元 信 者 の 手 記 100〜110

 

● 110  手記  雨 の 日 の 「 お 星 様 」 2006.6.10-131号から

私が下の子を保育園にお迎えに行った時の話です。

いつもは自転車による送り迎えをしていますが、その日は雨でしたから、歩きでのお迎えでした。まだ、日が暮れるのが早い時期でしたので、五時にすでに日が暮れていました。お迎えには電車の操車場の上を陸橋で越えて行くのですが、すぐ近くに、工業高校のグランドがありライトが煌々と照っています。そして陸橋が雨に濡れてライトを反射しています。

すると、娘が突然、

「何かキラキラ光っている。」  と、言い出しました。そして、

「あっ、見えなくなっちゃた。どこへいっちゃったのかなぁ〜。」と、つぶやきます。

そこで、「どうしたの?」と尋ねると、

「あのね、きらきらひかってたの。でも、すぐ消えちゃった。どこにいっちゃったのかなぁ〜?  おかしいなぁ。」

すると、すぐに、

「また、ひかった」  と、地面を指差します。

すると、工業高校のグランドを照らすライトが、陸橋を照らしてキラキラ光っていたのです。

私が、「ほんとだ、きれいだね。」と言うと、

「ねっ、きれいでしょ?」  と、得意顔。

「でも、何で光るんだろう?」と、歩きながらしばらく、考えていると、

「あっ!!そうだ、きっとお空のお星様が、お散歩しているんだよ。だから、お空にお星様がいないんだよ。きっとそうだよ。」「そうだね、きっとそうだよ。」まさか、雨の日はお星様が散歩しているから、空にお星様がないなんて。う〜ん、さすがにびっくり。子供の発想力にはいつもながら、「脱帽」です。

 

109  手記  オウムの子供たちの学力   2006.6.10-132号から

オウムの子供たちって学校教育受けてなくて、勉強遅れていたと言われていますが、結構難しい言葉とか知っていて驚いたことがあります。

あるとき、女の子とちょっとふざけて遊んでいたとき、その子のおなかをちょっと触ったら、その子が「邪淫!邪淫!」と言っていたことがありました。

また、私が子供班の色鉛筆をちょっと借りて使っていたことがあったのですが、私はちゃんと返していたのですが、その頃、色鉛筆が何本かなくなっていたらしく、子供たちは、それが私のせいだと誤解していたようなのです。それである男の子が私に「偸盗マン!」と言っていたことがありましたね。

「邪淫」にしろ「偸盗」にしろ、大人でもなかなか知らない言葉ですよね。オウムの教義だけは子供たちにちゃんと教えていたのかもしれませんね。

元サマナ

 

108  手記  『 今、思うこと 』2006.6.10-132号から

 先日、某大学の心理学関係の講義を受講しました。

講義の中で、10年位前に青物横丁駅で医師が射殺された事件の話が出ました。(統合失調症の犯人が、被害者の手術を受けた際に体内にボビンを埋め込ま

れたと妄想したそうです。体内のボビンからカラカラと糸が出て、身体の中を糸が何重にも絡まり、犯人の心はその妄想に耐えられなくなり、医師を銃で射殺したという事件です。)

講義を受講していた人のほとんどの人は、この事件を覚えていませんでした。私にはあの時、テレビで見た事件だ・・と鮮明に思い浮かびました。オウムのサティアンから最後に逃げ出したあの夜、オウムに捕まったら二度と日の光を見られないと私は必死でした。

泥だらけ、傷だらけになりながら、上九一色村の一軒の家のドアを叩きました。「助けてください!助けてください!」と。その家のドアは開かず、男の人の声で「あっちへ行ってくれ!」と言われました。どうしようかと思いながら、私は暗闇の中、また沢山の木々や草の中を走りました。

すると、足元の地面が急になくなり、空の用水路(?)に落っこちました。絶望的になりながら、斜面を這い上がると目の前に家がありました。その瞬間、犬が吠えながら飛び掛かってきました。あ〜噛まれる!と思い、目をつぶった瞬間に男の人が大声で犬を静止してくれました。

恐る恐る目を開けると、その家のご主人が立っていました。私から事情を聞くと、家に入れてくれました。奥様は泥だらけの私の服を見て、自分の服をくれました。

お腹が空いているだろう・・と暖かいおにぎりを作ってくれました。私はおにぎりを食べながら、ふっとテレビを見ると青物横丁駅で医師が射殺されたというニュースが映し出されていました。

半年ぶりに見た現世の映像でした。

講義を聴きながら、私は沢山の人に助けられ、今こうして普通の生活ができていることに改めて感謝しました。上九一色村の優しい暖かい人たち、命を掛けて私と子どもを守ってくれた滝本弁護士さん、オウムから戻った私を涙を流しながら迎えてくれた家族や友達、沢山の人の顔が思い浮かびました。

今、北朝鮮に拉致された横田めぐみさん達に関するニュースが多く流れています。私は独房やコンテナで3ヶ月過ごしただけで、もう戻れないと気が狂いそうになりました。

横田めぐみさん達は、海の向こうの国で、何十年も帰れずにいます。

日本で普通の生活を送れるようになってほしいと心から思います。

皆があきらめないこと、必ず戻れると信じることが大切だと思います。      以 上               2006.5.3 元サマナ 女性

107  手記               2006.3.11-127号から

 

麻原氏は死刑になることを恐れているのでしょうか?それとも弟子たちのために涅槃に入らないのでしょうか?

麻原氏の裁判の様子は、アーナンダさんが最初証言したとき、麻原氏はアーナンダさんのことを「高いステージに達した成就者だから失礼のないように」みたいなことを言っておだてて自分に不利なことを言わせないようにしていたが、それが通用せず、アーナンダさんがどんどん不利になるようなことを話すので、その後の裁判ではアーナンダさんのことを罵倒したり、脅したりしてました。ずいぶんコロコロ変わって滑稽に思いました。罵倒や脅しは他の弟子のときにも見られました。

また、最初は責任は自分が全部背負いますみたいなカッコいいこと言っていたんですが、その後は、弟子たちに責任をなすりつけるような発言に変わっていきました。それも通用しないとわかると、今度は不規則発言で裁判を妨害し、それも無駄だとわかると廃人をよそおいました。

なぜここまでして死刑をまぬがれようとするのでしょうか?  仏教はもともと死への不安、恐怖を取り除くことを目的としていると思います。死は楽しみの瞬間、死ぬのを楽しみに待つくらいの意識状態になることを目指していると思うんです。病多き苦しみ多き肉体からの離脱を切望するくらいにならないといけないんだと思います。だから自殺する仏教徒が出てきて、問題になったくらいです。

こういう意識状態になっているのであれば、池田小学校の児童8人を殺害した宅間守氏のように高裁への控訴を自分で取り下げ、すぐに死刑執行するよう申し出るはずです。それで宅間氏の場合、死刑確定から1年で執行されました。(宅間氏が仏教的悟りの境地にあったと言っているわけではありません、すぐに死刑になるよう本人が望んだという例としてあげているだけです)

麻原氏の場合、裁判での奇行、拘置所で糞尿垂れ流しの状態までして長く生きようとするのは死刑が怖いからでしょうか、それとも弟子たちのためなのでしょうか?弟子たちのためだとしても、訴訟能力なしと判断されて公判が中止になっても、帰れるわけではないし、ずうっと精神異常を演じなくてはなりません。それでは弟子たちに法を説くこともできないし、指導もできません。

でも生きていれば弟子たちにエネルギーを送ることはできるのでしょうかね?でも裁判の奇行、拘置所での廃人状態で失望した弟子たちもいるのではないでしょうか?今後のアーレフでの布教にも大きなマイナスイメージになっていると思います。

地下鉄サリン事件の実行犯の豊田亨氏は、麻原氏が裁判で地下鉄サリン事件の宗教的意義を話さなかったので失望したと証言してますが、麻原氏が裁判で宗教的意義を説明し、いさぎよく死刑判決を受け入れていたら、信仰を捨てなかった弟子たちもいたのではないでしょうか?となると麻原氏は弟子たちのためではなく、単に死刑を免れたいから悪あがきをしているということになるのでしょうか?                                                   元 サ マ ナ

 

 

  106  手記  『私の嫌いな10の人びと』を読んで  2006.3.11-128号から

 

最近、哲学者の中島義道氏の『私の嫌いな10の人びと』という本を読んだのですが、その中に夜回り先生のことが書かれていました。

夜回り先生こと水谷修氏は元夜間高校の教師で少年の非行や薬物依存問題に取り組み、夜間繁華街をパトロールすることから「夜回り先生」の異名を持っています。テレビでもドラマ化されたり、NHKで特集番組が放送されたのでご存知の方も多いと思います。テレビで水谷氏が深夜、繁華街をたむろしている少年少女たちに声をかけているシーンが出てくるのですが、そこは私の家の近くでよく行く店の前とかだったりしてちょっとうれしくなります。

 中島氏は夜回り先生について非難しているわけではないが、「夜の世界を脱して昼の世界に戻ればそこにはすばらしい人生が待っている、と若者たちを鼓舞していること」に違和感を感じると述べ、次のように書いています。

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「昼の世界に戻っても、「すばらしい人生が待っている」わけではないことをからだ全体で知っているからです。それは、ヤクに溺れ、ヤクを手に入れたいがために、犯罪を繰り返し、強姦に近い扱いを受け・・・・・・という生活より、しっかり学校に行き、自分の好きなことを見つけて・・・・・・という「健全な」生活のほうがさしあたり幸せなことは確かです。でも、私はすぐ、「その次は?」と問いかけてしまう。こうした論理は、そのあとにごく自然に、就職し、結婚し、家庭を築き・・・・・・という限りなく「普通のこと」に接続する論理でもある。しかも、その果ては死なのですから、私は「やはり、それもつまらないんじゃないのかなあ」と呟いてしまうのです。

 私のもとに集まる青年たちは、じつはこの呟きから出発している。昼の世界で生きつづけても結局はつまらないことを知ってしまった者たちに対して、慰める言葉を私はもち合わせていません。言いかえれば、水谷さんは「自分に鞭打って昼の世界に戻り、血が出るほどの努力をして生き抜いても、それでも結局いつか死んでしまうんだ」という叫び声に対して、答えを与えていない。水谷さんにとっては、青年たちがさしあたり昼の世界で元気に生きてくれればいいのであって、それはよくわかるのですが、私はこの問いをごまかしては、何ごとも始まらないと思ってますので、違和感が残るということです。」(p66)

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 これを読んだとき、カナリヤの窓口の滝本太郎氏も同じなのではないかなと思いました。私は見てないですけど、95年の連日のオウム報道の頃、滝本氏が信者に「帰ってらっしゃい」と声をかけているシーンが放映されていたらしいですが、現世に帰れば幸福なのかという疑問を多くの信者は感じたはずです。もともと現世が合わなくてオウムに入った人もいただろうし、またオウムの中では説法で繰り返し、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」と吹き込まれ、人生の無常を徹底的に植え付けられていますから、中島氏が指摘する違和感を十分感じると思います。

だから元信者は、オウムやめた後もラジニーシ教団やテーラヴァーダ協会、チベット仏教関係のところやその他の宗教的なところなど、オウムの代わりになるところを求める傾向が見られるのではないでしょうか?またどこかの団体の所属しなくても、家で一人でひっそりと修行しているケースもあるでしょう。

 

滝本氏を批判するわけではないですが、元信者でまったく宗教的なことを忘れて現世にどっぷり浸かった生活を送れと言われても、そうできない人は少なくないのではないでしょうか?オウムにいた頃、カナリアや滝本氏に対してすごく悪いイメージを持っていました。多くの信者がそう思っていたと思います。オウムやめてからカナリヤになかなか入れなかったのもそのためでした。

しかし、この間、テレビのドキュメンタリーで、暴力団関係者が面倒見てくる身寄りのない施設に入っている知的障害者と養子縁組してアパートの保証人になるなどして引き取り、その知的障害者のもらっている生活保護を奪ってしまう問題をやっていたんです。知的障害者は劣悪な環境で生活していて、暴力や虐待も受けていて、その救助活動をしている弁護士がいるのですが、暴力団から脅されたりしながらも、がんばって活動している様子がテレビでやっていました。それ見たとき、素直にその弁護士にえらいな、がんばってほしいなって思えたのです。でも滝本氏のやっていることもある意味、同じなのではないかと、友人が殺され、命を狙われながらも活動を続けている点で。

 現役信者でも戦っている相手がオウムじゃなくて、他のちょっといかがわしいイメージのあるカルトや新興宗教に置き換えたら、素直にそう思えるのではないでしょうか。青山弁護士だって、龍宮の宴(青山弁護士がオウム入信のきっかけになったアストラル音楽コンサート)に行ってなくて、坂本弁護士の友人だったら、正義感の強い彼のことだから滝本氏と同じ活動をしていたと思います。ですから信者の多くが思っているような滝本氏の人格的に問題あるかのようなイメージってちょっと違うんじゃないのかなって思い始めました。

私がオウムに入っていた頃、親が近くの法律事務所に行ってオウムのことで弁護士に相談したことがあったそうなのですが、その弁護士は身に危険がおよぶのを心配して、依頼を受けるのを断ったそうです。それくらいオウムのことを扱うのは覚悟のいることだったのでしょう。

 さっき述べたようにカナリヤ、滝本氏に悪いイメージを持っていたので、最初カナリヤに行ったときはかなり勇気が要りましたが、滝本氏に会ってみると意外といい人なのでびっくりしました。すごい邪悪なヴァイブレーションを出しているのではないかと思っていたので(笑)。

 現世に帰ってきて、なかなかオウムにいたことを話せる人っていないので、オウムの話ができるセルフヘルプグループ的な集まりとして、気持ちの整理をする場所としてカナリヤを利用していきたいと思っています。

 

参考文献   中島義道 『私の嫌いな10の人びと』 新潮社

105  手記  雑誌『創』のアーチャリーのインタビューを読んで   2006.3.11-127号から

 

 

雑誌『創』2月号にアーチャリーのインタビューが載っていました。以前、週刊誌にカナダへ豪遊旅行したと書かれ、カナダには行ったけど豪遊なんかしてないと、週刊誌の記述は事実でないと裁判で訴え、認められたことがありましたが、インタビューでもアルバイトして貯めたお金でカーリーと2人だけでカナダへ行ったと答えていました。

またアルバイトしても麻原の子供という理由ですぐクビになるとも書いてありました。大学生活については、最初いじめにあうのではないかと心配していたそうなのですが、今の若い子はサリン事件後のオウム報道とかに毒されてなくて偏見がなく、すぐ友達もできたと答えていました。

なんか麻原の子供というだけで子供には何の罪もないのに差別されているかわいそうな子というのをアピールしているような、世間の同情を買うような「かわいそキャラ」を演じているようにも見えます。

しかし、大学の学費はどこから出ているのか?教団からの金ではないのか?そういうことはいっさい触れていませんでした。あと、形式上脱会しただけのような元信者のおつきの人といっしょに生活しているのはどういうことなのでしょうか?

いくら、「かわいそキャラ」を演じても彼女の教団にいた頃の傲慢、横暴な態度を知っている元サマナからみれば笑ってしまいます。聞いた話では、アーチャリーのおつきの人が彼女の髪の毛をひっぱって、ひきずりまわし、髪の毛がぬけてしまったらしいです。想像ですが、アーチャリーの横暴な態度に我慢できなくなってやってしまのではないでしょうか?麻原氏の家族の世話係のサマナは、かなりアーチャリーの横暴な態度に悩まされていたというような話を聞いたことがあるからです。

また反上祐派の黒幕はアーチャリーではないかと推測しています。そうでなければ、反上祐派のウッタマー、アッサージといった正悟師クラスの連中が正大師の上祐氏に対して強気な態度で批判などできないはずだからです。私はアーチャリーの横暴な態度で不愉快な思いをしたことがあるので、彼女が差別、偏見を受けて不利益を受けていることに、いい気味だと感じてしまう部分もあるのですが、まあ、彼女は小さい頃からの環境によって傲慢になってしまったとも言えると思うので、そういう意味ではかわいそうと言えるのかもしれない。

そのへんを直すためにもアルバイトしたり大学に行ったりして世間と接する機会を持つのはいいと思うけど、でもおつきの人と生活するのはなんとかならないものですかね?

元 サ マ ナ

104  手記  富 士 宮 市 立 図 書 館    2006.3.11-129号から

2005年12月にカナリアの有志で富士宮・上九旅行に行ってきました。

私の希望で富士宮市立図書館にも寄ってもらいました。ここの図書館にはすごい愛着があるので行きたかったのです。地方の図書館なので広くて、1989年3月に出来たので当時はまだ新しくてとてもお気に入りの場所でした。2階に視聴覚(AV)コーナーがあるのをご存知でしょうか?ここには映画のレザーディスクがたくさん置いてあって、たまに利用していました。ここで『ビバリーヒルズ・コップ』を見たのを今でも覚えています。この映画のテーマ曲「アクセル・F」が耳にこびりついてしまい、上九に帰ってからもしばらく口ずさんでいたものです。

もちろん、サマナは映画を見るのは戒律違反で禁止でした。私の知り合いのサマナも利用している人がいたのですが、その人が言っていたのですが、彼がそこを利用しているとき、○ルヴェーラ・カッサパさんもここで何か観ていて、目が合ったと話していました。まあ、彼の場合、映画とかを観ていたのではなくて、音楽関係のワークとかのために利用していたのかもしれませんけどね。

○ルヴェーラ・カッサパさんで思い出すのは、私が出家したばかりの頃、急にサマナ全員持ち物検査をすることになって、私の検査は○ルヴェーラ・カッサパさんが担当したのですが、私は家から父親の使っていたハンドバッグを持ってきていたのですが、○ルヴェーラ・カッサパさんがあっちこっち調べていると、タバコにつけて吸うパイプが入っていました。私はタバコを吸わないので父親のものが入っていたのでしょう。一瞬、私もそうですし、○ルヴェーラさんも固まった様子でした。

これは誤解されているな、どう説明すればいいだろうと考えてしまいました。しかし、○ルヴェーラさんはとくにそのことに触れてきませんでした。またバックの別のところから中身のもう入っていない飴の包装紙が2つ出てきました。これも私のものではありません。一瞬あせってしまいました。○ルヴェーラさんはやさしい感じで「こういうのは捨てておくように」と言いました。私は、いろいろ説明しても、見苦しい言い訳をしているとしか思われないだろうなと考え、とくに何も反論せず、黙っていました。ただ心の中で「私のじゃないのに・・・」と思っていました。この頃は出家したばかりで純粋だったのでこんな風に思っていたのでしょう。

○ルヴェーラさんは麻原さんに対しても意見を言うようなちょっとひねくれた存在だったようですので、まだ人間的な温かみのある柔軟なタイプだったので、こういう対応をしてくれたのでしょう。その後、彼とはほとんど接する機会はありませんでした。面白い人らしいので、ちょっと残念でしたね。

そういえば、サマナのお祭りみたいなイベントのとき、○ルヴェーラさんが都はるみの「北の宿から」の冒頭の「あなた 変わりは ないですか〜♪」をもじって「アナハタ変わりはないですか」と言って、みんなを笑わせていたこともありましたね。                           

                                                       元 サ マ ナ

 

103  手記  デーヴァダッタは  本当に極悪人だったのか  2006.3.11-127号から

現在、アーレフでは上祐派と反上祐派とで対立しているようですが、反上祐派は上祐氏のことを仏教教団の分裂を図った極悪人のデーヴァダッタにたとえて非難しているそうです。

しかしデーヴァダッタについてのよく知られた極悪人というイメージは間違いではないかという説もあるようです。デーヴァダッタという人物が本当に仏典に出てくるような悪人だったのか、またそうでなかったとしたらどうして悪役とされなければならなかったのでしょうか? 

 

デーヴァダッタについて本には「さて、かれは仏典において、つねに極悪非道の人物として登場する。気の毒なほど損な役まわりを演じている。」

(「インド仏教文化入門」阿部慈園著 p54)

 どのような話かというと

「マガダ国のアジャータサットゥ王子に取り入り、父王ビンビサーラの殺害を教唆したという伝説。 一人、二人、四人、八人、十六人の男に弓や剣を持たせて、ブッタを殺させようとした伝説。 さかりのついた象をけしかけて、ブッタを死に至らしめようとした話。 さらに、ヤソーダラー妃を襲って辱めようとした話(ただし、妃とは三十歳ほど離れていたからおそらく事実ではないであろう)」

 (同書p54)

 

 これらの話は本当なのだろうか?

 阿部慈園氏はこう言っている。「かれははたして100パーセント悪人だったのであろうか?最近の研究によれば、これらのデーヴァダッタにまつわる伝承は、あまりにも極端で、そのほとんどは後代に作られたものであるという。」 (同書p54)

 また、ひろさちや氏も同じように、「歴史というものは、常に勝者によって書かれるものです。歴史の表面から消え去った敗者は、勝者によって書かれる歴史の中で、勝者の悪意によって歪曲

されて描かれます。そして、悲しいことに、その歪曲に抗議できないのです。もっとも、仏教の歴史においては、“勝者・敗者”といった言葉は不適切でしょう。それなら、“主流派・反主流派”と表現を改めましょう。仏教の歴史における主流派は、釈迦の入滅といった時点で最長老であったマハーカーシュヤパです。そして、そのマハーカーシュヤパに対抗したと思われる人物が、―デーヴァダッタ―でありました。気の毒なことにデーヴァダッタは、主流派が綴った歴史の中で、釈迦を殺して仏教教団を乗っ取ろうとした悪人、仏敵とされています。」(「釈迦物語」ひろさちや著p222)

と言っています。

 

中村元氏は、なぜ仏典においてデーヴァダッタに病的なほどの憎悪が成立したのかを3段階に分けて説明している。

「最初の仏教、すなわちゴータマ・ブッダの生存時、または歿後まもなくには、修行を完成した人はみな〈ブッダ〉と呼ばれていた。多数のブッダがいた。〈ブッダ〉は複数である。ブッタはサーキヤムニ一人ではなかった。そうして仏教の代表者もはっきりしていなかった。ジャイナ教徒が伝えた古典『聖仙のことば』によると、当時の若干の修行者たちのあいだではサーリプッタが代表者と見なされていたことさえもあった。デーヴァダッタもこのような〈ブッダ〉の一人であった。

 ただデーヴァダッタとゴータマ・ブッダとのあいだにはなにかしら、いさかいがあったらしい。思想の面でも見解の相違があったらしい。一般に伝えられているところでは、デーヴァダッタは厳格な戒律を実践し、極端に禁欲的な生活を要求したのに対して、サーキヤムニの教団では戒律の実践を比較的ゆるやかに解していた。いずれにしてもこの段階では、仏教の指導者(ブッダ)は複数であり、そのなかのだれかが異端者であるということはなく、いわんやだれかが悪人であるときめつけられることはなかった。」

 (「中村元選集〔決定版〕第14巻 原始仏教の成立」中村元著p567)

 

 第二段階として

「(1)ナンダ王朝からマウリア王朝にかけてインド全体が統一されるにつれて、仏教教団も大発展をとげたが、アショーカ王などは教団の分裂を恐れていた。大教団がひとつにまとまるためには、シンボルがなければならない。ゴータマ・ブッダのすがたは急速に神格化・巨大化されるようになった。仏教は〈仏教〉というよりも〈釈尊教〉とでも呼ばれるべき性格を強くしていった。

(2)〈釈尊教〉の性格が強まるとともに、他のブッダたちは抹殺されるか、地位を低められるよりほかにしかたがなかった。ブッダとは釈尊のことであり、現在の時期には釈尊という一人の仏しか現れないと考えるようになった。ただ理論的には仏は数多くあってもよいから、それらは過去の仏として想定されるようになった。

(3)サーキヤムニの教団が拡大発展して、仏教の「正統」を主張すると、ブッダたることをめざす他のなかまや教団は、おのずからそこに吸収されることになったが、そこに吸収されないなかまは「異端」となった。デーヴァダッタはサーキヤムニに従わなかったから「異端」となったのであって、ブッダでなかったからではない。最初は「正統」のブッダというものはなかったし、「異端」というものもなかった。権威が一点に集中することによって、「異端」も生じたのである。」(同書p568)

 

 第三段階としては、「仏教の教団がますます発展すると統一の象徴であるサーキヤムニを絶対化し、神格化する必要が起きた。仏教というよりは「釈尊教」の性格が強まり、釈

尊を神格化するとなると、かれに対抗したデーヴァダッタは悪人と見なされるようになった。異端者であるというだけの理由で極悪人とされて、デーヴァダッタ極悪人説の伝説がいろいろとつくられるようになったのである。〔そこには、いわば近親憎悪のような感情が支配していた。〕 (2)しかし釈尊を拒む仏教徒たちが依然として存続した。それはデーヴァダッタの徒衆である。それは微々たる存在ではあったけれども、西暦四世紀ごろまで存続していた。」      (同書p569)

 と述べている。

 

 オウムの信者はだいたい次のように理解しているのではないでしょうか?少なくとも私はこのように思っていました。

デーヴァダッタという人は、サーリプッタも尊敬する優秀な修行者だったのが、たくさんの供養を受けすぎておかしくなり、権力欲から教団を分裂させたというふうに。しかし紹介したような仏教学者の説を読んでまた違った見方ができるようになりました。

 しかし、仏教の戒律で不妄語の戒というのがあるのに、仏典に、デーヴァダッタが30歳も年上のヤソーダラー妃を襲って辱しめようとしたという伝説は、もし事実でないとしたら、とんでもない大嘘をついていることになるのではないだろうか。今残っている仏典というのは、主流派となったマハーカッサパのグループの都合のいいように創作されたものに過ぎないのかもしれない。仏典にはマハーカッサパをもちあげて、他の弟子をおとしめる記述が見られる。

 デーヴァダッタの悪人というイメージは事実でないのかもしれない。しかしアーレフでは反上祐派の方が人数が多く、麻原氏を信仰の対象としているという面でこちらが主流派とすると、上祐派は反主流派ということになり、主流派によって魔境と言われ極悪人に仕立てあげられている上祐氏はそういう意味ではデーヴァダッタと共通しているところがあるのかもしれない。

参考文献 

中村元『中村元選集〔決定版〕第14巻 原始仏教の成立』春秋社

阿部慈園『インド仏教文化入門』東京書籍

ひろさちや『釈迦物語』大正大学出版会                      元 サ マ ナ

102  手記            ?  元サマナ  2006.3.11-128号から

おそらく96年以前の逮捕後の麻原氏からの信者へ向けたメッセージだと思うものを最近見ました。

それは陽神を作ることが最高の教えであり、それのプロセス、注意点を述べているものでした。陽神とは仙道の修行をすることによってエネルギーを練り上げて、永遠に生きることができる別の身体を作りあげるものなのだそうです。「どこへでも行くことができるし、この身体が完成したら、この人間界でも人間として認識される」と説明しています。これを読むと

すごいなあ。修行がんばろうって気持ちになってきます。やっぱりオウムってすごいなあって。

でもそんな夢みたいなことほんとうに実現できるものなのでしょうか?もし麻原氏にそれができているとしたら、どこへでも行くことができるのだから、当然弟子たちのところに行って、教団の運営に対して指示したり、弟子への修行の指導もするでしょう。もしそうしているのであれば、教団が一つにまとまり、今のような上祐派、反上祐派の分裂状態のような事態にはなってないのではないでしょうか? 話している麻原氏ができてないことを私たちができるはずがありません。

またその同じメッセージの中には「96年は奇跡の年になるだろう。わたしが死んでも君たちには奇跡は起こるし、わたしが生きておれば生きているで君たちに奇跡が起きるだろう。」と語っている部分もあります。結局96年には何も起こらなかったし、この言葉は正しくありませんでした。そうすると他の部分も信じられるのかってことになってきます。

陽神の話で現役時代のときのようなトキメキを感じ、わくわくした気持ちに一瞬なりましたが、このような理由でまた一気に冷めた気持ちになりました。

 

101  手記              2006.3.11-128号から

クリシュナムールティという精神世界では有名な宗教家がいます。

もう亡くなってますが、麻原氏の初期の頃の説法には、この人の名前がたびたび出てきます。

クリシュナムールティ(1895〜1986)は将来のメシアとして神智学協会によって見出され、その後、ヨーロッパに留学し、メシア降臨のために組織された団体「東方の星の教団」の指導者になりました。しかし、真理の探究をしていくのに組織として活動していくことに疑問を持ち、自ら同教団を解散し、神智学協会からも去りました。クリシュナムールティは「人間は特定の教義や修行法に固執することなく、真理をありのままに見つめることにより、解放される。」と説いているのですが、以前、ウパーリ師の公判を傍聴したときに、彼は「クリシュナムールティの本を読んで、特定の教義、修行法にこだわらなくていいんだと感じて、とくにオウムだけにこだわらなくなった」というようなことを発言してました。

 

 クリシュナムールティの本『生の全変容』の訳者あとがきに次のように書いてあります。

「彼はこのように、「これが真理だ」という肯定的発言を一貫して避け続けました。なぜなら、真理についていったん肯定的に表現すると、すぐそのまわりに組織が作り上げられ、それに付随する諸々の愚行を呼び招く危険があるからです。すなわち、組織を維持する必要が生じ、そのための土地・財産が確保され、会員、団員、信者を増やしていきます。組織の維持・拡大のほうが、真理そのものとその探究よりも重要になり、やがて内部の階級化・権威化が進み、上下関係ができあがります。対外的にはプロパガンダが必要になり、自分たちが奉じる真理は一切の教えを包摂するものであり、他のいかなる組織のそれよりも優れていることが強調され、やがて組織が大きくなるにつれて、金銭や名誉、権勢を求める徒輩が群がってきます。結局は、政治や経済の道具になり下がっていくのです。」(『生の全変容』p447)

 たしかにオウムの場合と照らし合わせると痛感できる部分もありますね。私は渋谷コーポのマンションで活動していた頃にオウムに入ったので、その頃のヨーガサークル的な雰囲気も知っているので、なっとくできる部分もあります。たしかキサーゴータミー正悟師かサクラー正悟師だったと思うのですが、オウム裁判のことを書いた本だったか、なんかに書いてあったのですが、「あの頃のままだったらよかったのに、組織が大きくなっておかしくなっていった。」

というようなことを裁判で話したと書いてあるのを読んだ記憶があります。

 私はクリシュナムールティの言っていることが正しいとかそんな風に思っているわけではないですが、組織の弊害のところはなるほど一理あるなと思って興味を持ちました。

 

 上祐氏は組織を残し、維持していくことに価値を見出している立場をとっているからこそ、なんとか組織を維持していくために、社会に受け入れられるよう麻原排除などの教団の改革を行おうとして、それでそれに反発する反上祐派との対立にむすびついているのでしょうね。

  参考文献

.クリシュナムルティ・A.W.アンダーソン,大野純一訳『生の全変容』春秋社                    元サマナ

100  手記  1 8 歳 の 誕 生 日   2005.12.10-122号から

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1129987264/

元サマナの掲示板書込みから

 

839 :名無しさん@3周年:2005/10/31(月) 02:03:57 ID:1xLcPVM8

11年前、初恋に命をかけることも、約束された将来も投げ打って悟りを求め、出家した。

感情を無理矢理にでも抑圧して苦行に励んだ。

自分が克己して聖者になれば、社会貢献につながる、世界を変えられると本気で信じていたから。

そのためなら、自分個人の欲得や幸福などいらないと本気で思っていた。

今じゃ笑い話だ。

 

出家した翌月、富士でのサティアン建設の厳しいワーク生活の中、はじめて一人ぼっちの誕生日を迎えた。

18歳だった。

 

あれから11年。

洗脳が解けた今でも、彼女の面影は心から消えない。

いや、本当は出家していた時も忘れたことはなかった。一日たりとも彼女を想わない日などなかった。今でも。

 

麻原に見切りをつけて(オウムでは「下向」というが、それは逆だ)、原始仏教を学び直し、オウムの教義がブッダの教えと全く逆だと理解でき

た今となっては、断言できる。

 

人は今生きているうちに、最愛の人に勇敢に愛を伝えて生きるべきだ。

人は死んだら土に還り、世界の一部として流転を繰り返す。

しかし、死者が最後に残せるものは思い出だけ。

 

魂?転生?

そんなものはないと気付いた時、人は輪廻から解脱する。

なぜなら、最初からそんなものはなかったのだから。

 

最愛の人と共に生きたかった。

僕は死ぬまでこの傷を背負っていくだろう。

でも背負ったまま生き抜いてやる。

彼女に向けてあげられなかった愛情を、誰かと分かち合う。

 

灰になる前に、思い出を刻み付ける。

残せるものはそれだけだから。