元信者たちの手記 11〜40


追加40 ● 麻原さんについて思うこと −67号から

2000年10月18日 元出家者 女性

◆ わたしの麻原さんに対する気持ちは死んでしまえばいいと言うよりも存在自体消えてなくなって欲しいというのが本音です。輪廻転生を一応は信じているわたしですが、輪廻を通してもう二度と会いたくない存在です。
地獄が存在するならば彼は間違いなく落ちるでしょう。
でもまたいつか這い上がってきて、自分の欲望を満足させるために人の心をもてあそび、傷を負わせ、人を殺め、恐怖を与えるならば輪廻転生を超越して消えてなくなって欲しいのです。(それが無理なら「河童封じ」とか「○○封じ」などの石塚が昔しからありますが、魂も抜け出せないようななにか新しい金属を誰か開発して、封じこめてもらいたいです。未来永劫!)

◆ わたしが教団を離れる時、真理から離れると地獄に落ちるという恐怖はまったくありませんでした。でも離れた直前は麻原さんを信じていた自分がいました。
オウム真理教はパクリ宗教です。仏教やヨーガの教えのいいところをあちこちにちりばめています。パクリの部分は真実でしょうから、実践すると神秘体験を含め、なんらか変わるの当然なのです。

◆ すんなり離れられた理由は、サリン事件後、もうすでに上層部がいない教団はすでに秩序がみだれ、おかしくなっていて末期症状が出ていました。とてもついて行けない状態です。これは麻原さんの意思ではないと思ったのです。
そして、「麻原さんが本物の仏陀なら、こういう理由で教団を離れても、見捨てて地獄になんぞ落とすわけがない。もし教団を離れたからという理由でわたしが地獄に落ちるなら、そんな薄情なヤツは仏陀の名を借るペテン師だ!!」と思ったのです。

とってもおき楽な考え方ですけど、これって真実だと思います。
世間も、なんの理由もなく騒ぐわけはありません。教団とは距離をおき、じっくり検討しようと思いました。

◆ 教団内にいるときはすべて情報制限されています。
− 真実をしって愕然としました。
− 麻原さん本人が地獄を作りだしていました。

◆わたしは修行によって自分の心が豊かになり、それによってわたしの周りにいる、ほんの少しの人かもしれませんが、その心を伝えることが出来、みんなも、もっともっと幸せになればいいと思っていました。ほかの仲間もそうだと思います。

わたしにとって、麻原さんはわたしの心ともっとも遠い存在の人でした。


追加39 ● ホームページ読者−元信者さんからの投稿− 66号から

2000年10月18日 男性、30代、元信者

◆ はじめまして。---オウムの古い元信者です。---12年前、あの井上嘉浩くんとよくバクティしているときなどに話をしていました。彼はまだ高校生で準スタッフといった感じで気持ちいいエネルギーの少年でした。

◆ 私はといえば、当時ケイマ大師にミーティングの書記を頼まれていたのですが、88年2月を最後にオウムから行方をくらましてしまいました。
最後はちょうどあの白いオウム服を着ることが決まった最初の日だったと覚えてます。当時登場したオウム(サマナ)服が気に入らなくて、世田谷道場で着るのを拒否して家に帰ってしまいました。ほかにもいろいろ離れる理由がありますが、個人的なことですからここでは話したくありません。ただ、自分を書記に選んでくれたケイマ大師に悪いことをしたなーという思いでいたのです。当時、私は麻原の説法のテープおこしや村井氏の指示の元にビラ配りとかしていた記憶があります。

◆ ずっとオウムにいたことを自分の仕事の都合で一切話せない立場にいたため、オウムについては自分の心の中から排除したつもりでいました。サリン事件の時も気になりながら他人事のように目を伏せていた気がします。かって自分が仲良く話をしていた連中が次々にテレビに顔をだしているのを見てかなりショックでした。

◆ また自分の家にとうとう警察が来てしまい親や親類にオウムにいたことがばれてしまい結構大変でした。でも、ラッキーだったのは会社の社員寮に住所変更しなかったことでしょう。警察が来て確実にクビになっていたことでしょう。

◆ オウムのことが今となってすごく気にかかるんです。もはや自分はオウム信者ではないけれど、いまだに修行者ではないけど瞑想者だと思っています。
自分はオウム事件には関わらなくてラッキーだったけど、友人の心は傷ついているだろうしすでに亡くなられた友人(オウム内の事故で)もいるみたいです。
当然亡くなられた被害者もいるわけで、○○個人としては何かとお役に立てないものかと考えております。
 ※この文章に関して転載可ですので「カナリヤの詩」に転載してもかまいません。


追加38 ●思い出話「困った時の刑事頼み」−第65号から

2000年10月18日 ペンネーム五反田の夜

◆ 95年の4〜5月頃の事、当時は警察の強制捜査が頻繁に行われていた時期で、地方支部の周りにも公安が張り付いており、ビラ配りに行ったり、買い物に行ったり、逮捕された人へ差し入れに行ったりするだけでも、すぐにバレる尾行をされたもんだった。

◆ そんなある日の事、その当時マスコミ報道の煽りというか逆効果で、オウムの書籍が書店で売れている状況だった(らしい)。

そこで、支部の出版営業のサマナは大型書店を営業するワークをしていたのだがそのサマナは車の免許を持っていなかったので、他のサマナに運転をさせて書店に行っていたのだがその日は他に人がいないので、僕が運転をするハメになってしまった!
しかもAT車じゃなくMT車で・・・

◆ 案の定、公安が尾行してきたのだが、ただ尾行されてるのもつまんないので、フェイント進路変更したら公安の車と接触しそうになってしまった!!
その後、信号待ちの時に、その接触しそうになった公安の車に乗ってたサングラスをかけた刑事が(さすが公安!サングラスが似合ってましたが)車から降りてきて「危ないじゃないかー」と芝居がかった口調で言ってきたので、(うるさいなー)と思いつつも、きちんと「スイマセン」と謝りました(よかった道路交通法違反とか言って逮捕されなくて^^)

その後、書店へ到着、駐車場へ車を止めようとしたのだが、駐車場が狭く、また前後左右に車がビッシリと止めてあったので、運転が下手な私は切り返し等でマゴついてしまっていた。
すると(先程の接触しそうになった車とは別の)公安の車から刑事さんが出てきて
− − 「どうした〜?」
と聞いてきたので
− − 「いやーちょっと車庫入れが・・」
と答えたら
− − 「やってあげようか?」
と言ったので、ご好意に甘えて、
− − 「お願いしまーーーーーーーす」
と頼んでしまいましたまあ(功徳を積ませてやるか!)ってな感じですかね、と思いつつ(オウムを弾圧している公安に借りを作っていいのだろうか?情に弱い私はこれでは今後

− − 「支配流転双生児天の裁きによって地 獄におちるぞー!」
というシュプレイコールができなくなるではないか)とも思いましたが、しかしオウムの車両のハンドルを握る公安警察というのも、よく考えれば凄いシチュエーションだなー、写真に撮っておけばよかったなーということで、無事に車庫入れをしてもらった後

− − 「ありがとうございます!」
とお礼を言って
− − 「では営業してきます!」と本屋へ。

帰りは何事もなく駐車場を出て支部に帰ったのだが、その時も尾行は続いてました公安の人にとって、この日は何の意味があったのでしょうか?ただの車庫入れ係だったのでしょうか?
と、そんな思い出話しでした

PS 車庫入れしてくれたU刑事!ありがとうございました!その後お変わりないでしょうか?


追加37 ● らーこさんへの現役さんからの返事FAX−第63号から

追加27.28に対して、男性サマナ??

◆富士の修行班の思い出の話(60号8ページ)は楽しく読ませていただきました。

食事の話は、今も昔もオウムではつきませんからね。私もらーこさんの恩恵に預かった一人なんだけれど、あのときのオウム食のおわんの盛り方は、(あれだけの数を手を抜かず!!)具もなるべく均等にという、殺伐の中、唯一心が温まるワークぶりだと思ってました。お礼の手紙がくるのもわかります。食にとらわれない人もいたかもしれないけれど、あの状態では修行班にとって涙物の変化だったと思いますよ。

◆ しかし何でみんな、あれっぽっちにゆっくり時間かけて供養できるのか不思議だった。私の場合、しいたけを口に入れて「これはまさに肉のようである」なんて考えながら食っても3、4分で終わっちゃうから、間が持たないのが悩みだったのに、他の人は観想とかしてたのかな?

◆ 最近も去年○○まで○か月も修行に入って(入れられて)たんだけれど、○○○○○○師の供養のカレーはひどかった!(嘆)この人、成就してから、ほとんど供物分けか修行監督しかしてないはずなのに供物作りくらいちゃんとしてほしい。カレー(粉)といえば、だまにしないこと以外に何かポイントがあるのか?ワザとやってるのかセンスがないのか、いつも冷えた玉だらけカレーを配られることになる。○○○○○○○○○師なんかが作ると、配分寸前に芸術的なカレーが完成するのにね。

◆ とにかく今は、補償だとかいって外で働いているから、普通の食事してるせいかとりあえずとりあえず健康そのもの。

◆ ではお元気で。


追加36 ●「ブタの餌」−富士修行班にて (1990年)−第62号から

2000年7月8日、元出家者、女性

◆ それは選挙のあと、わたしがごねてお弁当屋さんから生活班にかわってずい分たってからのことです。

◆ 当時お弁当屋さんにいたおじさんで、もと板前さんということで、妙にプライドが高く浮いている人がいました。やはり浮きすぎたのかお弁当屋さんのワークをはずされて、どういういきさつか富士に来ていました。

◆ なにか尊師から特別のワークをいただいたとかで、新しいサマナの食料を開発するということで、富士の厨房でなにやら作っていました。富士の厨房は結構広いところで、ガスレンジがいくつもあるところでした。レンジがいくつもあるところでした。

◆ そしてそのおじさんは、おれは尊師の特別ワークをやっているんだとかで胸を張り、低い鼻も1.5cmくらいは高くなっていたように思います。

◆ がしかし、サマナの食料の試作品を作っているときは、ずい分はなれた一番奥にあるガスレンジのあたりで、こそこそやっているのです。なにかお団子のようなものを丸めて作ったりしていました。

◆ そうなれば興味津々、煩悩の固まりの私としては知りたくてたまりません。でも近寄ると「おれは尊師の特別ワークをやっているんだ、あっち行け!!」とか言われてしまうのです。とにかく誇り高いワークのわりにはコソコソやっていました。

◆ そんなある日、そのおじさんも気がゆるんだのか、材料の入った袋をそのまま置いてちょっと席をはずしたのです。チャンス到来、すかさずその袋を見た私は思わず大きな声をだしてしまいました。

「ええ〜っ、豚の餌なの?」

◆ そうです、その袋にはなんと・・・「子豚の飼料」と書いてあったのです。大手の家畜飼料メーカーの大きな米袋のようなものに入った、紛うかたなきほんまもんでした。(ああ驚き!!)

◆ 当時は尊師がそのおじさんに対して行なったカルマ落としか、はたまた強烈なブラックジョークかと思いましたが、今となってみればそれって、麻原さんの本心だったのでしょうね。
(とんでもないおやじだ!!)

    ちなみにそのおじさんのワークはいつの間にやら立ち消えとなりました。
                                                              ペンネイム らーこ


追加35 ● 支部の思い出 −第63号から

2000年7月8日、元出家者、女性

◆ キリストのイニシエーション前までは、井上さんと同じ場所でのワークでしたが、エゴというか自我が強かったわたしは(笑)、井上さんにとって扱いにくい相手だったのでしょう、そうこうするうちに地方支部配属となりました。教団側も扱いにくいわたしを持て余し、地方へとばしたのでしょう。(わたしはのびのび出来てうれしかったけど♪)

◆ 信徒さんの中には自衛隊の方もいらっしゃったので、そこにもちょくちょく行ってました。そんなある日、井上さんから電話があって「なあわかるだろう?自衛隊のところには我々CHSが行くから君は行かないでくれ」と、言われたのです。

◆ 「はい・・・。」と、答えたものの、内心はなんで???わかるわけないじゃないと、むかっ腹立ててました。そのころCHSが諜報省の略だとまったく知らなかったわたしは、井上さんのたんなるお布施集めなどの得点稼ぎと思っていたのです。

◆ さっそく自衛隊の方のお宅に連絡して、こうこうの理由によって井上さんが行くことになりましたと伝えたところ、すごいブーイングでした。井上さんたちは○○支部をすっとばし、すでに何回か行っていたようでした。

◆ 井上さんがなにを言われようとも自衛隊の方々の強いご希望により、私はCHSには内緒でこっそりと自衛隊の方のところに行っていました。(諜報省をあざむくとはちょっと笑えます。)

◆ とにかくCHSには絶対秘密ということで、みなさんのところに伺った時、彼らは深刻に、

「じつは井上さんが内部の情報をよこせと言って来るんです
・・・・どうしたらいいですか・・・・。」

と、わたしに相談を持ちかけてきました。

◆ もうびっくりです!!(なんでそんなことが必要なのか、とても怪しいものを感じました)ここで帰依あるサマナなら、ステージの高い者の言うことを聞くのが絶対で、井上さんの言葉の後押しするのが本当でしょうけれど、井上さんにとって相手が悪すぎたのです、この私だったから(笑)思わずとっさに

「言いたくないことは言わなくていいんじゃないですか?」

と答えてしまいました。「どこの会社でも企業秘密というものはあります。それよりもなによりも、あなた方は国を守る仕事でしょ?言っちゃあいけないんじゃないの?」と、逆に尋ねてしまったのです。「いろいろあるでしょうけど・・・入隊のパンフレットかなにか渡しといてください。」と、涼しい顔して思わず言ってしまいました。(笑)

◆ 自衛隊の人たちはパッと明るい(良くぞ言ってくれた!)という顔に変わったのを今でも覚えています。そうすると、みなさん口々に「井上さん、こんなのくれたりするんですが・・・仕事の内容なんて人に言える分けないですよねえ。」と、わたしにぐちるのです。(会社組織でもそうじゃないですか、自分の部署のこと同じ会社内であっても他の部署に話しませんよ、それなのに真理の名のもとにおいて、そんなこと聞き出そうとするなんて、まったく非常識な!!)

◆ このとき教団のこと、とても恥ずかしく思いました。「いやなことを無理強いしたり、物でつろうとするなんて・・・」と。当時サマナでも個人持ちしていないビデオテープや、筋力トレーニングのヘラクレスなどを渡しているのです自衛隊の人みんなに。時々出向いていましたが、わたしのやることは勉強会ではなく、雑談会だったので楽しかったのでしょうね、わたしも楽しかったし。(もっともわたしに気の利いた説法など出来るわけが無い、出来てたらもうちょっと出世してたかも、おほほ!!)

◆ 私が勉強会を開いているその日に、いきなりCHSの人が来ることになった日もありました。そのときは自衛隊の人が、私を温泉センターに連れて行き隠すのです。(笑)終わったらまた、「やっと帰ってくれましたよ。」と、迎えに来てくれるのです。「やれやれやっと帰ってくれた」と口々に言うのです。はっきりいってみなさんCHSの人嫌がっていました。(もし、当時私が自衛隊の人のところに行っていることがCHSにばれていたら、ほんとうのところ、わたしも殺されていたのかも知れないと、今ごろ思います。)

(また、自衛隊に行くことが、CHSにとって尊師命令だったのなら、なんで勝手に行っているわたしのこと、教祖さまは神通力でおわかりにならなかったのかしらねえ、摩訶不思議な神通力ですねえ。)

◆ この数ヵ月後に地下鉄サリン事件は起きました。

◆ 自衛隊の方たちは最後の最後まで私が来ていたことを隠しとおしたのか、事件後どこかのテレビ局が、オウム真理教が○○の自衛隊にも行っていたという内容のものを、全国版で放送したのでしたが、井上さんが自衛隊に行っていたことは、すでにそのころ世間の知るところとなっていました。

◆ 事件後、そのときの自衛隊のかたは、辞めていかれたようでした。とても申し訳ないことです。でもきっぱり言い切れます。○○の自衛隊の方は誰一人内部のことなんか話していません。仕事に誇りを持った方々でした。井上さんに渡した情報があるとするならば、自衛隊の案内書だけです。○○支部での懐かしくも悲しい思い出です。 −ペンネイム らーこ


追加34 ●コロンボ空港事件 (1992年5月、スリランカ)−第63号から

2000年7月8日、元出家者、男性

◆ 1.緊急事態発生?
 私達は座席に着き離陸を待っていた。飛行機はスリランカ航空のチャーター便。空港は夜。警告灯が滑走路や管制塔の所々にきらめいている。明日の朝には日本に帰れる。誰もがそう思っていたはずだ。 すると突然、

「降りて!早く、降りて!」

◆ 男性の差し迫った大声が機内に響き渡った。シーハ師だ。何があったんだろう。ドアの脇に立ち大きな身振りで外に出るように促している。表情は真剣そのものだ。緊急事態が発生したのだ。火災の発生か?みんな次々と席を立ちドアの方へ向かった。
 スチュワーデス達は動揺していた。席に着くように言っていたのかもしれない。しかしその声は堂々とした動作で話すシーハ師のはっきりとした日本語に掻き消されてしまった。

◆ 「契約違反があったから、降りて!」

◆ 契約違反?何だろうそれ? タラップを降りていくとき、麻原の姿を右斜め下に見下ろすことができた。搭乗用のバスの入口から身を乗り出し、取り囲む空港の関係者に何か猛然と抗議している。通訳をしているのは上祐だろうか。麻原は激しく怒っていた。
「チャーター便なのに、他の人が乗っていたんだって。」
誰かがそんな噂をしていた。
 タラップを降りたところでは、女性のサマナが、

「座って、マントラを唱えて下さーい。」

と信徒に指示していた。
◆ 大型旅客機のけたたましいエンジン音を至近距離で聞きながら、生暖かいアスファルトの上に座って私達はマントラを唱えた。まさに異常事態である。
 しばらくすると、空港ビルに向かうバスが迎えにきた。今日はもうこの国を離れることはできない。バスの中では誰も一言も話さなかった。私は不安に押し殺されそうになった。日本に帰れないかもしれない。そう思うとやるせない気持ちになった。

◆ 2.成田空港
 そもそもこのスリランカ救済ツアーは出発からトラブルの予感があった。
 成田空港のロビーで麻原が拡声器を手に説法を始めると、空港の警備員がやめるように言ってきた。麻原が話し続けると、警備員はむっとした表情で近づいてきた。もう一歩踏み込むと麻原の体に触れるその一瞬前に、側にいたアーナンダ師がふたりの間に素早く割り込んだ。

◆ 空港施設内での演説は禁じられている。いや、旅行の説明だ。麻原が話している後ろの方で、アーナンダ師と警備員の激しいやり取りが続いた。さすがの麻原も周りを気にしてか早目に話を切り上げてしまった。

◆ 3.「死と転生」
 スリランカではダンス・オペレッタ「死と転生」の公演を行った。大事故で片足がほとんど動かなくなったジェーンティー師が必死のリハビリをしてハンディを感じさせないほど踊れるようになったのを賞賛するのはそれを知るオウム関係者だけの話で、2月前のロシアでは「音楽は良いけど、何であんなに踊りが下手なの?」とかなり辛口に批評されていた。
 公演を見たスリランカ人の感想を聞くと、音響等の舞台効果は評価しつつも、赤紫の衣装に髭、長髪という明らかに麻原を示唆する人物が十字架を背負って六道の魂を救済するという場面には違和感を感じるという意見が多かった。テーラヴァーダ(上座部仏教)の長い歴史を持つ国だけに当然の反応であろうと思う。

◆ 私はてっきりスリランカの文化に配慮したスリランカ版の「死と転生」が見られるのではないかと期待していたので、日本国内同様の露骨な勧誘プロモーションになってしまったことに正直言って少し失望した。これでは受け入れられないと思った。

◆ 公演の最後には麻原の説法があった。1階席の人が次々と席を立ち出口に向かうようすが私がいた2階席からはよく見えた。満席だった会場ははやらない映画館のようになった。麻原は自身を評価してくれたある僧侶に舞台に上がってくれるよに何回も促した。しかしその僧侶はとうとう姿を見せなかった。(僧の戒律で禁じられている行為なので無理があった。それを知りつつ登場を促すのも我がままというものだろう。)麻原の面目丸つぶれのとてもみっともない場面だった。

◆ 4.旅の思い出
 とはいえ、スリランカは良い国だった。人々は温和で、自然も美しかった。インド洋は曇りがちの空のために真っ青には見えなかったが、風と太陽がやさしく感じられた。
 スリランカきっての高僧とされるアーナンダ・マイトリー僧のもとを訪れじかに話を聞くこともできた。

◆ (このとき、アーナンダ・マイトリー僧が麻原を絶賛したかのように教団の機関紙やプロモーション・ビデオで取り上げられた。たしかに麻原を評して、one of the holy persons in this period〈この時代における神聖な人物のひとり〉という表現を使っていた。しかし、あくまでも、one of〈〜のうちのひとり〉であって、the holiest〈もっとも神聖な〉でもなければ、the only〈ただひとりの〉でもないのである。holyな人は世界にたくさんいるのである。)

◆ 私達の一行がホテルを後にする際、全階吹き抜けの大きなロビーに置かれたグランドピアノでスリランカ人の男性のピアニストが「さくらさくら」を演奏してくれた。なぜかうれしく、日本人であることが誇らしく思えた。滞在期間中、このピアノをスメーダーやタントラギーター、Mさんが空いた時間に弾いていた。音響効果は抜群で各階の廊下、部屋の中にも音がとどいた。聞くところによると、麻原も自室のドアを開けさせ、Mさんが弾く「覚者」のゆったりとした旋律に聴き入っていたという。オウムの一見平穏な季節だった。

◆ 5.緊急事態・その後−悪しき本質
 チャーター便から全員退去し、私達は空港の待ち合いロビーで一夜を明かした。朝の便で帰れると聞いてひと安心したものの、どっと疲労感が押し寄せてきた。ソファーに横になる人、テーブルにもたれて眠る人、床に座り込む人、眠気覚ましのためか気合を入れて早足で歩き回る人。待ち方は人それぞれだったが、サマナと信徒の中で真面目に修行していたのは少数派だったようだ。人気のある幹部とスナップ写真を撮るのどかな光景が多く見られた。麻原はといえば、家族とVIPルームに入り、信徒の前には姿を見せなかった。
 ようやく麻原からの直接の説明があったのは、離陸後の機内放送だった。要は、真理勝者(如来、タターガタのオウム独自の訳語。ここでは麻原本人を指す。)に対し嘘など悪業を積ませるべきではない、ということらしい。

◆ しかし、プライベートな空間を他人に侵害されて不快感を顕わにするかのような言動は「普通の人」そのものではないか?「いっしょに日本まで乗せていってもいいではありませんか。彼らもそれによって真理との縁が深まるだろうし、それが菩薩の慈悲だと思います。」などと気のきいたことを言える側近はいなかったのか? そして、真顔で機外に誘導するシーハ師に、「何やってんの?ここは飛行機の中だよ。すこしおとなしくしていたら。」と率直に言えるような冷静さと勇気を本当に誰も持っていなかったのか? いろいろと疑問がわいてくる。

◆ とにかく、たとえ座席の予約などの事務面で航空会社に非があったとしても、客室乗務員の指示を無視して乗客を機外に誘導し、航空ダイヤを狂わせ、空港関係者に多大な迷惑をかけるというのはどう考えてもやり過ぎである。事後処理にあたった上祐は教団機関紙の記事の中で「大乗ヨーガ成就」のエピソードとしてこの件に触れて、交渉は非常に緊張したものになった、と述べていた。さぞや大変だっただろうと思う。

◆ コロンボ空港でのこのやり過ぎがオウムの悪しき本質のひとつであり、オウムが起こした数々の事件と共通する性格をよく表している気がしてならない。−−−(P.N. Jupiter)


追加33 ● オウムと子供たち(第2回) −第62号から

2000年7月8日、元出家者、30代、女性

◆ 夫がオウムに入信したいと言った時、私は大反対でした。当時(1992年7月)、私は妊娠7ヶ月で、看護婦の仕事をしていました。私が準夜勤務を終えて夜中の0時半頃に帰宅すると、夫が「これからオウムの人が説明にくるから・・」と言いました。オウムの人たちは私を説得するために6人くらいでやってきました。

◆ 私は看護婦として仕事をする中で、病や死について悩んでいました。A師がオウムの教義でそれについて説明しましたが、私は入信する気持ちにはなりませんでした。夜中の3時を過ぎた頃、A師は「お腹の子供が望んでいます。お腹の子供は真理の元に生まれたがっている。」と言いました。私は心が揺れました。もしも本当にお腹の子供が望んでいたら・・そう思うと迷いました。A師は更に、「やってみなければわからないでしょう。」と言ったのです。そして私は入信しました。

◆ 入信当初は仕事もあって忙しかったので、たまに支部に行くだけでした。出産後、私は仕事を辞めました。生まれたばかりの子供は、2〜3時間ごとにお腹を空かせて泣きます。授乳やオムツ交換、沐浴と育児に忙しい毎日でした。
それに加えて、私の父は子供が生まれる1ヶ月前に癌であることがわかりました。転移しているので、あと3ヶ月の命だと医師から説明されました。父の病気で実家が大変な状態なので、私は里帰りをせずに出産しました。夫は仕事が忙しくほとんど家にいなかったので、産後すぐに家事も育児も私1人でやりました。日に日に父の具合は悪化していきました。私は実家から離れたところに住んでいたので、毎日電話で父の様子を聞きました。母や姉妹は慣れない看病で大変そうでした。「父が苦しそうで体の向きが上手く変えられない。」「体が重くってオムツの交換が難しい」という話しを聞くと、私は『看護婦である私が今は看護ができない。父に最高の看護をしてあげたいのに・・』と思いました。そして、私の隣りで眠っている子供の顔を見ていると涙が出てきました。

◆ オウムの人たちは、体も心も疲れていた私にやさしい言葉を掛けてくれました。父の病気にはミラクルポンドを飲ませるといいと薦められ、1本1万円(2万円だったかな?)もする水を私は何度も買って実家に送りました。結局、父は子供が生まれて約1ヵ月後に死にました。私の心には父の死に目に会えなかったことと、父に何もしてあげられなかったという思いが残りました。

◆ 父が死んで2週間ほど経ち、元旦(1993年)に特別な合宿が富士であるから参加しないかと誘われました。占星術で1人1人の過去世や来世も教えてくれるということでした。その合宿に参加するには、1人10万円が必要でした。夫と私とでは20万円かかることと、子供がまだ生後2ヶ月にもならないほど小さかったので参加を迷いました。

◆ 支部のサマナは「これから先、このような機会があるかわからないから、ぜひ参加した方がいい」と言いました。色々考えた末、夫と私の2人分の申し込みをしようとしたら、「子供は?」と聞かれました。私は子供が自分の意志で入信を決めるまで、子供の入信の手続きはとらずにいようと思っていました。私は支部のサマナに「子供は連れて行くだけですから・・」と言いました。サマナは「信徒になっていなければ連れて行くだけでもだめです。信徒の手続きをすれば連れて行けます。」と言いました。まさか生後2ヶ月の子供を置いていくわけにはいかず、信徒の手続きをしました。

◆ 元旦の富士はとても寒いので、私は子供が暖かく眠れるように、手で提げられる籐で編んだ籠(ベッドのような物)に布団や毛布を敷いて持っていきました。富士山総本部に着いたら、古いバスに乗り換えて上九に行くように言われました。バスには人がぎっしりと乗っていて、とても籐の籠や余計な荷物は持っていける状態ではなかったのです。その為、私は籐の籠を持たずに子供を抱いてバスに乗りました。上九に着いたら、何と建設途中のサティアンが合宿の場になっていました。壁もまだ所々しかできあがっていなく、暖房もなく、非常に寒い状態でした。合宿の間、私は子供をおくるみでしっかりくるんで、抱いていることにしました。そのまま子供を床に寝かせると子供が冷えてしまいそうで心配だったからです。

◆ 私の子供が一番小さかったのですが、1歳〜小学生くらいの子供が何人も来ていました。親が蓮華座を組んで説法を聞いたり、修行をしている間、1〜6歳くらいの子供たちは子供同士で追いかけっこをしたり、ふざけあったりしていました。小学生くらいになると蓮華座を組んだり、仲の良い子供同士で簡単な修行をしたりしていました。オウム食を供養する時間になると子供たちは嬉しそうにすっとんでいき、列をつくって食事をもらいに行きました。食事の時は親子で話しをしたり、子供のいる親同士が話しをしたり、賑やかでした。

◆ 合宿が終り、バスで富士山総本部に帰ることになりました。バスはピストン輸送なので、サティアンの入り口近くにはバスを待つために沢山の人が溢れていました。そして、バスが着くと沢山の人が我先にバスに乗り込もうとします。私も子供を早く暖かなところに連れて行きたかったので、子供を抱いて何とかバスに乗り込みました。夜中なので、バスの中は真っ暗です。人がぎっしりと乗っているので、子供がぐずって泣き始めました。子供をあやそうにも身動きがとれない状態です。皆が疲れた顔で、冷たく、むっとした雰囲気でした。私は子供に「もうちょっとだから、我慢してね。泣かないでね」と何度も繰り返して言いながら、おろおろしていました。バスが富士山総本部に着いた時は、本当にほっとしました。

◆ 子供が1歳にならない頃は、家で子供と2人だけで過ごす時間がほとんどでした。夫は仕事が忙しかったので、家にいる時は寝ているか食事をしているかでした。夫は休みの日も仕事に行っていることがほとんどの状態でした。私は出産前に仕事をしていたので、近所の人との付き合いは全くなく、しゃべる相手は夫だけでした。でも、その夫は私と話しをする時間がありません。唯一、私が話せる人はオウムの人でした。支部に行けば、子供を連れた母親が来ています。支部のサマナはやさしく接してくれます。私はバスと電車を乗り継いで、更に渋谷からは徒歩(お金がなかったから)で青山の支部に通いました。片道1時間以上はかかります。それでも毎日のように通いました。

◆ 支部に行くと、私は教学をしたり、五根五力セミナーを受けたりしていました。子供がハイハイをするようになると、支部の中を子供が動きまわりました。そんな時、5歳くらいから小学生くらいの子供たちが、私の子供をあやしてくれました。ある日、5歳くらいの子供が紙にソフトクリームの絵を描いていました。私が「これって、ソフトクリーム?」と聞くと、その子は「そうだよ。これは温かいソフトクリームなの」と答えました。オウムでは冷たいものはエネルギーが下がるので食べない方がいいといわれていました。だから、その子はソフトクリームは食べたいけど冷たいから食べられない。温かいソフトクリームなら食べられるから・・と思って描いていたのかもしれません。

◆ 小学4年生くらいの女の子は、「学校はいじめられるから行きたくない。」と言っていました。私が「何故、いじめられるの?」と聞くと、その子はオウムで教わった教義(殺生をしない・嘘をつかないとか)を学校の友達に話すといじめられると言っていました。だから、支部に来て、オウムの仲の良い友達と話したり、遊んだりするのが楽しいと言っていました。
支部に来ていた子供たちは、みんな元気で明るく、楽しそうでした。平日、子供たちは夕方になってから親と一緒に支部に来て、夜中になって帰っていきました。土日になると昼くらいから夜中までずっと支部で過ごしていました。

◆ 子供たちは親と一緒にビラ配りのバクティーをやることもありました。私も子供を抱いて、皆とビラ配りをやりました。子供同士でゲームをしているかのように競争しながら、楽しそうにビラを配っていました。子供たちにとってオウムは生活の一部分になっていたのだと思います。        ペンネーム  海


追加32 ●(現役さん) 手紙 2000年4月27日着

◆ 私はオウム真理教(現・アレフ)の者です。名前は書けないことをお許しください。

◆私はどうしても納得できないことがあって、お手紙しました。
それはパソコンショップ(オウムで経営していた)が、8億円の追徴課税をされました。しかし、そのパソコンショップで働いていた者は、失業したということで、失業保険の給付を受けています。実際には給料をもらっていなかったというのに……

◆ この8億円に加えて、被害者・遺族への補償のため、再びパソコンショップの経営を考えているようです。
私は反対ですが。 なぜなら、補償という名目のもと勢力拡大に走るからです。

◆ 特に失業保険の給付は違法にはならないのでしょうか。−−−−−−−−−−以上


追加31 ● 手記ー家族の皆さんへほかー

http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/11.html 2000年5月、元出家者、30代、女性


追加30 ● オウムと子供たち(第1回)−第61号から

2000年5月16日、元出家者、30代、女性

◆ 私は1歳半の子供を連れて出家しました。今は脱会して子供と共に普通の生活を送っています。私は脱会後、ずっとオウムにいた子供たちのことが気になっていました。子供たちは自分から望んでオウムに入ったのではなく、親の意志によってオウムに入りました。一時的ではあれ、その子供たちはオウムで育ちました。

◆ 私は子供たちの心に残した傷がとても心配です。子供たちの心の傷を癒すことは、個人では難しいと思います。特に親がオウムを脱会して心の整理がつくまでは、子供たちの心が癒されることは困難な状況です。しかも、子供たちに社会的なケアがほとんど行われていない現状もあります。

◆ そこで、子供たちの社会的ケアに少しでも役立つように、私は『オウムと子供たち』のシリーズを通して、オウムにいた子供たちの様子をできるだけ詳しく書いていこうと思っています。本来ならもっと早く、子供たちの様子を伝える必要があったことはわかっています。でも、脱会して5年半が経過した今日まで、自分のことは手記にできても、子供のことを書くことには葛藤があって無理でした。

◆ それと言うのも、私の心には子供に対して罪悪感や負い目があるからです。私はオウムを脱会するまで、5回脱走を繰り返しました。初めの2回は子供を連れて逃げましたが、その後は子供をオウムに残して脱走しました。オウムに子供を出家させた上に、更に子供を置いて逃げたということが私の心に重く残りました。だから私は自分自身が許せず、「私は子供を捨てて逃げた」と思っていました。

◆ そんな私にある人がこう言ってくれました。『無我夢中で逃げ出して子供を連れていく余裕がなかっただけ。邪魔だから、面倒だから置いて来たわけじゃないんだよ。決して捨てたわけじゃないんだ。どれだけ苦しい思いをしたかは、私にはわからない。でも、たった一つだけわかることは、あなたは決して子供を捨てたわけではないということ。それがことの真実であることはわかっている。もう自分を責めるのは止めなさい。もう充分苦しんだんだから。それで充分。これからは、その苦しみを他の誰かが味あわないように、苦しんでいたら、手を差し伸べて挙げられるような、優しくて強い人になって頂戴。』

◆ 私はこの言葉を聞いて、何だか少し心が軽くなりました。そして、子供のことを前向きに考えることができるようになってきました。 私は身を引き裂かれる思いで子供を置いて逃げました。独房でもコンテナでも子供を思って、気が狂うほど泣きました。目に入れても痛くないって言葉のほどに、子供がかわいかった。だから、子供が私を探して泣いていると思うと本当に苦しかった。思い出すと今でもいつでも涙が出てきます。

◆ 子供への愛は私だけではなく、オウムにいた多くの母親も持っていました。教義では、子供への愛着は否定されていました。愛着は自分だけではなく、子供のステージも落とすものだと言われていました。だから、多くの母親は無理をして愛着を断ち切ろうとしていましたが、母親たちの言動の端々に子供への愛が滲み出ていることが何度もありました。
 『オウムと子供たち』のシリーズでは(次回から)、私が在家の頃に見た子供たちと親の様子、私が出家してから子供班(子供の世話をするワーク)や治療省(子供の健康診断や治療を行ったワーク)で見た子供たちと親の様子、そして脱会後の私と子供の様子を中心に書いていこうと思います。

              ( 元サマナ ペンネーム 海 )


追加29 ● 富 士 修 行 班 の 思 い 出

2000年5月、元出家者、女性

◆ 富士修行班といっても、わたし自身が修行班に入っていたわけじゃなく、身の回りのことをする生活班にいたころの思い出です。

◆ 経行(こんな字でしたか?)修行の始まりのころで、上九までトコトコ歩いて行く「きんひん」の前進で、富士2階道場や敷地内を教学本を読みながらうろうろする「きんひん修行」のころのお話です。

◆ 寒い季節、修行班のみなさんはミラレーパ(新実さんではない)のようなわけにはいかず、あるだけの服を全部着込んで着膨れしていました。ミラレーパではなく、だるまさんのようでした。それというのも修行班の人達は厳しい食事制限を課せられていて、フラフラ状態で熱も起きなかったのでしょう。

◆ 厨房の通路に置いてあるサツマイモの箱がよくなくなっていました。どうも敷地内で「きんひん」をおこなっている人達が、かっぱらって焼き芋していたようでした。一度くらいは上司に訴えたかもしれませんが、「腹がへっては戦もできまい」と、放っておいたように思います。もちろん盗んでいるところを直接目撃すれば注意もしましたが、内心「見つかんないようにすればいいのに!」なんて思ったものです。わたしとしては、ごくごく自然な気持ちでした。

◆ わたしは生活班だし、用事があって2階道場に上がっていくことがちょくちょくとありました。そうするとよく修行班の人がさっと近づいてきて、手紙をくれるのです。内容は、「お腹がすいてどうしょうもありません、おにぎりが食べたいです。」などです(笑)。 サービス精神旺盛というか慈悲深かったのか(笑)、わたしは速やかに準備を整え、何食わぬ顔でその人の着替えを届ける振りをして、ご希望の品を届けていました。(今考えるといったいどこで食べてたのかしら?)

◆ 「らーこさん、わたしアーモンドが食べたいの、分けてもらえない?」と、泣きそうな顔で訴えてきた方もいます。もちろん、慈悲深い(笑)、わたしはわざわざアーモンドを炒ってはちみつまでつけてお菓子のようにして渡していました。頼んだ相手もここまでは望んでなかったのでしょうけど。

◆ みなさん!修行者にとっては足を引っ張る「悪魔」のような存在だと、わたしの事をお思いでしょうが、どっこいなぜかわたしが差し入れをした相手はなんと全員そのときの修行で念願のクンダリニーヨーガを成就なさいました。 それも複数です!!

◆ 当時クンダリニーヨーガの成就に情熱をもやしていた「あ・な・た」、一度わたしに「腹減った〜っ!!」て、言ってくればよかったですね。速やかなる成就まちがいなしだったのに残念でしたね。ちなみにわたしは「ペーペー」のままでした。

らーこ


追加28 ●  富 士 修 行 班 の 思 い 出 その2

2000年5月、元出家者、女性

◆ 当時、修行班の食事はかの有名な「オウム食」でした。

◆ 修行班の人は厳しい食事制限が加えられていたのでいちいち量りでグラム数を量って出していました。食事の場所は富士道場のとなりの倉庫の2階でした。もともとわたしはそちらに出向く係りではなかったのですが、生活班でその係りになっていた人が一人ボイコットしたのでしぶしぶわたしも行くようになったのです。

◆ 気の毒でした、みなさんおわんにつがれたオウム食、どれが一番多いか血まなこで選んでいるのです。ここでも悪魔心か、はたまた仏心(笑)が出てきたわたしは、腹持ちのよさそうなサツマイモなどをたっぷり入れて、スープはグラムに関係ないとばかりにたっぷりつぎわけたのです。

◆ そうすると今度はなんとお礼の手紙をいただきました。差し入れ相手とは違う、やはり複数の人から。なんでも以前の人は大根ばっかりしか入ってないのとか、こんにゃくばかりとか、スープもグラムに入れていて何も入ってないオウム食だったとかで、とても悲しかったとのことでした。

◆ こんなことでお株が上がってもしょうがないのですが。お手紙をいただいたあと、さすがに好き勝手に振舞っていたわたしでしたが、このときばかりはいろいろな意味で「なんか違うんじゃない?」と、考えこんでしまいました。


追加 27 ● 修 行 の 思 い 出 その3 ーーー知恵の修行は何処へ?

2000年5月、元出家者、女性

◆ それは世田谷道場での出来事でした。

◆ 一人の「女性の師」が、大騒ぎしているのです。「大変、大変、今から信徒さんのところに行かないといけないのに、足の裏が真っ黒なの、どうしよう。」という内容のことでした。その方は、編集に所属する方で、有名大学を出た方だと記憶しています。刊行物の取材に世田谷道場に訪れていたのでしょうか。たいしたことではないのに、とにかくえらい大騒ぎなのです。そばにいたサマナも困った顔をしていました。

◆ そこで思わず一言「靴下はけば」と、つぶやいてみたのです。そうすると、「はっ」とした顔をしてどこかに行ってしまいました。おおかた靴下を履きにいったんでしょうけどね。

◆ 私たちは当時崇高なる知恵の修行をしていたのであります。いまどきチンパンジーでも道具を使う道は知っています。彼女も寒い季節には靴下くらい履いた記憶はあるだろうに。首をかしげた一日でありました。 以上


追加26 ● イニシエーションの思い出

2000年5月、30代、元出家者、女性

◆ そのころすでに出家していたわたしは御多分にもれず、日本ではご法度のズバリLSDを使った「キリストのイニシェーション」を受けました。(もっとも当時はそれがLSDだと知るすべもありませんでしたが。)

◆ 狭い部屋の中、以前受けた人が失禁でもしたのか、やけに臭くジメジメしていて、「はあ〜っ、これが終わったら2,3度洗濯しなくっちゃ!!」なんて思ったものでした。中盤あたりでしたか、他の部屋にいた人達、これがまた凄いのです。部屋中を大暴れしているような音とか、猛獣の大合唱のようにみんな大声をあげて・・・、とにかく凄まじかったのです。強烈な薬物飲まされてるのに、あまりの大騒ぎにわたしの意識が何回も戻るくらい、とにかくおお暴れしていました。

◆ そうこうするうちにイニシェーションも終わり、くそ熱いお風呂も終わり、残すところ最後のメニューの尊師面談のみとなりました。一人ずつお代官さまの前に引き立てられた下手人のように鎮座して、ありがたいお言葉をいただくのです。

◆ いよいよわたしの番、「どうだったか?」なんて事を聞かれたのですが、わたしは他のことに気を取られていて「余韻を楽しんでます。」なんて、わけのわならないことを答えてしまったのです。教祖はイニシエーション中の体験を尋ねたのでしょうけれど。尊師は「んん?」というような変な顔をしていました。

◆ わたしってずうずうしいのでしょうか、ありがたい尊師の前にいながら、他のことに気を取られるなんて・・・それというのも・・・。じつは、目の前の尊師のあの鮮やかな紫のクルタの丁度ヒゲがあたる胸のあたりなんですが、5cmほどの干からびた「おそば」が付いていたんです、「おそば」が・・・。

◆ それはもう紫によく映えて目立つのです。
「カピカピ」になっていました。
クルタも染みとかついていて何日も着替えていない風でした。
口の周りも汚れていたし。
私としては目が点の状態です。

◆ 当時わたしは「なにこれ?まったく少しくらい身だしなみ考えればいいのに一教団のヘッドなのに、顔だって何日も洗ってないように汚れてるし・・・「臭そう」などと思うのと同時に「ああいけない、偉大なる尊師に対してこんなこと考えては・・・。」などと瞬時に考えているうちに質問されて、とっさにすっとぼけた答えを言ってしまったのです。ハラハラ、ドキドキものでした。

◆ そういうわたしだからでしょうか、イニシェーションの最中一度も尊師のヴィジョンは出てきませんでした。当時それがショックなことだと考えもしなかったし、ずうずうしいわたしだったのでしょう。わたしには信も帰依もなかったのでしょうか?自分では真面目なつもりだったのですが。

◆ でもそんなことにはおかまいなしに、わたしはとってもハッピーなトリップを体験したのです♪(ちなみに隣の、部屋を揺らすほどおお暴れして、猛獣のような声を張り上げていた人はなぜか昇進し、めでたく師となりました。一体全体なにが基準だったか今もって不明です)やはり帰依とかなかったのか、尊師のありがたいお言葉、数日中に忘れてしまいました。

おしまい らーこ


追加25 ●いつも飢えてたサマナたち 〜オウムの食事に関する思い出〜

【1 ソーマの思い出】

◆ もう10年以上も前のことですが、当時、私は初期のCSI(真理科学研究所)で、ソーマを作っていました。ソーマというのはヨーグルトのような飲み物のことです。ただ、私の記憶では、確かソ−マは1994年の省庁制が発足されたころ、製造中止になったはずです。だからそれ以後に入信・出家された方は、ご存知ないかもしれません。製造中止に関して、私はその直接の理由を忘れてしまったのですが、たぶん中にヨーグルト菌を入れていたため、それを食べると殺生なるにと判断されたためと思います。

◆ 今、ヨーグルト菌と書いてしまいましたが、実はソーマの製造法は秘儀であり、極秘とされていました。もう昔のことなのでよく覚えていないのですが、確かこんな作り方をしていたと思います。

【2 秘儀・ソーマの作り方】

◆ まず、大量の牛乳を大きな鍋に入れて、それを火にかけます。それをよくかき混ぜ、沸騰寸前になったら火を止めます(この間10分から15分)。その中にヨーグルト菌と栄養素(各種ビタミン、カロチン、etc. ※よく覚えていない)を入れ、炊飯器に移します。すると数分後には、自然とヨーグルト状に変化します。そして「サットヴァ・レモン」や「シヴァ神の汗」などにも使われている、マントラを変換した電流が流れている電極を、この中にさし込みます。これでソーマの出来上がりです。

【3 1カルパ食事に困らない、、、はずだった】

◆ ソーマが出来上がると、私たちはまずそれを3リットルぐらいはある大き目の保温ポットに入れ、麻原さんのご自宅の玄関前に置きます。それが私たちの毎朝の習慣でした。

ただし、尊師がソーマ飲むことはほとんどありません。私たちはそれを見て、「あー、私たちのカルマが悪いから、尊師は飲んでくれないんだ」と思っていました。

しかし、たまに少しだけ飲んでくれた日などは、「これで私たち1カルパは食べ物に困らないよ」などと喜んでいました。オウムの教えでは、真理勝者である尊師に食物を供養すると、1カルパ食べ物に困らないという教えがあったのです。でも、今考えるとアホみたいですね(今なんか、ビンボーで食べ物に困っていますから、、、)。

【4 ソーマ泥棒たち】

◆ 飲み残しのソーマはペットボトルに移し、CSIの冷蔵庫の中にしまいます。そして当時、CSIの人だけは、立位礼拝を一時間やるごとに、コップ一杯のソーマを飲むことができました。だからCSIの人はみな、一生懸命立位礼拝に励んでいました。

しかし不思議なことがおこりました。ソーマが減り方が異常なのです。いくらみんな修行しているからといって、なにせ1時間につきコップ一杯しか減らないはずです。なのに、ペットボトルが押しつぶされ、すぐに中身がなくなってしまうのです。

◆ その後、同じCSIのメンバーの○石さんが、ある日CSIの廊下で24時間蓮華座の行(+無言の行)をやっていました(実際は修行じゃなく、ただ座っているだけだったけど、、、)。わたしは他の人に、「何であんなことをやっているのか」と尋ねると、「O石さんとハッターさんがソーマをかくれて飲んでいたんだって」と知らされました。O石さんと○ッターさんは、ともに「丹」という供物をつくっていたのですが、彼らの作業部屋に、例のソーマがしまってある冷蔵庫があったのです。彼らはそれを盗み飲んでいたことがばれ、修行を命じられたというわけです。

【5 ○○○ーさん:破戒の許可を持つサマナ】

◆ ただ、不思議なことに、その時○○○ーさんは修行をしていませんでした。

◆ 彼はよく破戒ばかりしているサマナで、尊師の説法の中で「たとえば○○のように、ぶらっと富士宮にいくと、、、」などと言われてしまうくらい有名な人でした。しかしそのくせ、いつもこのような懲罰の修行から逃れるのを得意とする、ある意味不思議なサマナでした。

◆ 特に印象深かったのは、私がお供物小屋の屋根裏にいたときのことです。私はその時、ワークをサボって、お供物部屋の2階で寝ていたのですが、突然、゛ガサガサッ "という物音が聞こえました。何かと思って下を見てみると、何と彼が供物の「飴」を盗んでいるではありませんか!しかも当時、飴は衣装ケース大の大きな箱に入っていたのですが、それを両手で抱えて、お供物を入れる缶の中に、゛ガガガガガッ "と一気に入れようとしていたのです。私はそれを見て、「なんてスケールがでかいとり方をしているのだろう」と、びっくりしてしまいました(※フツーは一人、おたま一杯ぐらいです)。しかも彼はその最中、全くの無表情なのです(ちょっと怖かった)。

◆ また彼には「火の鳥」という、行きつけのレンタル・ビデオ&マンガ・ショップがあり、そこで色々とビデオなどを借りていたようです。一度だけ彼の荷物の中に、「トータルリコール」とかいうビデオのレシートがあったのを見たのですが、正直言ってエッチなビデオじゃなくてホッとしました。

◆ またあるとき、私が富士の道場の屋上でボーっと外を見ていたら、彼が゛ギコギコギコギコ!!! "と、ものすごい勢いで(※しかも後ろを気にしながら)自転車を走らせ、富士宮への坂道を下っていく姿を見たことがありました。私はそれを見た瞬間、「なんで私は彼のこんな姿ばかり見てしまうのだろう」と、情けなくなりました。

◆ しかし!彼はこれだけ破戒しているのにもかかわらず、決して修行にいれられないのです。一度、上長である村井秀夫さんに聞いてみたところ、「彼はワークはするからいいんだよ」と、説明されたのですが、、、それにしても納得がいきません。私なんか、彼と一緒にコンビニに行って、一人だけお菓子を買ったところ、その時彼は何の注意もしないくせに、後で師の人に告げ口して、修行に入れられてしまったのですから(怒)。

【6 コーヒー飲むとツァンダリーがおきる?】

◆ 食の破戒といえば、○ェーンタさんも忘れられません。彼は缶コーヒーが大好きで、私に「コーヒー飲むとツァンダリーが起きるよ」「まるでバケツの水を頭からかぶったように、ドヒャーッとおちるんだ」「だけどキリンのジャイブじゃないとあかんね」「フツーのコーヒー会社より、お酒の会社の方がうまいよ。負けとるねー。」と自慢していました、、、。

◆ そういえば彼はセリカという車を愛用していたのですが、それは、その車についてる缶ホルダーが、ボタンを押すと゛シュッ "とスライドして出てくる特殊なタイプだったからです。彼は「これがお気に入りよ!!」といってましたっけ、、、。

【7 やっぱり私も飢えていた】

◆ それにしても私たちは、難民級の飢え方でした。私もよく食の破戒をしたのですが、それは食の破戒が「地獄に落ちない一番安全なストレス開放の方法」だったからです。オウムの中に長くいると、色々な矛盾を見てしまうので、どんどんグルや教義に対する疑念がわいてしまうのです。それを紛らわすために、つい食に走ってしまうのです。だから、もしオウムが本当に正しい、清らかな仏教団体だったならば、私も破戒なんかしていなかったかもしれません。と、他人のせいにするのも、あまりよくありませんけどね。(終)

2000年5月、元出家信者 ミュウ


追加24 ●食べ物特集ーイ ン ス タ ン ト ラ ー メ ン

2000年5月、20代、男性、元出家者

◆  私の記憶に残っている印象的なオウム内での食べ物は、インスタントラーメンです。
強制捜査が頻繁に行われている時、私は第八サティアンにいました。そこで与えられたワークは、これから世紀末にむかって大変なことが起こるということで、そのための非常食を作るというものでした。以前から米を備蓄したりすることが行われていましたが、その中の一つのものとしてインスタントラーメンがありました。

◆ 私はそのラインを動かすために、かりだされました。私が工場に入ったとき、どこかの潰れた工場のラインを買ってきたのでしょう、インスタントラーメンを作るラインがほぼ出来上がっていました。そのラインを見て、作業をする多くの人は“ラーメンが食べられる”という気持ちで本当に嬉しがっていました。

◆ ラインの流れとしては粉をこね、製麺し、それを油であげ、半透明の容器に入れ、ラップされるというものでした。ただ最初の製麺部分の調整は全くなされておらず、自分達でやりました。一緒に作業した人の中に食品製造に詳しい方が一人おり、その方いわく「素人がその作業をやるには何時間もかかる」と言っていたのですが、煩悩のなせる技なのでしょうか、本当にあっという間にラインが調整されてしまいました。そして、そこを見ていた師の人がみんなに、「貪りを出さないように。こねる人、触る人はマントラを唱えつずけながらやるように」と言って作業をさせていました。いざ出来上がったものはとても油っぽいインスタントラーメンでした。

◆  その後すぐに、そのインスタントラーメンは保存に適さないと判断されたらしく、みんなに配られました。私自身はおいしくいただいたのですが、油っぽいせいなのか、製造者の貪りの煩悩のせいなかよく分かりませんが、それを食べたあとお腹の調子を崩した人が何人もいたという噂をききました。


追加23 ●食べ物特集ーアーモンド

2000年5月、20代、元出家者

◆  選挙活動の始まる少し前くらい(1989年夏)だったと思うが、突然皆(出家者のみ)にアーモンドが配られた。

◆ 何のためなのか良くわからなかったが、どうやら、地元素の浄化と言うことらしい。初めの内は一日にどんぶりに半分の量だったが、日に日にその量は増して行き、ついにはどんぶりに2〜3倍の量にまでなった。

◆  男性でもその量を一日で消費するのは結構キツイ。しかも、男も女も関係なく毎日配られるのだ。そして、このアーモンド、なんとずベてが「生」。無理に食べようとすれば、必ずお腹が「ピー」となる。でも、決して捨てることは許されない。何故ならこれは「イニシエーション」とされているからだ。 当然、どんどん余って、ほとんどの女性がダンボールにこの余ったアーモンド入れて山積みにしていた。

◆  後で聞いた話だか、どうやら事の真相は社長の娘三女アーチャリーが「アーモンドが好きだ」と言うことで買い過ぎたらしい。 余りのアホらしさに言葉が出ない。

◆  オウムのやることは、ほんとこんなんばっかり。行き当たりばったりで計画性が、限りなく「0」に近い。 でもそれに振りまわされていた私達も、「アホその者」。 今になってみれば「どっちもどっち」と言われても仕方がない部分はあるんだけど。


追加22 ● 食べ物特集ー  丹 

2000年5月、20代、元出家者男性

◆  いつだっただろうか、あの物凄い食べ物を食べたのは。あまりの凄さに、言葉が出なかった。 あれはまだ私が信徒だった頃、赤堤の道場に勉強会だったか、ボーディサットヴァの会だったかの時に行って起きたことだった。その時は大勢の人がいて、正座でないと座れないくらい人でごったがえしていた。

◆ スタッフの人達から、「これから、地元素を浄化することの出来る丹と言う食べ物を皆さんに配りますので、尊師?に供養しながら食べてください。」と言う内容の事を言われたのです。皆はとても喜んで、その「丹」と言う食べ物はどんなものなのか心待ちにしていました。
 ところが、出てきたのは、茶色くごつごつした、肉団子状のえらく固い食べ物でした。恐る恐るも、のどに社長を思い浮かべながら、それを食べたのです。

◆ 何とも言いようのない、妙な味で、はっきり言ってしまえば、「まずい。」の一言なのです。それも本当に半端なまずさではありません。 なんでこんなにまずいのかあまりのひどさにスタッフに聞いてみると、「これは普段皆さんが祭壇に供養した、食べ物なのです。私達は食べることが出来ないので、最終的に一つの鍋で煮てそれを小麦粉などで固めた食べ物なんです。ですから、神々の祝福がいっぱい注がれている素晴らしい食べ物なのです。」 

◆ この言葉に思わず、「絶句」してしまいました。つまり、簡単に言うと「腐ったから、ごった煮にした。」と言うことなんです。これには当たり、はずれがあってチョコレートが入っているもの、固形カレー・ルーが入っているもの、食べると舌がしびれてくる中身のわからないも。 皆、「これは地元素の浄化のためなんだと。」自分に言い聞かせて食べていました。


追加21 ● 食べ物特集ーカ レ ー 缶 詰

2000年5月、20代、元準サマナ男性

◆ 95年の2月頃のカレー缶詰。この缶詰は、ある在家信徒が働いていたか、もしくは関係のあった食品会社が倒産したということで、その商品のうちのカレーの缶詰を引き取るという話しだったと思う(随分前の話しなので、記憶があやふやな所がありますが、あしからず)

◆ 支部のサマナ数名と在家信徒が引き取りに行ったのだが、もちろんオウムとは言わずボランティアグループ「ひまわり」というダミー団体をでっちあげて行ったが・・(←ダサいネーミング^^;)

◆ 当日、寝坊してしまいサマナからの電話で叩き起こされる。
「おーーーい、今日のバクティ知ってるよね?」 「あっ!はい」
作業内容は缶詰の周りに貼ってあるラベルを錐の小さいようなもので引っ掛けてベリッと剥がして缶詰を丸裸にしてダンボールに積めていくという単純な作業だ。もちろん、当時の意識としては、(これがどういう意味があるのだろう?)(誰の役に立つのだろう)と考えることはなく、もただ「バクティだ!」「功徳だ!」ということで淡々とやっていたが・・しかし、缶詰の量がかなり多いこと及び単純な作業に対して飽きてきたこと及び時間に制限があるということで、メンバーは「ダンボールの一番上だけラベル剥がした缶を乗っけて、下はもうそのまま入れちゃおうか?」という、極限どころか、なあなあな作業に夕方近くから変わりましたが、その甲斐あって作業は無事終了。

◆ ということで終了後は当時、(ヨガのダミーサークルをつくり導こう!)ということで、そのままその会場へと直行!いやー燃えてたのかな?当時の自分。
しかしこのサークル、ふれこみはヨガだっていうのに、当日は何を勘違いしたかオウムのビデオ「情報汚染社会」を見るというワケのわからんことをやってました(おい!ヤバイよーいきなりそっち方向行くと怪しまれるだろ、あの人がちょっと胡散臭そうな顔してる!)と感じた僕は、話題を「ヨガ理論による食養」に切替えた。

◆ 話をカレー缶詰に戻すと、結局この缶詰は当時、阪神大震災で苦しんでる人に援助するでもなしに、ただ単にサマナの食の煩悩を満たすために上九に送られました。まあその前年の夏頃は修法されたカップラーメンばかり食ってたから、そりゃあもう大喜びだったろうね。中には大豆タンパクのから揚げと一緒に煮込んだりして工夫して食べていた人もいましたから。

◆ ちなみに、無造作にゴミを捨てるオウムはこの缶詰をサティアンの外にそのまま捨ててしまい(まあ缶どころかキリストで使ったオムツとか、その他もろもろ捨てまくり状態でしたけどね)その写真が「フォーカス」か「フライデー」か知らないが写真週刊誌に載ってました。しか〜〜〜も、その缶が、なあなあで作業したラベルそのままの缶詰!(楽をしようとすると後で痛い目にあう)というのを実感した次第です。と、こんな食べ物話でした。


追加 20 ● 語り得ぬものには、沈黙しなければならない
L.ヴィトゲンシュタイン

20代、男性、元出家者 1999年12月

◆ 「オウムは魅力的だった」…こう言ってしまうと何か誤解を生む気もするが、私が教団を去って五年経ち、改めてあの経験を冷静に振り返って言えることは、「当時のオウムは私にとって、間違いなく魅力的だった」ということである。

◆ オウムの強みの一つに「神秘体験」が挙げられる。一体なにを神秘体験と呼ぶのか、という疑問もあるが、私は「体験した当人が『語り得ぬ神秘』をほのかに、確信できるような外敵・内的体験」というふうに解釈している。そして私に、オウムをなものに映したのは、教義でもグルでもなく、「神秘体験」だったといってもいい。極論すればその他の要素は、その体験を正当化する為の「言い訳」だったともいえる。

◆ 私は、神秘体験をオウムに特別なものだとは思わないが、オウムはそのための劇薬とも言えるようなメソッド、激しい(繊細さに欠けるが)ヨーガの行法や様々なドラッグなどを幅広く使用していた。これらは一般的な日常的リアリティーを相対化してしまうほどの影響力を持つ。そしてオウムはそれを利用し、「だから超越的リアリティ(解脱)を求め、オウムで修行すべき」と論理を飛躍させていく。確かに一般的な社会、特に日本では超越的リアリティーを共有し、日常生活に意味を見いだす、という真摯な宗教的態度はなかなか見出しがたい。そして神秘体験が意識の膨大な可能性を開く「種」ならば、その「種」を人格的・霊的に成熟させていく土壌は、本人の努力もさることながら、それを囲む共同体なのである。

◆ 今思うと、私自身は高校生の頃から「語り得るもの」に惹かれていた。遠藤周作の著作からキリストや使徒の「X」なる存在を、またハレ・クリシュナの冊子から「霊魂の不滅・輪廻転生の存在」を、なんとなくではあるが、すんなりの受け入れていた。そうした超越的リアリティーの存在は、私にとって、それほど必然的・魅力的で、意識することがないほどに「自明のもの」だった。いわば空気のような「それなしでは生きていけないもの」に感じられた。

◆ しかし、それを体験する技術は知らなかった。一般的な宗教にはあまり興味はなかった。私に興味があったのは、とにかくその源である「体験」だった、そんなときにヨーガ・サークルに出会った。ヨーガやインドには前から興味を持っていた他ので、すんなりとなじんだ。ヨーガの行法で悪化していたアトピーのかゆみが止んだ。身体が柔らかくなるにつれ、心も軽くなった。こうした体験は入信の時の疑いを無効にした。そしてイニシエーションだ。初めての爆発的な意識の拡大に、私は打ちのめされていた。これは決定的だった。何を飲んだかはあまり関係なかった。ヨーガの行法を続けるうちに次々と浄化(身体から膿が出たりする)が起こった。こうした身体的な変化はオウムの修行を極めたいという思いに移っていった。

◆ 出家して、修行班に入った。ここでの体験はいろいろあるが、特に印象的だったのはヨーガの行法で突然、爆発的に体が熱く、柔らかくなり、いろんな音や声(女の人で励ましてくれる)や教祖のマントラなどが聞こえるようになってしまったことだ。また極限修行に入っている時に『シャンバラ・シャンバラ』が流れてきて、懐かしさと、歓喜ともつかない感情で涙が止まらなかったこともある。教団出版物の体験談を読むと、それ自体は純粋な体験が教祖や教義によって一方的に解釈され、「ステージが上がった」などとされ、いっそう教団の活動に励む様子が見られるが、私もそのパターンに乗っていたと思う。

◆ 「意識の変容」「超越的リアリティー」は、60.70年代から始まる様々なムーヴメントを通して、特定の宗教者にのみ独占されるものではなくなってきている。そして宗教の依拠する「語り得ぬもの」をオウムは徹底的に、男性的な発想で追求した。それは多くの既成宗教がタブーとしていたものなのかもしれない。

◆ オウムはその手段を問わなかった。そして「語り得ぬもの」を語ってしまうことによって、その神聖な体験を、エゴを満たす手段にしてしまった。彼らは確かに「個人の意識変容による革命」を実現しようとしたのかもしれない。だが、それはあまりにも一面的で、「語り得ぬもの」の深みを無視した、真の意味で冒涜的な行為だったと感じる。そして冒涜という「夜の世界」は「昼の世界」しか知らないものにとって魔性の魅力を持っているのだ…。


追加 19 ● 上祐さんについて、ちょっと裏話

2000年2月2日 第57号

◆ マイトレーヤ正大師、あの「ああいえば上祐」として有名な上祐史裕さんが、99年12月29日に出所した。世間の注目が集まる中、彼は正大師の地位の返上を発表するというパフォーマンスをして見せた。本来ならば彼は犯罪者であるのだから、ステージは返上するのではなく、剥奪されてしかるべきだ。しかし今の教団には、実質的に彼以上のステージにいる人が存在しないので、そのような大それた真似はできなかった。

◆ 彼が本当に反省しているというなら、いっそ在家信徒からやり直せ、そして運転手&世話人つきのVIP対応など捨てて、自分の身一つで街中を堂々と歩いてみろといいたい気がする。

◆ さて文句をいうのはこれぐらいにして、彼のことについて別のことを少し書いてみよう。

 実は今回カナリヤの会で、上祐さんの出所に合わせて、彼の印象や思い出をみんなで話し合ってみようという機会があった。ところが不思議なことに、あれだけの有名人であるにもかかわらず、彼と心からうちとけあい、彼の本心を聞いたような人がまるでいなかったのだ。せいぜい出てきた話といえば、「喫茶店でコーヒーを飲んでいるのを目撃したことがある」といったようなものぐらいだ。そんなわけでけっきょく、私達は「彼はあまり人望がなかった」という結論しか出せなかった。

◆  しかし数日後、ある元サマナから、突然上祐さんから電話がかかってきたという話を聞いた。彼は上祐さんが出所するほんの数日前、教団を辞めたばかりだった。辞めた後は、友人の家に転がり込んでいたのだが、なぜかそこに突然上祐さんが電話をしてきたのだ。
 上祐さんは「今までご迷惑をおかけしまして、まことに申し訳ありませんでした」と、彼に謝罪の言葉を告げてきた。そして「今どうしているのか」と、彼の近況を聞くと、「もう教団には戻らないのか」とたずねてきた。彼がきっぱりと、そのつもりがないことを告げると、上祐さんは「そうか、、。わかった。」といって電話を切ったという。

◆ その話を聞いてわたしは、もしかしたら本当は、上祐さんは実はとても不器用な人なのかもしれない、と思った。彼はディベートが得意な、とても論理的(単に屁理屈がうまいだけともいえる)人物として知られている。しかし彼の放つ言葉は、常に知性の検閲をくぐり抜けてきたものばかりで、だれも彼の心の奥底に触れることができない。

◆ たいてい、全てを知性で切り捨てようとする人は、ものすごく恐怖心が強いのものだ。感情というものはダイナミックなパワーを持つぶん、非常に不安定で取り扱いが難しいものだ。そんな当てにならないも感情を使うよりも、論理や知性の方が信頼できると、知的な人はつい感情を敵視する。上祐さんもそんな人なのだろう。彼は元サマナの人と話したとき、ホントはもっといっぱい言いたいことがあったのではないかと思う。しかしある事情により、その元サマナの人は一生その肩書きに傷をつけるような事をしてしまった。それについては詳しく話せないが、それには上祐さんも少なからず責任があったらしいのだ。そしてその人がこれからオウムを離れ生きていくことは、とても大変なことであり、それを考えると、上祐さんとしては、教団で面倒を見てやりたい気もあったかもしれない。しかし彼の意思があまりにもはっきりしていたので、上祐さんはもうそれ以上何も言えず「そうか。わかった」というだけしかなかったのだろう。

◆ 誤解を招かぬように言えば、これは私の推論に過ぎない。本当は上祐さんがどんな人か、そんなことなどわかりっこない。また、私は上祐さんを考えを援護しているわけでもない。ただ彼自身もまた、他のオウム信者同様、真理を求めたものの、結果的に道を踏み外した者であることにはかわりがないということだ。彼が現世に帰ってくることはほとんどありえぬことかもしれない。しかし私達は彼を受け入れる準備を放棄してはいけないだろう。そのためにも、彼の間違いを指摘するだけでなく、なかなか表に出てきてくれない彼の気持ちも考えて見ることが不可欠ではないかと思った次第である。

                                       ライオン丸 


追加 18 ● 上祐さん 大阪支部長に就任

2000年2月2日 第57号

ある元サマナから上祐さんのこんな話しを聞きました。

1989年1月頃のことです。私はその頃大阪支部で在家信徒をしておりました。
支部長が変わり、新しい支部長として上祐さんがやってきたのです。上祐さんは
大阪支部に信徒を集め、説法しました。いわば就任演説のようなものです。その
内容が面白いのです。「私はMさんスタッフになってから破戒して、2人とも独
房に入れられました。それでも2人とも成就できたのです。

いきなりこんなことを言っていたのです。上祐さんの言いたいことは分からない
でもありません。「私はこんな駄目な弟子だったが、偉大なグルに引き上げても
らったのだ」とグルの偉大さを強調したかったものと思われます。しかし、いき
なり破戒の話をされたら「上祐の助平さ」の方が印象に残ってしまいますよね。』


追加 17 ● ナンディヤさんグループのこと、3年後

2000年2月2日 第58号から

ついにオウムがパソコン店との関連を公式に認めましたね。 全店閉鎖で、感慨深し。

 しかし、上祐の話を聞いていて、彼は本気でオウムの存続を考えているなと思い、危機感がわいてきました。  一般社会に受け入れられるような姿勢をとりながら、オウムの本質である出家制度をなんとか残そうとしているのは明白です。 謝罪・賠償等の団体としての表面的な柔軟路線で行くとしても、ひとりひとりの信者に十分な情報と脱会を含めた今後の進路を自由に選択する機会を与えないのであれば、その「選択の自由」を奪う意思と行為が何にも増しての脅威だと思います。  オウムが謝罪と賠償の表明し、なんとなくホッとした雰囲気があります。マスコミもオウムの出家制度を既成の事実として認めつつありますが、この制度がいかに人間の尊厳を踏みにじり、多くの人を不幸にし、そして本来の仏教の伝統的な出家制度と異なり、社会にとって危険なものであるかをあまり取り上げなくなったように見受けられます。

◆ 上祐らは観察処分中は極力おとなしくするでしょうが、観察期間の更新またはオウム対策特別法の存廃が議論され始めたころ(その時期までには賠償もある程度のめどがたっていると思われますが)、つまり今から3年から5年後の空白期間が最も危険なような気がします。

 まあとにかく、油断スベカラズ。

 ◆  P.S. 上祐によると、「パソコン店の店員は脱会届を出した元信者」ということですが、元信者なのでしたら、「カナリアの会」に参加なさったらいかがでしょか。紛らわしい行動をとると、 現役と勘違いされてしましますよ。お待ちしています。 (P.N. Jupiter)


追加16 ● O 君 と の 再 会

2000年2月2日 第58号から

◆ 私がオウムに入った理由は、いろいろあったのですが、一番大きかった理由は、やはりハルマゲドンに代表される世紀末に関することでした。私は、93年の夏にイニシエーションを受け、その代金を返済するためにマハーポーシャに入り、その数ヶ月後、サマナとなりました。

◆ いくつかの部署にいましたが、期間的にコンピュータ関連の部署に長くいました。事件の発覚後しばらくして、秋葉原のマハーポーシャではない新しいパソコンショップに配属されました。

◆ 最初のころは、各店の店員(信者)は、それぞれの店ごとに集まって家を借りて住んでいました。なるべく目立たないように、ばらばらで各家で修行していました。
しかし、時が経つとだんだんと大胆になり、北千住の施設に集まり、行なうようになりました。それにより、各信者ごとの士気も高まり、営業成績も上がってきました。
ですが、そのような状況でもオウムから離れて行く人たち出ていました(当たり前なのだが…)。

◆ そして96年の夏にもあるサマナが離れて行きました。その時は、いつものように行われることがありました。

それは、「今日、O君が下向しました。戻ってくるようみんなで思念しましょう。」
と教団幹部から指示が出されたのでした。

◆ そして、その後、私もいろいろありましたが、97年の夏にオウムから離れました。
理由としては、もともと97年にハルマゲドンがあるという予言があり、それが不安だったのですが、世の中を見ていても、どうも起こりそうがないのではないかという疑問が出始め、そして、最初この世紀末を助かりたい一心でいたのが、いつのまにか“救済”という言葉を背景として、自分達は選ばれた人なんだという大変身勝手な「選良意識」が自分を支配していたことにきずき、「このままでは自分はとんでもないことになってしまう」と思い、離れました。

◆ オウムに数年間いたわけですが、自分の頭で考え、そして行動してこなかったことに対して、大変反省しています。本当に申し訳ありませんでした。
その後、自宅に戻ったわけですが、自分は何を基準として生きていったらいいのか、そして、何を信じて生きていったらいいのかわからなくなり、どんどん自分を閉ざしていきました。

◆ でも、このような奴にも理解をしようとして下さる方がいることがわかり、生きていくことに対して不安が減ってきました。

◆ 先日、カナリヤの会合にはじめて出させて頂いたのですが、96年の夏にオウムから離れていったO君と再会することができたのです。なんと3年半ぶりでした。あのときの思念が、3年半という年月を経て、カナリヤの会合で成就(…と言えるかな?)したのでした。やはり知っている人に会えて、ほっと安心できました。

◆ 最後に、まだカナリヤへ顔を出されていない元信者の方に言いたいことは、ここの会員の方は、元いた人達、それぞれ疑問を感じ、離れた人達ですから、顔を出していない肩の気持は多少なりとも理解できるのではないかということです。

◆ 現役さんの方に言いたいことは、何か疑問を感じている人がいるなら是非カナリヤに顔を出してみませんか。きっと何か見つかるきっかけになると思いますよ、という事です。

◆ P.S. カナリヤのみなさん、本当に今までカナリヤを続けて下さり、ありがとうございました。ようやく新しい道を進む勇気が出てきました。これからは自分で考え、そして行動し、少しでも何か役に立てる人に馴れればと思います。P.N. 北海道


追加15 ● S君との再会

2000年2月2日 第58号から

◆ 2000年が明けて間もなく、S君と再会した。もうあれから3年半もの月日が流れた。

◆ コンピュータ事業部の人がよく集まった北千住の道場(今もあるのかな・・・・)で、S君達といっしょに修行したり、ミーティングに参加したのが思い出される。彼は私とは別のパソコン店の所属だったので、ワーク中はあまり接触はなかったが、顔はよく覚えている。いろいろと大変なことがあっただろうけど、こうやって無事に戻ってこれて本当に良かったと思う。

◆ 私がやめたのは、S君がまだオウムにいたころの話しである。突然いなくなって、みんな困っていたらしい。 戻って来るようにみんなで思念しましょう、だって!
 笑止千万。断っておくが、オウムに戻ろうなんて思ったことは一度もないし、これからも決してないだろう。

◆ 私は自分で言うのもなんだが、誰が見てもまじめな信者だった。やめる(オウムでは「落ちる」という言葉を使うが)理由としては、過重なワークによるストレス以外に教団内の常識では考えにくいだろう。まあ、それも一因としてはあるのだが、それよりも教団幹部と彼らによる教団の運営方針に対する不信感がより大きな原因である。

◆ 例えばアーナンダシュリーという人がいる。コンピュータ事業部の実質的な中心人物で、優れた商才がある。そこまではいいのだが、

 「私がさんざん悪いことをやっても逮捕されないのは、神々の祝福があるからだ。」
 とか、 「交渉のコツは相手の弱みにつけこんでグイグイ押すことです。」

といった彼の発言が示すとおり、オウムのサマナにありがちな傲慢さがあるのである。代表格のナンディヤやヴァジラサティヤダラヨーギンは彼と並べるとおとなしく見えてしまう。

 あるサマナが、「下克上みたいな危険なものを感じるよ。」

と、うわさしていたが、まさにその通りの状況だった。
 私はアーナンダシュリーとはマハーポーシャからの付き合いで気心は知れていたのだが、彼は時折オウムの暗い部分を臭わせるので、容易に信頼しきることができなかった。

◆ そしてなによりも、オウムが破産宣告を受けた後の、コンピュータ事業部の運営方針に不安を感じた。というのは、方針が明確に示されるわけではなく、破産宣告後もだらだらと同じワークが続いた。

◆ 今から想えば幹部の中にかなりの動揺と意思の不統一があったものと推測できるが、当時は頭を少し働かせないと、これは将来ヤバイことになる、ということが分からなかった。私は少し考え、感じた部類だったが、ほとんどの人は「グルが何とかして下さる。」と言いつつ、不安を覆い隠していたのだろう。

◆ それから、オウムを離れると決断した際、私には教義上の裏付けがあった。
オウムではいかなる教典よりも、麻原からその人個人に語られた言葉が最優先されるが、私の場合、東京本部の信徒だった頃、たしか93年の秋だったと思うが、予定外で突然道場を訪れた麻原から一対一である教えを受けた。内容は難しく感じられて、すぐに忘れてしまったが、麻原が何度か、

 「智慧によって、空(くう)を理解しなさい。」
というフレーズを繰り返したのは記憶している。

 この短い言葉が、その後のオウム信者としての私の最重要指針となった。そして、オウムから離れることができたのは、それが空を理解する為の重要なプロセスであると絶対的な確信があったからである。
 脱会後も、この空を理解する参考にしようと思い、いろいろ本を読んでみたが、アホらしくなってやめた。言葉にすること自体ナンセンスなものを勉強してみてもしょうがない。

◆ ただ生きる。それしかない。

◆ 話がそれてしまったが、S君と再会できて本当に良かった。しかし、まだ残っている人がたくさんいることを思うと複雑な心境である。現世と教団の壁は厚い。敷居が低くなったといっても、長年の思考と行動のパターンを乗り越え、脱会するのは容易なことではないだろう。だが、意外と簡単なのかもしれない。

 壁を越える愛。壁すらも認識しない愛。本来持っているその愛で、脱会に至る。これもまたひとつの選択肢であるのかもしれない。

◆ 2000年の初夢は、ナンディヤとアーナンダシュリーそして多くのサマナが自ら進んでオウムを離れ、遠い昔の思い出を笑いながら語り合い、時には涙し、そして、それぞれの道を歩んで行った。

 これは正夢になるに違いないと、私はそう直感した。

                              (P.N. Jupiter)


追加14 ● <信仰の飛躍は早すぎた終わり>

1996年3月7号 第9号より

    宗教的真理にとっては、理性は何ら恐れるべきものではない。
かの<信仰の飛躍>は早すぎた終わりとしての行為であり、
―そしておそらくは最初に人が考えたほどには英雄的ではない信仰なのである。
なぜなら、往々にして飛ぶことはためらうことよりも容易だからである。
  ピーター・L・バーガー 「異端の時代」、新曜社、1987

 ◆  オウムの教義を知ったのは、私が会社、家庭双方の人間関係で
苦しんでいた頃でした。以前から仏教的なものに憧れていたのもあい
まって私は急速に魅かれて行きました。本に書かれた言葉はとても
具体的で本当にこれなら実践できる、と思いました。絶対的な善と、
相対的な善があると聞いたときには、本当に救われた気がしました。
絶対的な善でなくとも相対的な善ならば為すべきだ、
と教えられたことは、自己の二面性矛盾について悩んでいた私には、
たとえ私が状況によっては犯罪を犯すような汚い人間であったとしても、
善いことは為してよい。そこに偽善や奢りという心が含まれていたと
しても為してよいのだというふうに聞こえました。

◆ 人間関係のストレスから、肋骨の下に針を突き刺されたような痛みに
襲われ、まともに立てないほどでした。無理して会社に行ったところ、
息をするにも激痛が走り、会社の廊下に倒れ込んでしまいました。
病院へ行きどんな検査を受けても原因はわからず、横になるのも辛く、
夜はクッションと枕を当ててしゃがんで眠りましたが、それでも自分の
呻き声で目が覚めました。その後暫くして、出家の誘いを受けたのです。

◆ 出家生活は最高でした。オウムの中では、ワークも生活もグルの
意志に従うならば全てが善でした。今までは肉を食べるとき「私は
どうせ追い詰められれば親でも殺して食ってしまうだろう。その私が
牛が可哀相、豚が可哀相などと言うもおこがましい。ほかに食べる
ものがあるからこそそんなことが言えるだけではないか。お前は
単なる偽善者だ。人殺しだ。」と思いながら無理やり食べていました。

◆ ところがここでは、肉でも何でも食べなさいと言われて出されたものは
グルの意志であり、グルに供養することは全き善なのです。どれほど
ワークに熱中しても、煙たがる人はいません。上司は部下を気づかって
くれます。セクハラもありません。社会では差別を受けるような人も、
ここでは全く同じに扱われました。いじめどころか悪口をいう人もいません。
嫌悪や嫉妬という感情は、自己の汚れとして受け止め乗り越えるよう
努めていました。オウム社会のヒエラルキーは私の心の現われであり、
上司は私の憧れであり、私の可能性を示す一面でした。現在の私の
地位は、私の怠惰や嫌悪による、丁度よい地位であったのです。

◆ 確かに、私は出家するに当たって教義以外のオウムの社会的な
部分を全く調べようとはしませんでした。私の出家は逃げであり、
甘え、弱さ、だったのかもしれません。確かに私は弱い人間だったし、
私には確かに逃げ場が必要だったのです。新興宗教に子供を
取られたといって叫ぶ親の声の後ろで、子供が静かに上げる叫び声は
誰が聞いてくれるのでしょう。
(勿論問題は親子関係だけではありませんが。)

◆ 申し訳ないことに私がオウムを辞めようと思ったのも、一連の事件が
直接の原因ではありません。事件は隔離された世界にいた私に
とっては現実味に欠け、作り話のようでした。私が普段接している
オウム真理教とはあまりにもかけ離れていました。私が辞めたのは、
沢山の罪を犯したとして、高い成就者達が逮捕されることにより、
サンガの質が低下し、生活が乱れてきた為です。

◆ 私はオウムを抜け出し外へ出てから初めて、他にも逃げ場所は
沢山あったことに気づきました。今私の周りには、彼らにとっては
加害者であるはずの私を支えてくれる人が沢山います。皆私を励
ましてくれます。今まで必死に自分を守ろうとして敵のように思って
いた人たちが・・・。今まで私は一体何をしてきたのだろう。そう思う
と、恥ずかしくて逃げ出したいほどです。

◆ オウムから離れて二ヶ月、ようやくオウムがやってきたことについて
書かれた本に目を通しています。私が知っているオウムとの違いに
愕然とするばかりで、二つをどうやってつなげ合わせればよいかも
わからない状況です。

◆ 私は、親との話合いを始めました。社会へも復帰したいと思います。
出家前に置き放しにしてきた問題がそのまま残っています。もう導いて
くれる成就者はいないけれど、それは私にとってとても怖いことだけれど、
もう一度頑張ってみようと思います。オウムにいた二年間は私にとっては
休養の期間でした。

◆ しかし、それはあまりにも多くの犠牲を社会に強いてきました。被害者の
方々の前で、私には言葉を述べる資格はありません。私にできることは、
まず自立し、その上で私のようなものでもお役に立てることがあればさせて
いただくことだと思います。すみませんが、そう思わせていてください。

P.S.    サマナの皆さんへ  皆さん、私思うんですけど、サマナって尊師に
甘えすぎ何じゃないでしょうか。グルって甘えるものではないですか?人を
殺そうが何しようが尊師ならいいんだって思ってる人もいるかもしれない
けど、尊師は本当に殺そうと思って殺したんでしょうか?本当に、殺された
人々は一億二千万の日本人のなかで真っ先に殺されなければならない
ほどカルマの悪い人々だったんでしょうか?私たちが尊師を必要として
いたから、オウム真理教を必要としていたから、尊師あってのオウム真理教
だったから、尊師は教団や自分を守るため、色々なことをしなくてはいけなく
なったんじゃないでしょうか?少なくとも、自分で解決しなくちゃいけない
問題を尊師任せ、教団任せにしちゃったから、その分教団と社会との軋轢が
大きくなったとは思いませんか?
 何か私最近、そう思ってるんです。

(女性、元サマナ)


追加13 ● A K

1998年1月23日 第32号より

◆ 私はサリン事件で警察に逮捕され、種々の取調べを受けました。
自動小銃製造の件に関しての取調べの時、オウムで作った”AK−64(?)”を取調べ官が持ってきて、実際に持たせてくれました。それはズシリとした重量感がありモデルガンなどではなく、まさに本物の銃でした。
取調べ官によれば、「オウムで完成された自動小銃は二丁あって、ここに持ってきたものは実際に撃てるものでもう一丁は排莢動作が上手く行かない。」とのことでした。完成したのを見たのは始めてだったので、その時は正直言って「すごい!」と少し感激してしまいました。

◆ 92年9月岡村鉄工が倒産しそうだということで、当時の広報技術のメンバーが金沢に呼び集められました。
例のごとく何も内容は聞かされませんでした。しばらくして岡村鉄工は結局倒産し、そのあとで村井さんからここの設備でモデルガンを作り、玩具として販売することもこのヴァジラ・アヌッタラ・ヒタ・アビブッディ(倒産後の、松本被告を社長とした新会社)の仕事に加えようと言われていたのでしばらくは作っているものはモデルガンだと思っていました。

◆ しかし94年6月に自動小銃だということがはっきりしました。それは豊田亨さん・松下悟史さんと私を含めた四人の科学技術省のメンバーが第六サティアンの松本被告の自宅に呼ばれ「君たちには自動小銃の弾を製造するラインを造ってもらう。」と指示されたからです。

その時やっぱり本物の銃を作っていたんだと判り心臓がドキドキして、体が緊張しました。しかし同時にこんなに重要な仕事を指示されるのだから頑張らなくてはという喜びの気持ちも沸きました。

◆ そしてそのようなことをすれば当然重罪に問われるだろうがそれも仕様がない。もし逮捕されるとしたらそれが私に与えられる修行なのであろう。と自分のすべてを松本被告に供養する決意を新たに固めました。
この前に93年の亀戸異臭騒ぎのときにも、松本被告に豊田さんと二人で呼ばれて「君達には、屠られた子羊になってもらう。救済のために命を投げ出して全力で頑張って欲しい。」と言われました。

◆ この時はじめて自分の死、もしかしたら無差別の殺戮、そしてそれに伴う自分への刑罰などが現実的な葛藤として大きく迫ってきて、心臓が止まりそうな物凄い動揺の中で自分のすべてを供養する決意を固めたことがありました。このときは、その当時の決意を呼び覚ましたという感じでした。

◆ その亀戸の件についてもう少し詳しく述べると、その後決意は固めたものの、あまりの動揺で体は震え、鳥肌が立ち、寒気がしてそれを落ち着けるのに大変でした。亀戸の件は結局失敗に終わったのですが、そのあとのミーティングで松本被告に上祐さんなどのステージの高い人から順番に意見や反省を言う場面がありました。

◆ 緊張が緩んだのか三塚さんと豊田さんは、泣きながら声を震わせて話をしていました。私はその痛いような不安な気持ちがわかるような気がしました。でも私には涙が出ませんでした。それはその時には「もう自分の命も苦楽も松本被告に御布施してしまったんだ。これからは、このようにいつも自分を布施していく実践をつづけていくんだ、そしてその先に解脱があるんだ」と思いが定まってしまったからだと感じていたのですが、今思えば余りに急激に心が追い詰められたので、どこか映画を見ているように現実感薄く茫然としか状況を捉えてなかったのかもしれません。

◆ その後94年7月にサリンプラントに加わる時の会議で「このワークは大変危険なワークでボタン操作一つ間違えば、この上九一色村、富士山麓全体が死の山となるぐらいのものだ。辞退したいものは今申し出なさい。」
と言われ、誰も申し出るものがなかったので続けて「死を見つめながらワークすることがマハ―ムドラ―の修行には欠かせない。」などの話を受けました。

◆ それからいわゆるヴァジラヤーナのワークに専従するようになりました。そして結局95年5月16日に逮捕されることになりました。

 サリン事件や坂本事件などに実際に関わった人達について、とかくとりざたされることは、

・教団内での権力争い
・あれでけっこう好き勝手していたんだ
・在家信徒や出家サマナをも欺いていたんだ
・成長過程で問題があったなどです。
・そしてあれだけ悪いことをしたんだから死刑や無期懲役が当然だ

などと思われがちです。このようなことは外側から見た常識的判断では、恐らく妥当なことなのでしょう。

しかし彼らと身近に接していて思うことは、彼らが今まで育ってきた生活では考えられなかったであろう人の命を手玉に取るような行為をしている自分の現実、それに対するどうしようもない捌け口としての破戒(好き勝手する事)行為をしていたのだろうかということであり、また彼らの言葉や振る舞いの端々から感じられた無気力さもそのせいだったのだろうかということです。

 第七サティアンでのワーク中、端本 悟さんが、疲れを感じさせる雰囲気で、このようなことを話していたことがあります。
「僕は今はこんな買い食いしたり、セーラー(ある女性サマナ)といろいろあったりするけど、昔は真面目だったんだ!。営業やってたころは、他の人は結構買い食いしてたけど、僕は絶対しなかったんだよ!。
信じられないかもしれないけどね。でも、ここの第七サティアンのワークもそうだけど、ヴァジラヤーナの修行(ワークのこと)は、本当にすごく厳しいんだよね。だからそういうときに女性っていうのは、本当に逃げ道になっちゃうんだ。救済のためにー!と突っ走れればいいんだろうけどね。だから君もよく気を付けていたほうがいいよ。」

この時私は「性欲・愛情欲求には気を付けなきゃな。そっちへ逃げちゃだめだな。」と言葉どおりに聞いていただけでした。
しかし、彼の発した「ヴァジラヤーナの修行は厳しい。」と言う言葉の中には、彼が実際に坂本弁護士一家を殺害したことも含まれているのだと分かったとき、彼が言っていた逃げ道という言葉が重くのしかかってきました。

 もともとは、解脱を目指して出家し真面目に修行をしていたであろう彼らが、それとは程遠い姿になっているように写ったのは、その苦悩の大きさのためだったと、今、彼らの姿や言葉が改めて痛みとともに納得できるのです。

私たち、元信徒はただ単に一般の人々が言うように、オウムはくだらないところだとして去るのではなく、彼らの痛みを思いながら、それぞれが自分にとってのオウムと決着をつけようとするとき、はじめてオウムのとってきたオウム流ヴァジラヤーナの本質が見えて来ると思うのです。そしてオウムへの依存から独り立ちできるのだと思うのです。またそれが昔、一緒に修行をした仲間に対する誠意でもあるのではないでしょうか。

 私自身はあるお坊さんに助言をもらったり、今までのオウムでのことを振り返ったりするうち、拘置所でまさに劇的な瞑想体験をしました。その体験を基に、オウムから離れることに決めました。

それは、私たちの目指した解脱・悟りとは、なにも特別な宗教的場面設定が絶対必要というわけではなく、まごころをよりどころにしてありふれた生活をする中でも、いくらでもそれに気づくことが出来るものなんだと感じたからですあの体験がなかったらスッキリとした気持ちでオウムから離れ、その後の短いけど苦しかった刑務所生活を乗り切ることが出来たかどうか、そして今のようにスッキリとした毎日が過ごせているかどうか自信がありません。

 しかし今、私のなかで松本被告やオウムの位置づけがハッキリとなされているかというと、そういう訳ではありません。折に触れ未だにいろいろ考えつづけています。これからもずっと考えつづけることでしょう。私にできることは、それぐらいなのかもしれません。

私が今、オウムの中で疑問や不安を抱いている現役サマナに伝えたいことは、オウムを続けていくということは重大事件に関わった人達のような葛藤を経験していくということに他ならないのです。それだけの葛藤を受け入れる覚悟がいるのだということなのです。
・目的のために手段を正当化するという修行実践
そしてまた
・他に苦しみを与えることによって他を救済するという実践そういうものであるオウム流ヴァジラヤーナをオウムが掲げているかぎり、これらの葛藤は程度の差こそあれ避けられないものだと思うからです。そのことを知った上で、オウムを選ぶのなら私がいろいろ言っても無駄でしょう。(しかしその教団内での修行よりも刑務所生活の方がずっと修行が進むと思いますが・・・・・・。)
ただ他にも修行の道は沢山沢山あると思いますよ。その中から無理せず自分にあった修行を選べばいいと思います。

 私については、オウムから離れて後、色々なものに目を向ける中で、自分がオウムの中で過ごしていたころの気持ちとは、比べ物にならないほどのスケールと誠実さで利他行を行っている人々の存在を知りました。
その時には、あぁ自分は井の中の蛙だったんだと思ったものでした。そういうこともありました。
 教団内ではオウムの修行が最高のものだとされているのでしょうが、なにも無理して
”BEST”とされる修行方法をとらなくても、無理せず急がず他の自分にあった”BETTER”の修行を探して実践すればよいのではないですか?

「お仕事大変ですねぇ。」という言葉を取り交わすありふれた日常の場面にもよくよく感じればマハ―ニルヴァ―ナの光が輝いている気がします。

最後に、今回は被害者の方々への思いには触れずに書いてきましたが、被害者の方達へは、心よりお詫び申し上げます。オウムを通してしか、大切なことに気づけなかった自分の愚かさを深く責めつつ、到底償いきれるものではないですが、少しでも償いの出来るような方向で、これからの人生を決めていきたいと思っています。

(男性・元サマナ)


追加 12 ● 獄中からの手紙 U「盲の亀のたとえ」

1999年9月17日第52号 

  『ここに大きな海があると。そして海底には盲の亀がいる。……そして、その亀が数百年に一度、海上に頭をもたげて呼吸すると。そのときちょうど牛のくびきがね、流れてきてだよ、その亀の頭にポコっとだね、はまる確率と。これがわたしたちが救済される確率だと。
もちろんわかるよね。その亀は何を隠そう、わたしたち凡夫だ。そして、海というのはその輪廻の大海だ。その海にはたくさんの生きものたちが浮沈している。そして牛のくびきというのには、何かというと、真理だ。(一九八八年一月十六日大阪支部にて、麻原説法) 』

これが有名な「盲の亀のたとえ」です。オウム真理教はこのたとえを宣伝し、繰り返し使っています。「真理にめぐりあえる確率はこれほど低いのですから、オウムに入会して修行しましょう」と。
脱会しそうな信徒を引きとめるときにも多用しています。「真理にめぐり合える確率はこれほど低いのですから、真理から離れてはいけませんよ」と。
このオウム真理教の宣伝に騙されてはいけません! 仏典の「盲の亀のたとえ」は正しいのですが、だからといってオウムから離れてはいけないことにならないのです。そのことを論理的に説明したいと思います。

その準備として、「三段論法」という論理を説明します。三段論法とは
……例えば
『「植物は生物なり」(大前提)
「松は植物なり」(小前提)
「故に、松は生物なり」(結論)
は定言的三段論法。 (広辞苑より)』
というものです。
その具体例を挙げてみますと、
「花は美しい」(大前提)
「サクラは花である」(小前提)
「サクラは美しい」(結論)

この「三段論法」を「盲の亀のたとえ」に適用してみましょう。オウム真理教が主張するのは次のような論理です。

(真理にめぐり合うのは難しいので、真理にめぐりあったならば)真理から離れるべきではない」(大前提)
「オウムは真理である」(小前提)
「オウムから離れるべきではない」(結論)

このような大嘘の結論が導き出されるのです。このような三段を分けて書くならば、どこに誤りがあるかが、一目瞭然になります。つまり「大前提は正しいが小前提が誤りである。よって結論も誤りとなる」のです。この「三段論法のトリック」で、オウムは我々を騙していたのです。

正しい結論は、以下の論理によって導き出されます。
「(真理にめぐり合うのは難しいので、真理でない団体に入ってしまったならば)真理から離れるべきである」(大前提)
「オウムは真理ではない」(小前提)
「オウムからは一刻も早く離れて、真理を捜すべきである」(結論)
これが正しい結論です。「盲の亀のたとえ」を正しく理解するならば、この結論が導き出されるはずなのです。

まとめとして、「盲の亀のたとえ」を解説しましょう。「真理にめぐり合うことは難しい」これはお釈迦様が説かれた正しい教えです。今の地球の状態を見るならば、オウム真理教を筆頭に「真理でない教え」がいかに多くあるかが理解できると思います。つまりわたしたちは「真理でない教え」に騙され、その流れに入ってしまう可能性が非常に高い時代に生きているのです。

だから「盲の亀のたとえ」が主張することは、
@ 真理にめぐり合うことは難しいのだから、あなたの入っている集団が真理か否か、
よく調べなさいよ。
ーということです。
A 真理にめぐり合うことは難しいのだから、幸運にも真理に入れたならば、その真理から離れてはいけませんよ。
ーということです。
もう一つの主張も忘れてはいけません。
B 真理にめぐり合うことは難しいのだから、間違って真理ではない流れにはいってしまったならば、その流れから一刻も早くはなれなさいよ。そして真理を捜しなさい。
ーということなのです。

この@、A、Bをよく考えてみなければなりません。オウムは、Aのみを主張し、@、Bについては何も言いません。オウムが@、Bを主張しない理由は、
@から、オウムが真理でないことを気付かれては困る。
Aから、オウムからすぐ離れようと思われたら困る
からなのです。そしてAと「三段論法のトリック」を使って、信徒を騙しつづけているのです。

以上述べてきたように、元信徒がオウムを離れたのは、正しいことでした。「盲の亀のたとえ」の教えBにのっとった正しい選択だったのです。
そして現役信徒の皆さんは、もう一度謙虚になって、「盲の亀のたとえ」の教え@、A、Bをよく考えてみてください。以上

(付記)
この「三段論法のトリック」をオウムは多用しています。例えを挙げますと


「仏陀のふるまいには(我々には理解できないが、魂を救済するための)深いお考えが隠されている」(大前提)
「麻原尊師は仏陀である」(小前提)
「麻原尊師のふるまいには深いお考えが隠されている」(結論)


「ポワは特殊な救済方法である」(大前提)
「オウム事件はポワである」(小前提)
「オウム事件は特殊な救済方法である」(結論)


「仏教に出家することは、最高の親孝行である」(大前提)
「オウムは仏教である」(小前提)
「オウムに出家することは最高の親孝行である」(結論)。

このように「大前提は正しいが、小前提が誤っているので、結論も誤りとなる」というトリックを使っているのです。オウムには騙されないように注意しましょう。

正しい結論を最後に書いておきます。
正一
「犯罪者のふるまいには、精神病理学的な心の欠陥が隠されている」(大前提)
「麻原は犯罪者である」(小前提)
「麻原のふるまいには、精神病理学的な心の欠陥が隠されている」(結論)

正二
「ポワ以外の殺人は凶悪犯罪である」(大前提)
「オウム事件はポワではない」(小前提)
「オウム事件は凶悪犯罪である」(結論)

正三
「カルトに出家することは最高の親不孝である」(大前提)
「オウムはカルトである」(小前提)
「オウムに出家することは最高の親不孝である」(結論) 以 上


追加 11 ● 獄中からの手紙 T『はじめまして』

1999年9月17日第51号

はじめまして。現在、東京拘置所に勾留中の元サマナです。先日、滝本先生から、本『マインド・コントロールから逃れて』と機関紙『カナリヤの詩』を送っていただきました。ありがとうございました。その感想を書いてみたいと思います。

まず、『マインド・コントロールからのがれて』の全体的な感想は、読みやすいな、ということです。麻原さんやオウム教団のことを、特にひどく書いているとは感じませんでしたし、これなら現役信徒・サマナも手にとりやすいと思います。それからユーモアが入っているのもよいですね。滝本先生の空中浮揚写真(!)とか。特に滝本先生の顔がニヤついているのがよかってだす。麻原さんは、なんかキバッた顔をして、浮いていました。よって楽々浮揚している滝本先生の方が、ステージが高いのではないでしょうか(笑)。

『マインド・コントロールから逃れて』の一番良いところは、「元信徒・サマナの手記」の部分です。皆さんの現役信徒・サマナに対する、強い哀れみの心、案ずる心が伝わってきました。ホント、現役のことを考えると、哀れに思えてきます。その気持をそのまま文章化したのが、よかったのだと思います。
ただ出版時期の関係もあるでしょうが、「オウム事件」「麻原さんの実態」らついてはほとんどふれられておらず、少しもの足りない気がしました。第二弾を出されるのでしたら、この点についてほりさげてもらいたいです。

最後に「集団自殺防止用決意」ですか、あれは笑ってしまいました。
『修行をしていない弁護士滝本太郎の「空中浮揚」の写真もあるぞ(二回くりかえす)。
あんなしゃしんだったら簡単にとれるぞ』
ですからねえ。もしかして笑わせることによって、自殺を思い止まらせようとしたのですか? でも私が笑えたのも、マインド・コントロールがかなり解けたからであって、「ガチガチ」の現役の心には届かなかったかもしれません。まあ、この決意が使われなくてなによりでした。

『カナリヤの詩』については、元信徒・サマナの皆さんの、いろいろいな声を聞くことができ、とても参考になります。元信徒・サマナの皆さんが魔境にも入らず、気も狂わず、生活されていることを知ったことは、とてもよかったです。脱会することにたいする恐怖が減少しました。現世で奮闘されている元信徒・サマナの体験談を読むと、私もガンバラねば、という気持がわいてきます。

『カナリヤの詩』では、一般の人(特定の宗教にはまっていなという意味)の声も聞けるのは、うれしいことです。私は大学を中退して、オウムに出家してしまったので、ほとんど社会経験がありません。おまけに、つい最近までオウムの本しか読まなかったのです。だから、一般常識というか、コモンセンスがズレてしまっているような気がするのです。ですから一般の人のオウムについての意見はとても参考になるのです。なるほど普通の人はこう見ているのか、と。 滝本先生のコメント、お話も興味深く読ませてもらっています。

「オウム事件の報告」「教団の現況」「教義の分析」「推せん図書」等のコーナーも、おもしろいです。私は現在、外部の情報を入手するのが困難な状況にありますので、『カナリヤの詩』はその意味でも、とてもありがたいものです。マインド・コントロールを完全に解いてしまうためにも、いろいろな情報に接した方がよいと思っています。
よって、カナリヤの皆さまに、手記、記事、論文等を、もっとどんどん投稿していただけるよう、お願いいたします。

それから『カナリヤの詩』には、特定の宗教色がないのがよいですね。これからも、この不偏不党を守りつづけてもらいたいものです。いつの間にか自称最終解脱者が出て、「カナリヤの会」を「カナリヤ真理教」に変えてしまったら、悲惨ですからね。もう「自称最終解脱者」と「真理教」はコリゴリです(笑)。まあそういう不届き者は出ないかもしれませんが、窓口滝本先生の監視をお願いいたします。

さて私は、最近、脱会届出を教団に郵送し、晴れて一般の人に戻ることができました。あやうくモンスター(麻原さんみたいな人)になってしまうところでしたので、よくオウムから脱出できたものだと思っています。
滝本先生、『カナリヤの詩』の投稿者の方々をはじめ、私の脱会にあたってお世話になった人々に、深く感謝したいと思います。

脱会と同時に、「カナリヤの会」の獄中会員として、入れていただくことができました。不束者ですが、どうぞよろしくおねがいいたします。 以上