元信者たちの手記 最初の8〜10と、追加1〜10


追加10 ●オウム真理教コンピュータ事業部の真実

1997年11月1日号 カナリヤの詩29号より

私は96年6月にオウムを離れた。オウムではコンピュータ事業部に所属していた。

破防法の適用が棄却され、オウムの動きが再び活発になっている。その資金源の大きな部分を占めているのが(報道されているとおり)パソコン店からの収入であることは間違いない。私のかつての仲間がまだ「がんばって」いるようである。

はじめは、オウムとはもうかかわりたくないと思い、やりたい人は続ければいいと半ば投げやりな気持ちになっていた。正義を振りかざして他人を非難するようなことはしたくない。 ただ、過去は素直に受けとめたいと思う。

  95年7月。マハーポーシャの店内にかつての活気はなかった。オウム真理教の関連会社として名前があげられ、売り上げはどうしようもないほど落ち込んでいた。 そんな折り、秋葉原店長の神林(仮名)が新しいパソコン店をつくる計画を打ち明けた。彼は妙に明るい表情で私に初めての異動を告げた。

パソコン店Tは慌ただしくオープンした。すぐに「関連会社」として知れ渡った。それでも続いた。T社長の田村(仮名)は、「3月までもてばいいですよ。」と、控えめな本音をよく漏らしていた。

マハーポーシャは95年11月に閉店したが、そのときまでにはTのほかにG、Pの2店も営業を始めていた。いずれも秋葉原に店がある。Tには大阪店もあり、すでに8月に開店していた。

96年3月には北千住にMができた。Mはパーツの仕入れとパソコンの組み立てを行う会社で、「工場」と呼ばれていた。

神林は私が辞める直前、(96年)5月の売り上げが遂にマハーポーシャの最高時を超えた、と嬉しそうに話していた。つまり、T、G、Pの月間の売り上げ合計が約4億円に達したのだ。オウムのコンピュータ事業部は、マハーポーシャの閉店後もしぶとく生き残り、さらに力をつけたのである。

経理内容の詳細は知らない。ただ明らかに問題なのは、オウムが破産宣告を受けて清算手続きが進んでいるさなかに、名目上は教団の資産ではないにせよ、実質的には教団を維持・発展させるだけの豊かな資金源が存在していたという事実である。

オウムが破産したのは、(言うまでもなく)史上希にみる甚大な凶悪な罪を犯したからである、ということを思い起こせば、オウム(特に、資金の流れを把握し教団を動かしている人達)は酷く狡猾で不誠実だ。

  パソコン店各社は表面上、オウム真理教とは無関係ということで営業している。その建前の論旨はだいだい次のとおりである。

@ 私達はオウムとは無関係である。
A かつてオウムに所属していたことがあったとしても今は関係ない。
B オウム関連店とされるパソコン店各社は相互に無関係である。
C 当社は会社として法的に何ら問題はない。
D 私達のことをオウムであると言いふらすのは人権侵害、名誉毀損であり、当社に対する営業妨害である。  

さて。これらの主張の根拠であるが、@、Aについてはまったくの大嘘で、彼らは間違いなくオウムの現役信者である。彼らのほとんどは北千住付近で共同生活をしていた。

Bも嘘。仕入れと販売は、各店の社員・役員でもない教団幹部がまとめて指揮していた。また、各店のビラはすべてTの事務室にある一台の印刷機で刷られたものであった。色は各店ごとに違えていた。たしかTは赤、Gは青、Pは黒だったと思う。そういえば、赤と黒のインクが切れて大騒ぎになり、3店とも青色のビラを配ったこともあった。

Cについても、かなり気にかけていたようだが、法律スレスレ、あるいは、違法な部分も多々あるのではないか?

唯一、彼らを守り得るのはDの主張だけということになる。しかし、「最高の真理の実践者」が、自らの人権(彼らの言うエゴ)を主張するのも情けない話ではないか…。

 マスコミからTとオウムとの関係を糾す内容証明が送られてきたことがある。訴訟を起せばいいのでは、という問いかけに、
「勝てる自信ないですよ…。」と、田村は苦い表情で答えた。

「オウムである、と言うほうに証明する義務があるんですよ。言われたほうは、そうではないと証明する義務はありませんからね。」彼は勉強中の法律の知識を並べて強がっていたが、 結局、これがギリギリの線なのであろう。いくら隠そうとしても、真実は欺けない。それでも進もうとするのは、「帰依」という魔法の言葉で、幻影であるはずの「教団」を現実視しているだけだ。   「教団」という観念に固執すれば、自と他の差別を助長するばかり。これは真理ではない。

   心から真理を究めたいと思うなら、ひとりで生きていけるのではないか。
                                                ( PN.Jupiter )


追加9●ー手紙にて

1999年5月31日 手紙にて

以下、完全なる匿名で了解を得ることも出来ないのですが、送られた方におかれましてはここに掲載することを、どうぞご了解ください。本日午後に、支援基金に送金しました。

「前略、元オウム真理教信者の者です。同封いたしました5万円とわずかな金額ですが、一連のオウム真理教が引き起こした事件の被害者の為に、お使いいただきたく滝本先生におねがい申し上げます。よろしくお願いいたします。」


追加8●ー現役信者へ『嘘を言うな!』ー元出家者

1999年5月26日 第48号から

今年の4月、地下鉄サリン事件の被害者(遺族)である高橋シズエさんが居住しているマンションに、オウムの関連会社が入居している事が発覚しました。

株式会社ポセイドンという会社です。この会社では「現在、オウム真理教とは一切関係ありません。以前教団に属していた者も折りますが、今は何のつながりもありません。」とのコメントを高橋シズエさんやマスコミ宛てに送りました。これは、事実とは全く異なるコメントです。株式会社ポセイドン、オウムの関連会社であり、社員は現役信者です(特集欄の関連会社を参照)。真理のためなら嘘も許されるということでしょうか?

サリン事件や坂本弁護士の事件などで、直接的な加害者でなくても、教団を信じてワークや御布施をしたことがあるすべての脱会信者・現役信者は加害者の一員であると思います。私は被害に遭われた方々に対して、どうやって償っていけばいいのかとずっと考えてきました。たぶん償うことは出来ない程の事をしたのだと思います。それでも、せめて自分のできることを一つでも多くやっていこうと思っています。

今回、教団関連会社が高橋シズエさん居住のマンションに入居したことは、被害に遭われた方々の気持を鞭打つ行為です。しかも、オウムであることを隠して、脱会信者であると嘘を言っている事に対し、私は「とんでもない」と声を大にして言いたくなります。

脱会信者は、それぞれが自分の行なってきたことについて、様々な葛藤を抱えて生活してきたと思います。感じ方や考え方は人によって違いますので、今回の教団関連会社の入居や嘘に対し、全ての脱会信者の思いを代弁することはできません。しかし、脱会信者の中には、教団から本当に離れて、教団と関係のないコンピュータ関連の仕事をしている人もいます。教団が脱会信者と偽ることで、本当に教団と無関係のコンピューター関連の会社に迷惑がかかってしまいます。

現役信者へこれだけは言いたい。『被害者の気持をこれ以上、鞭打つような行為はやめろ。現役信者なのに脱会したなどと嘘を言うな』

ペンネーム 海


追加7●一冊のマンガ本から−男性・元出家者

1999年5月26日第48号から

10年ぶりに実家に帰って、部屋の本棚を見ると、古びて黄ばんだ、一冊のマンガ本が目にとまった。

高校の終わりから大学時代の出家までの、二年半の間付き合っていた、当時の彼女から借りた、少女マンガだった。彼女の部屋で読んだ少女マンガが意外と良くて、もっと他のも読みたいと言うと、古いので良かったらと言って、実家にあったのを貸してくれたのが、そのままになっていたのだ。

懐かしくて本を開く。話の筋も忘れているが、暇なので、いま一度読み返してみた。

読みながら、彼女との思い出が甦った。優しい子だったと思う。若かった僕は、自分のことしか考えられず、彼女の身も心も傷つけてしまった。それなのに彼女は、捨て身で僕を愛してくれた。しかし、僕は彼女を捨てて出家の道を選んだ。『解脱』して『救済』に行くつもりだった。

「あんな子はなかなかおらんやろな」

逮捕されたとき、刑事が言った。電話をかけて話を聞きたいと言うと、彼女はすぐに快諾したらしい。思い出したくもない、つらくて嫌な過去を、それも警察相手に話さなくてはならないのに・・・・。

「そうそう、電話の向こうでな、赤ちゃんが泣いてたわ」

マンガは絵柄も古く、話の中に西城秀樹がアイドルとして登場したりと、時代を感じさせたが、ロマンチックな恋愛物語で、なかなか良くできた作品だった。この作者、うまいなと感心した。

何気なく、巻末の刊行物案内のページを開いて、はっとした。

色褪せているが、この作者の作品群が、ピンクのマーカーでチェックしてあったのだ。

18年程前、まだ小学生の女の子だった、彼女の仕業だった。子供心に、この少女マンガの恋愛物語に感動し、同じ作者の他の作品も読みたくなって、マンガのような素敵な恋愛を夢見ながら、本に一生懸命マーカーで印を付けている、無邪気な彼女の姿が目に浮かぶ。

何故か、涙があふれてとまらなかった。

二度と会うこともないであろう、彼女の幸せを僕はひととき、心から祈った。

         (ペンネーム とくにみきら)


追加6●僕は信徒でした−男性・元信徒

1999年4月19日メールにて、5月26日第50号から

  こんにちは。僕は信徒でした。 僕は名古屋支部を通してサリン事件の直前の6ヶ月間 信徒として入会金と半年間の会費を納めました。  

生死をこえるという本をよんでオウム真理教ネット に参加したのがきっかけでした。ネットに参加して3ヶ月もたったでしょうか。 僕の住んでいた○○県を管理する○○支部の○○○○○○○○というホーリー ネームの方が僕の住む町に直接きてくださり入信をきめました。

僕には悩みがありましたが、宗教には用心深く矛盾した事を言う 勧誘者をことごとく打ち破ってきましたし、キリスト教の牧師と議論した事 もありました。僕は長年悩みから救われたいと思ってきましたが、自分をだましてまで救われようとは考えませんでした。僕は用心深く猜疑心が 強く論理的だと自分の事をそう思っています。

その僕が真理教の本の 矛盾点にきずけませんでした。僕は仏教キリスト教あるいはイスラム 教についてすべてではもちろんありませんが、各々の密教的な分派まである程度知識もあります。

  僕がオウム真理教に違和感を感じたのは信徒として入会金6ヶ月の 会費をおさめそしてマントラを教えていただき オームアフームにつづくマントラを毎日何回となく唱えていたある日、 真理教の機関紙が送られてきた時でした。

そこには本部道場に米軍機が 毒ガス攻撃をしているという内容がありました。   どう考えても荒唐無稽な話で急速に信頼感が失せていきました。 そして数ヶ月であのサリン事件をむかえました。

   僕は僕が読んだ麻原氏の著作と事件がなかなかいまでも 結びつきません。彼の本は既存宗教のよせあつめだと人は言います。 どこか論理的に破綻したところや矛盾点があったのでしょうか?  もちろんそのようなところがなくても行為は目も覆いたくなすような 無残なものです。ただ自分としてはどこで判断を誤って入信することに なったのかいまだにその点で納得できないのです。

 僕のお金が彼らの行為の一助になったかと考えると非情に残念です。                                         


追加5●お手紙(20代・女性・元サマナ)

1997年6月25日第24号から

  みなさんお元気ですか。先回の会合は学校の授業があって出席できません
でした。ちなみに次回もテスト期間中なので出席できません。
 でも私は毎日元気に生活していますので御心配なく。
 最近は、もう今年で卒業なので就職のことや卒論のようなもののこと等で
 、探せばいくらでもやることがあるというような状態なんですが、
 何をどう進めていいのかわからず、頭の中がごちゃごちゃです。大変ですが
 来年の今頃には「もう働いてるよ」と言えるように頑張ります。
 ちょっとこの場をお借りして、まだ帰ってこないRちゃんへ。

  Rちゃん元気ですか。私は相変わらずJANISや友部を聴いているよ。
 R がどんな所でどんな風に何を考えて暮らしているのか知らないけれど、
 高校の時の仲間はRが今何やっているのか知ってる子も知らない子も
 Rに会いたがっています。

 私もRが今どんな立場でいるのであっても、今のままのRに会いたいです。
 あんたの存在は私たちの中でとても大きいんだよ。
 一度くらい連絡を下さいRちゃん。友人として話したいよ。
じゃあね。          


追加4●「私と亡き人の間」

カナリヤの詩1996年4月20日第10号より

4月13日午後、大学のチャペルで、ある式が行われていた。「故坂本都子追悼記念式」だ。家に帰ろうとしていた僕は、その掲示板をみたとたん、無意識にチャペルに足がひかれていた。式は既に始まっていた。招待されていなくても誰でも入れるらしい。受付で式のしおりを受け取る。

そのしおりには坂本都子さんの大学時代の直筆の文章が載っていた。高校の頃から積極的にボランティア活動などもしていたらしい。文章からは人生に対する真剣さが感じられる。在学中に堤さんとボランティアで知り合ったのは有名な話だ。略歴の最後に「89年11月4日未明、オウム真理教幹部に殺害される」とある。

私は大学(偶然にも都子さんと同じ大学・学科である)一年のときにオウム真理教に入信、出家した。今は同大学に復学している。こんな私が式にいていいのだろうかとも思ったが、結局、都子さんの両親のスピーチ後、献花まで終えて式を後にした。

式の間、都子さんの文章を読んでいるとなんともいえない感覚に襲われた。15年前、彼女は私と同じようにこの大学に通い、同じような授業を受け、真剣に人生に取り組んでいたのだ。そして私を含めてオウムに入っていった者の多くも真剣に人生に取り組んでいたであろう。

実行犯とされる中川被告を初め、人を殺したくてオウムに入った者はいないと思う。むしろ、人を救いたい、と考えてオウムに入った人の方が多かったに違いない。そういう人たちが何の間違いか、多くの人を殺してしまい、今では彼らも法の裁きによって「殺され」ようとしている。私にしても一歩間違えれば犯罪に加担して、今頃獄中にいてもおかしくないのだから、彼らのことを他人事とは思えない。

とにかく、そういう真面目な人たちが都子さんのような真面目な人を殺し、都子さんの両親も悲しめば、同じように実行犯の親たちも悲しむ……こう考えているうちに、なんだか涙がでてきてしまった。

献花の番が回ってくる。都子さんに会ったことはないので親族・知人の方々のような悲しみはない。私が悲しかったのは、そうやって殺し殺されていく中で次々と生まれた数々の悲劇に対してである。私は「天国にいる」都子さんに対して何を祈ったらいいのかわからなかった。都子さんは実行犯が全員死刑になれば喜ぶのだろうか。彼らが死んでも都子さんは還らない。死刑になった者の親たちが悲しみにくれるだけである。

いったい何が悪いのだろうか。あの教祖がすべて悪い、のだろうか。もちろん彼が犯罪の第一人者であめことはまちがいない。彼が人の命と心を踏みにじったことは許し難い。聖者どころか悪魔である。だが、彼は生まれた時から悪魔だったのだろうか。目が不自由なのは彼の意志ではない。家が貧しかったのも彼の意志ではない。彼の家が豊かで目が完全に見えたら、悪魔にはならなかったかもしれない。全ては条件によって変化する。そして人生は本来理不尽なものであり、その不条理を直視して超える教えが宗教であろう。

「怨みは怨みによって果たされず、忍を行じてのみ、よく怨みを解くことを得る。これ不変の真理なり」 (法句経)

結局、私は都子さんに、許しを請うことにした。子供を殺してしまった中川被告は「消えてしまいたい」そうである。林被告は法廷で叫んだそうだ。彼らの苦しみも遺族の苦しみも「苦」であることに変わりはない……。私は今、社会福祉関係の講義を受けながら仏教を中心とした宗教を勉強している。今は亡き都子さんのためにも、取り返しのつかないことをしてしまった被告たちのためにも、一日一日を精一杯生きることがせめてもの償いではないかと思う。

20代、男性、元サマナ


追加3●〜君が消えた夏、1994〜

カナリヤの詩1999年2月15日第47号に掲載

以前、カナリヤの詩に寄稿した文章で、真の被害者にくらべれば、僕もオウムが起こした事件について、リアリティーの認識が足りない≠ンたいなことを書いたが、今回は、僕自身が経験した、ある出来事について書きたいと思う。

それは、おそらくキリストのイニシエーションの時の事故で亡くなった、友人のS君のことである。では、僕の記憶をさかのぼらせてみよう。

1 入信

彼が入信したのは、93年の10月〜12月ぐらいだったかな?そのころといえば、麻原が激命悪趣ポア≠ニか言って導きに力を注いでいた時期で、彼はその流れのなかMという人に導かれたらしい。

もともと彼はチベットに興味があったらしく、入信前か入信してしばらくしてからか知らないが、一人でチベットを旅したそうだ。それに当時、NHKスペシャルでチベット死者の書≠ェ放送されて、オウムもそれを利用して信徒を増やそうとしてたので(レジュメまで用意して)、その流れの中で捕まったのかも?

2 変化

だが、入信して間もなく、麻原の[毒ガス攻撃されている、出家できるものは出家しなさい]という一連の説法の流れを受けて、準サマナとなる。この時も、親とオウムとの間で心が揺れる(やめる!)(やめない!)だのいろいろあったらしいが、結局準サマナとなり、支部に常駐することになる。

彼と親しくなったのはそれからで、道場に行けば片隅でマハーヤーナ5回読みをやっていた彼の姿を思いだす。また投じ、学生を導くということで、大学に“ジュピター”というダミーサークルをつくったことがあったが、僕と彼はサクラ役としてちょくちょく顔を出していた。

3 ある出来事

カナリヤの会の人なら知ってると思いますが、M県H市の高校教師に導かれた学生が麻原の説法会のあとそのまま出家するという出来事があった。このときは麻原自身がその学生達と面談し、いろいろアドバイスしていた。

その時、その学生の親や関係者が心配して来ており、支部の周りをマークしていた。支部のサマナは「その子はいません」と真理のためのウソをついていたが、その後、どのようにその子を支部から出そうということになり、カツラとメガネをつけ、サマナ服を着せ、ダンボールを運ぶサマナに化けて道場を出ようということになり。僕とS君、その他の人もその子を囲む形でその仕事をしている信徒の役として演技することになる。

エレベーターを降り、ビルの出口に近づくと、やはりどんなに変装しても親は子供のことがわかるのか、(それか演技がヘタだったのか)すぐにバレてしまう。ここで一悶着あったが、結局その子は教団の車に乗り込み去ってしまう。

車にすがりつきながら泣き叫ぶ母親を見て、(ああ、とうとう僕の入信後にワイドショーで扱われそうなことがおきちゃったな、しかし出家にたいする教団のラディカルさは危ないな)と思いつつ、初めての経験で足がガクガク震えていた。

この場を借りて、当時の関係者の方々にお詫びします。

4 キリストのイニシエーション始まる。

彼は94年4月以降も支部に常駐し、マハーヤーナ5回読みやビラ配り、勉強会の時のサマナの手伝いなどをしていた。その後キリストのイニシエーションが始まり、学生は任意の布施で受けれることになり、僕も受けれることになったが、一緒に行くメンバーとして、僕とS君、あとSさんという人と行くことになった。

出発の数日前に、道場で一緒に時刻表で在来線の時間をチェックしながら、

僕『あれって(キリストイニシエーションのこと)、自分のカルマが解るらしいが、それで温熱やるらしいけど、あれって危険だから尊師が勝手にやるのを禁止した行法でしょ?それをやるってことはそんなにすごいイニシエーションなの?僕、家で練習してるよ。』

S君『僕もサンガの風呂で練習してるよ』

僕『その時、サットバレモンのホット飲んでる?』

S君『いや、僕はただ単に熱い湯に浸かっているだけ』

なんていう会話をしたのを覚えている。

ということで当日となり一緒に富士まで行く。電車に乗ると、S君は、支部の生活から一時的とはいえ解放されたという思いが出たのか、窓の外の都会の景色を見ながら「久しぶりの現世だな〜」なんて言っていた。また着く前に食事は済ませておくということで、その日は支部からの許可つきでコンビニで買ったパンほ食べていた。

車中では、このイニシエーションでは自分のカルマ、データが試されるという噂を聞いていたので、僕とS君は(データを入れ替えよう!)ということで、まるで試験前に最後の悪あがきをする学生のようになって教学していた。(僕はナーローパ、S君はタターガタアビダンマを読んでいたように思う)

5 上九一色村

その後、(おそらく)第一上九に到着、バスが着いた時、サティアンの入口でサマナと地元住民とがなにやらモメていた。赤いランプが点滅してるのも見えたので警察も来ていたのかもしれない。今から考えると、94年7月といえば悪臭騒ぎがあってピリピリしていた時期だったので、それに関係したことだったのかも。

サティアン内では他の支部の人達とも合流。その時、後にケロヨンクラブで有名になる女性Tさんと同じグループだったが…

6 イニシエーション、そして別れ

ウソ発見器、地獄のビデオ、バルドーの導きとかはS君と別になってしまうが、最後の修行の時はみんな一緒だった。この時、石井久子の指導の下、立位礼拝やヴァヤヴィヤをしたのだが、僕の右後方でダルドリーシッディを起こしてピョンピョン跳んでいたS君の姿を覚えている。

そしてLSDを飲んでシールドに行く前にオムツをつけるとき、「これ、どうやってつけるんだろう ?」といった会話をして、別々のシールドに別れたのが、S君との本当の別れになってしまう……。

その後LSDのトリップはおわり、富士で温熱をするのだが、富士行きのバスにS君の姿は見あたらない。バスで支部から一緒に来たもう一人の信徒Sさんと会い「どうだった?」なんて会話のあと

Sさん「あれ、S君は?」

僕「いや、知りません」

Sさん「来てないの?心配だね」

なんて話してたが、結局S君を乗せないままにバスは富士へ。そしてそのままイニシエーションはおわり、僕は帰る。

7 帰還

支部に帰り、8月になってもS君の姿を見かけないので(あれ、どうしたんだろう、帰ってないのかな?)と思う。支部のサマナですらS君の事に関して何も知らさせていないらしく、

逆に「○○君、S君知らない?一緒に行ったんでしょ?」とか聞かれ

僕「でも僕、温熱の時は別でしたから」

サマナ「あら、そう、どうしたのかしら?」

なんていう会話があったくらいだから。

今から考えれば、イニシエーションで事故とはいえ亡くなった彼のことを、教団が公にするはずがなく、(なにしろ法律違反だから)極秘に処理されているのを(当時、開発した焼却炉かな?)支部のサマナが知らなくて当然だが…

しかもS君にとって不幸だったのは、ヴェールカンダキャー師と違い、家出同然に支部にした準サマナで、正式な出家はしていないのでサマナ番号はない、そして支部でも一部の人しか知らないということで教団が隠そうと思えば隠し通せることだった。実際、その後、支部では彼が消えたことに関して

・ そのまま出家したらしい

・ 調子を崩して AHIに行った

とかいう憶測だけが一人歩きしてそのままだった。僕もあおて追究することはしなかった。そして94年は過ぎ、激動の95年を迎える。

8 TIME STOP

95年の激動の中、僕自身が準サマナになり(ここから現在までの心のプロセスについてはおいおい書いていきたい)S君のことは思考の中から消えていた。

ただ破防法適応うんぬんの時に、公安警察がたまに家に来たので“利用できるものは利用したれ”と思い

「94年の夏にいなくなったS君について調べることはできます?」と聞いたら、その後

・ 免許証の更新に来ていない

・ 家族から捜査願いが出されている(だったかな?)

という情報を得る。

僕は(そのまま出家したとしても免許証はオウムにおいてワークをする際、必要なものだから更新してないってことは、やっぱり死んでるな)と思う。

9 TIME MOVE AGAIN

そして98年4月に滝本さんと初めて会った時、ふとS君のことに触れたとき、滝本さんがS君の親から相談を受けていたので、イニシエーションの時の状況を話す(この時はまるで取り調べで調書をとられる被疑者のようだったが)

また、カナリヤの会の人で、おそらくS君の死に立ち会った元AHIの人がいて、その人の調書を滝本さんに読んでもらう。そこでは、医学的用語を含んだS君の死へと至る状況というのが、生々しく、リアルに表現されていて、さらにS君の死に確信を強める。と同時にLSDの量によっては自分も危なかったと背筋が寒くなる。

カナリヤの詩42号で、ペンネーム 海さんが書いた林郁夫さんの『オウムと私』の書評の中で

キリストのイニシエーションでは、林さんが心停止した人に「戻って来い!戻って来い!」と何度も言いながら、心マッサージを続けていました。私は、もうだめだと思っていたので何度も心マッサージを続ける林さんに驚きました。再びその人の心臓が動きだしたと時は、林さんに尊敬の念を抱きました。林さんは人工呼吸器や色々な薬剤を使ってできる限りの治療を行いましたが、その人は再び心停止を起こし亡くなってしまいました。林さんは辛そうな表情でポツリと「我々もまだまだダメだな……」と言いました。

とあるが、その心停止して亡くなったのが、おそらくS君であろう。

ちなみにこの文章によって林郁夫さんの人柄を再認識し、彼の法廷での言葉にウソはない(記憶のズレはあったとしても)と思いました。

10 両親との対話

その後、滝本さんの紹介でS君の両親と会い、イニシエーションの時の状況を話す。いろんな話を総合すると、やはりS君は94年7月の時点で、イニシエーション中の事故で亡くなっているという結論に至る。

戸籍上では、まだS君は生きていることになっているので、命日だけでもはっきりさせて墓を建てたいとのこと(しかしそこには、S君の遺骨すら入ることはない)

しかし4年間、行方も生死も分からない息子のことを思い、この日の僕の証言で絶望ともいえる現実をつきつけられたのに、笑顔で僕を見送ってくれた両親を思うと、胸が痛みます。さぞ辛い4年間だったと思います。

そして先日、S君の父親が亡くなったという連絡を受けた。4年間、行方不明の息子のことを思いながら仕事などしたツケが体にはねかえったのか、ご冥福を祈ります。残された母親(息子はもう一人いるらしいが)のことを考えると、僕がお手伝いできることは何でもしようと思う。

このように、テレビに映らない、新聞にも載らない、刑事事件にもできないオウムの悲劇、というのはあるのである。ホント僕がニューナルコにかけられなくてよかったよ。

ちなみに、最近この話題に触れたとき、

「あれって(イニシエーションのこと)やる前に、何が起きても尊師、教団に責任はかけませんっていう契約書を書いたでしょ、それに私は薬物の件で警察の取り調べ受けたけれどシロだったわよ」と言って、キラめく笑顔で街中で“真理発信”を配ってた女性サマナの方

まあ僕がここまで書いたS君に関する一連の出来事も、ガンダーさんに言わせれば、「死ぬことに恐怖があるから、そういうふうに大騒ぎするわけですよね。死ぬことに対して。だから、死を知ればいいんじゃないでしょうか」

ということになるのかな?(でも村井さんが死んだ時、大騒ぎしてたな、それに死が恐くないというなら上祐君も防弾チョッキ着ないと思うんだが…)

これまで書いてきたことは、別にハープによる電磁波攻撃で操られて書いたわけじゃないし、まして公安やフリーメーソンから給料を貰って書いたわけじゃないので、現役の人は、こんな法友がいたということだけは記憶に入れておいて下さい。

11 最後に

S君、君がいなくなって5年目の夏を迎えようとしている。

オウムは相変わらず寄生虫の様に活動しているよ、

もし君が、あのとき死なずにいたら、95年の激動をどのように見たんだろう?

今の現役信者のように(尊師には深いお考えがある)とかいって残っていたかな?

それとも自分の思い描いた修行、救済とは違うということで去ってたかな?

それも今となっては知る術はないが……

今回、僕の記憶が薄れる前に、君のことをカナリヤの詩に書いてみたよ。 いいよね?

NAOKI


追加2●手記 ー女性、事件発覚後の元在家信徒

1995年−1998年 平成10年11月11日作

まだ甘えているところが多く、ボッーとしていたり、泣いたりして過ごす日々だったのですが、諸々の事件の被害者の方々の苦しみや、今、法廷で裁かれている方々の苦しみ、私より大きな傷を負っている元サマナや元信徒の方々の苦しみを思えば、私など泣く資格もなかったと反省しています。

よりによって、事件後に入信し、布施やビラ配りなど、教団に貢献し続けてきました。私の軽率な行動が、どれだけ被害者の方々の苦しみを増大させる結果になってきたかを思うと、申し訳なくて、どう償えばいいかもわかりません。オウムが真理ではなかったのだと思い始めた時の絶望感とはまた違った意味で、私など生きていて良いのだろうかと思います。

結果的に法を犯していない私は、司法により裁かれることはないけれど、身体が自由の身なら、なおさら、できる限りのことをして、罪を償っていきたいと思います。私は、明らかな「確信犯」であり、「加害者」でした。本当に申し訳ありません。

何ができるのかわかりませんが、でもなるべく早く職に就いて、まずは心配をかけた親と家族から安心させてあげたいと思います。完全な小乗だった私は、少しでも大乗に近づけるよう、また一からやり直していきたいです。オウム真理教に入信する前から好きだった、ソクラテスの“無知の智”、入信するきっかけともなった、その考え方を、いつのまにか私は忘れてしまっていました。

今、いろんなことがわからなくなって、真っ白けになってしまいましたが、観念崩し(?)という意味では、かえっていい状態なのかなーとも思います。もう一度、まっさらな状態から、いろんなことを考え直してみます。本当に、ありがとうございました。


追加1●手記 ー「いま何してる?」のコーナー −−−男性、元サマナ

現在はだいぶおちつき、「死にたい」と思うことが、まったくなくなりました。仕事になれて、お金も少しづつたまってきたことが、その原因だと思います。

社会の人ともよく話をしますし、時間が経つにつれ、オウムの恐怖からも徐々に抜け出してきています。

今、少年による犯罪など、とてもびっくりする事件が多くなってきています。思いやりややさしさが欠けてきていると思いますし、受験勉強などの競争も影響していると思います。マンガも、人をなぐったり倒したりするのが多いです。そういうものがおかしいと思ってオウムに入ったのですが、オウムもまた罪を犯してしまいました。

でも、このままだと、どんどん、ひどい犯罪が増えていくと思います。どうにかして止められないでしょうか。

今この職場で、月に一回しか休めません。みんなくたくたで、イライラしています。日本人は働き過ぎなのかな?とホントに思います。もっとゆとりのある暮らしを目指しています。1日8−9時間以内。

気分がおちこむ原因。天気が悪い日、寒い日、自然がなくビルばかり。話す人がいないとき。

今は、人と話すことが多く、1人になる時間がほしいです。また連絡します。お体に気をつけて。それではまた。


●手記10  『チベットの生と死の書』1997年10月21日

 オウムを離れて既に1年になる。自分なりにいろいろと考えてみた。考える というより、感情の言語化を力ずくで行おうとしていたと言う方が適切かもし れない。悲劇の被害者として自己を客観視したような安易な慰めも、歴史的な 事実に直接触れて無邪気に憤慨することも、私は素直に受け入れるのに躊躇し てしまう。

 大切なのは、事実を事実として認め、人間を人間として認め、人間には個々 の感情があることを認め、個々の感情の背景にはそれぞれ人の生活があること を認め、それぞれの生活はそれが幸福であれ不幸であれ尊重されなけばならな い、ということだと最近感じている。

 私にとって「癒し」があるとするなら、様々な書籍を読んで、オウムが原始 仏教でもなく、大乗仏教でもなく、チベット仏教でもない、と気付けたことだ と思う。特に、ソギヤル・リンポチェの「チベットの生と死の書」(講談社、 大迫正弘・三浦順子訳)は素晴らしかった。仏教の澄み切った安らぎと伝統の 奥深さをひしひしと感じた。恐怖感を掻き立てることなく、生死の深淵と修行 の神髄をやさしく諭す語り口にはオウムにはない本物の凄みがあった。

 あのテロ集団の根本的な誤りは、「教団に属するものは神であり、他は動物 以下。」という徹底した差別意識に元づく攻撃性、高慢、偽善にある。本来の 仏教によれば、神も人間も動物も構成要素を細かく分析すれぱ実体は無く、心 によって「それである。」と断定的に捕らえることにより生じる「現れ」にす ぎない。そして、実践していくに従い、心が伸ぴやかに優しくなっていくはず である。罪を犯した者のようなコソコソした荒んだ心になる者が一人でもいる ならその教えは真理とは言い難いのではないだろうか。

 村上春樹氏の「アンダーグラウンド」を今読んでいる。重い障害を負わされ た女性が村上氏の手を強く握ったという下りには、胸が熱くなった。何と惨い ことをしてしまったのか。どのような言葉もこの悲しみを表現するには、軽く 浮き上がる。この重い現実を受け止めて声にしようとすれば、狂おしい叫ぴに しかならないだろう。
 このように言うと偽善に聞こえるかも知れないが、私が「癒された」するな らぱ、その心を苦しみに悶えている人に少しでも受け取って頂きたいと痛切に 思っている。                          

(30代、男性、元コンピュータ事業部)

 


●手記9  (7年間出家していた元信者 20代男性)

1997年6月25日

 子供の頃から海が好きで、例えば小学生の頃など独りになると、海の絵ばかり描いている時期がありました。でも出家してしばらくして、海を見てもあまり心が動かなくなってしまっていました(出家してても海を見る機会が何度か あったのです)。

 オウムで大乗仏教の話になると、ことさら強調されたのが、例えば飢えた虎 のために自ら肉体を捧げるとか、飢えた母子のために自分の乳房を切り取って 食べさせるといった、釈迦牟尼仏の前生の逸話でした。これらの話によって、 私は『自分をなくすことが偉大なんだ。』という考えを一層強めたように思い ます。そしてこれこそ菩提心であり、四無量心なのだと思い込んでいたように 思います。

 今でもオウムを信奉しているある人々の心の内に『自己犠牲』という言葉が あるかもしれないと考えます。『尊師はカルマの悪い人々のために自ら犠牲に なってるんだ。』。『だから我々も尊師のために全てを捧げるべく努力しよう。』 と。実際のところ自分たちが演じてしまったのは衆生のためではなく、尊師の 『犠牲』、というよりは『生けにえ』だったのだと言ったら、表現が汚なすぎるのでしょうか。

 最初はオウムの持つ神秘的なところに魅かれてしまいました。そして、自分 が寝そべってテレピを視ている間も、魂の幸福を願って激しい修行をする、ス トイックさに魅かれました。
 出家して初めの頃から、辞めるときまでずっと支部活動をしていました。はじめは経理担当で雑用係でもありました。

 事務上の間違いを起こして、叱られて、よく落ち込んでいました。自分の無 能さに落ち込み、悩んでいる頂の時に『全ての魂が苦悩を乗り越え……』という詞唱を唱えていて、自分がうまくやろうとおもうのではなくて、他人のこと を考えながら行動すればいいんだと思いつき、心が楽になったので、この思い つきには以後、始終固執しました。そのうち少しずつ在家の信徒に教義について話すことが中心になってきました。自分はなかなかステージが上がらず、いつまでたっても、師になりませんでした。

 結局、最後まで師になりませんでした。青山の火炎ビン投火事件、地下鉄サ リン事件、村井刺殺事件などがあった頃、青山にいました。いろんなことがあっ て、頭がおかしくなりそうでした。脳が宙を浮いてグルグル回っているような 感覚がありました。でも、オウムじゃないと思ってました。徐々に信徒や、自 分が信頼をおいていた幹部達が辞めていきました。

そして、いろんな信徒に会って行くうちに、『松本(剛)君を匿っていた信徒に会った。松本君は自分が関 与していると言っていたらしい。』という話や、テレビなどで報道されている 内容などを伝え聞くうちに、考えが変わっていきました。それでも法則は真理 だと思い込もうとしました。でもどんどん精神的なバランスが崩れていきました。

 ただ、オウムの中にいれば、お互いを大事にするというか、とても安心感が得られていたということはありました。私の両親は夫婦仲が悪く、私がものごころついた頃から、父と母が口をきいてるのをほとんど見たことが無く、喧嘩 をすることすらめったに見ることの無い、冷戦状態が十数年続いていました。

他にも諸々の間題がからんで、出家前はかなりすさんだ精神状態にありました。 オウムの中での安心感というものは、今からすると健全なものとはいえないか も知れませんが、当時の自分にとっては治療薬的な意味合いが、個人的にはあっ たように思います。

 人間が成長過程における心的外傷体験によって、内面が空虚になると、他人をやたらと自分の望み通りに操作しようとしたり、他人を破壊するまでつきま とったりする人格が形成されることがあるそうです。麻原は特にそれが強かったのではないかと思うことがあります。(基本は自己同一性障害と自己抑制障害なのだそうですが)日本にはそのような人格的傾向を持った人的な社会が形成されているんだそうです。

そうまでいわないまでも、例えぱ『おまえは三度 三度ちゃんと飯を作れ。』とか、『わたしの彼氏になる人は背が高くて優しく て、ああしてくれて、こうしてくれて……。という発想(自分も含め)自体、 相手に生けにえになることを強いている。という「厳しい見方をする心理学者 もいるようです。生けにえになんかなりたくもないし、誰かになってほしくもない。

 もし世が世ならオウムのような団体に属していた自分は…例えぱギロチンと か、火あぶりの刑に処されていても全然おかしくなかっただろうと思います。

でも今自分は生きていてこのような手記を(ほとんど自分の気持ちの整理のために書かせていただいている)書かせていただいています。

今、学校へ通ってますが、そちらのほうへ警察の方から知らぬ間に、元オウム信者がいるから用心するようにと警告されていたそうです。学校側は『真面目にやっているから、うちの学校の生徒の社会復帰の妨げになるようなことは絶対にしないでくれ。』 と念を押しておいてくれていたことを、ずっと後になってから知りました。過去を打ち明けた新しい友人は『悪しき集団にいたからといって、君が悪しき存 在だとは思わない。』と励ましてくれました。両親は必死に自分の未来について考え、助言と経済的援助を与えてくれました。もし社会が寛容でいてくれな かったら、今の自分は存在していないことは明白です。本当に申し訳ありませ ん。

 出家生活中、最後に見た、沖縄の海にはさすがに心を動かされました。そのせいというわけではないのですが数ヶ月後にはオウムを抜け出していました。


●手記8  (30代 男性元信者) 1997年6月25日

 僕が最初話すことは、人によっては、こいつはまだ洗脳が、解けていないと 思うかも知れませんが、僕の経験を話します。

僕は何年もオウムで出家生活を していたのですが、最後の一年くらいは、いつも、もうやめて普通の生活がしたいと思っていました これはオウムをやめる3ヶ月前ぐらいだったと思いま したが、神秘体験をしました。昼寝をしてたら、自分が鉄板の上に縛られていてその鉄板は自分の体の下半分が、め形に彫られている鉄板がおりてきて、自分が鉄板にピタリと挟まれ何万年も閉じこめられるという体験でした。

「あ−こわい体験をした」と一言って目覚めると、そのすぐあとに「説法が ありますので富士にすぐきて下さい」と言われ、みんな富士に集まりました。 麻原があらわれて説法が始まり、最初どんなことを言っていたか忘れましたが、 その後「たとえばピッタリと鉄抜にはさまれる地獄がある」といった話をした のです。この時、普通のサマナだったら麻原の神通力によって体験したと思う でしょうが、僕がこの時思ったのは「変だな」ということです。

 その時の体験をした理由を自分はよく知っているからです。僕が20歳の時、 「魂の科学」という本を読んでいてその中に地元素の話が出ていて、たとえば 人間の肉体は鉄板に密閉してとじこめるとすぐ死んでしまうでしょうと記載が あり、そのような地獄があれば恐いなと強烈に思い、瞑想で地獄の住人の苦しみを体験しようと修行していたのです。その時の修行でつちかった妄想を体験 したのだと思っていたのです。僕は妄想でオウムに残るつもりはないと考え、 その後オウムをやめたのです。

 何年かして地下鉄サリン事件がおこってから、友達のもとオウムのE君から、 テレビ局が仲介して、E君とカムトウル・リンポチェが対談したビデオが送られてきました。

 その中で、E君が、麻原が、昔の聖者で魚を殺してその魂をポアするという 話を言っていた、と質問しました。するとリンポチェはこんなたとえ、話をし ました。

 昔インドに二人修行者が観音菩薩と出会えるように念じながら修行していた ら、神様が出てきて「チべットにソンチェンガンポ王という王がいて、彼は観 音菩薩の化身でチベットに仏教をひろめようとしている、彼は頭がニつあるの が特徴だ」と。

 二人の修行者は、頭が二つある観音菩薩の化身をさがしてチベットに行きました。二人の修行者がチベットに着くと、チベットの路上ではたくさんの死体 がころがっていました。

 二人の修行者は、これは神様の観音菩薩の化身と言ったが、本当はチベット の王は魔神に違いないと恐怖を感じ、急いで逃げ出しました。その途中、王の行列に出くわし、王は二人の修行者に何を逃げているのかと尋ねました。修行 者は路上に見たものを王に話したのです。王はそんなことはないだろうと二人 の修行者とその路上に行きました。さっき見た死体はまったくありませんでし た。路上で見たたくさんの死体は修行者の妄想だったのです。

 リンポチェは、二人の修行者がなぜそんな幻影を見たのかと言うと、最初に 見た神様のビジョンで頭が二つあると言う所で、そもそも間違っていた、最初 の時点で間違ってたと言うのです。

妄想は妄想、たとえはたとえ、妄想やたとえと現実を間違えるところで、既 に真理ではないという証拠ではないでしょうか、とリンポチェは話したのです。

 そのビデオをみた後、なにか自分が体験したこととあわせると考えさせられます。

 今でも、神秘的な要素があるオウムの現役の人がいますが、どうでしょうか。 もし来世というものがあるなら神秘的要素があっても狂信的(強烈な固定観念) 妄想が多く、現実がわからない人は、どんな世界にいくのでしょうか。正しさ のこの一番にくるもの、それは体験ではありません。二人の修行者は体験した ものを一番の正しさの根拠としたため、間違ってしまいました。

 現役の人には、正しさの根拠と言うものを、よく考えてもらうことを願って、 話を終わります。