元 信 者 ら の 手 記 41〜53


追加53 ●  オウムと子どもたち(第4回)

−第78号より−2001.10.6  元サマナ  ペンネーム 海

 平成6年5月、私は自分の子ども(当時1歳半…本文ではTと記載)と一緒に波野村に行きました。

波野村に着いて、土間のような広い入り口に立つと沢山の子どもたちが寄ってきました。子どもたちは、「その子、いくつ?」「なんて名前?」…と無邪気に聞いてきました。人懐っこい子が多いな…と私は思いました。その中でH君は5歳位の身長なのに、実は小学校3年生ということにびっくりしました。

 私は波野村に着いて、たった2〜3日で『ここでTを育てていけない』と思い、下向を申し出ました。それというのも、在家の頃には波野村は子どものための理想郷…というような話を聞いていたのに、現実は不衛生、教育もおろそか、成長のための栄養も極端に不足していたからです。(もちろん下向は許可されない)

 畳を敷いた広い空間をつい立で仕切り、年齢別で編成したクラス毎に別れて生活していました。畳と畳の隙間には(隙間は1cm以上開いていたりする)、埃だけでなく、小さな虫の死骸や紙の切れ端…が沢山入っていました。掃除はするのですが、掃除機はないのでほうきで掃くだけでした。だから、畳の上のゴミが畳の隙間に入ってたまっていきます。

 食事は1日2回、お供物を食べていました。1週間に1回、お供物が上九のサティアンから届きます。冷蔵庫はないので、地下室のような所で保管します。保管する棚は、お供物をネズミに食べられないように金網で囲いがしてあります。届いたお供物は3〜4日経つとカビが生えてしまうので、早く食べる様にしていました。

お供物がなくなると、すいとんを作って子ども達に食べさせていました。お代わりは自由でしたが、幼児は胃が小さいので1度に沢山は食べられません。(栄養学的には、幼児は3食の食事のほかに、1〜2回の間食が必要とされています。)だから、1度に少ない量しか食べられない子は痩せていました。逆に、空腹の反動で沢山食べてしまう子は、肥満になっていました。お供物はカロリーはあっても、栄養のバランスはとても偏っているので、私は成長・発達面が心配でした。

そこで、波野村の責任者にそのことを質問すると、1日2食は聖者の食事、ここにいる子はステージの高い子なので2食でいいのだと言われました。そんなことにこだわっている私のことを無智だと言いました。私はTに現世で、1日3食の食事と1〜2回の間食をさせていたので、急に1日2食になって、Tはお腹を空かせていました。私はお供物のバナナをこっそり隠し持ち、物陰で間食させました。

 子どもたちは1日の日課に沿って生活していました。日課の中に修行の時間やオウムのビデオを見る時間は組み込まれているのに、小学生が算数や国語などを勉強する時間がないのが気になりました。本もオウムの本以外の本は物陰の本棚に少しだけありましたが、オウム以外の本はできるだけ見せない様に言われました。私は義務教育のような基礎的な学習をせずに、大人になることが心配でした。そこで、責任者に質問したところ、現世の汚れた情報を入れることになるので、教義を学べばいいのだと言われました。ここでも、私は無智と言われました。

 小学生の子ども達の描く絵は、教祖の姿ばかりでした。壁には教祖のポスターが貼ってあり、アニメのビデオでは、教祖の偉大な神通力が描かれているので、子ども達にとって教祖はヒーローだったのかもしれません。

 今、あの子どもたちは、どうしているのでしょうか?  


追加52 ●  「最近思うことを一つ」

−第75号より−元サマナ、男性

一時期、扶桑社の教科書問題やら、小泉首相の靖国神社参拝問題やらが、さかんに報道されていましたが、まだひと月もたっていないのに、すっかり、過ごしやすい季節になり、それらの出来事が既に遠い昔の話のように感じられます。

 ちなみに、私は扶桑社の教科書の精神に共感し、また、‘個人的に’靖国神社には何度か参拝したことがあります。

 歴史の中には、私たちと血のつながった祖先の方々有してきた、叡智、利他心、情操、その他学ぶべきものが多々あります。

それなのに、中学、高校の歴史教科書は、他国の偏った歴史観をそのまま受け入れ、日本人の心の中に罪悪感を植え付けるものでしかないというのはとても残念なことです。

別に最終解脱したグルに教えを請わなくても、ちょっと歴史をひもとけば【人類を救済するための教え】なんて我々日本人の心の中に受け継がれているはずなのにね。

 靖国神社についても無理にとは言わないけど、一度くらいは行ってみることをお勧めします。境内に「遊就館」という建物があって、そこに戦場に赴く兵士たちが、自分の家族や恋人に書き送った手紙が展示されています。

それを読めば、当時の兵士たちが単に軍事教育によって天皇教にマインドコントロールされ、闇雲に人殺しを行なったのではなく、そればかりか、いかに彼らが高い精神性を有していたか、いかに我々が世界に誇れる祖先を身近に有していたかを感じ取れるはずです。

 私がA社に入る前から、そして、現役だったとき、自分の中に最も欠けていたものは人間としての=日本人としての誇りではないかと、最近は考えています。

 そういう誇りを感じさせてくれることって、少ないですよね。−−−−−−−−−−以 上

いろんな問題について、いろんな
議論ができるといいですね。(窓口)


追加51 ●  「まだ信があった時期の占星学に関する思いで」

−第75号より−2001.8.21 ペンネーム さいとうあやみ、元サマナ

教団組織から離れても、まだ私の「尊師」に対する気持ちは変わっていなかった。ただ、教団の体制には信用ならない所があったのでアレフ(オウム)という組織には戻りたくないと思っていた。

そんなころ、オウムでもよく行われていた「占星学」に興味を持ちだし、西洋占星学の本をいろいろと買い込んで読みあさるようになっていった。しばらく経ってから「そういえば尊師は、トロピカル方式より、なんとか方式の方が占星学としては当たるんじゃないか、とエウアンゲリオン(教団でやっていたラジオ放送)で言ってたわね」と思い出す。早速、荷物入れから「日出る国災い近し」を引っ張り出してきた。

トロピカル方式とサイデリアル方式。

春分点の位置を固定的に設定しているのがトロピカル方式である。それとは逆に現実の惑星の位置に合わせて、春分点が毎年ほんの少しづつずれていくのがサイデリアル方式である。

ある西洋占星学の大家の著書には、サイデリアル方式がひどくけなされて書かれていたのだが、とにかく「尊師が言ったことの方が正しいのよ」という思い込みから、インターネットで「サイデリアル」という単語を検索してみた。
ヒットする数は少なく、また、実際にそのページを見に行っても、ごく簡単にしか書かれていないものばかりだった。

しかしその中で、一つ、非常に詳しく書かれているページがあった。
ああっ、分かってる人は分かってるんだ。やっぱり尊師の言っていたことは真理だったんだ。とか思いながらそのページを読み終わった。

さて、どのようなサイトなのかなと思い、 index ページを見てみると、
インド占星学「東西占星術研究所」………やはり真理はインドを発祥の地としてる のね。        主催者 羽田洋二   ?・・・はねだようじ・・?

そのサイトの他のページも、オウム的思考を持っていた私としてはなじみやすい内容であった。しかしそう思いつつも、「所詮は凡夫の作ってるサイト、書かれていることすべてを鵜呑みにしてはいけないわ」と「防衛線」を張っていた。

後日、近所(東京)にいる知り合いの現役サマナと連絡を取った際に聞いてみた。
私「ハタヨーギー師が蓮華(木曽福島の施設)で、占星学に凝ってたみたいだけど、 尊師が言っていたサイデリアル方式とかについては知ってるかなあ?」
現役「一部の人だけにしか知らされてないんだけどね、ハタヨーギー師チームがなん か占星学のホームページを作ってるんだって。URL教えるからちょっと待ってて ね」それを聞いたすぐ後にインターネットでそのページを見てみた。

なんと、昨日検索で見つかった羽田洋二氏のページじゃないの(笑)。………ん?
はねだようじ
・・・羽は田た洋よう二じ
・・・・はたようじ
・・・はたようぎ・・・
・・・ハタヨーギー!!!(爆)

作成者が「凡夫」でないことが分かると「安心」し、何日か掛けてせっせと全ページに目を通した。精神病の傾向がある人のリーディングが載っていたので、「あ、これは「蓮華」で品行不正で長期修行か独房に入れられてる人のデータかしら」とか思いながら読んでいったりもした。

その後、サイトで紹介されていたフリーのインド占星学ソフトとかを使ってリーディングの練習をし出した。しかし全然まともに読み解けない。しばらくして次は、紹介されていた4万円くらいするインド占星学ソフトを海外通販で買った。前よりもダシャーだの、なんだのといったことが分かってきはしたが、それでもまだまだ、どうやってリーディングしていけばいいのか分からない所がかなりたくさんあった。

なんでこんなにまでリーディングできることに一生懸命になっていたのか?

それは「尊師」のホロスコープのリーディングを行い、「尊師」が占星学的にも大聖者であるという裏付けを得たかったからである。

また、「東西占星術研究所」のサイトで紹介されている日本語の書籍も買いあさり、ほとんど全て読み終わったが、まだまだ実用的なリーディングができる段階からは、ほど遠かった。英語の本も何冊か輸入して読み始めた。

そのように、少しでも早くちゃんとしたリーディングができるようになりたいと思っていたころ、「東西占星術研究所」でセミナーを行うというお知らせが出された。

これに参加すれば、インド占星学のリーディング力は飛躍的に上がるはず!
そう思いはしたのだがちょっと躊躇した。なぜかというと、現役サマナ、しかも師を含めた正規(?)メンバーと顔合わせをしたくない心境だったからだ。もし顔合わせしたら、「なんで早く教団に戻ってこないんだよっ」と説得作戦が始まるだろうし、私が参加したことが○○正悟師まで伝わったら、引き戻しのアプローチが来るのは必至だろうし・・・。

そして、同じくらい躊躇したのが参加費であった。合計約10万円。(だったと思う) これじゃあオウムのイニシエーション並じゃんっ(笑)。

お知らせのページだったか掲示板では、東西研のメンバーが、「それくらい価値のあるセミナーです」なんて書いていたが、まったく支部サマナ的な口っぷりと金銭感覚だね・・・こんな参加費で一般の人が集まるの???、とつくづく思った。(結果的には5〜6人くらい(だったかな)は参加したらしい)。

結局、私は参加しなかった。(もともと参加希望のメールも送らなかったし) あ〜あ、今回は出なかったけど、次の機会には出ようかしら・・・でもなぁ、と思いながらまた自分でインド占星学の本を読んだりしていった。

しばらくして、「尊師」の出生データを教団の本の中に見つけた。待望のリーディングを行ってみた。たしかに自分のリーディング力はあまりないとは思っていたものの、占断の結果は、「大聖者」と思えるものは何もなかった。それどころか逆の内容が多かったような気がする(どんな内容だったかはもう忘れてしまったが)。

「尊師」についてその偉大さの片鱗も読みとれないなんて、私のリーディング力はまだまだなんだろうね、とその頃は考えていた。

その後インド占星学の勉強をする傍ら、占星学とは関係ない、世間で言われている客観的オウム情報を自分から読んだり、聞いたりするようになっていった。そしてだんだんと、オウムの実体が見えてきた。また、それまで、必死にすがる対象にしていた教義にもたくさんの欠陥や間違い、未熟さがあることも分かりはじめてきた。数ヶ月後私は、オウムそして「尊師」改め麻原・松本智津夫さんから完全に心が離れた。

そのような心境的変化があってからすぐ後、オウム関係の掲示板で「東西占星術研究所」がオウムのダミーサイトであるということが暴露された。それにより東西研の掲示板には問い合わせの書き込みがたくさんなされたようで、掲示板の閉鎖を余儀なくされた。そして、研究所の表向きの活動も縮小化することになったようだ。(今でも外部の人が書き込んだりはできない形でサイト自体は残っているが)

−−終わりに−−

最近、ふと思ったのだが、オウムで占星学をやっていた人たちは、なぜだかオウムをやめてしまった人が多いのではないだろうか。

初期にやめた高橋さん(この人がどれくらい占星学に精通していたのかはよく知らないのだが)。
去年の夏頃やめたメッターベーサッジャパンディタ(師)さん(「日出る国」で占星学を熱く語っていた人)。
そして、あの「東西占星術研究所」のリーダー的存在だった前述のハタヨーギー(師)さんも。(今年のはじめ頃だと聞いているが、インドから帰ってきてから他のサマナと一緒にどこかに行方をくらましてしまったそうだ)

彼らが、その信じている占星学で「尊師」の偉大さを確認できていたのなら、「尊師復活の日」を待ちながら、今でも教団に残っているはずなのではないだろうか。

なぜ彼ら優秀な(とオウム内では言われていた)占断家がことごとくオウム、アレフやめていったのだろうか。「尊師」のホロスコープをリーディングして彼らは何をそこに見いだしたのだろうか。

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* おまけ 私が耳に挟んだハタヨーギーさんの未来予測  *
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※ 1998年か99年ころに大地震が起きる。とか言って見事にはずしたらしい。

※ 東西研の掲示板には、はたようじさんが2000年の終わり頃から、世界的に戦 争の方向に進んでいくようなことを書いていた記憶があるのだが、それもみごとにはずれた。

※ そしてその彼は、まだ教団にいたころ「2004年に尊師が復活する」と言って いたそうだ。

 

「補足」   ペンネーム:Satyaketu

この手記を書いてくれた○○さんには、私は今回カナリヤで、はじめてお会いしたのですが、よくよく聞いてみると、意外なところで出会ってたことが判明しました。
じつは私は、○○さんの手記にある「東西占星術研究所」の掲示板の常連さんだったのです。もちろんそこがオウムのダミーサイトであると知りながらも、遊び気分で書き込みしてたのですね。
そして今回のカナリヤで、○○さんが、このサイトのことを話しているのを聞き、
「実は私もあそこの掲示板に書き込みしてたんですよ!」 と言うと、
「え?なんて名前使ってました?」
「じつは△△という名前だったんですよ」
「あー!!あの△△さん!!実は私も××というハンドルで書き込んでたんですよ!」 と、二人で大爆笑してしまいました。

まさか元信者同士がオウムのダミーサイトで出会うとは、羽田先生でも予測できなかったことでしょう。 二人を結びつけてくれた羽田先生に感謝!

ちなみに羽田さんのセミナーの参加者には、テキストが送られるという話しだったのですが、その掲示板で知り合った某参加者の話しによると、1年たっても送ってこないそうです。 ( 参加者・談 『金返せ!!』 )


追加50 ●  面 会 −第74号より−2001.8.21 元サマナ、女性 

昨日、小菅の拘置所に行って面会してきました。面会が少なくなっているので、会いに行ってあげて下さい、という言葉に励まされて行ってきました。何度も面会に行っている人に一緒に行ってもらいました。

今までは、「私が代わりに入っていてもおかしくないのに」と思うとどうしても自分なんかがのうのうと会いに行ける訳が無いと思ってしまい、“面会”という言葉とセットになったように、安全に、そしてそれなりに楽しい毎日を送っている自分を責める言葉ばかりが渦巻いていました。

その声とも面と向かいたくないばかりに、私はずっと面会について考えることさえ避けてきました。

実際に小菅に行き、テレビドラマのセットのような施設に入り、何か薬品のような独特な匂いを嗅ぎ、私は少し緊張しました。
番号を呼ばれて中に入ると、彼も入ってきました。
彼の傍には警官が座り、とても狭い部屋なのに、私たちと彼との間を更にガラスがへだてています。このガラスのせいで、声も聞き取りづらくなっていました。
私のことを、一緒に来てくれた人が紹介してくれました。

「お前はいいよな」「俺の苦しみが分かるか」

いつそう言われるんだろう、口にしなくても、態度で示されるんじゃないか、もしにらまれたら私はどうすればいいんだろう。
私はびくびくしていました。

そんな人ではないことはカナリヤに寄稿された文章を読み、面会に行った人の話からもわかっていました。そんなことは無い、と頭では分かっていても、自分の中の後ろめたさがびくびくさせるのです。

彼はニコニコとしていてくれました。

「申し訳ない」と私が言うと、
「そんなこと思わなくていいですよ。」と明るく言ってくれました。

私はほっとしました。「ありがとう」と言いたいです。ずっと抱えていた心のつかえが一つ取れたような感じです。ほんの10分間の出来事ですが、本当にありがとうございました。

                           元サマナ 女性


追加49 ●  オウムと子どもたち (第3回)

−第74号より−2001.8.21 元サマナ、女性 

 『オウムと子どもたち』の連載を休んで半年ほど経ちました。その間、私は再婚し、出産をしました。今、赤ちゃんを抱いていると、オウムで出会った子どもたちや当時の私の子ども(当時、1歳半)のことを思い出します。

 1994年5月、私は子ども(以下、Tと記載)を連れて出家しました。出家して最初に住んだ所は富士山総本部でした。畳を敷いた広い部屋に、木で作った2階建てのベッドがぎっしりと並んでいました。一人分のスペースは畳一畳ほどの空間でした。

沢山のベッドが並ぶ一角に20人ほどの子どもたちのベッドがありました(ベッドの大きさは大人と同じ)。子どもたちは頭にPSIのヘッドギアをかぶっていました。波野村からPSIを受けるために子どもたちは交代で富士総本部に来ていたのでした。小学生くらいの子どもたちがキャンプにでも来たような雰囲気で騒いでいるな…というのが私の第一印象でした。

 私はTと一緒に1つのベッドを与えられ、修行を始めました。教学や瞑想、ウインドトレーニングなどを決められたスケジュールに合わせて行いました。まだ1歳半のTはベッドでじっとしているのは無理で、沢山のベッドの間にある細い通路を歩き回ったり、持ってきたおもちゃで遊んだりして過ごしました。私は修行をするより、Tが騒いで他の人の迷惑にならないように…それがとても気になりました。

 ウインドトレーニングは別フロアで行っていました。ウインドトレーニングにTを連れていくことができなかったので、私はTをベッドに残して行かなければなりません。私がいない間、Tはずっと大泣きしていました。私がウインドトレーニングから戻るとTのオムツから下痢便が多量に溢れ出ていました。あまりの多さに便が紙オムツから流れ出て、洋服にまでついていました。私は慌ててTを浴室に連れていき、シャワーできれいにしました。私がいないからTが不安になったんだ…と思うと、Tを残してウインドトレーニングに行くのがとても胸が痛みました。

でも、子どもを連れてウインドトレーニングに行くのは禁止されていたのと、子どもへの愛着は子どものステージを下げてしまうと言われていたので、後ろ髪を引かれる思いでその後もウインドトレーニングに行きました。そして、Tはその度に大泣きし、オムツから流れ出るような多量の下痢便をして、洋服まで便がつくということを繰り返していました。

 私のベッドの前には、小学生の姉妹と母親のベッドがありました。姉はハキハキした活発そうな子で、妹のほうは甘えん坊のようにみえました。2人はTに声を掛けてくれました。いつの間にかTも2人に慣れ、私もこの姉妹と話をするようになりました。姉妹の母親は大病をした後で、とても衰弱してみえました。私は姉妹の母親とは会釈程度の付き合いから、いつの間にか会話をするようになりました。

私が
「この狭い場所では、Tが可哀想なので、早く子どもたちが沢山いるシャ ンバラ(波野村)に行けたら・・」
と姉妹の母親に言うと、姉妹の母親は
「そうね、ここよりはずっと広くって、子どもも沢山いるからTちゃんに はいいかもね。ただ波野村では電気が使えずに停電する時間もあるし、汚 いし、冬は寒いから大変よ。あそこでは本当に大変だったわ。」
と答えてくれました。

私は姉妹の母親から波野村での生活を色々と教えてもらいました。その後、数ヶ月のち、姉妹の母親が妹だけを連れて下向したことを他の人から聞きました。

私はこのことを知った時、母親が妹だけを連れて逃げてしまったなんて、1人残された姉はどんなに辛いだろう…と思いました。ただ、今になってみると、子どもを2人連れて逃げるのは不可能だと思った母親の気持ちがよくわかります。必ず迎えに来るからね…と身を切られるような思いで姉を残して逃げたのだと思います。私も5回の脱走のうち、はじめの2回はTを連れて逃げられたけど、その後はTを連れて逃げるのは不可能でした。必ず迎えに来るから…と胸が切り裂かれるほどの思いでTを残していきました。

私はこの文章を書きながら、当時のTの心を思うと涙がボロボロ出てきます。目の中に入れても痛くないって言葉が実感として感じるほど、Tが可愛くって、大切でした。私はそのTを残して逃げたので、この姉妹の母親の気持ちがわかります。私はこの姉妹の姉にこう言ってあげたい。
「あなたのお母さんは妹と同じようにあなたも連れて逃げたかったんだよ。あなたのことをとてもとても愛していたんだよ。妹だけが可愛かったわけじゃない。あなたをとても大切に思っていたんだよ。」と。

    ペ ン ネ ー ム  海


追加48 ● 意見「過剰な一般化」 第74号より-2001.7元サマナ、男性

先生の講演記録を読ませていただきました(71号6ページ以下)。先生はこんなこともされているのですね。講演慣れされているといいますか(笑)。面白く読みました。信者のことは、よく理解されていると思います。おおむね私も同意します。

しかし、異見を一つだけ述べさせてください。先生は「どの出家者も麻原さんの指示があれば人を殺します」といわれていました。しかしこれは「過剰な一般化(オーバー・ゼネライゼーション)」だと思う。殺せない信者もたくさんいる。私にしたところで、「アイツを殺してこい」と言われて、それを平気で行えたとは思えない。当時であっても。

それで、私の意見ですが、「今の教団にも、人を殺せる信者がいる」

これが正確な説明だと思うのです。だから、「殺せるヤツと殺せないヤツ」の見分けが必要である。殺せる信者もそのことを表に表わないから見分が難しい。一般的傾向として「ステージの高い人=殺せるヤツ」といえましょう。一見して、いかにも優しそうで思いやりを持っていそうに思えても、成就者の中には殺せるヤツが多くいるから気をつけよう。信者はあの麻原の弟子(つまり麻原を目標にしている(おぞましいことだが、今にしてみれば・笑)であることを、成就者は麻原に近づいた人であることを忘れないで!

こういった方が、実状に合っていますし、住民の意識に残りやすいのではないでしょうか。でないと
「滝本弁護士はあんなこと言ったけれど、会ってみたら良さそうな人だね」

などと騙される人が出かねない。だから「見かけで分からないが、殺せるヤツが含まれているぞ」と警告した方が効果的である、と私はそう思います。ご参考に。

ありがとうございました、同意します。−−−−−−−−−−−−−−−窓口滝本


追加47 ● 元信者−白いサマナ服

第66号から−2000.10.18 男性、30代、元信者

はじめまして。東京の○○と申します。オウムの古い元信者です。あの○○判決となった有名な○○くんではありません。

12年前、あの井上くんとはよくバクティしているときなどに話をしていました。彼はまだ高校生で準スタッフといった感じで気持ちいいエネルギーの少年でした。

私はといえば、当時ケイマ大師にミーティングの書記を頼まれていたのですが、88年2月を最後にオウムから行方をくらましてしまいました。

最後はちょうどあの白いオウム服を着ることが決まった最初の日だったと覚えてます。当時登場したオウム(サマナ)服が気に入らなくて、世田谷道場で着るのを拒否して家に帰ってしまいました。ほかにもいろいろ離れる理由がありますが、個人的なことですからここでは話したくありません。ただ、自分を書記に選んでくれたケイマ大師に悪いことをしたなーという思いでいたのです。当時、私は麻原の説法のテープおこしや村井氏の指示の元にビラ配りとかしていた記憶があります。

 ずっとオウムにいたことを自分の仕事の都合で一切話せない立場にいたため、オウムについては自分の心の中から排除したつもりでいました。サリン事件の時も気になりながら他人事のように目を伏せていた気がします。かって自分が仲良く話をしていた連中が次々にテレビに顔をだしているのを見てかなりショックでした。

 また自分の家にとうとう警察が来てしまい親や親類にオウムにいたことがばれてしまい結構大変でした。でも、ラッキーだったのは会社の社員寮に住所変更しなかったことでしょう。警察が来て確実にクビになっていたことでしょう。

 オウムのことが今となってすごく気にかかるんです。もはや自分はオウム信者ではないけれど、いまだに修行者ではないけど瞑想者だと思っています。自分はオウム事件には関わらなくてラッキーだったけど、友人の心は傷ついているだろうしすでに亡くなられた友人(オウム内の事故で)もいるみたいです。当然亡くなられた被害者もいるわけで、○○個人としては何かとお役に立てないものかと考えております。

 ※この文章に関して転載可ですので「カナリヤの詩」に転載してもかまいません。


追加46 ● 私を癒したあの本−『 わたしの出会った子どもたち 』
 灰谷健次郎 著 角川文庫−第65号から

2000.10.18

 ぼくが『 わたしの出会った子どもたち 』という本に出会ったのは、T拘置所でのことだった。この本は、T拘置所の貸し本数百冊の中に埋もれた1冊だったのだ。

 著者の灰谷健次郎の名を、ぼくは知らなかった。また、著名に特別興味をひかれたわけでもない。しかも、この本はカバーがとれたボロボロの文庫本だったのだ。何故、この本を手に取ったのだろう。今、考えても、よく分からない。

 何気なく読み始めたぼくは、この本にどんどん引き込まれていった。あの時の感動は、今でもよく覚えている。こんな経験は初めてのことだった。大変なものにぶつかったという感覚。探し求めていたものに出会えたかもしれないという嬉しさ。それと同時に、この本にぼくの偽善、自己欺瞞を暴かれていくような、そんな恐ろしさも感じたのだ。ぼくは思わず、呻めいていた。

 そして意外なことが起きた。いつの間にか、ぼくは涙を流していたのだ。「ぼくはどうしちゃったんだろう」という戸惑いを感じた。何故なら、ぼくは当時、まだオウムを辞めていなかったから。教団の偽りに気付き始めていたとはいえ、ぼくはまだ、歴としたオウム信者だったからだ。

 ぼくは自分のことを涙なんて涸れはてていると感じる、そんな人間だった。オウムの修行で、ぼくは自分の心を凍結してきた。数年間の苦しい修行で、ぼくは確かに「人間でなくなりつつあった」のだろう。それが、たかが1冊の本で、これほど感情が動いていしまうなんて!この本は一体何なのだ。

 戸惑いと同時に、ぼくは自分の感情が回復していく心地よさを感じていた。氷が溶けていくような妙な感覚。嫌な感じではないのだろうが、経験がないものだから、違和感を感じたのだろう。これが少しずつ「人間に戻る」感覚なのか?

 当時のぼくは、「もう普通の人には戻れないのではないか」という不安に悩まされていた。それが脱会に踏み切れない、1つの原因になっていたように思う。

 しかし、この本を読み、泣き、笑いしている自分を発見したことにより、ぼくはその不安から解放されたのだ。絶望から希望へ。「もう一度、やり直せるかもしれない」とぼくは感じ始めていた。

 その数ヵ月後、ぼくはオウムを脱会した。もちろん、この1冊の本だけで、すんなり脱会できたわけではない。そこには山あり、谷ありで苦労したのだが、何とかオウムから離れることができた。

 今、その頃を振り返り、最も影響を受けた本を考えて見ると、ぼくはこの本のことを思い出す。だからこの本は、ぼくを脱会に導いた1冊といえるのだ。

 深く感銘を受けた本。人はそれを「私の聖書」などど言う。その意味で、ぼくの聖書は、この『 わたしの出会った子どもたち 』だ。ぼくはこの本から感銘を受けたというより、土台からひっくり返されたような衝撃を受けた。この本はぼくの最も大切な1冊となったのだった。

 本当に不思議なことだ。偶然手にとった1冊の本が、自分にこれほど影響を与えるとは。そして、そんな本に出会えたことを、ぼくは嬉しく思っている。                  20代、男性、元サマナ


追加45 ● 劣等感シリーズ3 グルへの依存 −第70号から

−2001年1月31日 元サマナ 桂木 義正

 「グルへの愛着は依存、自立しよう」

 オウム信者の中で、このスローガンを唱えている方がいるらしい。真に殊勝なことである。このスローガンは全く正しい。これこそ「真理だ」!なぜなら諸悪の根源は、「グルへの依存」にあるといって過言ではないから。

 でも実行できるだろうか? スローガンを唱えただけでは「グルへの依存」から脱却することはできないのではないか。「グルへの依存」から脱却するには、そもそも「依存」とは何かを考えなくてはならない。その原因を明らかにしなければならない。そして脱出方法を見い出し、それを着実に実行する必要がある。

 劣等感シリーズもいよいよ3回目、最終回となりました。今回は「グルへの依存」について「劣等感」をキイワードとして分析してみたい。そして「グルへの依存」からの脱出方法をさぐってみる。

 ここに劣等感の強いT君がいたとしよう。T君は<私はなんにもできない>と思い込んでいる。<なんにもできない自分>とは赤ちゃんのようなものではないか? そう、T君は心理的赤ちゃんなのである。

 赤ちゃんは自分ではなんにもできないから、母親を、保護者を強く求める。何しろ赤ちゃんにとって、保護者を見つけられるかどうかは死活問題だ。守ってくれる人、育ててくれる人がいなければ、赤ちゃんは死んでしまう。赤ちゃんは必死になって保護者を探すのだ。赤ちゃんは保護者を求め、泣き、叫ぶ。

 赤ちゃんは自分ではなんにもできないから不安だ。だから保護してくれる人は完全な人、絶対的な人でなくてはならぬ。赤ちゃんの要求水準はとても高い。自分を安全に守ってくれる、完全に理解してくれる、完全に育ててくれる人でないとイヤなのだ、困るのだ。

 また、赤ちゃんの現実検討能力は(大人に比べて)とても低い。その意味で赤ちゃんは非現実の住人と言ってよかろう。赤ちゃんは現実を変形し、幻想の世界で遊ぶ。保護者についても現実がどうであれ理想化してしまう。このようにして赤ちゃんは自分の不安を消そうと試みる。

 T君は心理的赤ちゃんだから、自分の指導者を強く探し求める。その指導者は完全な絶対的な人でなくてはならない。そんな指導者はおいそれと見つからないから、T君は苦しみ続ける、T君は指導者を求め、泣き、叫ぶ。

 ここで登場するのが麻原さんだ。
 「前世の弟子たちよ!君たちは前世からの修行者である。私と深い深い縁で結ばれているのだ。君たちを指導し、解脱へと導こう。死後の審判の時、私は君たちの弁護士として登場する。そして君たちが高い世界へ転生できるように、力を貸そう」
 「出家できるものは出家しなさい。生活のすべての面倒はみてやろう。出家は解脱への最短コースである。すがれサマナよ。くるしーみにまよい〜」

 T君はこれを聞いて大喜びだ。「やっと探(捜)し求めていた人と巡り会えた!」と。

 麻原尊師は最終解脱者である(と自分で言っている)。数万人の弟子を持ち(これは正しい)、数百人の弟子を解脱に導いた(と自分で言っている)。弟子たちの証言によると、麻原尊師は超能力者だそうだ。弟子たちは麻原尊師を「十億宇宙、最高の魂」と奉っているらしい。

 これが本当なら、T君の高すぎる要求水準はクリアできる。「完全な絶対的な指導者」に会えたと思い込んだT君は、オウム真理教に入信してしまった。

 オウム真理教でいう「帰依」には色々な意味が含まれる。その第一に「依存」ということが挙げられる。これは信者から反発を食らうかもしれない。でも実はそこなのだ。
 現に麻原さん自身がこう言っているではないか。
 「解脱させてあげる。死後の弁護をしてあげる。生活の面倒をみてあげる。すがれサマナよ」と。

 弟子はこの話を信じて、麻原尊師と契約を結んだ。であるから弟子は修行、来世、現実生活、つまりすべての面にわたって、麻原尊師に依存するのだ。これは契約なのだ。弟子のすべての財産、自分の体、そして心までもグルに与える。そしてグルはすべての面にわたる保護、指導を与える。この依存関係がオウム真理教の土台に存在する。そして弟子はこの「依存」を「帰依」と思い込んでいるわけだ。この依存から脱出することが並大抵の苦労でないことが分かろう。

 T君はオウムに入信し、麻原さんに「帰依=依存」を始める。オウムの修行で劣等感が増大することは、シリーズ二回目で詳しく説明した。とどめとして麻原さんに「グルに対する信頼は100%、自分に対する信頼は0%」と教え込まれる。T君は「完全な自己否定」から、劣等感を成就してしまう。

 劣等感の塊(固まり)のT君が麻原さんから離れられるわけがない。たとえでいえば、T君は修行することにより、赤ちゃんから胎児に退行してしまう。そして麻原さんとの母子一体感を経験するのだ。そりゃ心地はいいだろうよ。
しかし、これでは本末転倒ではないか。T君は劣等感をなんとかしようとして、さらに劣等感を強めてしまった。T君は自分を高めようとして、反対に退行してしまったのだ。「こんなのは本当の帰依とは言えない」このことに気付くことが、「グルへの依存」から脱出するための前提となる。

 話がそれるが、もう一つ重要なことが分かるので書いてみよう。なぜ麻原さんを絶対的指導者と錯覚してしまったか? T君は劣等感によって現実認識が歪んでいたからだ。T君は心理的赤ちゃんである。T君は自分の指導者と決めてしまった麻原さんを理想化してしまう。T君は劣等感に苦しめられていた。不安だった。だから、そうせざるを得ない状況にあったのだよ、T君は。

 それで麻原さんの欠点を(は)「見ざる、言わざる、聞かざる」になってしまう理想の指導者に欠点があってはならないから、欠点はない! もっと言うなら、胎児として麻原さんと一体化してしまったら、子宮の中は真っ暗で何も見えない!(まあここまでハマっている人は少ないと思うが)

 麻原さんの長所を過大評価してしまうのも理想化のなせる業(技)である。そのことを踏まえて、信者は麻原さんを見なければならない。つまり理想化して底上げしている分を割り引いて、麻原さんを評価しなくてはならない。
たとえば、信者が麻原尊師を100点満点と採点していたとする。A君は0.6を掛けて60点と採点すると、現実の麻原さんに近づくことができる。Bは0.1を掛けて10点と。C君は0.01をかけて1点と。「帰依=依存」の強い人ほど麻原さんを辛く辛く採点すべし。もちろん、合格ライン(たとえば60点)を下げてはならぬ。

 話を戻そう。最後の難問、「グルへの依存」からの脱出法について考えてみよう。シリーズ3回目だからお分かりの方も多いと思うが、「正しい自己認識を持つ」ことが、その方法なのだ。劣等感から解放されると同時に「依存」からも脱却できる。

 「私はできることは多くある。もちろん、できないことも多いが、それで正常である。私はこのままでOKなんだ。ありのままの自分が本当の私である」
 「私は自立して生きていける。絶対的な指導者なんていらない。私は赤ちゃんじゃないぞ。『自分への信頼0%』だと!バカにするな!!」
 こうして「グルへの依存」から脱出することができた。

 「立つ鳥跡を濁さず」と申します。読者のみなさん、麻原さんに最後のアイサツを一緒にしましょう。

「麻原さん、今まで長い間お世話になり、ありがとうございました。私は不肖の弟子だったから苦労ばかりかけてしまいましたね。ごめんなさい。
 私が精神的に不安定だった時、あなたは私をなぐさめてくれました。私が道が見
つからず苦しんだ時、あなたは道を示して下さいました。その他、色々な恩恵を与
えて下さいましたね。そのことはこれからずっと覚えています。
 でも麻原さん。あなたは私に多くの重大な嘘をつきました。あなたは犯罪者でした。あなたのせいで、私は多くの悪行(業)を積んでしまった。あなたは弟子を指導する力がなかった。弟子たちはあなたにしばりつけられただけで、修行を進めることなどできなかったのです。

 麻原さん。私はあなたに「帰依=依存」したら、私の本質部分が弱くなるだけだって気付きました。だからもうあなたをグルとすることはできなくなりました。
 これからは自立して生きていきます。変なグルに乗り換えたりなんてしませんよ。その点はご心配なく。

 じゃあ短いですけど、これでお別れですね。早くご病気を治されて下さいね。今までホントありがとね。さよなら」

              (シリーズ終了)


追加44 ● 劣等感シリーズ2 修行しなくてはならない−第69号から

−2001年1月31日 元サマナ 桂木 義正

 <修行しなくてはならない>

これがオウム信者の大前提である。「何はともあれ修行しよう」が彼等の合(相)言葉だ。「なにはともあれ」とは「すべての条件に優先して」ということだから、彼等は「修行至上主義者」といってよいだろう。

 オウム信者は常に「修行せよ」という命令に急き立てられている。よって彼等の修行の仕方は強迫的であり、神経症的である。彼等の病名を「強迫修行症」と命名しよう。

 もちろん、人にレッテルを張り付けるのはイケナイことだ。でも「修行至上主義者」にしろ「強迫修行症」にしろ、オウム信者をうまく表現しているようで面白いではないか。私は彼等に親愛の念をこめて、ユーモアでもって、これらのレッテルを捧げたいと思う。

 修行者はユーモアを忘れてはならぬ。「・・・至上主義」に陥り、思考の柔軟性を失ってはならぬ。「強迫・・・症」になって、心の余裕を失ってはならぬ。つまりユーモアが必要だ。

 さて、<修行しなくてはならない>という大前提について分析してみよう。オウム信者が<修行しなくては>と思い込んでいる理由はいろいろ考えられるが、一つは来世(地獄)の恐怖がある。私は「オウムで修行しないと地獄に落ちる」という脅しは嘘だと思っている。このことはまた改めて書くことがあるかもしれない。

 2つ目は「劣等感」である。今回はこの劣等感について考えてみたい。<修行しなくては>という信念と劣等感の関係。修行によって劣等感から脱出可能かについて検討してみたい。

 劣等感そのものについてはシリーズ1回目で詳しく検討した。劣等感にとらわれた人、彼をT君とする。T君は自分を正しく認識できない。T君は<私はなんにもできない>と思い込んでいる。T君はこう考える。

 「私はなんにもできない。ダメな人間だ。自分は無価値だ。でも自分が無価値だなんてイヤだな。自分は価値があるはずだ。価値があると思いたい」
 「価値ある自分になるためには、今の自分ではない本当の自分にならねばならぬ。でも、本当の自分になるには、どうすればよいのだろう。本当の自分ってなんなのだ?」

 T君はここまで考えを進めた段階で思考が止まってしまう。これ以上考えを進めることができず、苦しみ続ける。

 ここで麻原さんが登場して、曰(いわ)く。「T君、君は潜在能力を眠らせたままでいるのだ。その能力覚醒の技法、これを修行という。君も修行することにより潜在能力を開発し、解脱することができるのだ」

 この話はT君を驚喜させる。なぜならT君は麻原さんから「君は価値がある。ただ、まだ価値は眠ったままだ」と認めてもらえたからだ。T君は停止していた思考を進めることができる。

 「価値ある自分が自分の価値に気付かなかったのは、潜在能力を眠らせたままでいたからだ。価値ある自分、本当の自分になるためには修行すればよい。本当の自分とは解脱者のことだったんだ」
 「だから修業しなくてはならぬ。解脱しなくてはならぬ」

 これで<修行しなくては>という信念の成立の過程が解明された。まとめると、T君は劣等感に苦しめられていた。劣等感から逃れるためには、本当の自分になればよいと考えていた。その時、麻原さんから「本当の自分とは解脱者のことだ」と吹き込まれたため、T君は<修行しなくては>という強力な信念を形成してしまった。
そしてT君とは実はオウム信者の代表例なのである。

 このようにしてT君は修行を始める。しかし劣等感は消えることはない。なぜなら修行は結構大変だから。オウムの修行の要求水準はかなり高いから、ほとんどの信者は、それを完璧にこなすことはできない。T君はこう考える。
「私は修行できない。修行することによってのみ、本当の自分になれるのに、私は修行すらできない。私って本当にダメな人間なんだなあ」

 このように「さらにひどい劣等感」にとらわれてしまうのがオチである。しかし他に道はないと思い込んでいるから、オウムから離れることもできない。しかし修行できないから、しまいには修行嫌いになってしまう。T君は<修行しなくては>と「でも、できない=劣等感」の間のジレンマにもがき苦しむ。

 T君はそれでも頑張って、何とか成就認定を与えられたとしよう。「師」「正悟師」というレッテルを張り付けてもらえた。しかし劣等感は消えることはない。なぜなら、自分はたいして変わっていないような気がするからだ。そして、どうしても「最終解脱」と比べてしまうから、自分は劣等だと認めざるを得ない。

 もっと修行の根本について考える。そもそも「解脱」とは何ぞや? T君にとっての解脱とは「本当の自分」のことであった。「本当の自分」とは、T君の劣等感の裏返し<なんでもできる万能な自分>のことだ。

 ではT君は解脱できるか? T君が解脱を<なんでもできる万能な自分>と考える限り、T君は絶対に解脱できない。<なんでもできる万能な自分>など現実には存在しえないからだ。

<なんでもできる万能な自分>は、T君の劣等感<なんにもできない無能な自分>が生みだした、頭の中の妄想にすぎない。妄想が現実化することはありえず、よってT君の解脱はできないというわけだ。

 T君は劣等感から逃れるため「解脱=本当の自分』を目指した。しかしT君は絶対に解脱できないのだから、劣等感から逃れることは不可能ということになる。T君は劣等感にずっと苦しめられ続けるのだ。

 これでT君はオウムの修行によって、劣等感から解放されないことが論理的に証明された。

 オウムの修行によって劣等感から解放されないことが分かった。ではどうするか? 私は「正しい自己認識をもつ」ことを勧めたい。T君は「私はなんにもできない。無価値だ」と思い込んでいる。これは誤りだ。

「私はできることはあるし、できないこともある。そしてこのままでOKだ」

 T君はこのように気付くだけで劣等感から解放される。<私はこのままでOKだ>という信念を「自己肯定感」という。自己肯定感を持てば劣等感は消える。正確に言うと自己肯定感が上がる程、劣等感は下がるのだ。

 最後に、私の修行についての個人的見解を書いて終わりとしたい。これまで、<修行しなくてはならない>という信念は誤りであることを説明してきた。だが、反対の<修行してはいけない>という信念も誤りであると私は考える。

 私に言わせると、「修行する、しない」は「善悪(よい、わるい)」の問題ではなく、「好き、嫌い」の問題なのだ。つまり修行が好きな人、興味がある人は修行したらよい。修行が嫌い、興味のないひとは修行なんかしなくて結構だ。なぜなら「修行する、しない」に関係なくその人には価値があり、尊重されるべきである、と私は信じているからだ。
「修行しないのは悪いこと。だから修行せよ」とか「修行するなんてバカだ。変人だ。修行をやめろ」とか、こんな主張は余計なお世話だと思っている。「ほっといてんか」なのである。

修行したい人は次のようの考えたら、どうだろう。
 「修行なんかしなくても私には価値がある。そのままでもOKだ。でも私には向上心というものがあり、自分をより高めたいという気持がある。そして自分を高める道の一つに修行があると思う。だから私は修行したいのだ」

 何だってそうだが、強制されてやることには身が入らないだろう。劣等感に急き立てられて修行したって、よい結果は得られないではないかな。好きだから自分の選択で修業する者こそ、早く成就に向かうのだと思う。
 <修業しなくては>の強制から<修業したい>の自由へ。善悪のとらわれから好嫌の選択へと。価値観の変換である。そして一番言いたいこと。修業しなくたって価値がある。修業は自分を高める道の一つに過ぎないことが分かれば、修業していない一般の人をバカにしなくなる。

                              (第2回終了)

(註)原著には(オマケ)として自己肯定度(このままでOK度)と劣等度(私はダメ度)の関係のモデルが示されていた。ここでは再現できないので要点だけを述べておきます。xy=1の双曲線の図が描かれており、横軸x は自己肯定度を示し、縦軸yは劣等度を示す。
自己肯定度が上がると劣等度が下がり、自己肯定度が下がると劣等度が上がる。自
己肯定度が1より下がると劣等度が急上昇する。


追加43 ●  劣等感シリーズ1 私はなんにもできない−第68号から

−2001年1月31日 元サマナ 桂木 義正

 劣等感に苦しめられている人はいないだろうか? 

実は私がそうなのだ。私の場合、劣等感の裏側にあるプライドが出ることが多いようだ。オウム真理教には、プライドが高い人が多かったが、あなたはどうだろうか?

 今回から3回にわたり、「劣等感」について考えてみたい。第1回目は<私はなんにもできない>という思い込みを検討し、劣等感から脱出の道をさぐってみる。

 「私は無能なんです」という人がいる。彼をT君としよう。T君は自分のことをこう考える。「私は文章が書けない。ものが考えられない。本を読んでも理解できない。コンピュータが使えない。資格を持っていない。英語ができない。・・・(T君は自分のできないことをえんえんを挙げ続けるが、紙面の関係上、以下省略する)

 そしてT君はこう結論する。「私はなんにもできない。私はダメ人間だ」
こうしてT君は劣等感に落ち込んでいるのだ。

 果たして、そうだろうか。
T君は本当になんにもできない人間なのか? 具体的に考えてみよう。少なくともT君は歩くことができる。日本語で会話することができる。ハシを使って、自分で食事することができる。その他、基本的能力はすべて完備しているはずだ。

 それだけでなく、T君はもっと高度な能力を持っている。文字を読むことができる。車の運転ができる。ワープロが打てる。働いてお金をかせぐことができる。経済的にも心理的にも自立して生きていける。その他、できることはたくさんある。
 よって、T君の<私はなんにもできない>という思い込みは誤りである。

 次の問題は、T君は多くのことができるのに、「なぜ<私はなんにもできない>と誤って、思い込んでいたか?」だ。
 T君は自分のできることを当り前だ、思っているからである。「そんなのできて当然」と思っているから、自分のできることを「できる」と認識できない。そればかりか、自分のできない部分のみ目につくことになる。「あれもできない。これもできない」つまり、ないものねだりをしてしまう。そして、<私はなんにもできない>と錯覚してしまうわけだ。

本当「そんなのできて当然」なのか?
 断じて当然ではないのである。例えば、病院で寝たきりの人を想像すれば分かるだろう。 自分で歩くことができる。自分で食事ができる。自分でトイレに行ける。・・・こういった能力が与えられていることは、本当はものすごくありがたいことなのだ。

T君は自分が多くの能力を与えられていることを感謝すべきではないか。感謝できないT君は、すなわち傲慢になってしまっているのである。

 さらに考察を進めよう。T君はなぜ傲慢になっているのか?
実は心の底では、T君は<オレはなんでもできる>という内部の基準に照らし合わせて、自分の与えられた能力を「そんなのできて当然」と思ってしまう。自分のできない部分に過度に反応して、<私はなんにもできない>と劣等感に陥ってしまう。これがT君が劣等感に落ち込んでしまう原因だ。

 しかしまあ、<オレはなんでもできる>とは何と傲慢極まりない信念であろうか。この信念は現実には合致しない、単なる妄想である。この信念にはまったく根拠がない。ところがT君は現実を無視し、<自分は万能である>幻想に酔いしれている。T君の心の奥底はプライドに支配されている。

 根拠がない信念なのだから捨ててしまえばいいのだが、T君はそれをそれを捨てたくない。<オレはなんでもできる>という信念を捨てるくらいなら、<私はなんにもできない>と思い込んだ方がマシである、と思ってしまう。これで劣等感とプライドが表裏一体であることが理解できた。

 最後の問題。劣等感の背景にプライドがあるとして、T君は劣等感からいかにして脱出するか?
 「正しい自己認識を持つ」、これがその解答である。 <私はなんにもできない>と思い込み、これが誤りであることは、具体例を考えることにより証明できた。<オレはなんでもできる>という信念、これは根拠のない妄想である。T君はこの両極端の中間に存在する。<あることはできて、別のあることはできない> これが現実のT君である。これが本当のT君だ。

 T君は自分に対する認識を次のように変えたらよい。「私はあることはできて、別のあることはできない。そしてこれで正常である。このままでOKである」。これが「正しい自己認識」なのだ。

この認識によって、T君は劣等感とプライドのセットから脱出できる。自分のことがよく見えてくる。自分の与えられた能力に感謝することができる。T君は生きることが楽になり、幸せを感じることができるだろう。

(第1回終了)


追加42 ● K君を想う ・・・ここにも死があった・・・−第69号から

−2001年1月31日 元サマナ

 92年の夏ごろだったと思う。私が入信した時、支部道場で最初に目が止まったのがK君だった。

師と面談をして入信した翌日、数人が熱心に修行をしていた。その中でも細身で浅黒く髪の毛とひげがのびていた風貌は、ババジにとてもよく似ていた。本で見た上祐氏と間違えたこともあった。背筋はきちんと伸びていて、蓮華座の股関節がピタリと決まっていて、数時間の修行でも姿勢の乱れはほとんどなかったと記憶している。

 K君はとても無口であった。時々話しかけても、ウン、とかハーと言う程度でオームの思想や体験の話を彼から聞いたことはなかった。
彼の私生活で知ったことは、他の人からで、彼は四国出身で一人でアパート暮らしをしている20代の人だというぐらいである。道場の不綺語の実践とひたすら修行に邁進していた印象が強く残っている。

 そして、94年になった。道場の雰囲気は修行道場としてのいい意味での緊張感とすがすがしい柔らかい雰囲気は漂っていた。毎日のように道場に通って修行をするのは私の充実とした日々であった。またK君をはじめ法友も解脱を目指して頑張っていた。

 しかし、在家信徒や一般サマナはサリンの製造や多くの人殺しをしている団体とは夢にも思わなかったに違いない。麻原氏の説法も今にして思えば、自らカルトを名乗っていたし、毒ガス攻撃に対する防衛策、教団の拡大、導きに異常なほど力をいれていた。

 94年の前半から後半にかけてだったと思う。大阪支部で「平成幕末塾」と称して、全国から「導きのための特訓セミナー」が数度行われた。参加者は、在家信徒、サマナ見習い、出家予備軍の人であった。
セミナーの一部を紹介すると、人が多い街頭(大阪駅前や戎橋)に出て演説をすること。(この種の街頭パフォ−マンスは、ライフスペース等の自己啓発セミナーで行われている、そのもの真似と言える)。オームと麻原を名乗らないでオームの教義的内容を大声ではりあげるというもの。
そのための訓練が道場内で何度も何度も繰り返された。また、エネルギーを上昇させるために「修行するぞ!修行するぞ!」と頭頂から突き抜けるような大声を張り上げるのもあった。私はこの張り上げる訓練がとても苦手で、頭の回線が切れるような感じで頭がボーとして、気を失いかけるような体験を何度もした。また、観念を落とすため、とらわれないためと称して、通行中も大声で歌を歌っていく集団は気ちがいじみていた。

 K君が死亡したのは、たぶん、このような訓練と実地が原因だったと思う。無口なK君はしゃべることが苦手で、何度も何度も訓練させられたが、一向に上達しなかったようだ。それを無理やり街頭で演説をやらされ、やり直しを繰り返されて何時間も街頭で苦悶、葛藤していたようだ。
街頭演説の修行が死の原因かは不明であるが、ある種の異常をきたしたのは事実であろう。一人で歩くこともままならないくらいフラフラしていたし、目がうつろになっていた。
どうにか支部へは、支部の信徒と一緒に帰ることはできたが、その2−3日後彼は死亡した。死因は道場すぐ近くのマンションの階段から落ちたらしいとか自殺したらしいと支部道場で聞いた。

 K君の死について、道場の人がどう立ち会ったか、身内の人への連絡や引き取りや葬儀はどうなったか全く信徒には知らされていなかったと思う。 法友でありながら横の関係が希薄なオームの特徴であった。彼の死は他殺ではないと思うが、セミナーでの修行がこじれて死に至ったことは否定できないと思う。

何人かの修行者や多くの人々がオームという団体の犠牲になった。ゴキブリも蝿をも殺さない実践は確かにしていた。けれど、身近な人間や人の生命に対してあまりに無頓着というか、無神経な体質はトップの人の体質を投影しているものと思われる。
真理という美名に隠されたエゴ。このエゴが隠されて肥大化していく修行者のあり方を、今なお所属している人はよくよく考えねばならない。

最後にこの場をかりて、アレフに一言申し上げたい。村岡さんが言うように純粋に修行をしたいだけという理由でアレフとして存続していこうとするなら、犯罪を犯した人、一応起訴され刑が確定し終えた人でも、復帰は認めずアレフからは除名すること。

この一点だけはよくよく実施していただきたい。そうなれば、犯罪集団ではないと少なからず主張できると思う。
個人がやった犯罪は個人の罪として、刑罰の法律で刑を終えたのだから、法律上は問題はないが、人間として正しい生き方を追求しているあなたたちには、道義的責任、こころの法律といってもいいものがあるはずだ。
そうなれば、私だって復帰しようとする気持ちがないわけでもない。今のアレフのあり方はどうみても自らを絶対化するエゴの集団、社会に不安を与えるだけで存続してはならない団体である。

 人は死ぬ。必ず死ぬ、死は避けられない。ひとは生死の一大事を解決することが、人生の大きな目的の一つであることは確かなのだが。 (おわり) 市田 誠


追加41 ● 「再会 〜番茶をすすりながら〜」 −68号から

2001年1月31日 沢木晃

2000年も残り僅かとなった12月某日の休日の日、ふと携帯電話の着信履歴を見ると、見知らぬ番号からの着信履歴があった、(何だろう?)と思い電話をかけると

「ああ沢木くん、伊藤(←仮名)だけど」と昔の信徒仲間の伊藤さんが出た

実は伊藤さんとは前回のカナリヤの会合で約5年ぶりの再会を果たしており、そこで携帯の番号を教えていたのであった(ちなみに、この時の会合、集まりが悪く、滝本さんが「笑っていいとも」のテレフォンショッキングのように 「来てくれるかな?」「いいともー!」みたいな感じで、当日呼び出したようなもんだが

 そして久しぶりに会っての第一声は
「太ったね―」
と今現在、自分が気にしているというか改善しなくちゃ、と思っていることを突かれましたが・・)
そして「よかったら家に遊びに来ないか?」とのお誘いだったので、僕は「はい!」と喜んで返事したのであった。

家におじゃますると、伊藤さんは凄い博識なんで本棚なんかは、さぞかし仏教書や精神世界の本とかが山のように置いてあるのかと思ったが、予想に反してそれほど本は多くなかった「うーーん、やっぱ僕みたいに本ばっかり読んで分かったような気になって頭でっか
ちになるよりは生き方やなー」と思いつつ腰をおろす

そして伊藤さんはパソコンで
「これ元信者のホームページで、こいつ面白いよ」
と言いながら、僕がやっている(正確には場所を提供してもらっている 最近ずえんずえん更新してませんが)
「沢木晃の僕が僕であるために」のページを開く

「ああ これ僕ですよ」と言うと
「あー やっぱり そうかなーとは思っとぅたけど」と笑い
「人妻ライターがいいがや!」と笑いながら過去のログも見る
僕も自分で書いたものだけど、(あーこんなこと書いたのか)とか(馬鹿だなー)と
か(これは面白いなと)改めて楽しみましたが・・・

その後は、番茶をすすりながら話に花が咲く、それだけで本が一冊できてしまうと思うほどで
・ オウム時代の楽しかったことや様々な出来事
・ 94年の暴走期
・ 強制捜査
・ 脱会してから今までの事
・ これからの事
など、具体的にここに書くと第三者が多数出てきてしまいその方々に迷惑がかかるので書きませんが
まあOBの学生が喜びも苦しみもあった学生時代を懐かしむ感じでしょうか?
ただ、現役信者とかインターネットでオウムシンパがよく言う
「やめたヤツが悪口いって悪業積んでる」とかいう感じではなく、だいたいそれだけしてても時間の無駄で
それを基にこれからどう生きていくが重要なわけで、前向きに前向きに学生OBで思い出したが僕と伊藤さんは高校と大学の学部が同じでオウム以外でも先輩・後輩というか
ほんとに同窓生の間柄だったのでその話しにも花が咲きました。

話しの途中に「エホバの証人」の伝導訪問が来たらしく、機関紙の「ものみの塔」と「目覚めよ」を貰う。伊藤さん曰く「よく来るから、今、話しを聞いてるんだよー、話しだけね」とのこと僕は(相変わらず精神世界大好きやなー、しかし窓口の滝本さんはJDCCでエホバの証人の問題も扱ったりしてるのに、伝導訪問受けて話しを聞いたりする人や、ラジニーシマニアやカルト教団のフィールドワークをしている人もいるカナリヤの会はまあ変なところやなー)と思っちゃたりなんかしたりして

とまあこんな感じで話しは弾んでいったのだが、しかし現役時代は伊藤さんは熱心な信徒で勉強会とかがあるとよく前でマイクで体験談とかを話してたりしたものでそれをノラリクラリと信徒活動してた僕は道場の片隅で
(おーこの人頑張ってるなー)と思いながら聖賞賛してましたが、

その数年後、師走の静かな昼下がりに番茶をすすりながら語り合うとは、運命のイタズラというか時の流れを感じました
(ちなみに番茶を出したのは「いやーお菓子でも出そうと思ったけど、沢木君は今でもストイックな修行をしている と思ってさー」と言ってましたが、ストイックどころかタバコ・酒やってますよ)

まあ時間は流れていってるけど、また違った形で交流し、自分も何かしら成長していけばいいかそういう意味で「縁」というのは大切にしていきたいなー、
伊藤さん、これからもヨロシクッ!!
(以上まとまりのない駄文でした チャンチャン)