオンラインゲームでゲーム上の仮想世界でそこの住民となり他の多くのプレイヤーとコミュニケーションをとりながら協力してモンスターを倒していくものです。

 

このジャンルのゲームはいろいろな種類のものが出ていて、それぞれ世界観が設定されています。中世ヨーロッパ風のファンタジーの世界観のもの、日本の戦国時代のものなどいろいろあります。

TANTRA」の世界観はヒンドゥー神話をベースにしています。プレイヤーはシヴァ神、ヴィシュヌ神、ブラフマ神のいづれかを主神にします。私はもちろんシヴァ神にしています。まだオウムの影響からぬけきれてないからかも。他にもゲームの中に出てくる用語で「カーリー」「ドゥルガー」「パールバティー」「ソーマ」「チャクラ」「プラーナ」「クンダリニー」「カルマ」「シャンバラ」などの用語が出てきます。モンスターのことは「マーラ」と呼びます。マーラの中には座法を組んで空中浮揚しているヨーガ行者の姿をしたやつも出てきます。自分の分身となるキャラクターには能力、強さのレベルがあってオウムのステージみたいなカースト制度もあります。武器は剣や弓などを使いますが、マントラを使ってマーラを倒すタイプのキャラクターもいます。

 

私の使っているゲーム上のキャラクターには、サマナにつけられていたホーリーネームでかっこいいなあって思っていた名前をつけています。オリエンタルな雰囲気のこのゲームの中ではこの手の名前ってすごくマッチするので。

このゲームのイメージガールは森下千里さんがやっています。ゲームのテーマソングはゴダイゴの「ガンダーラ」です。昔、堺正章が孫悟空やって、夏目雅子が三蔵法師をやっていた西遊記のドラマのエンディングテーマ曲だったやつです。

 

最近、こういうゲームにハマってしまうネット依存症が問題になっていますが、やっぱりついつい熱中してしまうところありますね。

前、NHKで著書「バカの壁」で有名な解剖学者 養老孟司氏の特集番組を放送してたんですが、養老氏はPCゲームが好きで自宅でMMORPGのゲームをしているシーンが映ってました。時間のあるときやっているんだと話してましたね。ちなみにこの番組の中で学生からオウムで水中サマディやるから立ち会ってくれと言われたなんていう話をしていた部分もありました。おそらくサルヴァニーヴァラナヴィシュカンビンさんのことでしょう。

 

このゲームは無料で遊べますが、パソコンが3Dゲームができるくらいのある程度以上の性能のあるやつでないとできないです。そういうパソコンを持っている方はためしにやってみるのもいいんじゃないですか。

元 サ マ ナ

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●92−手記  第6でアスベスト-2005.9.3−118号より

最近のアスベスト関係のニュースを見ていて、思い出したんですが。

第6サティアンのむき出しになった鉄骨や壁にアスベストが使われてました。(たぶん)

鉄骨や壁に使われてるふわふわした物を見て

「あ〜、同じようなのを小さい頃に見たな・・」と思っていました。

AHIの立田医師がいつも防塵マスクをしていたので理由を聞いたら、

「アスベストが使われてるからね・・。体への害が強いから」と言ってた。

その時は、アスベストなのか・・。そんなに害があるのかな・・と思ったんです。

 

あんなに閉ざされた空間で1日中アスベスト・・私は第6にいた期間は短いけど長くいたサマナは大丈夫なのでしょうか・・

30年後くらい・・特に第6に長くいた子どもたちはどうなるんでしょうか。

30代、女性、元サマナ

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●91−手 記   富士宮やきそば-2005.9.3

デパートに行ったら静岡フェアという静岡の物産展をやっていました。そこで「富士宮やきそば」というのを売っていました。

これは一般的なやきそばと違ってコシのある麺の触感と独特の味付けが特徴の富士宮の名物なんだそうです。富士宮やきそばを売る店が富士宮駅周辺に約150件もあるそうなんです。

たまに富士宮でこっそり外食していたこともあったんですが、当時この焼きそばのことはまったく知らず、食べたことはありませんでした。こんな名物があることを知っていたらぜったい食べていたんですけどね。

デパートで売っているのを食べてみておいしかったので、オウム的見方からすると味覚の執着で不純なんですが もっと早く当時食べておけばよかったなってちょっと思ってしまいました。

本場の店で食べたら雰囲気とかも含めて、デパートで売っているのをただ食べるのとはまた違ったものがあるだろうし。元サマナで富士宮を懐かしんで久しぶりに行っている人も何人かいるようですが、富士宮に行く機会がありましたら食べてみるのもいいんじゃないですか?

20代男性元サマナ

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●90−手記  麻原氏はカルマを見切れるか-2005.9.3−117号より

麻原氏はその人のカルマを見切った上でポアなどの決定をしたことになっているが、麻原氏のカルマを見切る力は本当なのだろうか。ちょっと疑問に思っていることがあります。

 

アングリマーラさんは坂本弁護士一家殺害を命じられたメンバーだったわけですが、坂本弁護士事件の後、教団を脱走して、警察にバラすぞと麻原氏を脅してお金を支払わせたそうです。

 

もし麻原氏がアングリマーラさんのカルマを完全に見極めることができて、その後の将来まで見通せる力があったとしたらアングリマーラさんを実行役のメンバーに選んでいたでしょうか? 現役の信者さんはもしかしてこう考えるかもしれません。そういうことすべてをわかった上であえて尊師はアングリマーラさんを実行役に選んだのだと。

 

しかし、当時、坂本事件の発覚は、教団の存亡にかかわるような大変大きな問題となるわけです。わかっていてあえて実行役に選んだのではあまりにもリスクが高すぎます。ほんとうにアングリマーラさんの将来を見通せる力があったのなら当然、彼を実行役からはずしていたと考えられないでしょうか?また、麻原氏にとってアングリマーラさんはまだ信者の少なかった初期の頃からの弟子だったし、本のワークのことや幹部信者という立場上、身近に接する機会も多かったはずなので当然、彼の性格とかもよくわかっていたはずです。そういう人ぁw)フ数ヶ月先のことすら見抜けなかったということになりはしないでしょうか?

 

それで、外部の人やあまり接する機会の少ない末端の信者のその後の人生や生まれ変わった後のことまでをはたして完璧に見極めることができるのかなと感じてしまいます。 もし見極められていない状態で殺人などを行っているにすぎないとしたら、単に都合の悪い人間を宗教的もっともらしい理屈をつけて殺しているにすぎなくなってしまわないだろうか。

 

話は変わりますが坂本弁護士を生かしておいた場合の教団のデメリットと坂本事件を起した場合のデメリットでは、あきらかに生かしておいたほうがデメリットは断然少なかったのではないだろうか。事件を起した意味がまったく理解できません。すべてを見通す力を持っていたと言われる麻原氏ですがそのへんはどうなっているでしょうかね。

                           元 サ マ ナ

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●89−手 記  早川氏の本−2005.9.3−119号より

 早川紀代秀氏の書いた「私にとってオウムとは何だったのか」を読みました。この中にブータンでヒマラヤ山中にある寺院に行った時の話が載っていました。行きはラバと徒歩で登り、帰りはラバは危ないので徒歩だけで山を下りたそうです。

 

帰りの途中、麻原氏が来たときと道が違う、こんな道が悪く、段差の多い道は通った覚えはないと騒ぎだし、早川氏に文句を言ったそうです。麻原氏は目が不自由なので体で覚えているそうなんです。

 

早川氏が道案内をしているブータン人に聞くと、「同じ道だ。道は1本しかない。私は何度も通っている道なのに はじめて通るあなたたちがなぜ文句を言うのか」と言われたそうです。それでも麻原氏は文句を言い続け、村井など取り巻き連中も「そうですね。たしかに違う道ですね。」と調子を合わせていたそうです。

早川氏が「来たときはラバに乗っていたからわからなかったんじゃないんですか?」と言ったら 急におとなしくなったそうです。しかし その後も 麻原氏は「道は2本あったんだ」と言い張っていたそうです。

 

このエピーソードを読んで 村井などの取り巻き連中が、すぐなんでもかんでも麻原氏に調子を合わせておべっか使っているのが こっけいでほんとバカらしいなって感じました。ヴァジラヤーナではグルがたとえ間違ったことを言ったとしても弟子に絶対的な帰依をさせると言っていましたが、たしかに村井たちはそれを実践しているとは思うけど、これではねえ。なんかバカらしすぎる。

 

麻原氏の思い込みや勘違いで言い出したことを村井たち取り巻き連中が調子を合わせて持ち上げ 毒ガスが撒かれているとか 悪業を積んでいるからとか アイツはスパイだからとか言いがかりをつけられて殺されたり迷惑な思いをさせられたりしたらたまったものではないですよね。

地下鉄にサリンを撒くのも 現役信者は「尊師には深いお考えがあったんだ」と思っている人いるかもしれないけど、これもひょっとしたらこんな調子で決めたんだとしたらと思うとちょっと考えさせられますね。

 

元パモーチャナ師の2005年8月1日のブログにこう書いてありました

「まず最も重要なのは、グルを意識することである。完全にグルを意識できれば、選択を誤ることはない。」

元 サ マ ナ

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●88−手記  『 十 年 一 昔 』   天野一人 2005.3.5-109号より

   1995年2月、僕は富士総本部での修行班、1日18時間立位礼拝極限修行を経て、上九サティアンでのワークについていた。やがて地下鉄サリン事件、強制捜査、教祖逮捕と続く嵐のような日々を経て、僕は実家に戻り、脱会した。

 

もうあれから10年...19歳で出家した自分も、29歳。

環境も変わり、あの時の自分はもはや、過去世のようなものかもしれない。ただ、振り返ればたくさんの想いや出来事が今も甦る。その過程は、オウムの脱会者各々が歩み続けた道でもあろう。僕も十代の多感な時期にオウムの洗礼を受けたが、その後のプロセスはさらに長く、今も続いているのかもしれない。

現在はここ1年あまり、地元で福祉の仕事をしている。田舎なので古い家を借りて一人で住み、市内に田んぼを借りている。暖かくなれば、週末は野良仕事だ。自然農法という、

耕さない農法で米を作っている。土に親しむようになったのはここ5年のことだ。オウムではコミューン(共同体)が大地と切り離されていたと、改めて感じる。

ヨーガは特別なことは最近していないが、気が向けば座り、祭壇に向かってお祈りもする。西洋占星術を学んでからは、暦はいつもチェックし、依頼があれば鑑定もしている。

オウムを出てからは、インドに行ったり、グル巡り(?)をしたり、山で居候をしながら自給自足の生活をしたり、寺修行をしたり...真剣に遊ばせてもらった。一昨年、バイクで寺巡りをして帰ってきた時、「自分の場所に帰ってきた」と心の底から感じた。

 

オウムをやめた人は、それぞれ「魂の孤独」を一時感じると思う。社会に適応できず、教団に執着があればなおのことだ。僕もカナリヤの会で本の制作にも関わり、会の仲間とは今でもつきあいがあるが、その後の道はそれぞれだ。たまに元気な姿で会うと嬉しいが、音沙汰もなく、理由あって縁の途切れた人もいる。

脱会しても様々な事情で生活基盤がなければ、生活との戦いの中で社会に適応していかねばならない。心の喪失体験に向き合っていけば、その虚無感にも悩まされる。なまじ修行していればサイキックな霊障や、意味のないプライド、世間とのギャップや疎外感にも向き合わねばならない。下手に修行しない方が楽なこともあるのだ。

 

そして、事件のこと、教団の現実は知れば知るほど辛いのも事実だ。だから普通は事件のことや現役信者のことは忘れていく。10年も経てば、記憶が薄れていくことも自然だ。

だが、オウムをやめても、借り物の信仰が消えても「内なる求道」は続く。

「悟り」とは、「解脱」とは何なのか?

仮に、ヨーガの行法で一瞥を体験しても、そこに作り物の信仰が植え込まれれば人格は成長しない。それが集団、組織ともなれば致命的だ。過去のオウムは、まさにその悪循環の「魔界」だったのではないか。

 

今のオウムはあまりよく知らないが、分派とはいえ、相変わらず修行中の死者や詐欺事件を起こしているのはなにか、いまだに集団のカルマが働いているかのようだ。過激さは以前よりは薄まったとはいえ、安易な洗脳のシステムで共同体を作ることも続いているだろう。世間から隔離された共同体は、それなりの魅力もあるだろうから...

 

修行すれば、必ず悟れるわけではない。社会が必ず正しいわけではない。

人類が本当に進化しているわけでもない。

ただ、宇宙は廻り、万物は流転し、時は流れ、「魂は旅を続ける」。

時として孤独な、時として至福に満ちた旅を。

その中に人として生まれ、生きている今がある。

この地球に、共に生きている日々がある。

それは『輪廻』というのかもしれない。

輪廻という名の、人生という名の、『魂の旅』。

奇しくも「オウム」という古代の言霊が現代の悲劇として起こってしまった。

教団の内外問わず、その縁によって亡くなられた方々、その魂の冥福をお祈りいたします。

20代、元サマナ、男性

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●87−手記−ネット書込みから−2004.12.26   2チャンネルから

「頼むから答えてくれ」と言う質問があったが、下記なのですね、なるほど。 いろいろなことがありますね、どこの誰かわからないけれど、どうぞボチボチとやっていってください。

  輪廻があるかどうかは分からないけれど、現世は現世、たとえかりそめでも、とりあえず大切にしないと。んで、来世には6文銭しかもっていけないのだから、まあボチボチと。

―――さようなら タントラロカ聖準師1:04/12/26 13:53:34 ID:x/qQrD5b

 

 私は自分が東大には入れたのはオウムの修行の効果と信じてきましたが、もう退会します。馬鹿らしくなりました。 勉強会のとき、私が道場に入るなり聖準師がよって来て、スパイが誰かわかった、と前の方に座っていたAをこっそり指差しました。 私は内心、この人何言ってんの、と思いましたが、それ以来、道場や階段でAを観察しました。

 しかしスパイらしき素振りがないばかりかAは非常に熱心に修行していました。そんなAをスパイ扱いする聖準師に疑問を感じると同時に、聞いた話で人を疑う自分が嫌になり、何が何だかわからなくなりました。そしてある日、道場からの帰りに、Aに2ちゃんねるに書き込んだかを直接聞いてしまったのです。

 Aの答えはこうでした。「2ちゃんねるって何ですか?」

 

私は一気に現実に引き戻されました。考えてみればこんな掲示板、知らない人 の方が圧倒的に多く、2ちゃんねるの名前でさえ、興味のない人は知らないのです。 今まで自分の頭の中でいろいろ妄想していただけだったのです。もちろんAがとぼけた可能性もありますが、私は急速に信がさめていくのを体感的に感じました。多分、洗脳が解けたのでしょう。

 道場でスパイ探ししてる人、そもそも何でこんな掲示板見てるのですか? たとえ何が書かれようとも、誰も見てなきゃ話題にすらなりませんけど。

 最近の信徒同士のここでの喧嘩も、掲示板見てなきゃ道場では話題になりようがないですよね。  熱心なふりして書かれた内容を最初に道場内で話した人、あなたが一番のスパイですよ。本当はみんなと誰がスパイかを噂話して遊んでるんでしょ。

 そしてさようなら、タントラロカ聖準師。  あなたの裏表のある態度はよくわかりました。