元 信 者 ら の 手 記  60〜69


追加69 ● カミングアウト−その4

第81号から。2002.3.2発行。−− 元サマナ、男性、20代

 

カミングアウトの思い出

えっ?カミングアウトの経験はあるかですって?

うーん、あることにはあるんですが、それはかなり特殊な状況のもとででしたねー。前回の「カナリヤの詩」で、アレフがつくった「東○占星術研究所」という占星術のホームページのことが紹介されていましたよね。実はわたし、あそこの研究所が開いた占星術の公開セミナーに参加したことがあるんですよ(笑)。そしてわたしがカミングアウトしたのきっかけは、そのセミナーのおかげだったんですよ。

● 東西研
ま、詳しく話しますと、たしかあれは2000年のお正月のことでしたね。いつもの通りに、わたしがインターネットを閲覧していると、ふとしたことで例の東○研のホームページを発見したのですね。そのときはまだ、教団が運営するホームページとは気づかなかったのですが、なにかミョーな感じがしたんですね。だって無料のチャート算出サービスとか、無料のバイオリズム計算サービスとか、とにかくここのホームページは無料のサービスが多いんですよ。「こんなにたくさん無料のサービスをするなんておかしいなー、こんなのコストがかかりすぎて、金儲けを目的とした一般の企業にはできないことだなー。もしかしたらここはオウムじゃないかなー、、、。」などと思いはじめたのですね(※まあ、それ以外にも色々と怪しい面がありましたが)。

しかし、そんなことを思いながらも、ここのホームページはけっこう面白かったので、とりあえず併設の掲示板に色々と投稿をはじめたのです。
そうしているうちに、掲示板に書き込んでいる他の人たちと仲良くなり、やがてその年の夏にセミナーがあったので、それをきっかけにその人たちと会場で直接会うことになったのですね。

● セミナーの思い出
セミナーは面白かったですね。羽田洋二さんことハ○ヨーギーさんはあいかわらずの長身&坊主頭で目立ってたのですが、それ以外にも変装のためか、目も悪くも無いのにメガネをかけたり、あご髭を伸ばしたりして、とにかく怪しい度ナンバーワンでしたね!(笑)
それ以外のところでは、セミナーは2日間あったのですが、2日目に開かれたセミナーの最中に、スタッフの女性が、私のすぐ後ろの席でグースカ寝ていたことですねー。「セミナーに参加して凡夫と交流してしまった、カルマ交換が起きた、修行せねば!」という感じで、夜中修行していて眠る時間が無かったのかもしれません。そんなことを想像しながら、「あー、この体質はまさにオウムならではだなー」とつい笑っちゃいましたね!(※まあ単に忙しかっただけなのかもしれませんが)。

ちなみにそこがオウム系の企業であることは、セミナーに行く前の段階でわかりましたね。それで2度ほどハ○ヨーギーさんに直接「あなたはハ○ヨーギーさんですか?」とメールしたんですよ。でも予想通り、しらばっくれていましたけど。

あ、話がそれましたね。カミングアウトの話だった。とにかく掲示板で知り合った私たちは、セミナーで直接会ったのをきっかけに、「じゃあ今度はみんなで占星術の勉強会を開こうか!」というふうになったのですよ。よく考えたらその人たちは、自分がオウムにいたことを隠したまま仲良くなった初めての友人だったのではないかと思います。

でもばれるのは時間の問題だと思っていましたね。なんせ知り合ったきっかけがオウムのダミー会社が主催するセミナーなんですから、、、。だからそのときのことにそなえて心の準備みたいなものはしておきましたね。でもそれはもっとずっと後のこと、せいぜい1年ぐらい後のことだと思っていました。

●アクシデント
ところがセミナーから約2ヵ月半後の12月に、何の予告もなしに、いきなりそこの掲示板のサービスが中止になっちゃったんですよ。

一応表向きの理由は、「研究所のスタッフが一ヶ月ほどインドに行くため、その間掲示板を管理する人がいないので、一時的にサービスを中止します」とかいうものだったのですが、どうも別の理由があるようだったんですね。

じつはサービスが停止する直前に、そこの掲示板に「掲示板荒らし」が現れて、ここのホームページがオウムによって運営されていることを曝露しちゃったんですよ。その書き込みの内容は投稿されてからすぐに削除されちゃったのですが、わたしは偶然見ることが出来たのですね。だから正直言って「ああー、やられたー!!」と思いましたね。そして「ああ、これは旅行に行くからサービスを中止するんじゃない。ばらされたから停止したんだ」と瞬時に納得しました。

でも、ここがオウムのダミー企業だと知らない周りの友人は、「なんで突然掲示板のサービスを中止しちゃったんだろう」「旅行に行くんだったら事前に理由を説明しておくのが当り前じゃないの?」「なんかこれってあまりにも不自然だなー」と訳がわからない状態でしたね。
それを見てわたしは、「あー、くるべき時が来たなー」「もう二度とあそこの掲示板が復活することは無いだろうなー」「ならば私がすべてを説明してあげるしかないなー」と思ったのです。

●告白
そんなわけで定例の勉強会において、私は「今回突然掲示板が停止になっちゃったけど、あれは旅行に行くからじゃないと思う」「じつはあそこはちょっとへんな団体が運営しているんだよ」「じつはオウムのダミー企業なんだよ」「あそこの研究所の羽田さんていう人の名前は、ハ○ヨーギーという教団名のもじりなんだよ」「彼の本名は○○で、以前警察に捕まったことがあり新聞にも載ったことがあるし、そのとき彼にインタヴューした記事が雑誌に載ったこともあるんだよ」と、私は説明しました。

すると友人から、「何でそんなこと知ってるの?」と聞かれたので、「いやー、わたしもオウムに入っていたんだよ」とさらりと答えました。でもみんなコトの重大さに圧倒されて、私が元オウムであることなど気にする余裕もないという感じでしたね。むしろ色々と教えてくれて感謝しているかんじでした。

●その後
ちなみにその後どうなったのかというと、そのときの友人とは今でも仲の良い友人ですね。まあ、ダミー企業のセミナーに参加した段階で、「みんなオウムに騙されたんだ、いうなればみんなオウムの信者になったようなものだ!」という感じでしょうか(笑)。むしろ告白したおかげで変な連帯感が生まれた気がします。だからわたしのカミングアウト体験は、得になったことはあっても損をしたことは一度も無かったですね。

そんなわけで、わたしのカミングアウト体験はこれで終わりです。


追加68 ● カミングアウト−その3

第80号から。2002.3.2発行。−− 元サマナ、男性、20代

 そのころはオウム施設には居なかったのですが、ときどき支部サマナとも会ってたころでした。

ちょっとした病気で入院してたのですが、ある日、支部の○師がやってきて「病院のスタッフの人に堂々と法施をして導かなきゃだめだよっ」と言ってきました。

うーむ・・・こっちの立場も考えてほしいんだけど・・・、と心の中では思ったものの、○師のいつもの強引な「押し」には何も言えませんでした。

しばらくしたある日、オウム本を病院の人に見せました(正確に言うと病室の机にあったのを見られたのですが)。そのときそれを見た人は、ちょっと引きつった顔をしてましたが、あとは、にこにこしながら作業を終え、何もなかったかのように部屋を出ていきました。

しかし・・・、次の日から、病院のスタッフの人たち全員の態度が明らかに変わりました。みんなやけによそよそしくなったり、声を掛けると、すごくびくびくしてる人もいました。 (事件後でも、まだ教団が「行け行け!」の姿勢にあったころだったからそりゃ怖がりますよね)

そしてそれを後日やってきた○師に話すと、
「いやぁカルマ落ちてよかったねぇ、これで次の導きはうまくいくよ」
と、おきまりの返事。

その後も他の病院で似たような経験をし、必ずどこでも人間関係が悪化したので、オウムから完全に離れてからは、オウムにいたことがある、というカミングアウトは一切してません。

他のオウムを離れた人たちから、いろいろ話を聞いたりするのですが、オウムカミングアウトをしたために、それまで良かった人間関係が一変して悪くなってしまった、だからカミングアウトしなければよかったという話がほとんどでした。逆に、自分が以前オウムだったことを言って周りの人たちに受け入れられた、だからよかった、という結果の話は、今のところ私は聞いたことがありません。

余談1: 先の病院での話を、支部とは全然関係のない、というか、教団からもちょっと距離を置いてる×師に当時話したことがあります。「支部の人間は全然現実世界を考えてないからねぇ。考えが「行っちゃってる」もんな」とのコメント。

余談2:オウム(現役)であることが、病院側に分かると、次の病院に移るときの紹介状にもそのことが書かれることがあります(普通、患者側は紹介状の内容を見ることができないのでそのことを知らないことが多いですが)。これは暴力団の人たちとかもそうやって、次の病院に引き継ぎされるらしいです。(この話は医師から直接聞きました)


追加67 ● カミングアウト−その2 「負ける訳にはいきませんよね」

第80号から。2002.3.2発行。−− 元サマナ、男性、30代

  お元気ですか。今年の冬もやけに暖かく、寒いのが好きな私としては少々物足りない。

 カミングアウトということで、原稿の募集があったので、少々自分の体験を書かせていただこうかと思います。

私の場合は、元々そういうことを隠すことがあまり好きではなく、かといって、告白してしまえばどうなるかわからない(といっても最悪の場合でも会社をくびになるか、その人が離れていく程度ですが・・・)という板ばさみによく葛藤していました。

でも、実際に自分が元Aであると伝えても、雇い先の人が既に知っていて、それを承知の上で雇ってくれていて、拍子抜けしたことが何度かありました。(勿論、それでクビになったこともありました。わりと真面目に働いていたので、そこの社長は残念がってくれましたが・・・)

ある友人に告白したときも、「あっ、そう」、という程度の反応しか得られず、逆にちょっとがっかり(?)したこともあります。

 実際に、自分の周りの人たちがどう思っているのか、その本心は測りかねますが、人は人ということで、特にその人の過去にはあまり干渉しないものなのでしょうかね。誰でも人に言えない過去の1つや2つはあるでしょうし・・・

 周りの人に恵まれているだけなのかもしれませんが、あんまり自分は元Aなんだってこだわるのは自意識過剰なことなのかもしれませんね。
 今、自分の生まれ育った町で仕事をしているので、仕事仲間でも、自分の過去を知っている人もいれば、知らない人もいると思いますが、開き直ることにしました。

要するに誠実に、的確に、そして‘安く’(←これが最大のポイント!)商売をしていけばお客さんはついてくるんですよね。現役信者が経営していたマハーポーシャでさえあれだけお客の支持を受けていたのだから、元の信者がそれに負けるわけにはいきませんよね。

 でもさすがに、自分の彼女には伝えておかなくてはいけないと思い、どう伝えようか迷いました。付き合いだして、だいぶ後になって話したんですが、でも知ってたんですよ。そのこと。友達づきあいしてたときから知っていて、でもそれ以外のいい部分(どうも自分にもそういう部分があるらしい・・・)を気に入ってくれたみたいです。

拙い文にて失礼! ではまた。


追加66 ● カミングアウト−その1

第80号から。2002.3.2発行。−− 元サマナ、女性、30代

私の場合、脱会後の6年間で、元であることを打ち明けた人(マスコミ・カルト関係者・親族・カウンセラーや医者を除く)は5人います。

1人は職場の同僚です。バイトばかりの職場なので変わった人は多いのですが、その人もちょっと変わった人でした。

「以前“勤めて”いたところでは、毎日本が1冊読めた」というので
「へえ、羨ましいな、どんな仕事ですか」と聞くと
「大変だよ。ずっと正座だし、作業中も時計見ただけで怒られるんだ。1000万積まれても戻りたくないね。」というのです。
「刑務所だよ」「!」「銀行強盗やってつかまったんだ。つかまるまでは毎晩豪遊でサ、楽しかったな。」「!!」

とこともなげに話すので、私もつい
「実は私も、オウム真理教の元信者なんだ。」と言ったら、なんの感動もなく「ふうん」と言われただけでした。 そして、思い出したように「そういえば、拘置所で新実と会いましたよ。といってもすれ違っただけですけどね。」

2人目・3人目は辞めてから知り合った友人です。私たちは4人組でした。段々仲良くなってくるにつれ、自分のことを黙っているのが彼らをだましているようで、辛くなってきました。
私は「もしかしたら、もう付き合ってもらえなくなるかも知れないけれど、話しておきたいことがあるので聞いてもらえないか」と言いました。2人は聞くことになり、1人は「聞きたくない」と言いました。

まず、1人に打ち明けたときは、私はとても気負ってしまって「もうきっと彼女とは友達でいられなくなるんだ」と思い、泣きながら語りました。すると、黙って聞いていた彼女も泣きながら「話してくれて有難う」と言ってくれました。

もう1人に打ち明けたときは「なーんだ、そんなこと!?私てっきり、人を殺したことがあるとか、もっとすごい事だと思った。」と言って笑って終わりでした。

あとの2人も辞めてから知り合った人ですが、「別に私たちは何を聞いても構わないよ」と言われて打ち明けたところ「ああ、そうなんだ」と言う程度の反応でした。なんとなく、やっぱりね、というか、あまり驚かれることもなく、まぁ、過去の経歴のひとつで、そういうこともあるよね、という感じでした。

もう1人は打ち明けたわけではないのですが、家に来て、棚を直してもらっていたとき、奥から“シヴァ神の汗”が出てきてしまったのです。

彼はそれをちょっと固まってから「見なかった事にしよう」と冗談ぽく言ってそれきりでした。私も特に何も説明せず、関係も別に変わっていません。

以上


追加65 ● 特集「カミングアウト・恋愛について」−−説明

弟80号、2002.3.2号から

 「誰かこの中で、自分がオウム信者だったことを告白したことがある人っていますか?」

前回のカナリヤの会合にて、ある人がこんな質問をしました。

その質問は、その場にいた元信者全員にとって、非常に切実なものであり、それゆえとても興味深いテーマといえました。

ふつうの元オウム信者たちは、よほどのこと(例:職場に公安がやってきたなど)がないかぎり、周りの人に自分がオウム信者であったことを教えることはありません。いくら最近は、かつてにくらべてオウム問題がマスコミで取り上げられることが少なくなったとはいえ、世間のオウムに対する印象は、「キ○ガイ、殺人集団」というものがほとんどでしょう。
そういった悪しきイメージがある限り、たとえ自分が教団を離れ、普通の生活を送っていても、

「ああ、あの人は例の殺人集団にいたんだ」といわれてしまう恐れがあります。

それゆえ、ほとんどの元信者たちは、自分がかつてオウムにいたことを普通の人には喋ろうとしないものです。もちろん中には開き直って、

「実は俺、むかしオウムに入っていたんだ!どう?俺って馬鹿でしょ!ハハハ!」

などと、自分の弱みを笑いの種にする人もいるでしょう。
でもそれはかなり特殊なケースといえます。

マスコミなどを通じて、自分がオウムにいたことがすでに知れ渡ってもはや隠すこともままならぬ人、あるいは周囲に理解のある友人がたくさんいて過去を隠さなくても良い人など、善きにつけ悪しきにつけ、周囲の環境による後押しが必要だからです。しかし大抵の元信者たちは、そのような環境とは無縁です。よって過去については口を閉ざすことになります。

とは言うものの、いつまでも黙ったままではいられません。そもそも過去を隠すという行為は、何か嘘をついているようなやましさを感じさせます。いや、そのようなことをしていると、実際に嘘をつかねばならない羽目に陥るのです!それゆえとてもつらいのです。

出家生活が長かった人は、就職などで履歴書を書く際に、過去の経歴の辻褄を合わせるために嘘をつく必要があります。そしてその後、嘘をついたことがばれないかとおびえる羽目になります。人によってはそれだけでかなり苦労を感じるでしょう。

また生活のためには、仕事にありつく為には、いくら仕方の無い行為だとはいえども、かつて「不妄語(嘘をつかない)」という戒律を授かった者としては、この経歴詐称という行為には胸が張り裂けるような苦しみを覚えることすらあります。

それ以外では、とくに恋愛や結婚の場面において、この問題は深刻となります。通常の人間関係ならともかく、自分がかつてオウムの信者であったことを理由に、愛する人から拒絶されるとなると、その苦しみは並みのものではないでしょう。それを恐れてもしパートナーにカミングアウトをしなければ、愛する人に対して心を開くことができないという後ろめたさが残りますし、ひいては過去を含めた自分の全人格を愛してもらえないという苦しみが待ちうけています。

そう考えると、私たちが心安らかに生活して行くためには、出来るだけカミングアウトのできる立場に立つことが理想となります。しかしそのような理想が達成されるのは、現段階ではかなり難しいと思われます。

カミングアウトが許されるには、オウム問題が解決し、社会全体からオウムに対する心のしこりが取り除かれる必要があるでしょう。しかしオウム裁判はいつ終わるかも分からない状況ですし、現教団も形ばかりの反省をするだけで、その独善主義的な態度は昔とまったく変わっていません。公安やマスコミも、オウムをだしにすれば自分の仕事が増えるので、教団に関するダーティーな情報のみを流すことに意識が向かいがちです。

そのように考えると、カミングアウトが許されるようになるな社会的状況を待つことは、おそらく永遠に無理でしょう。しかしそのような状況の中で、一人一人の元信者たちが、どのようにしてこの問題を解決し、心の平安を獲得しているのか、これはとても興味深いことであります。

以上のような理由から、今回はこのカミングアウトの問題に関して、会員である元信者のみなさんの体験談を募集することにしました。また、とくに恋愛・結婚の場合に関しては、単にカミングアウトの問題が先鋭化するのみならず、無常観からくる破壊願望を克服し、生を肯定するという観点からしても重要なので、これに限った体験談のみもOKとしました。それぞれ色々な体験があり、とても興味深いと思います。

最後に、これをお読みの元信者の方は、同じような悩みを抱いている元信者の参考になるかも知れませんので、ぜひ御自身の体験談をお寄せください。次号に掲載したいと思います。

それでは前置きが長くなりましたが、それぞれの元信者たちの体験談をお読みください。(編集・記)


追加64 ● 【 小 さ な 歴 史 の 物 語 】

第83号から。2002.4.24発行。−− 元サマナより

ちょっと感動的なメールに出会いました。カナリヤの原稿に載せていただけたら、と思いますが、ちょっと趣旨が違うかな?

エルトゥールル号の遭難〜生命の光から〜

和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。

びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。

台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。
午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。

「何か大変なことが起こらなければいいが」
灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。

このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。

あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には岩がにょきにょき出ている。

ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。

船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。
この爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員全員が、海に放り出され、波にさらわれた。
またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。

一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。

「息子よ、起きなさい」

懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
「お母さん」という自分の声で意識がもどった。

真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
「あそこに行けば、人がいるに違いない」
そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。

灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。
灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。

「あなたのお国はどこですか」
「・・・・・・」

言葉が通じなかった。

それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。

「この乗組員たちを救うには人手が要る」
傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
「樫野の人たちに知らせよう」
灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。
人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。

灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。

この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。
だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。村の男たちは泣いた。
遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。

「一人でも多く救ってあげたい」
しかし、大多数は動かなかった。
一人の男が叫ぶ。
「息があるぞ!」
だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めはじめた。

「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」

村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。

この船の名はエルトゥールル号である。

助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。
サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。
このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。

「もう食べさせてあげるものがない」
「どうしよう!」
一人の婦人が言う。
「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」

女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。

このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。

このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。

次のような後日物語がある。
イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。
イラクのサダム・フセインが、
「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。

日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。

世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人215名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。

なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。

前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

文・のぶひろ としもり


追加63 ● 元在家信徒さん − 決 意

第83号から。2002.4.24 −元在家信徒、男性

27歳、男性より−だいぶ強烈な 文章です。メールを転載します。

滝本先生、はじめまして。27歳の男です。2年前くらいまで、オウムの○○支部にて在家としておった者です。11年おりました。

 ですが、結局、麻原さんの予言がちっとも当たらないのと、事件の真犯人が教団だったことを知った(その途端、サマナの態度が一変しました。いままで、「オウムがやるわけない」といってたのに、「やって何が悪い!」と言うようになったり。とほほ・・・)ので、やめることにしました。

 それと、私は小説家になるという子供のころからの野望があったのですが、そのことを「無意味」と言われたのにカチンとして、「ここに居ては、作家になるのにはマイナスだ。なにより、現世の本を読むだけで「罪」とされるようでは、面白い小説がかけるはずない」と思い、やめることにしました。

 まあ、自己紹介はこれくらいにして・・・。私が滝本先生に協力しようと思ったワケは、1本の電話にあります。

年末の忙しいときにかかってきたサマナからのでした。「元気にしてる?最近、こないけど、どうしたんよ」と、表面はあくまでもフランクに。

 「もう、あたしゃやめたので、二度と電話しないでよ!」
 と言っても、「脱退通知は着てないので、認めない」と言われて、頭かかえこみましたね。 結局、このサマナの態度が、私に「オウム滅ぼす」決意をさせたのですが。

 そのサマナは、論争好き(例によって元理工系大学生っす)な人なので、たちまち私を論破するつもりになったのか、
「太平洋戦争の日本とくらべれば、オウムは悪くない」と、言い出すしまつ(まったく、あんな遊び半分に毒ガスまいてハルマゲドンごっこしてた連中といっしょにされるとは、死んでいった英霊たちに申し訳がたたない。あと、どうでもいいが、ほかでもこの詭弁をきいたことあるぞ。マニュアルでもあるのか?)。

 年末のクソ忙しいときに、こんなくだらない電話をしてくる(連中にしては、凡夫にたぶらかされた馬鹿を救済してやるつもりなのだろうが・・・)オウムに完全にキレたので、滝本先生と協力して、この世界からオウムを殲滅することにしたのでした。

 そういう訳でして、○○のオウムを壊滅させるお手伝いは(協力できるところはなんでも)させていただきますので、元信者のケア(幸いというか私は軽症ですんだので、カナリヤの会のお世話になることなく、自力で更生しました)などでお役にたてれば、と思います。

 正直、彼ら、彼女らが反省してたら、そっとしておいてもいいか、と思ったりしてましたが(なんだかんだいって、一緒に暗黒の95年を苦しんでた友達ばかりなのだ)、今回の電話で彼らがまったく反省も成長もしておらず、「凡夫」を見下すことをやめず、腐りきっている若者ばかりなのに、怒りと愕然とする思いがあったので、

「こりゃ、オウムはマジで存在してはいけない組織だ」
と思い、戦うことにしました。

 死んでいった者たちへの罪滅ぼしもかねてね。もうオウムという祭りは終わったのだ。後かたづけをする時期なのだ。

 それにしても、まったく彼らの成長のなさは驚きますね。数年前まで「優秀なサマナ」としてあこがれていた男が、久々に話してみると、なんとも子供っぽくてビックリさせられました(なんだか、自分の考えた理屈に嬉々とする幼稚園児みたいなところがあってねえ・・・人として学ぶべき何かを忘れてる気がする)。

 あるいは、やめてから(それなりに)後悔と罪悪感の洗礼を受け(そこは、元信者の共通するものであろう。いや、あってもらわないと困る)オウムとは何だったのかをシビアに考えつづけた私は、いつの間にか(オウムに残っている者たちより)オトナになっていたのかもしれない。

 では、ここらへんでメールを終えたいと思います。カナリヤの会への転載については、こちらから願うところです。また、そのうちメールをだそうかと思います。 それでは、また。             以 上


追加62 ● 映 画 A 2 の 感 想
−−−−−−−−−−−−コミュニケーションとディスコミュニケーション 

第80号から。2002.3.2 らくさん

らくさんの掲示板に、らくさんが書き込んでいる文章です。とても興味深いので了解してもらって転載させていただきました。らくさんは、カナリヤの会員ではなく、脱会した元サマナの男性です。

らく 2002/01/17 02:08

『A2』を観てきました。

個人的な感想としては、おもしろかった、というよりも、むしろ考えさせられた、という感じでしょうか。単純に「おもしろい」という言葉で表すことはできない感情。

『A2』は、上にも書いたように「コミュニケーションとディスコミュニケーション」についての映画だと思う。言葉をかえるなら「相互理解の不可能性」についての映画だとも言える。

『A』に続いてアレフを題材にはしているが、それはあくまでも素材に過ぎず、むしろもっと個人的な映画なのだ、『A2』は。 そして、森監督の視線は反対運動の住民の側にも、マスコミの側にも、人権派の側にも、もちろんアレフの側にも立っていない。カメラはアレフを巡るエピソードを追いながらも、それぞれの歩み寄りと対立を透かして、むしろその向こうにある埋めがたい溝を撮している。

藤岡の施設での、反対派住民と出家信者との交流は見ていてほのぼのとした気持ちにさせられるが、カメラはそのにこやかに笑う信者の「事件についてはやはり自分の中で納得している」という発言を撮すことも忘れない。そして、そうした表面的な交流が本質的な相互理解・共存ではありえないことを暴き出す。

そして、そうした視線は対立する者だけにではなく、同じスタンスにある者にも向けられる。映画の中では、それは「温度差」という言葉で表現される。

木曽福島での、出家信者同士の見解の相違にまつわる漫才のようなやりとり、河野さんへの謝罪に行った幹部信者同志の見解のずれ、信者と交流する反対派住民と距離をおいている反対派住民との温度差、「オウム死ね!オウム出ていけ!は絶対禁句」とデモをする民族派右翼のメンバーにもやはり温度差はある。

スタンスの違う者だけにとどまらず、思想を同じくする者同志にとっても、本質的な相互理解はありえないのではないか?という問いかけは、『A』における対権力、対マスメディアという構図よりも、ずっと個人的だし切実なものだ。

そして、ラストシーンの静かな暗転が、その溝の深さを暗示して終わる。結果的に、『A2』は『A』に比べて、ずっと苦い映画に仕上がっている。しかし、その「苦さ」は決して後味の悪いものではない。テーマは明確だが、考えさせられることはむしろ多い。そして、同時に『A2』は、たぶんオウム=アレフについての映画ですらないのだろう。

だから、オウム=アレフについての映画だと敬遠せずに、多くの人に観てもらえたらと思う。この映画は、だれにとっても切実で避けて通れない問題を含んでいるとのだから。

というわけで、2002年3月からBOX東中野でロードショーだそうです。興味のある方はぜひ。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−以上


追加61 ● 公安調査庁はカルトのカの字を知っているのか? 

第82号から。2002.初春 元サマナ、女性

私は96年の夏ごろオウムを脱会した者です。かれこれ6年が経とうとしています。7年近く出家していましたので、まだまだ折り返し地点には来ていません。

私は昨年の9月までは東京に住んでいました。脱会後3年くらいはアルバイトなどしてその後、現在にいたるまで自宅で出来る仕事をしています。どこでも出来る仕事でして、そちらがようやく軌道に乗ってきたので、10月に両親の住んでいる故郷に引越して来ました。

私の仕事は深夜に及び電話などがうるさいので、両親と同居はせず20分くらい離れたところに一人暮らしをしています。家族は両親の他に姉が一人いるのですが、その姉は今も現役でオウムをやっています。最初にオウムを知ったのは私でして、姉に紹介しその後姉だけが残っている、なんともいえない後味の悪さが付きまといます。
両親にも申し訳ないと思っています。

脱会した方ならわかると思うのですが、私の場合も警察と法務省の公安から面会の申し込みがありました。脱会後すぐにも、東京の方で警察、公安等なんどか来ましたが、現役の姉と接触してるわけでなく、偽装脱会でもないことがわかったのか、そうこうするうち来なくなりました。

引越して後、警察の方は免許証の住所変更などがありましたので、所轄の警察署まで出向いて行った際、今回帰って来たいきさつなどをお話ししました。
姉が現役なので一度は会わないと社会的にも許されないだろうとの行動です。
私が帰省する前も時々両親のところへ尋ねて行っていたようです。

法務省の公安の人もたまに尋ねて来ていたようですが、引っ越してすぐに体調をくずしてしまい、会うのは来年にしてくれと申し出たところ1月16日にやって来ました。

年末に、自宅で仕事をしていても空いている時間がまちまちなので、当日電話して都合が付けばと一応申し出てはいました。留守にしていたので、夕方4時半くらいに留守電が入っていて、携帯に折り返し電話をくれということでした。その後5時46分に折り返し電話をしたら、私が住んでいるところの近所に来ているので、5分くらい後に行くということで、二人でやって来ました。
(前もって近くまで来て待っていたのだと思います。当日は雨でした。よっぽど暇だったのかもしれません)

東京に居るときも脱会後何度か法務省の公安の人は来ていましたが、何も聞くこともないと思ったのか、そうこうするうちに来なくなりましたが、今回の人は前回電話で話したときも、あまり下調べをしていないのか、オウムがホームページを開いていることさえ知らなかったようです。

そして本日の質問の返答には今考えても、身体がプルプル震えるくらいに怒りを感じます。

まず最初に前回電話での質問でも勧誘等の有無があったので、最初にそのようなことは無いときっぱり伝えました。ただし、引越し前にアレフの広報を通じて(アレフホームページに家族の連絡等をとりたい人は連絡取れるように出来ますとあったので)姉に連絡してもらい、今回九州の方へ引っ越すことを伝え、今後は安否の連絡が取れるようにメールのアドレス等を交換し、緊急の用事などの場合、連絡が取れるようにしていることも伝えました。

その後毎回警察にも聞かれる内容なのですが、今回帰省してきたいきさつなどをひととおり話しました。

その後もう一度、
「お姉さんが現役でやっているなら、勧誘などはないのですか?」と質問されました。もちろん何度聞かれても無いものはないので、
「そういうことはありません」と答えました。
実際一度も勧誘等の連絡などは入っていません。

そして今度は角度を変えてのつもりか、
「では、福岡支部からは勧誘の連絡等はないのですか?」と質問を受けました。

もちろんそういうこともないので、
「勧誘等の連絡は一切ありません」と答えました。
※私自身ホームページなどで福岡支部の存在は知っていましたが、所在地 も知らない状況です。

すると、

「残念ですね」と言われたのです。

残念ですね???−−これは一体どういう意味なのでしょうか? 思わず
「それってどういう意味ですか?」と突っ込んで聞いてみました。
「そちらとしては勧誘等があってまた教団にもどる方がいいということなのでしょうか?」と。

すると「しまった」と思ったのでしょうか、顔色ひとつ変えずに、話題をすり替えるのです。

「話題を変えないでください。残念とはどういう意味ですか?」

「すると言葉が足りなかったですね、すみません、そういう意味でいったのではないです」と、また話題をはぐらかそうとするのです。全身の震えが止まりませんでした。

「じゃあどういう意味ですか?」と質問しても答えになってなく、やはり別の話題に持って行こうとするのです。この場合、姉と一切連絡が取れないから「残念ですね」というなら、前もって、安否の連絡等が取れるようにしてあると申し出ているので当てはまりません。

よって、真に私に勧誘が無くて「残念」またはせっかく待ち伏せまでして家の近所まで来ていたのに、自分自身上司に報告が出来なくて「残念でした」のどちらかしかないのです。早々に引き取ってもらいました。

ハラワタが煮えくり返る思いです。
今でもプルプル身体が震えています。
その場ですぐ誰かに伝えたくて、思わず母親に今の出来事を電話しました。
母親は足元までズンと震えが来たと言ってます。

結局、法務省としては私のような脱会者は、教団に戻ってもらいたいのでしょうか?アレフは存在し続けて欲しいのでしょうか?
あの教団のやり方が間違っていた事に気が付いたから私は脱会したのです。怒りとともに情けなさが交差します。

これが国の思惑なのかと、思い出すたび今でも怒りの震えがとまりません。

以 上

上記については、公安調査庁に代理人として窓口滝本 太郎が抗議の内容証明郵便を出し、これが1月28日に は到達していますが、その後何の返答もありません。


追加60 ● ファイナルスピーチはなぜ作られたか

第80号から。2002.3.2 元サマナ、男性

時期的に、今さらといった気がする内容なので暴露というよりは、「こういうことが事件後のオウム内部ではあったんですよ」という簡単な回想話です。

(ちなみに「ファイナルスピーチ」とは、教団が95年秋?頃に、麻原氏がそれまでに行った説法や、今までのオウム機関誌とか書籍の内容をまとめた、1冊が3センチくらいの、ぶ厚い本(全3冊+サマナ用1冊)のことです。信徒には当時1冊10万円くらいの布施で売りさばいてたと思います)

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98年中ころか、99年はじめのころでした。VKというが師が裏ワークの指示をしに、私の部署にやってきました。そのときに聞いた話です。

「ファイナルスピーチって、なんで作ったかって知ってる?・・・」

「あれはねぇ、表向きは、信徒・サマナが破防法で各人ばらばらになった後でも教学できるよう説法をコンパクトにまとめたものとか言われてたよね」

「でもね、ほんとはそうじゃないんだよね」

「あれをサマナとか信徒にばらまくじゃない。でね、ハルマゲドンが起きるよね」

「で、たくさん人が死ぬよね」

「でもさ、ま、たとえば千人くらい信徒、サマナがいたとしたら、その中で、一人か二人くらいは生き残るよね、たぶん」

「その生き残ったサマナか信徒が持っているファイナルスピーチによって、尊師の説いた法則を残すことができるっていう目的が実はあるんだよね」

「でもね、まあご存じのとおり、ファイナルスピーチって破防法対策で、あぶない説法が削除されてたり、まったく収録されてないものがたくさんあって、完全じゃなかったよね」

「で、いまパンダさんから指示が来てるんだよ『完全版』ファイナルスピーチを作れってさ」

「それが出来上がったら、戦争が来る前にみんなにばっとばらまいて「終わり」(←ハルマゲドン避難のため皆がちりぢりになって解散する、という意味)って考えてるわけ」

「いまね、その件で、B師(以前VK師が編集の部署でで一緒にワークしてた人)とも相談してるんだよね・・・」

当時私は、この話を聞いても別になんとも思いませんでした。しかし今考えてみると、結局、教団の上層部が、サマナ、信徒を「救済」のための「捨て駒」と考えていたことの現れだったんだなと思います。

(しかもそのFSの出来た本当の理由というものをサマナには知らせないという辺りが)

補足:
・パンダさんというのは、アーチャリーさんのことです。
・VK師とは、2000年の1月にあった麻原長男奪拉致事件で捕まった、アーチャリーさんの側近の一人です。(出所後、教団にまた戻ったのか、もう家に帰ったのか等は分かりませんが)
・B師はもうオウムをやめてます。