元 信 者 ら の 手 記 54〜59


追加59 ●  何はともあれ修行しよう @オウム騒動について  

−第74号から。2001.8.21 元サマナ、男性、30代

A子−「いろいろ考えたんだけれど、〈あたし修行したいんだ〉ったことだけは分かった。修行は必要なんです。だからあたしオウムに残っているんです。あたし修行したいだけなんです」

−この現役信者A子さんの主張にどう答えるべきか?
私ならこう問い返す。

ぼく−いろいろ考えた、とは何かな?
A子−「エット、一連の事件はオウムの犯行であり、それに麻原尊師が関与してるってことです。私たちにも「グルへの依存」だとか「現世への敵意・軽蔑」だとか「選民意識」みたいなのがあった。教団にも問題はたくさんあったなって、分かりました。」
ぼく そっかあ。いろいろ考えてるみたいね。じゃあ、そこまで分かって、なぜ教団に残っているんだい? 毎日教祖をおがむときに違和感は感じないのかな? 本当にこんなことやってて、いいのかしらんって疑問は感じない?

A子−「あんまし感じない…」
ぼく−そうか。じゃあ教団にあった問題って何? その問題がいかに一連の事件の原因となりえたか。現在の〈オウム騒動〉と、どうつながっているか。理解できていますか?
A子−「ウーン、あんまし」
ぼく 修行したいという気持は分かるよ。でもその前にすることがあるんじゃないの。事件の原因となった教団の問題を解決する方が先でしょう? 各地に〈オウム騒動〉がおこると、すなわち教団に問題が残っている証拠なんだね。それに対して教団は「真理だから弾圧される」だの「修行してるだけ」だの「大いなる艱難」だの「危険はない」だの、そういった反応しかできない。事件が発覚する1995年以前と全然変わってないじゃないか。こういった反応しかできない。そこに教団の問題点があると思う。こういった反応で事足れりとすましている教団の体質こそ、信者の意識こそ問題なのではありませんか?

A子−「だってオウムは真理なんだから…」
ぼく−つまり一言でいうと誠意がない。ゴーマンなんです。
A子−「そんなぁー、傲慢じゃないです。すごく謙虚なんですよ、あたしたちは」
ぼく−そうかなあぁ。私は〈オウム信者の辞書に謙虚≠ニいう文字はない〉って思い込んでいたのだけれども(笑)
A子−「ハハハ。イヤー、こりゃ一本取られましたわ(おじぎ)」
ぼく あれっ、A子ちゃん、しばらく会わないうちに謙虚になったね。じゃあもう一度よく考えよう。オウム騒動はゆえなき迫害なのか? 各地の住民の反応は正常だと私は思うよ。教団側に騒動を引きおこす原因があるんだ。ちょっとでいいから住民の立場に立って考えてみて下さい。

A子−「でもひどいんですよ。お店にもアパートにも、理由もないのに強制捜査が入るんです。信者の中では住民になぐられた人もいます。住民票不受理は違憲! 尾行はつくし、見張り小屋までできて、四六時中監視されます。プライバシーが、人権が、酷いじゃないですかー。反対集会では「オウム出ていけ−」ってうるさいだけだし、ホント「どこに出ていくのよ」って感じ」
ぼく−訴えはいろいろあるようだね(苦笑)。だからそういう事態が生じた原因を考えてみたいんだ。今言ったのはすべて信者から見た状況を語っているよね。そうではなくって、信者をなぐらざるを得なかった住民はどんな心理だったのか。寒いホッタテ小屋で四六時中見はってる、その住民はどんなことを考えてんのか。集会に集まって「オウム出ていけ」と叫んでいるじゅうみんはどうかと想像する。相手の立場に立つとはそういうこと。君もオウムに入信する前は普通の人やってたんでしょう。その頃を思い出して、その頃の心理で今の状況をながめてごらん。きっといろいろなことが見えてくると思うよ。

A子−「ウーン、それは真理の見方からはずれるってことだから」
ほく−真理の見方からはずれる、これをオウムの見方からはずれるって言い直そう。そうだ! オウムの見方からはずれなさいって言ってるんだ。オウムをやめろとは言わないから。オウム騒動とか考えるときに限って、オウムの見方をはずして相手の視点に立って状況を見なさい、といってるのです。そうしないと相互理解はありえないんだよ。

A子−「ハァ、でも相互理解のためには現世の人もオウム信者の視点に立つべきじゃないですか?あたしたちだけ歩み寄るのはフコーヘイですぅ。」
ぼく もちろん、住民も人権活動家も警察もマスコミも、信者の視点に立つことは必要です。でも現実的には、それは難しい。なぜなら普通の人はオウムの教義を知らないのだから、オウム信者の心理はほとんど理解できないかもしれないね。

A子−「じゃあオウムの教義を学ぶべきでは?」
ぼく−そこが傲慢だと言ってるわけ。どうしてオウムが進出した地域の住民全員が、オウムの教義を学ぶべきなんて考えられるんだろう? 君たちは普通の人やった経験があるんだから思い出すだけでいいんだ。だから信者の方が歩み寄るべきだと、私は考えるんだね。

(第1回終了)


追加58 ●  何はともあれ修行しよう A 犯罪をおかした信者について  

−第75号から。2001.8.21 元サマナ、男性、30代

−今回も私とA子さんの対話(ダイアローグ)を続けます。

ぼく−A子ちゃん。オウムには<犯罪を犯した信者>がたくさんいますね。それについてどう考えますか?
A子−「微罪なんですよ。何でも逮捕されちゃうんです。カッターナイフ持ってただけでつかまった人もいます。そんなのばっかし」
ぼく うん。そういう人もいるようだね。しかし僕が言ってるのはもっと重い罪、殺人とか誘拐とかそっちの方。

A子−「あたし…よく分からない。教団にいると情報が入ってこないんです。戒律によって禁止られているし」
ぼく−君は戒律を口実にするけど、実は知りたくないから知ろうとしないだけじゃないの?心の安定を崩してたくないとか、信を失いたくないとか。だから外部の情報は知りたくないということ。だってどうしても知らなきゃならないと思ったら、どうにかして除法を手に入れようとするはずさ。

A子−「イエ。口実じゃないんです。戒律が…エット環境がですね、情報が極端に入ってこなくて、そんなでもって…」
ぼく−そうか、じゃあそれはおいといて、ほくが知ってる情報をあげよう。I君って知ってるよね?
A子−「ハイ、名前だけで会ったことないですけど」
ぼく うん、彼が法廷でこう言った。「信者の皆さん、オウムは間違った教えでした。私と同じ過ちを繰り返さないでほしい。私を信じていた信者は脱会してほしい」どう思う?

A子−「あたし、I君を信じていたわけではなく…ウーン、やっぱり修行だけは続けさせてほしいんです。あたしホント悪いことをしようと思ってません。グルに命令されて、あたしはできないな、帰依も弱いし」
ぼく−そのとおりだと思うよ。君は今、悪いことをしようと思っていない。グルに命令されてもポアなんかできない。帰依が弱いからと(笑)。でもねぇ、そこに問題があるんだよ。オウムの信者で犯罪にかかわった人はたくさんいるよね。彼らは最初から「犯罪をおかそう」などと考えていたのか?考えていたはずないよね。むしろ逆なんだ。オウムは仏教教団だと信じたから、その厳しい戒律を守って「悪いことしないぞ」と決意してオウムに入ったんだ。それがいつの間にか犯罪者になってしまった。入信したての信者は誰一人としてポアなんてできない。たとえグルの命令があったとしても。それが修行が進んで帰依が強くなって、それでポアが実行できるようになったんだ。
A子−「ハイ」

ぼく−つまり問題はここにある。初めは「悪いことをしないぞ」と思ってオウムに入っても、彼らはいつの間にか犯罪者になってしまった。修行が進んで帰依の強い人、すなわち犯罪を行える人といえるんだよ。だからオウムの修行の方向性と、犯罪者の方向性が同じなんだ。君は「悪いことをしない。ポアではない」と言ってるけど、修行をすすめた結果、「犯罪OK。ポアもできます」になってしまう可能性があるんだね。
A子−「エー。そんなあ」
ほく−君の先輩の多くの人−正確な数字は知らないが−まあ、100名くらいの人がそのことを証明してしまったんだ。

A子−「証明って…その人はその人で、あたしは犯罪者になんてなりません!」
ぼく−ウン、ならないかもしれないね。しかしなるかもしれない。「可能性がある」と言ってるわけだ。犯罪をおかした信者全員が特に悪人ばかりだったという証拠はないんだから、すべての信者は犯罪者になる可能性を持つ。多くの事例から、これが証明されたんだ。

A子−「帰納的に証明されたということかしら」
ぼく−そう、100件以上の事例があるのだから、その傾向があることは疑えないと。
A子−「ウーン、認めざるを得ないのかしら。イヤだけれど」
ぼく−だからね、君は修行する前にやることがある。君と同じように「悪いことをしないぞ」と決意してた人が、なぜ犯罪者になってしまったか? その原因は? オウムの修行のどこにその原因が含まれているのか? それを取り除くことは可能か?

A子−「どこに問題があったか、その問題は解決できるか。考えるわけですね?」
ぼく−ハイ。そして次に、実際に問題を解決する。問題は残っていないことが確認できた後に、初めて君はオウムの修行ができるんだよ。
A子−「ハーァ。大変そうですねぇ」
ぼく−なんか他人事みたいね。A子ちゃん!(笑)。オウムの修行に危険はないなんて、とんでもない誤解なんだよ。現に事実、犯罪者になってしまった人がたくさんいるんだから。それも教義を理解していない、はね上がりの新米がやったんじゃない。ステージの高い人が率先して、凶悪犯罪をおかしている。
A子−「フーン」
ぼく−まだ他人事みたいね(苦笑)。とにかく、このままじゃオウムの修行は危険です。そのことはすでに証明済みのことなんだ。

      (第二回終了)


追加57 ●  何はともあれ修行しよう B被害者・遺族について  

−第77号から。2001.10.6 元サマナ、男性、30代

−前回に引き続き、私とA子さんとの対話を続けよう。

ぼく−A子ちゃん。<被害者とその遺族の方々>については、どんなことを考えたのかな?

A子−「申し訳なく思っています。あたしは事件には関与しなかったんですけれど。教団としても謝罪し賠償を始めています。たいへんだけど頑張って少しずつでも賠償していきたいって考えています」
ぼく−うん、現役信者は皆、賠償のために頑張っているみたいね。でもさあ、被害者・遺族の中には「いまだ教団が存続していること、麻原を崇拝する信者がいることかぜ許せない」と怒っている方もおられるそうです。それについては?

A子−「でも賠償しないと…」
ぼく−賠償のために教団に残っていると言うなら、賠償が終わったらA子ちゃんは教団を離れなきゃならないよ。でもそんなことは考えていないよね。本当にどうなんだい?「教団の存続は許せない」という被害者・遺族の方々について?

A子−「ハイ。申し訳ないですけれど修行することだけは認めていただきたいと思います。ハイ……」
ぼく−そっかあ、あくまで修行する権利だけは守りたいと言うわけね。それはね、あれだよ。さっき言った「相手の視点かの欠如」ですね。君たちは被害者・遺族の気持が全く分っていない。そりゃ、あなた方信者は自分の家族が死んでも悲しくないっていうか…でよね。しかし遺族の方はそうではないんだ。それは分るね?
A子−「ハイ分ります」
ぼく−でも、君たちは本当の意味では遺族に共感できない。なぜなら君たちは心の中では「遺族は悲しむべきでない」と考えているからだ。「魂は生き続けるのだ。今生の家族の絆なんて偶然、映画館でとなりに座ったくらいの意味しかない。だから悲しむべきではない」と。
A子−「イヤ、そこまでは思ってませんよ」

ぼく−フ〜ン、でも君たちは心の中で「遺族は私たちと同じ見方をするべきだ。そうしないから悲しんでいるんだ」と考えているんじゃない? 「遺族が悲しむことは間違っている」と批判しているのだから、君たちが遺族に共感できるはずがないよね。

A子−「あー、そうかもしれない」
ぼく−A子ちゃん。遺族の方に「私たちと同じ見方をするべきだ」と考えるのはおかしくないですか?
A子−「…なぜでしょうか?」
ぼく 君たちはよく言ってるじゃないか。「信教の自由を!私たちの教えを許可してほしい」と。君たちは他者には「私たちの教えを認めろ」と言う。しかし君たちは他人の教え、つまり世界のとらえ方・見方・感じ方を認めない。これはおかしいよね。自分勝手なんだもん。
A子−「そうです」

ぼく−じゃ、君たちは被害者・遺族が感じることをそのまま認めるべきです。オウムによって被害を受けた人々の苦しみをそのまま自分たちも感じるよう努力する。そこからスタートしなくては、謝罪も何もあったもんじゃない。

A子−「でも謝罪はしてますけど」
ぼく−君たちの謝罪はほとんどの被害者。遺族に伝わっていない。なぜか?君たちは決定的に想像力が欠如しているからさ。自分勝手に謝って、それで事足れりと思ってる。相手につたわっているか。確認さえしない。相手がどう受け取るかという視点がないから、こうなんだね。君たちは伝えようとする意志も弱すぎるよ。どうせ伝わんないって考えてるんじゃないの?

A子−「そういうとこ、あるかも」
ぼく−それに、そもそも君たちは本当に申し訳なく思っているのかなあ。疑って悪いと思うけど、そう思わざるを得なくなる所があるよ。たとえば君たちはあくまで「オウムの修行に危険はない」と主張してるじゃないか。つまり「自分たちがやってきた、いまやっている修行は絶対正しい。改めるべき点はない」と君たちは断言してきたんだ。「自分たちのやってきたことは正しい」と言いつつ、いったい何について謝罪してるんだろう。エワソーに「自分たちは正しい」って言いはってるんだから、それが謝罪に見えるわけないのはあたり前だよ。
A子−「そうかもしれません」
ぼく 謝罪とはこういうことじゃないか。「私のなしたことはこれこれが誤りだった→今後はその点を改め、同じことを繰り返さないようにします→すいません」。
ところが君たちは「自分たちがなしたこれこれの修行は誤りでした」という
最初の段階すら表明していない。だから当然、次の段階「その点を改めます。
同じことを繰り返さない」という決意表明も出てこない。しかし最後の「すみません」だけ言ったんだ。こんな自己反省のない謝罪は謝罪とは認められません。

A子−「でもあたし本当にすまないって気持ちはある。確かに」
ぼく−そうねえ、A子ちゃんのすまないは、ムードで言っているんだな。あたしの知らないところで一連の事件が押して、被害者がたくさんでた。被害者が出たから、これは謝らなきゃならない状況なんだろう、と感じて謝っているだけだ。でも自分たちの修行が一連の事件とどうかかわっているか。どこに間違いがあったのか、という反省の方向には意識が向かわない。これじゃ反省がないから謝罪にならないんだな。君たちが平気で修行を続けられるのも、グルを観想できるのも、反省がないからだ。そうじゃない?

A子−「でも修行や教義の見直しはステージの高い人がするんだす。あたしじゃできない」
ぼく−それで、そのステージの高い人が「オウムの修行に危険はない」と断言したんだよ。信じるの?
A子−「そりゃ、信者ですから」
ぼく−さっきも言ったけど、君の先輩に犯罪者がたくさんいるんだから、オウムの
修行は危険、と判断せざるを得ないんじゃない。どうして「危険はない」って言いはるのさ?

A子−「ほんと、なぜでしょう?」
ぼく−ぼくに聞き返されても困るなあ。ぼくが決めたんじゅないんだから(笑)。でも想像はできるよ。君たちがいつも使う手だよ。
A子−「というと?」
ぼく−自分たちは悪くない。悪いのはアイツだ! 現世だ! 時代だ! 現代文明が悪いんだ! つまり責任転嫁だね。事件の謝罪においては、自分たちが悪かぁない。悪いのは犯罪をおかした信者と指示した松本智津夫だ! というわけ。結局、君たちは自分には関係がないって思っているんだな。所詮、他人事なのさ。

A子−「責任転嫁してますか?」
ぼく−うん、してると思う。君たちはこう言っているから。今、教団に残っている人は心は清らかで、修行によって自己を向上しようとしている良い人ばかりです。私たちがやっている修行は全く危険はない、これが責任回避ですね。悪いのは犯罪をおかした信者と松本智津夫被告だけです。彼らがやっていた修行は危険だったのでしょう。こうやってすべての責任を押しつけたわけだ。「オウムは真理。私たちだけ良い人」とあくまで主張してるんだ。

A子−「でもオウムは真理なんだと、今残っている信者は悪いことをしようとは思っていません。これは事実です」
ぼく−事実ねえ。君たちは次の事実を忘れているようだね。もしかしたら君たちが犯罪をするよう命令されたかもしれない、という事実を。その可能性があったと認めますか?

A子−「可能性としたなら……イヤあたしはステージが低くて帰依が弱いから命令される可能性はありませんでした」
ぼく−そうか。じゃあA子ちゃんが修行を進めて帰依が強くなった状態になったとしたら、命令される可能性があったか?
A子−「それなら…あった…かもしれません」
ぼく そこに危険があるといっているんだよ。「私たち現在の信者も、犯罪をおかした信者と同じグルを持ち、同じ修行をしていた。だから私たちも犯罪をおかす可能性があった。危険があった。」これが同じグルを持ち、同じ修行をなしていた者としての謝罪ではありませんか。次に「そのグル修行のここここが危険性を生み出す。私たちはここを改めます。今後二度と私たちは犯罪をおかしません。すみませんでした」これが謝罪だと思うんだね。
A子−「そうですね。これなら分かります」
ぼく−じゃあ、A子ちゃんはこのような謝罪するかい?

A子−「イヤ、ステージの高い人が認めてから」
ぼく−そこなんだよな。君が本気で謝罪してないって思ってしまうのは。ステージの高い人がどう考え、どう感じるか、そこからしか謝罪はでてこない。
ステージの高い人が謝るから自分も同じように謝る。これは単なる口マネですね。 まさにオウムだよ、鳥の!

A子−「すみません」
ぼく−謝罪できなくて申し訳ないと。信者個人としてはほんとうは謝罪したいって気持ちはあるんだね?
A子−「ハイ、そうです」

ぼく−広報部ってあるね。外部に対する謝罪とかも担当してる人でしょう。君たちの広報部は何をやってるのかねぇ。被害者・遺族の気持ちを魚でするようにことばっかり言ってる。
A子−「あたし広報部のことはよく知らない……」
ぼく−A子ちゃん、そこがおかしいんだよ。広報部は君たちのスポークスマンなのでしょ、それなら信者の気持ちが広報部を通して伝わっていくよう、チャックすべきではないか?

A子−「あたしステージが低いから、そういうことできない……」
ぼく−ウン。君はステージが高い人にまかす、というわけね。そしてA子ちゃん自身は被害者・遺族の気持ちに共感できなくなってるね。しかも一連の事件についての反省がない。これは危険です。君の口では「悪いことはしません」と言ってるけど、「1−上の人にまかす、盲目的に従う」「2−相手の気持ちを理解できない」
「3−反省なし」という状態に落ち込んでいる。これは立派に、犯罪者の徴候ですよ。この状態がひどくなったら平気で犯罪をおかすようになるんだ。(補足説明参照のこと)

A子−「う〜ん、あたしそんなこと」
ぼく−オウムで修行を進めるとは、すなわちこのこと(1、2、3)ではないのですか???

(第3回終了)

−−補足説明

−1 絶対的帰依・無心の帰依
−2 ヤツラは間違っている、真理を知らない
−3 ボクラは絶対正しい、真理を知ってる
この3つはオウム信者の特徴であるが、これが犯罪に直結するのだ。「虫はころさないけど、人は殺す」のはこのためである(別の原因もあるのだが)。善意の犯罪!


追加56 ●  何はともあれ修行しよう C修行について  

−第78号から。2001.10.6 元サマナ、男性、30代

 

−対話を続けます。いよいよ佳境に入ってきました。A子さんの防衛線「修行する権利」を突破できるか?

A子−「でもあたし修行だけは続けたいんです。どうしても、何を言われようと」
ぼく−A子ちゃん、ぼくは君に「修行するな」とは言ってないよ。
A子−「あれっそうなんですか?」
ぼく−うん、ぼくは「修行やめろ」なんて言わない。どっちかというと、修行はすばらしい気はするね。「A子ちゃん頑張ってるね」と応援したい気持はあるな。

A子−「でもさっき修行を進めることは犯罪者になっちゃうって言った」
ぼく−そのとおりなんだよ。そこが問題だよな。さてどうするか?
A子−「どうしましょうか?」
ぼく−ぼくはこう思うんだ。君たちは〈何はともあれ修行しよう〉って、よく言ってるよね。

A子−「はい。いろいろ考えた結論がそれなのです」
ぼく−これは違うとぼくは考えるるぼくの主張は〈何はともあれ、まず自分のしようとしている修行が正しいかどうか考えよう〉ということです。そして「もしその修行が正しいなら、それを行う、もしそれが誤りならその修行は行わない」つまり、その修行が正しいかどうかが決定的な意味を持つんだ。正しければなす、誤りならばなさない。こういうことです。
A子−「ハァ、誤りの修行ならやっちゃいけないと」

ぼく−イヤ、やっちゃいけない、禁止とは違うんだ。やらないんだ。もし君がその修行を謝りと判断したら、君はその修行をやらない。たとえ「やれ」と言われても、君は「あたししりません」と断るよね。
A子−「ハイ。じゃあ、もし正しい修行だと分ったら、それをやらざるを得なくなる、ということかしら」
ぼく−そのとおり。その時君は、自分の意志で正しい修行を始めることになるんだね。
A子−「修行が正しいかどうか調べるのが先決であると」
ぼく そのとおり!

A子−「でも修行する前から、その修行が正しいかどうかなんて分りませんよ。とりあえずやってみて、その結果正しいかどうか判断できるのです。」
ぼく−そうかなぁ。修行の正しさの証明は同じ道を行く先輩を見たら分るはずさ。君たちの教義でもそうなっていたはずだよね。さっさき犯罪をおかした信者について話したのはそのためなんだ。彼らにとってはオウムの修行は誤りだった、と判断できます。
A子−「あー、でも……その人たちにとって誤りでも、あたしのにとってどうか分らない。合性というのかしら。オウムの修行はその人には合わなかったけど、あたしはどうか、まだ分りません。」

ぼく−そうだね。君にとって正しいかどうか分らない。しかし皆、同じ人間なのだから参考にはなるでしょう。彼らはなぜ道をあやまってしまったのか、それを調べて、よく考えるんだ。いっちゃ悪いけどA子ちゃんは有利だよ。なぜって、たくさん失敗した者がいるんだから、その経験を学べば、A子ちゃんの失敗の可能性は少なくなるよね、当然。

A子−「ハイ、先輩の経験を参考に自分の行いを改めることができます。教義や修行の危険な所も分るかもしれません」
ぼく−それがいいたかったんだ。さっきのスローガン<何はともあれ、自分のしようとしている修行が正しいかどうか考えよう>はとはそのことさ。修行の危険性をとりのぞいた後、思う存分、修行すればいいじゃない。

A子−「フ〜ン、そっかぁ。あたし自分でよく考えてみます」
ぼく−オウムの修行を見つめ直すこと、その危険性をとりのぞくこと、これこそ現在の信者がなさなければならないことなんだ。各信者が自分の頭で考えるんだ。事件にかかわった、かかわっていない、は関係ない。現在の信者は同じ修行を引きついだのだから、当然そこから危険性をとりのぞく責任が生じる。これが君たちの道義的責任なんだよ。
ぼく その責任を果たさない者には修行する自由は与えられない。君は「修行する権利」を守るために、「修行から危険性をとりのぞく」という義務を果さなければならない。権利はタダで与えられるものではない。義務を果す必要があることを信者は忘れているんじゃないかな。

A子−「忘れてるかしら」
ぼく−忘れてるよ! たとえば税金は払わんけどサービスは受けようとする。保険料は収めないけれど、65歳から年金もらおうとしているじゃないか、君らは金もうけがうまいんだから、ちゃんと払えよ!
A子−「キャハハ。ステージ高い人が払うなら、あたしも」
ぼく−やっぱりそこに逃げるのね。フー。じゃあ、また機会があったら会おう。最後に一言、修行はオウムでなくてもできるよって!−これは蛇足かな(笑)−じゃさよなら。

−−これにて対談を終結いたします。さて、A子ちゃんはこの後、自分の頭で考え始めるでしょうか。それとも「馬耳東風」か。A子ちゃんの誠意に期待したいと思います。

(あとがき)
長い長いモノローグ(独語)を最後まで読んでいただきありがとうございました。
ここでA子ちゃんの秘密をあかすと、彼女はこの世には存在しません。私か信者のころの記憶を基に作り上げた仮想女性信者です。私の心の中に住むアニマ(ユング心理学でいう女性原型)とも言えるでしょう。A子ちゃんにモデルはいないことをことわっておきます。
私の対談相手に女性を選んだのは、その方が保たしの語り口がやさしくなるからです。つまり私はフェミニストですから。男性信者相手なら途中でケンカしてしまったでしょう。「信者と対話するのは難しい」私はこの手記を書いて、改めてそう感じました。そこら辺も読みとっていただければ幸いです。

さて、本シリーズはいかがでしたか? ご意見・御感想をお待ちしております。
オウム騒動が終息に向かうことを祈りつつ……。

お わ り


追加55 ●  映画「黒い太陽」と「アレフ」  

−第79号から。2001.12.22 元サマナ、女性、30代

少しばかり前、家の近所のレンタルビデオショップから、一枚の葉書が送られてきました。10月中は“レンタル料半額”というので、普段あまり映画を観ない私もちょっとたまには借りてみようかという気になりました。

そこで、「黒い太陽」という映画を観ました。中国が作った731部隊の映画です。私は、中国が作るんだから、思いっきり日本人が悪者として描かれているんだろうと思ったのですが、悪者どころか同情的ですらありました。

人間が何度で凍死するか、気圧を下げていくとどうなるか、チフスやペストを武器として使えるようにするため、人間を実験台に研究し、その死に行く様子の記録をとるのです。映像はただ淡々と、記録映画のように多くの丸太の死に様を映していきます。歴史の嫌いだった私でも、731部隊で減圧実験や、凍死実験や、細菌の実験など、様々な方法で「丸太」が殺されていったのだ、という話ぐらいは聞いたことがあります。

映像を見ていると、それらを決してオーバーに表現しているわけではないと思えるところがかえって恐ろしく、オウムで見せられた「バルドー」は怖いとは思いませんでしたが、人が死ぬ瞬間ばかりを集めた「ザ・ショック」のような映画も怖いとは思いませんでしたが、この映画を観た晩は2度うなされて目が覚めました。

日本人は特に残虐非道な人格には見えませんでした。日本人は全て人殺しを楽しむ余裕など無く、ただ「お国の為に」と「実験」を重ねていきます。そこで何も知らない少年兵たちは、中国人やロシア人の捕虜は「丸太」であって人間ではない、と叩き込まれていくのです。どうしても人間を「丸太」だと思えない兵隊は731部隊の撤退時に何とか1人の中国人を救おうと連れ出しますが、途中でばれてしまい自ら、その中国人を殺してしまいます。
どうやって生き延びられるかと恐れおののく中国人の姿も描かれていますが、かなり日本人の視点に立った映画でした。その日本人の姿が、昔の自分と重なって見えました。

「そんな恐ろしいことがどうしてできたのか、全く理解できません」

凶悪犯罪が起こる度にキャスターはコメントします。そうですね、特攻隊として出撃した若者も、サリンを撒いたオウム信者も、お母さんのおっぱいを飲んでいるときにはそんな将来がやってくることなど思いもよらなかったことでしょう。自分の子供をかわいいと思いながらも殺してしまう母親と、私との間に、一体どれほどの距離があるのでしょう。

人を殺すなんてあまりにも簡単なことだと、今の私にはわかります。振り上げた手を降ろしさえすれば、頭を割れるし、包丁を持った手を前に突き出すだけで、人は死ぬんです。

だからこそ、命は大切に“しなければいけない”のです。こんなに簡単に失われてしまう命だから、一人一人が大切にして行かなければいけないのではないでしょうか。

私達は“戦争を知らない子供達”ですが、戦争を忘れてしまうことはできません。何故、靖国神社には731部隊の無残な被験者となった人々は祭られていないのでしょうか。彼らは日本の為でなければ誰のために殺されたと言うのでしょう。私は改めて、靖国神社の公式参拝に中国の人々がどれだけ傷ついたかと思わずにはいられませんでした。

    −−−−−−
ところで、滝本先生からお借りして、『Shinka』 (アレフの定期刊行物)を読みました。

巻頭特集は
[新型]携帯用パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーションついに完成へ--小型化・軽量化・高性能化----
この[新型]PSIの特長をまとめると以下のようになります。
@省電力で長時間イニシエーションを受けられる
A小型化で持ち運びが容易 どこでも受けられる
B高性能化 (出力電圧の切替機能・より正確な信号・電池残量が減ると、波形が変形する前に切れる)

そして、解説文の中には「覚者がわたしたちに代わって瞑想を進めてくださる」「覚者の思索の流れがわたしたちにインプットされます」「覚者にそのカルマを背負っていただく」「覚者の加持力が働き、魔境に落ちたり悪魔に取り憑かれたりすることから守られる」などと書かれています。

この覚者が、上祐でもなければ、お釈迦様でもないことは明らかでしょう。

そこで当然気になるのは、その脳波の中から、どうやってサリンを撒いたり、数多くの信者・非信者の殺害に関わっていくようになった脳波を取り除いたのだろうか、ということになってきます。しかし残念ながら、この『Shinka』Vol.11にはその説明を見つけることは出来ませんでした。この特集記事以外の場所からも、反省から学び、自らを改めたと思われる箇所を見つけることは出来ませんでした。

私は、上祐さんが現在どんなことを言っているのかが気になり、公開の講演会に行くことにしました。
最初に上映されたインフォメーション用のビデオは、チベットやラオスの高僧を“オウム”が訪れた時の映像でした。尊師の映像が無い部分のみを使って再編集されたもので、これを見ただけで、「もういいや、結局何も反省したくないんだっていう事は充分わかったよ」という気になりました。

上祐さんの説法は主に、「内側の幸福」と“アクエリアスの時代”をキーワードに現代社会を解釈するものでした。
外側の幸福とは、財物・食物・地位・名誉など人と争わなければいけないもの。内側の幸福とは一人一人が持っており悟り(完全な心の安定)と解脱(霊的解放)によって誰もが得られるもの。外側の幸福を追い求めた場合、敗者の恨みつらみがあまりにも高まればタリバンのようになる、とタリバンの擁護はしないまでもアメリカに対し批判的に説く上祐の気持ちに思いを馳せれば、数々のオウムの犯罪に対して、上祐がどのように考えているかもわかろうと言うものでしょう。

参加者からの質問にもいくつかそのようなものがありました。「ラディンと麻原は同じじゃないのか」という質問がありました。
上祐は、「尊師とは違う。ラディンは投降できない、自決するだろう。逮捕されて裁判を受けることは無い。」という内容のことを答えていました。

投降“できない”と言われるとそれは悪いことで、逮捕されて裁判を受けることが偉いように聞こえるのですが、上祐さんはそう思っているのでしょうか、それともそのように皆に思わせたいのでしょうか。思おうと思うまいと、サマナが非信者に対面したときに、そう言い逃れる為の手段にはなるかも知れません。

しかし「逮捕されて裁判を受ける」にしても、自らの罪を認め、自らの利益に関わらず事実関係を明らかにすることに協力する事と、お金を抱きしめながら隠れていたところを捕まえられ、弟子が死刑になろうと必死に呼びかけようと全く応えようとせず、時々わけのわからないことをつぶやくか居眠りしているだけの事では、月とミドリガメぐらいの違いがあるのでは無いでしょうか。
少なくとも、人間としての限界の中で必死に生きる人間と、エセ解脱者の違いはあるでしょう。

(あ、いやいや、素晴らしい解脱者であるが故の深遠な行動であり、弟子に対するマハームドラーという可能性がありますよね。マハームドラーであるからには弟子はそこから何か成長するわけですが、深遠なお考えだからと判断保留にするだけで何か考え方が成長するんでしょうかね。ちなみに私は尊師から、自分を信じなさい・たとえ失敗しようとも自分の人生には自分で責任を持ちなさい・それが大集団であれ、いかなる権力であれ最終解脱者であれ、あなたの人生を代わりに生きることはできないんだよ、というメッセージを頂きました。
私にとって尊師は仏様の化身です。私はその感謝を込めて、“尊師”という言葉で傷つく人がいない場所ではこの呼び方を続けていきたいと思っています。これは嫌味ではなく、本当に感謝しています。)

更に上祐はもっとはっきりと「テロを生み出したアメリカ」と言い、タリバンによるテロはアメリカの自業自得であるというような考え方を表明しました。これでも懲りないアメリカは更なる災厄を被るのではないか、という予言とも取れる主旨の発言をしていました。このような発言から、意図的にか無意識にか「テロを起こさせる側」への批難の感情を読み取ることが出来ました。

続いての質問者は「麻原は目が悪かったが、それはどのように影響しているのか」と問いました。
私は先の質問からの流れとして、一連の犯罪と関連付けた質問と受け止めましたが、上祐さんの答えは「ヨーガ修行者として幸いだった」というものでした。念の為、あとから私は質問者に意図を確認したところ、やはりテロに関連付けてとの事でした。

上祐さんは現在のアレフにおいて最高ステージの方ですが、無意識的にその意図を読み取ることを避けてしまい、質問の意図を読み取れなかったのでしょうか。それとも、質問の意図に対する答えを明らかにすることを避け、曖昧なままにしておきたかったのでしょうか。

それにしても、サリン事件をはじめ一連の犯罪事件を引き起こしたオウム真理教開祖麻原彰晃をここまで持ち上げておきながら、「私達は反省している」と胸を張って言えてしまうのは、オウム用語で言えば“タマス”としか表現のしようがありません。
どこを反省したのかやっぱりわからない話でした。


追加54 ●  「お調子者はいつも事後談」

−第78号から。 2001.9.12 元サマナ、男性、30代

手記かもしれませんが、ありきたりの事では意味が無いと思い、ちょうど、今日、ムッとさせられた事を書いてみます。

今回の対米同時テロに関しては、とてもショッキングでした。余りにも多くの人が生の状態で死傷していく所を見ると、歴史的な何かが始まる可能性に、多くの未来パターンを考えてしまいました。これに関しての私の考えは今回控えます。

明け方、人が寝ている最中に、アレフから一通のメールが届き、起こされてしまいました。アレフの上祐サイトに「緊急告知。対米同時多発テロに関するコメント。」という事でした。
ここ→http://www.joyu.to/diary/index.html

とても中途半端な感想と、調子がいい書き方に、どの面さげてそんな事が言えるのかという感想をもった人も居ました。(匿名元信)

私としては、逆に「私がやりました。」って書いて、その詳細計画と心理状態など、こと細かに言い当てれば注目されたと思います。下手すれば馬鹿にされるか非難の的になりますが。しかし、内容は当たり障りの無い、一善良団体の本当に単なるコメントに過ぎない内容に、「明け方に緊急告知」された私は腹が立ちました。「犯行声明文」であればまだ納得できましたが…。

彼曰く、
> 違うタイプの人から学ぶことによって、自分の修行の
> 幅は大きく広がる。人それぞれ長所と短所があり、
> さまざまなタイプの人がいるということは、大変な
> 幸福だ。それぞれから、自分にない長所を学ぶことが
> でき、心を成熟させていくことができるからだ。

文中では、
> わたしは、かつては、反米主義のテロリスト教団と
> 言われたオウム真理教に身を置いた経験上、普通の
> 日本人の方よりも、ずっと、問題の本質を理解して
> いるかもしれないと思うのです。

という部分にも彼のモットー(?)の調子よさが現れています。前文では、私には、以下の様にしか読みとれないです。

「違うタイプの人から学ぶことによって、自分の調子よさは大きく広がる。人それぞれ長所と短所があり、さまざまなタイプの人がいるということは、大変な幸福だ。それぞれから、自分に都合がいい部分を選ぶ事ができ、社会を調子よく生きられるからだ。」

これは決して彼を非難しているわけではありません。彼こそ、かなりの事をしても、社会に順応して社会の中でうまく生きている人と、感じているのです。サイトに記述されている様に、予言めいた事をしていた事後談を話す人に偉大な人はいません。逆に、お調子者はいつも事後談です。

彼をトップ、或いは看板として運営しているアレフは調子よく社会を生きる芯を持たない団体ととらえるのが自然だと感じます。オウムだった頃のいい事を書いた教えや、体操(修行?)が、たとえ病んだ心に一部の潤いを与えたとしても、それを全てだと誤解してしまわずに「退院」する必要があります。実際に全てではなく、悪い部分の方が多いですから。

超能力・神通力はオウムが言う修行をしていれば誰でも身に付くと言う事を例にとれば、今思えば全くの嘘でした。修行をしてみれば理解出来ると思いますが、してもしても超能力なんて、みなさんつきませんから。逆に、それは戒を破ってしまったからとか、まだまだ修行が足りない。とか、漏らしているからとか、動物をさわったからだとか、とにかくいろんな言い訳の知識だけは、驚異的につきます。その言い訳の仕方に関しては超がつく能力なのかもしれません。

アレフは調子良く世の中を渡る見本なので、やり方を少し参考にして社会で活用してみるのも良いかもしれません。それ以上のめり込んでも「芯」の無いトップにぶつかり、お調子よく生きる人に、使われるだけです。