127●手記 瘋狂者 2006.9.23-第135号から
最近、津田真一著『反密教学』を読んだのですが、その中に次のような記述がありました。
「彼らサンヴァラ系密教徒は荼枳尼(ダーキニー)の集会を求めて巡礼地から次の巡礼地へと遍歴する。
かくて彼らはその一生を「身を浄むる」ためのかかる巡礼に送り、その果てに人間的な意味と尊厳
(それこそが人間を輪廻せしむるものに他ならない!)の一切を放棄した「瘋狂者(ふうきょうしゃ)」
としてその生を終り、多分、彼らの自意識を超えて、
成仏するのではなく、輪廻を脱してゴータマ・ブッタの云う「不死」、即ち涅槃の「滅」へ帰入する。」
(津田真一著 『反密教学』 リブロポート 1987年 p208)
今の麻原さんが糞尿垂れ流し、接見に来たアーチャリーやカーリーの前でマスターベーションするなど、
人間としての尊厳を放棄した状態なので、引用した本の記述を読んですごく興味をもちました。
ちなみに「瘋狂」という言葉の意味は広辞苑で調べると―瘋狂(ふうきょう):常軌を逸していること。また、その人
とあります。
はたして 麻原さんは、聖なる瘋狂者なのか、
ただ単におかしくなってしまっただけなのか、それとも裁判中止をねらって演技しているだけなのだろうか。
元サマナ
126●手記 ホーリーネイム 2006.9.23-第137号から
ホーリーネームをメールアドレスにしている人って多いと思う。
私の知っている人でも何人かいるし、私も以前そうしていた。
ホーリーネームをもらっていた人は、ホーリーネームに愛着があるし、なにか特別なものだと思っている。
ロシア人には漢字の宗教名が与えられていたそうだ。
以前 雑誌にロシア人信者が記者の質問に答えているのがあったのですが、
ロシア人信者は最初に簡単な自己紹介をして、
」「ホーリーネームは○○」
と答えていた。なんか得意げに宗教名を名乗っている姿が想像できて、ちょっとはずかしくなった。
自分も宗教名を誇りに思っているところがあったから。
日本人である私には、漢字の宗教名なんてかっこ悪いと感じる。
私がかっこ悪いと感じる漢字の宗教名をロシア人信者が得意がっている様子が、
カタカナの名前もらって得意になっている自分たちの姿とだぶって見えてはずかしくなった。
日本の若者は欧米に対するあこがれもあって、カタカナの名前がかっこいいと感じる。
でもロシア人にとっては、カタカナの名前より漢字の方がかっこいいのだろう。
カタカナの名前を与えても喜ばないのかもしれない。うまく考えたものだ。
そう考えるとホーリーネームなんてしょせんそんなものなのかとちょっと冷めてしまった。
ラジニーシ(和尚)教団でも信者に宗教名をつけているのですが、
オウムで信者にホーリーネームをつけるようになったのは、
オウム初期の頃、ラジニーシ教団にいたことがある信者が麻原さんに教えて、それで真似したそうですね。―――元サマナ
125●手記 ソフィスト 2006.9.23-第136号から
最近、知り合いの現役サマナに上祐氏の説法DVDを借りて見てみた。それを見て思い浮かんだ言葉が「ソフィスト」。
この「ソフィスト」とは古代ギリシャで議論に勝つための屁理屈を伝授してまわった職業の人達のことで、
ソフィストは詭弁を用いて黒を白と言いくるめる。
ちなみに「詭弁(きべん)」を辞書で調べると「判断や推理に関する論理的反省に基づいて生ずる、
外見上はもっともらしい推論で、形式上や内容上の虚偽を含み、多くの場合相手をあざむいたり、困らせることになる」
この説明って、まさに上祐氏が地下鉄サリン事件の後、テレビに出ていた頃のことを言っているようですね。
上祐氏は説法で仏教の教えなどを説明しているけど、話しがうまくもっともらしいからといって、
ほんとうにそれで幸福になれるのかどうかはわからないなと感じました。
もっともらしく聞こえるのは、彼が学生時代に身につけたディベート術によるものにすぎないのではないかなと。
仏教、宗教関係の本からの情報を使って、彼特有の屁理屈でそれらを加工し話しているにすぎないのではないかな。
しかし自信たっぷりでどうどうと話す上祐氏は、心が強くて、すごい度胸があるなと感心します。 ――元サマナ
124●手記 摂 理 と オ ウ ム 2006.9.23-第137号から
最近、テレビで、韓国のキリスト教系カルト教団「摂理」のことよくやってます。女性信者への性的暴行が問題になっているようです。
そういう報道見ていて、オウムと似ている部分あるなと感じます。
摂理では、教祖は元統一教会の信者で、摂理にも統一教会のやり方を真似たと思われる部分がある。
(オウムの場合 麻原氏は元阿含宗信者で オウムにその影響が見られる部分があった)
複数の女性信者を教祖が愛人にしている 基本的に信者の間では男女交際禁止。
元信者の被害者団体で摂理の反対運動をしている人たちを教祖が殺せと信者に命じた。
そして襲撃させた。被害者団体の代表の父親を信者に襲撃させ、ひどい怪我を負わせた。
オウムの場合、麻原氏の一部の女性信者に対する性的行為はインド後期密教の左道タントラの実践ということだったし、
坂本事件や永岡氏への襲撃などは金剛乗の教えにのっとったもののはずだった。
でも、摂理のような仏教でないキリスト教系の新興宗教でも同じようなことをやっているのはどう考えたらいいのでしょうか?
宗教団体で、教祖が美人の女性信者を愛人にする。教団に敵対する者に危害を加える。こういうことは、キリスト教系だろうと仏教系だろうと、あるいはその他の教えだろうとありえる話しで、オウムの場合はタントラだとかヴァジラヤーナの教えの実践だという意味づけ、言い訳をしていただけとも考えられるじゃないかなと感じました。
摂理は日本にも信者がいるそうで、大学でダンスとかスポーツサークルという形で勧誘しているんだそうです。この辺もオウムと似ていますね。
他のカルトの報道を見ると、まさに他人のふり見て我がふり直せで、オウムのことも客観的に見れるようになれていいです。 −元サマナ
123●手記 快楽追及と仏教の幸福感 2006.9.23-第135号から
イギリスの法学者で、また倫理学者でもあったベンサム(1748〜1832年)という人がいました。
ベンサムは功利主義を社会の中で実践しました。功利主義の原則は「最大多数の最大幸福」で、快楽をもたらす行為が道徳的だと説きます。
ベンサムは快楽主義の立場をとっています。善であるものが快楽で悪であるのものは苦痛であるというものです。
快楽主義とは、行為の善悪の判断基準、人生の価値観として、快楽を善として、快楽を追求し求めることをよしとする立場です。よって、快楽が多ければ多いほど善い状態ということになります。またベンサムは、人間は快・苦の主人に仕えていて、快を求め、苦を避ける傾向にあり、すべての人は自分が快(幸福)だと信じることを追求するものだと主張しました。そして快楽は量的に計算できるものだと主張し、快楽計算の構想を立てました。
戦後の日本が快楽を追求することをよしとする、まさにベンサムの価値観をもとに進んできたように思います。それで利己主義におちいり、いじめ、虐待の問題や、年間3万人以上の自殺者といった精神的に退廃した状態にいきつきました。快楽の追求というとどうしても利己主義になってしまうと思います。その結果が今の他を思いやらないギスギスした日本という環境になっているのではないでしょうか。
快楽の追求は国の経済的豊かさをよしとする考え方になってきます。ブータンは貧しい国ですが、国民総幸福量(Gross National Happiness)という価値観をうちたて、それをもとに国作りをしています。経済的には貧しくても、チベット仏教にもとずく他への思いやりの精神を大事にして、国民の心の豊かさを重視した国の政策です。
環境を犠牲にしてでもたくさんのお金を稼ぎ、それをもって国の力とする従来の思想とは、まったく異なる価値観を持つこの政策は、国民に受け入れられただけでなく、世界中の注目を集めています。
ブータンでテレビ放送が始まったのは1999年のことで、そのため人々の欲望が開発されることは少なく、国民の心に快楽追求の傾向が植えつけられることがなかった。仏教の精神が暮らしに根ざしていることもあり、物質的には豊かとは言えなくても心豊かな生活が保たれていた。しかし、テレビ放送がはじまって、国民に快楽追求の傾向を植えつけられ悪影響が出ているらしい。
ベンサムのいう快楽追及が善という価値観は、その価値観を実践してきた現代の日本、世界を見たら、問題のある考え方のように思える。逆に仏教の価値観のように、快楽追求言い換えると欲望、欲望をもたない状態が幸福という考え方が見直されてもよいのではないでしょうか。
元サマナ
122●手記 ドラマ「さとうきび畑の唄」 2006.9.23-134号から
「さとうきび畑の唄」という2時間半のドラマを見ました。もう3回くらい放送しているのかな。明石家さんまが出ていて、沖縄戦の頃の沖縄を舞台にしたドラマです。
明石家さんまが父親役をやっていて、その次男・平山昇を演じている勝地涼さんが教団に殺された元サマナの田口修二さんにそっくりなんです。ドラマの役では高校生で、まっすぐで気が強い。先輩にいじめられている同級生をかばったり、上官にいじめられている人をかばったりして正義感も強いんです。この性格も田口さんにそっくりだなと思いました。
田口さんの立位礼拝はよく通る声で大きな声が出ていて、すがすがしい感じでした。たぶん高校の体育の時に着るジャージだと思うんですけど、赤いジャージを着てやっていました。「田口」って名前も付いていたし。ほんとうに好青年って感じで、この人、ステージ上がるの早いだろうなと思っていました。田口さんの声は富士山総本部道場の外まで聞こえてきて、麻原さんも道場の空き地で護摩法をしているとき聞こえて、なんてすばらしいんだろうと思ったそうです。それで個別に呼んでアドバイスをしたりしたそうです。
そのまっすぐな性格が災いしてか、田口さんは真島さん死亡事件のあと、「麻原のやり方についていけない。どうしても家に帰りたい」と脱会を言い出した。これを知った麻原さんは、「田口は真島の事件のことを知っているから、このまま抜けたんじゃ困るからな。このままではまずいから、ポアするしかないな」と殺害を命じ、田口さんは殺された。
もしも田口さんが真島事件を目撃してなかったら、教団に残ってかなり上の方のステージまでいって、麻原さんにも可愛がられていたと思う。出家して間もなかった彼には、まだ教団の教えに染まってなかったから、真島事件を受け入れることができなかったのだろう。
89年のはじめ頃、田口さんと私はCSIにいて(CSIはのちの科学技術省です)その頃CSIは、麻原さんが護摩法をするとき護摩壇を作ったりとか薪を用意したりとかお手伝いしていました。
あるとき、護摩法の準備をしていると、その場にいたアングリマーラさんが田口さんに「田口、おまえ魔境だぞ」と声をかけていたことがありました。殺される直前だったんじゃないかな。
それから何日かして、マンジュシュリーさんがCSIの皆に「田口君はアングリマーラ大師のところ行ったから」と話してました。アングリマーラさんのところとは世田谷の上町にある営業のワークをする部署のことです。殺されていなくなった田口さんのことで怪しまれないようにCSIのメンバーにそう説明していたのかもしれない。
ドラマ「さとうきび畑の唄」を見て久しぶりに田口さんのこと思い出しました。
121●手記 ゲオルグ・フォイアスティン著『聖なる狂気』を読んで 2006.9.23-第137号から
著者は、宗教学者でヒンドゥー教、ヨーガ、タントラの研究をしてきた方だそうです。この本は原著は1990年に出版されているのでオウムのことは知らないで書いていると思うのですが、まるでオウムの事件について分析しているのかのようです。気になった部分を引用します。
結構よくあることだが、グルの性格が際だって権威主義的である場合、信者にとってそれはたいへんな重荷となる。弟子はグルの精神的なイメージのクローンになろうとするだけでなく、グルの精神的・肉体的な特徴をまねようとさえする。その結果、グルをご本尊とするカルトが出来あがる。個人の成長や霊的成熟などどこ吹く風である。こんなばかばかしい猿真似合戦は、これまでも繰り返し警告されてきたが、実際はそうなってしまうのがお決まりであって、例外はわずかである。(p416)
完全性は外的な存在にではなく、超越的本質の中にのみ存在する。にもかかわらず多くの信者が、自分の師をあらゆる点で「完全な」、究極のグルだと信じ込む。悲惨なことになってしまうのは希だとしても、これがほとんどつねに問題の種となるのだ。どうしてそれが信者にとって問題となるのかというと、本質を具体的な存在と混同した信者が、古風で、自己陶酔的な、全能なる神というその人自身の幻想を、いわゆる「完全な」グルへと投影してしまうからである。古臭くて、魔法じみた、原始的な、あらゆる種類の一連の認識過程すべてが、こうして復活させられる。グルはなんでもできるんだ、グルはなんて偉大だろう、というのだ。しかし実際はこうだ。すなわち、選ばれし者に属するこの私こそ、きっと偉大に違いない、と。これは極度に自己陶酔的な傾向である。(p417)
霊的導師は、悟りの完成あるいは一時的な悟りの体験の中でなら、善悪を超えるかもしれない。しかしながら、この世における行為の中では、善悪の彼岸はあり得ない。反道徳主義の底無し沼に沈み込むのではなく、われわれの人生を力強く変容させる生命に満ちた霊性を創造するためにこそ、神秘主義と道徳性とは結び合わされなければならないのである。(p437)
「クローン」なんて言葉も出てきてびっくりしました。麻原さんも「グルのクローン化」と説法で言ってましたね。引用した部分にはオウムの問題点がはっきりと示されているように思います。
マハーケイマさんも意見陳述でこのように言っています。「私は麻原さんという絶対的な指導者として仰いできた人のことも、客観的に見ることができました。麻原さんは絶対的な、間違いのない100%のグルではなく、弱さを持ち、間違えることもある人間であったのだというふうに今では思っています」。
最近の上祐氏の言っていることは、かなりこの本から影響受けているように感じます。 ――元サマナ