元 信 者 た ち の 手 記 70〜77


追加77 ● 私 を 癒 し た あ の 曲 −レベッカ 『ムーン』

−獄中から 2003.4.12−90号

(本人は、現在受刑中です)

ラジオから聞きおぼえのあるメロディーが流れてきました。
−−長い前奏です。
何という曲だったか−−おおっ、そうだ!

レベッカ『ムーン』

Nokkoの透明な歌声は、私の心にまっすぐ届きました。私は特にレベッカ・ファンではなかったけれど、今回じっくり聞きなおすことで、一遍にファンになりました。いい曲だ。

レベッカ『ムーン』は、現在、私がもっとも好きな曲です。
くり返されるフレーズが私の心をとらえました。

♪ 壊してしまうのは一瞬でもできるから
大切に生きて、と彼女は泣いた

まるで東拘にいる私に語りかけてくれるかのようでした。

一旦壊してしまった者を再び築き上げることは大変なことです。だから自分は大切に生きなくてはならないのです。
なのに私は、それを壊してしまいました。自分の築き上げたものを破壊せずにはいられなかったのです。全部一時にぶっ壊してしまいたかった。

今思うに、全部壊してしまうことはなかったのです。生き方を変えたいなら、どこをどう変えたいかを明確にして、そこだけ変えればよかった。しかしそのころはこんなことは考えられなかった。いきなり「全部破壊」の方向に進んでしまったのは、その頃の私が、自分というものを大切にできなかったからではないか。
壊してしまったものを再び築き上げることはたいへんなことです。でもそれをやりとげなければなりません。これからは自分を大切に生きていきたい。自棄になったり、あきらめたりせずに、今後の人生を歩んでいきたいと考えています。

私はレベッカ『ムーン』から励ましの言葉をもらいました。


追加76 ● グルイズムについて

第89号から。2003.4.12発行−元サマナ、男性、30代

修行の道は、この上ない誠実さと細心の注意が必要とされる。極めて迷いやすい道である。この道をたった1人の力でわたっていくことは困難であるばかりでなく、危険過ぎるといえよう。
そこで、旅の同行者が重要になってくる。道をよく知っており、危険を避けられるだけの技量を持ったガイドが必要なのだ。

「道の同行者」といわれると、オウム信者は「導師(グル−弟子を導き引き上げることのできる教師)」を連想するはずだ。
「私は何も知らないが、グルは何でも知っている。無知な私にとって、グルのご指導は絶対的に必要である。グルに絶対的に帰依することにより、もっとも早く、安全に、目標に到達できるのだ」
(「何でも」「絶対的に」「もっとも」という副詞の使い方に注意せよ)−つまりこの強調には根拠がない。

これはいかにももっともらしい説明だが、余計あやしいと考えなくてはならぬ。
もしこの説明が本当ならば、「導師至上主義(グルイズム)」の実践者はみな、目標を達成するはずだが、そのような幸運な人を私は知らない。グルイズム主義者は、掃いて捨てるほどいるが、目標達成者は「昼間の星の数」である。これはなぜなのか。

グルイズムの道を歩むものは、自分を見失うことになるからだ。グルの命ずることならば自分がやりたくないことであっても、やらなくてはならない。やりたいとこはやってはいけない。自分のものの見方を全否定し、グルの見方を無批判に採用する。常に弟子として、信者として演技をしつづけ、「仮面の自己」の厚みをどんどん増すよう努力する。過去を封印し、「自分が何者であったか」を忘れ去ってしまう。

このような努力をくりかえすことで、真の自己が見つかる筈がないのではないか。ただグルが調整した「にせの自己」を自分と錯覚するだけである。そして信者は言うのだ、「とうとう本当の自分を見つけました!」と。

 

また「もっとも速く、安全に」などと考えるところが、信者の甘えを誘発する。もう、はじめから失敗に至る要因を植えつけることになってしまう。「修行の道は一番危険な道である」このことを十分わきまえ、修行者は全精力をかたむけて、その道に邁進しなければならない。ところが、「グルのご指導で、安全に、速く、楽に」などと考えてしまうと、一瞬にして真剣さは失われてしまう。そして、結局、グルに依存するだけの結果に終わってしまうのである。だからっ、修行の道はもっとも危険と言われるのだ!

絶対帰依する人は謙虚に見えるかもしれない。しかしそれは誤解である。絶対帰依をする者の心を分析すれば、この人はグルをうまく利用しようと企んでいるにすぎないことがわかるだろう。グルを利用する為の方便として、形の上では命令に服従する奴隷の位置を取ろうという、作戦、適応戦略である。

グルが利用できる限りにおいて、私は「絶対帰依」という態度をとりましょう。もしグルが利用できなくなったら「絶対に帰依しないぞ!」即、捨ててやる! この「絶対帰依」作戦を、オウム信者も採用しているはずである。なぜなら現役信者は全員、何らかの形で麻原さんを利用しているからである。いいかえると、本当に利用価値がなくなったら、信者は麻原さんを離れるということである。

グルイズムは、グル、弟子双方が巧妙に相手から利益を引き出すためのシステムである。絶対帰依とは、自己中心性と、形だけの自己放棄を組みあわせた、本来の自己を見失わせる道なのである。この道は、真の自己実現とは全く違う。

なんとなれば、絶対帰依する弟子を見ていただきたい。彼らの何と煩悩的であることか。彼らが自己放棄しているとは、とても思えない。「オレはどうやって、グルに取りいろうか、オレだけがグルから可愛いがられたい。オレが解脱するためなら、殺人だろうが盗みだろうが、何でもやったるぜ。」完全な自己中心主義者ではないか。オレが、オレが、オレが。

絶対帰依の対象であるグルもまた、何と煩悩的であることか。「無償の愛」とは名ばかりで、グルはちゃっかり弟子から利益を得ている。そもそも弟子がいなければ、グル稼業はできないのだから、「グル」というステイタスは弟子の存在によって支えられている。それだけではなくて、衣食住はみてもらうわ、布施された金で豪遊するわ、ご説法には耳を傾けてもらえるわ、たまに美人信者に手を出したりして。これのどこが「無償の」なのだろうか。 ※海外旅行とか放送局を作ったりとか、陰で何をやってたかは知らん

これでグルイズムとは煩悩的な、<グルと弟子の結合>であることが明らかとなったであろう。彼らはそれを「奉仕」だの「祝福」だのいって誤魔化しているにすぎないのである。

 

弱者は、易きに流れる。

絶対帰依ほど安易な道はない。この道には誰でも簡単に入れるからである。煩悩が強い怠け者ほど、この道を好むとさえ言えよう。このことはすべてグルイズムにはあてはまらないかもしれないが、少なくともオウム教団においてみられることなのだ。コンビニ真理で満足してしまって、彼らはとうに「真理への探究心」を失っている。グルイズムは「安い、速い、うまい」成就法だなんて、吉野屋の牛丼ではないのだから、もっと真面目になってもらいたい!

 

私は「指導を受けるな」とは言っているのではない。自分の知らないことを、他の人から教えてもらうとすることは当然であり、有益な情報が選られることも多いのである。だから謙虚に教えを請うことには何の問題もありません。

ただ、「他人から教えもらえないこともある。それは自分で知るしかない」ということは忘れてはならぬだろう。また「絶対的帰依をする」といいつつ、実は相手にか前に依存していくだけの場合が多いのでご注意が必要だ。それから「安全に速く楽に」などと考え、真剣さを失ってしまうならば、それは自分を見失い、失敗へと至る原因を内在させることになるだろう。つまりグルイズムとは、修行の中でも特に、極めて迷いやすい道であることに、注意を促したかったのである。

だから指導者に敬意を払うことは当然であるが、同時に、ある意味で師と弟子とは平等であり、弟子にとって師はつかのまの同行者にすぎないという意識を持ちつづけるべきなのでだ。

グルがおかしなことを始めたら、弟子は命をかけて諌めるか、すぐに離れるかしなくてはならない。これくらいの緊張感がなければ、グル、弟子双方ともに真剣さを失い、ぬるま湯の関係への堕落するだけなのだ。

麻原彰晃を見よ。弟子が誰もとめてやらないから、行き着くところまで行ってしまったではないか。おかしくなりつつある麻原さんに、ついていった弟子がいたからこそ、麻原さんの狂気は増長されてしまったのだ。つまり麻原さんも悪いが、同等に弟子たちも悪いのである。グルイズムによって生じた犯罪には、グル・弟子ともに罪がある。現オウム教団には、この認識と反省がまったく見られない。今度は上祐さんを祭り上げて、同じ過ちを繰り返そうというのか。

「自分は何も知らないが、グルは何でも知っている」と、自分は知っているか。
この人は何が言いたいのだろう。自分が何も知らないならば、「グルは何でも知っている」と知ることもできないはずなのに。これは「グルは何でも知っていてほしい」と言い換えるべきだ。自分は何も知らないから不安である。だから「グルは何でも知っていると信じる」ことで安心しようとしている、と言い換えるべきなのだ。
幼い子どもは「パパは何でも知っている」と信じることで、自分の不安を解消しようとするそうである。だからパパは、子どもを安心させるために「パパは何でも知っているぞ」という態度を示してもよろしい。

この幼い子どもの心理と、グルイズムの心理はきわめて似ている。グルイズムは根っこは、幼少時の「親子関係」にあるのではないだろうか。Adult childrenとGuruismは密接な関係がある。

 

さて、グルイズムをちょいと批判してみましたが、読者のみなさんはどうお考えになられましたか。修行派の人は、「こいつ何もわかっちゃいない。グムイズムの本質はこんなものではないのだ」と思われたかもしれない。
「何もわかっちゃいない」ことは認めましよう。

そこでお聞きしますが、「そのグルイズムの本質とは何なのでしょうか?」ぜひうかがわせてください。正常な「グルと弟子」の関係を知りたいと考えますので「カナリヤの詩」まで、お答えをお寄せください。私は謙虚に教えを乞わせていただきます。
(「乞わせていただく」は、いかにも傲慢な、人をバカにした言い方であるが。謙虚ぶって、日頃やり慣れないことをするとボロがでます)


追加75 ● 「 苦 の 詞 章 」

第88号から。2003.1.18発行−元サマナ、女性、30代

・・・あれはやめた方がいいですね。

「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」
結果
「他の苦しみを自己の喜びとする」わけだし。
現役中も違和感ありました。

そこで私が新たに作った詞章があります。ここで披露します。
「自己の喜びはみんなの喜びで、みんなの喜びは、み〜んなの喜びである」(笑)
なんで「他」ではなく「みんな」かというと、この「みんな」の中に「自己」が含まれるからです。
だいたい仏教だぁなんてほざいていながら、詞章一つとってみても「自」と「他」を分けること自体おかしな話です。

幸せっていうのは置かれた立場や現状ではなく「心」の感じ方ですからねえ。誰も心がウキウキするとか満足するとかになればいいわけですよねえ。
そこでもし一つ悩む方にアドバイスをするとしたら、不思議な呪文を唱えることをお勧めします・・・怪しいでしょ?

で、その呪文ですが、
「ありがとうございます」です。
何十万回もマントラ唱える元気があるなら「ありがとうございます」もひたすら唱えることくらい屁の河童でしょうね。少なくとも一日20分は唱えて欲しいですね。

今までお世話になった方や、身の回りの品物、空にも太陽にも水にも、電柱にも道にも、とにかくすべてに対してです。一緒に住んでいる家族の方がいらっしゃるなら、なにか一つしてもらったら必ず声に出して言う事をお勧めします。寝る前はみんなの顔を浮かべて、やるんです。これによって家族間は円滑になります。
たとえ鉛筆一本でも、お金を出して買ったんだではなく、自分の手元に来るまでにいかに沢山の人の手を渡ってきたか、またその原料のことなども考えると、感謝せずにはいられなくなります。その時使うお金にだって感謝しないと、沢山の人が絵柄から印刷からとにかく数えきれない人がたずさわっていますからねぇ。

沢山の人、自然、すべてが自分に微笑みかけているのがわかります。とにかく願いが叶う不思議な言葉なもんで、新興宗教などが常套手段としてよく使いますよね、なぜか?それは効果があるからです。
これを取り入れてないのは「オウム」くらいでしょうね(笑)

オウムと云えば、悪いことしたって「ザンゲの瞑想」すれば良いって云うくらいだから。悪いことしたら、その相手に「ごめんなさい!」って云わないと効果ないのにそこんところも解からんお馬鹿の集まりだからねえ。

ちなみに「ありがとう」は健康効果もあるようです。どっかの宗教団体に所属することもなく(「ありがと教」なんてないし)、10万円なんてお金もかからないし、タダです、タダなんですよ。日本人なら誰でも知っていて昔から使われている言葉だし。成就者にエネルギー移入なんてしてもらわなくてもいいんですよ。
ただただ「ありがとう」で運命が好転して、望むことが叶うんです(笑)
そんでもって心が晴々\(~o~)/

なんていうか、これやると「感謝」のオーラとでもいうんでしょうか、「気」っていうんでしょうか、なんかそんな物がその人の周りを取り囲んで幸せにしてくれるんです。
で、幸せっていうのはさっきも書いた「心」の感じかたですからねえ。

※ 氷河期を味わっている私が書いても真実味がないかな?実証済みだからお勧めなんですよ。

あともう一つ、顔の表情です。
とにかく口の端っこをちょっと上にあげて笑顔を作ることです。人相の本によると、口の端っこが上に上がっているのは仰月口(ぎょうげつこう)と云って、好運の相だそうです。人気がでて万人に愛されるそうです(笑)
これで「不要品」脱却です。
逆に口の端っこが下に向いているへの字は覆舟口(ふくしゅうこう)と云って、後家相だそうです。でもって、この表情は我が強いそうです。

いや〜、これも鏡で練習しましたよ。ホホの筋肉が痛くなりました。ニタニタ笑いながら「ありがとうございます」やりましたよ。道歩いているときも、心の中で。すると道端に落ちている犬のうんこにも腹が立たなくなります。

てな感じで、ダラダラ書いてみました。悩む方が、一日も早く元気になることを祈っています。←森羅万象に(笑)
※究極の運命転換法を書いたつもりです(笑)


追加74 ● 獄中から「心の湖」のたとえ

第88号から。2003.1.18発行−元サマナ、男性、30代

 清らかな湖。波ひとつない、鏡のような湖面。透明度の高
い湖面。月の光はまっすぐに湖底まで達する。すべてがある
がままに見通せるのだ。
 このようなピュアでヴィヴィッドな心を、私は求める。

 心は湖にたとえられる。たとえば怒り狂った心は沸とうし
た湖のようだ。愚鈍な心はコケむした湖のよう。情報に翻弄
された心は、風で波立った湖にたとえられるのだ。
 私はこの「湖のたとえ」は大好きである。私はこのたとえ
についてよく考えてみたが、「凍結した湖」の例を付け加え
たらよいと気づいた。この例は私のオリジナルじゃないかも
しれないが、この場を借りて発表させていただきます。

 凍りついた湖は、風が吹いても全く波立たない。表面がガ
チガチの氷に閉ざされているからである。ぶ厚い氷にさえぎ
られ、湖の中は覗きこめなくなっている。もちろん誰も泳ぐ
ことはできないし、生命はすべて死滅してしまう。死の湖な
のである。寒々とした風景は、見るものすべての心をも凍ら
せようとする。

 凍結した湖はオウム信者の心をうまく表現していると思う。
たしかに彼らの心は情報によって動かない。それを不動心と
呼べばきこえはよいが、実は心の表面がガチガチであり、情
報をはじきとばしているだけなのだ。彼らの心はぶ厚い氷の
層で守られている。しかしそのデメリットとして、彼ら自身
も自分の心に触れることができなくなっているのだ。自分は
何をしたいか、何をよいとするべきかがわからなくなってい
る。心が他に対して閉ざされているわけだから、彼らは根本
的に冷たい人間といえるだろう。表面的やさしさは見せか
けの演技であり、<同調的引きこもり>をしているのである。

 寒々としたオウム・ワールドに、本当の生の躍動が生じる
はずがない。取りこまれた人々の心を凍らせる。死に近接し
ている世界なのである。

 凍りついた心を溶かすにはどうすればよいのだろうか。
 オウムに深入りしていなければ、自然解凍という解決もあ
りえるだろう。ある人は時期がきたら、自然と心は溶けはじ
め、自由な心を取りもどせるはずである。つまりこの人にとっ
ての春がきたら、以前よりも自由でかつ強い心の持ち主へと
成長できる。彼はもうぶ厚い氷で、自分の心を守る必要を感
じなくなったのだ。

 しかしある程度以上、深入りしてしまった者は、自然解凍
はとても望めない。放っておくと、彼らの氷の厚みはどんど
ん増すばかりだ。つまり彼らは冬に向かっている。すべてが
凍りつく氷河期をむかえようとしているのだ。彼らは自分の
意志で、春の到来を拒絶する。それはあまりにも心が弱いか
らなのだ。とても氷のバリアーなしでは、他と、社会とま
みえることができないからである。また彼らはガチガチの凍
りついた心を強い心と錯覚しているから、冬に向かってしま
うのである。これはちょっとや、そっとで、心を溶かすこと
はできそうもない。急いで強制解凍したら、霊的精神危機
をまねくことさえありえる。
オウム信者は、恐ろしいくらい強い=もろい心の持ち主と
なってしまっている。

 「凍りついた心を溶かすのは愛です」これが模範解答であ
る。
できれば私もこの言葉でバシッとしめたかったのである
が、信者の心の状態を経験で知っている私としては、こんな
お気軽なことも言っていられない。たしかに愛で凍りついた
心は溶けるであろう。心は生きかえるであろう。しかし完全
に凍りついた心を溶かすのに、どれくらいの熱量が必要かを
考えなくてはならない。それほど膨大な愛をそそぎこめる人
がいるだろうか。また相手が、心を溶かす愛を拒絶するとあっ
てはいかんともしがたい。こちらとしては打つ手はないかも
しれない。

 だから私としては祈るしかないのである。

信者が「凍りついた湖」のような自分の心に気づいてくれることを。
信者が自ら、春の到来を希求するようになることを。


追加73 ● 「レミングの集団自殺」

第87号から。2003.1.18発行−元サマナ、男性、30代

動物は自殺するであろうか。

 レミングは、地下の巣穴で生活するネズミの一種だ。彼らは自殺するという説がある。

その説によると、レミングは住環境が悪化し、共喰いの危機がせまると、集団で大移動を開始する。そして集団ごとガケへと突進し、そこから飛びおり自殺をするそうだ。レミングが共喰いよりも自殺を選んだのだとしたら、その心がけやよし、と感心する読者もおられるでしょう。実は私も最近までそう考えていたのだ。

 ところが、この自殺説はどうやら嘘のようだ。私はレミングじゃないからはっきりしたことはいえないが、次の暴走説の方が数段もっともらしい(あくまで人間にとって、というにすぎないが)。

 暴走説によると、レミングは死にたくて死ぬわけではないらしい。住環境の悪化が大移動を引き起こすことは事実であるが、彼らはあくまで「生きたい」欲求に衝きうごされている。しかしあにはからんや、彼らは自滅への道をたどってしまう。ガケに突進すると悲惨なことになる。前のレミングはうしろのに押されて、飛びおりてしまうわ、うしろのレミングは前のにつられて、飛びおりてしまうわで、ああ!

 レミング君を笑うことはできない。人間だって同じ穴のムジナだから。人間は集団で生活する動物であるが、そのリーダーがおかしくなった場合、レミングと同様の悲惨を経験しなくてはならないのだ。このことは歴史が証明した事実である。たとえばナチス・ドイツなどは「レミング集団」そっくりではないか。

私のいいたいことは、もうわかってもらえただろう。
 オウムはレミング集団なのである。彼らは「ハルマゲドン」という危機をデッチ上げ、集団で暴走しているわけである。彼らは一種の狂乱状態にあるので、周りの安全を確認する余裕がない。前リーダーである麻原さんが、ガケに突進したから、たまらない。前の方にいた信者は「あーれー」である。これが一連のオウム事件を説明するための仮説「オウム=レミング」説なのだ。

 この仮説によると、オウムは全滅するはずである。しかし警察等の司法権力が介入することで、そのような事態は避けられた。現役信者は警察等を嫌っておられるようだが、本当は感謝しなければならないのだよ。

 しかし悲劇はまだ終わらない。信者たちはまたもや暴走を開始した。今度は「アレフ」として、「霊的精神的進化」だの「アクエリアス」だののかけ声とともに。本当に「懲りない面々」だなと思わざるをえない。自分が痛い思いをしないと気付けないのか。痛い思いをしたけど気付けなかった信者も多い。フ-------。

 新しいリーダーは上祐さんであるが、ガケに突進しないことを私は祈る。けれども、うしろからドンドン押したら、上祐さんもそのうちにガケに突っ込まざるをえない心理となってしまうだろう。このままでは再び、大きな災いをまねくことは必至である。だからうしろの人は前の人を押さないように、前の人はうしろの人を引っぱらないようにすればよろしい。ホンマに気をつけろよ。自分の身は自分で守れよ。

 レミングよ そんなに急いで どこに行く
  ハルマゲドンは もうこないのに   (おそまつ)


追加72 ● 大根の適正価格とイニシエーション

第86号から。2002.11.9発行−元サマナ、男性、30代

「大根一本、100円!」
「そりゃ高いよ。あそこの八百屋じゃ80円だったよ」
これが、麻原彰晃直伝の正しいネギり方なのだ。

 話はこうである。89年秋、第一次オウム・バッシング華やかなりしころ、麻原さんはサンデー毎日編集部に乗り込んだ。サンデー毎日側は「何とかイニシエーション、30万とか、100万とか高すぎるじゃないか」といってきたそうだ。そしたら麻原さんは「だったらいくらならいいんだ!」と激怒した。サンデー毎日側は答えられなかったそうである。それで麻原さんとしては、意気揚揚とガイセンすることができたわけである。

 そして冒頭のたとえ話に入る。麻原さんは弟子達に「イニシエーションが高すぎるというなら、八百屋の比較により適正価格を決めたように、どこそこよりもいくら高いと指摘することでネギるべきだ」と説法したという次第である。私は中野サンプラザにおけるこの説法を直接聞いたが、麻原さんはいかにもうれしそうに「サンデー毎日に勝った(?)」報告をしていたことを、よく覚えています。懐かしい。

 月日は流れて、私は今、元信者である。この説法を思い出し、思わず笑ってしまった。このたとえ話はヘンではないか。どうして大根とイニシエーションが同じ土俵で語られているのか。イニシエーションは普通、通過儀礼とか秘儀伝授と訳されることからもわかるとおり、とても大事なもの、最高の価値として扱われるべきものである。そのイニシエーションと、八百屋に山積みされている大根を同列に扱うとは!麻原さんはどういう神経をされているのか。麻原さん以外の人が、「オウムのイニシエーションは大根のようなものといったら、麻原さんは激怒されるのじゃありませんか。

 麻原さんにとっては、イニシエーションと大根は同列に扱われている。この比較の基本軸は「商品価値」という価値基準である。需要と供給により価格は決定される。他の店より安くて、良い品物なら売れる。買い手さえつくなら、いくらふっかけてもかまわない。それで大根は80円以下で売るべきであり、血のイニシエーションは100万円と決められたのだ。
 つまり「金や、金や、金さえあれば何でもできる」という拝金教の基準に、オウムのイニシエーションは位置付けられる。最高の価値であるイニシエーションが値段がつけられたものであるから、オウム真理教もまた拝金教であることが証明される。

 麻原さんの思考のわくぐみが、かいまみえたのではないかな。それで私は笑ってしまったのだ。さすが「宗教ビジネスマン」であられる、と。
イニシエーションと大根を同列に扱って、何の疑問も感じない信者も、拝金教徒といわざるをえない。特に、支部サマナのハレンチというべき集金活動、あれは何なのだ。まるでハイエナのようではないか。もし来世があるなら、彼らはどこに生まれるだろうか。

 さて私が、サンデー毎日にかわって、麻原さんにお答えしよう。「イニシエーションは無料(タダ)にすべきだ」

 イニシエーションは最高の価値であるから、それゆえ値段をつけることはできない。たとえ1億つまれても、10兆円もってこられても、イニシエーションは売ってはならない。それでこそ、イニシエーションの最高価値であることは保たれるのだ。
 もしイニシエーションに値段をつけたら、それは商品価値という低位の価値基準に結びつけられてしまう。いみじくも、麻原さんがおっしゃっったように、大根と同列となってしまうのである。
 ゆえにイニシエーションは0円であり、かつ最高の価値なのである。資格のある者にのみ、無料で伝授すべし。

 あえてイニシエーションに適正価格をつけてみる。たとえば献血の場合、一回につき300ccの血を抜かれる。そしてジュース一本(100円)くれるそうだ。したがって
・血の適正価格「100円/300cc」

 麻原さんの血のイニシエーションはたしか600ccの血をぬいたはずである。それを10人の信者に分け与えたのであるから、一人あたり60ccとなる。したがって
・血のイニシエーションの適正価格「20円/60cc」

 「100万円なんて高すぎる。20円にしなさい」と私は算定しました。
 この算定の元になっているデータは間違っているかもしれない。正しい数値を知っている人は補正していただきたい。たとえ間違っていたとしても、血のイニシエーションが100円以下であることは確実である。
 いくらネギるかは、買い手のテクニック次第である。誰も買わなければ、商品価値は下がるから、下がりきったところで買いたたく。ちなみに今の私なら、「タダでもいりません」血を飲むなんて、やっぱ気味悪い。

この算定結果に対して、信者は不満を抱くことだろう。しかしこんな冗談でヤユされてしまう原因は、「イニシエーションは値段をつける」というナンセンスにあることを思い出してもらいたい。麻原さんは「隣の八百屋と比較せよ」と説法したのだから、私は「献血との比較」を行ったわけである。(拝金教の)教義どおりではないか。

 「解脱者の血だから高いのだ」という信者もおられるだろう。しかし麻原さんは解脱していると、どうしてわかるのか。商品価値を基準にした以上、性能を明らかにする義務がある。品質保証をして、クレイムも受け付けるべきである。JISマークくらいつけてもらいたいところである。

 私の感性によると、麻原さんの行いはものすごくいじきたない。麻原さんが血のイニシエーションを100万円と設定したのは「まあ高いけど、これくらいなら払うヤツもいるだろう。一回限りとか今しかないとか宣伝すれば、10人くらいは集まるだろう。あいつとあいつと・・・」と考えたからであるに違いない。つまりふっかけられるだけ、ふっかけたのだ。そして100万円手に入れることを前提に、600ccもの血をぬいたわけだ。「真理の伝導のため」と宣伝された内容を、そのまま信じることはとてもできない。

 それにひきかえ献血者のなんと立派なことか。彼らは商品価値を超越しているがゆえに、心が清らかなのである。ジュース目当てに献血する人はいないだろうから、彼らの行いは無償の善行となる。どこのどいつともわからぬ病人・怪我人のために、300ccもの血を差し出した彼らは賞賛に値する。1000万円目当てに、金持ち信者に血を売った人よりも、数段ステージが高い、と私は思う。

 先程私は、尊い献血に値段をつけてしまい、失礼いたしました。あの算定は「イニシエーションに値段をつけるというナンセンス」を強調するための冗談でありますから、お許しいただきたいと思います。
 オウムの在家信者の皆さんは、イニシエーションに金を払ってはいけない。神聖なるイニシエーションを、自ら冒涜することになるからだ。金で買えるものならば、それは「大根イニシエーション」となってしまう。そんなものに効果があるはずもない。事実「効果なし」であることは、ほとんどの信者もご存知のことと思います。

 「売り買いじゃなくて、お布施だ」といいはる人に反論すれば、「それなら事前に値段を決めるな」ということになる。なんじゃらイニシエーション30万円でございます。かんじゃらイニシエーションは50万円ですが、お買い得です。今回限りですから。支部サマナは今も、こんなセールスをしていることだろう。サラ金から金を借りさせてまで、集金活動を行うとは何ごとか。悪徳商人のようにガメツイ。在家信者の「生き血をすするがごとき」拝金教ぶりは、もういいかげんにおやめになられたらいかが。−−−−−−−(おわり)


追加71 ● 人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない

第85号から。2002.11.9発行。−−元サマナ、男性、30代

     人は死ぬ(=こわいでしょう)
     必ず死ぬ(=どうするおつもりですか)
     絶対死ぬ(=逃げられませんよ)
     死は避けられない(=オウムに入るしかない!)

 麻原さんは「死」について語っているのではない。「入信しろ」と言っているのだ。

 死の恐怖を脅しの材料に使う麻原さんは卑怯である、と私は考える。恐怖で正常な判断を狂わせて、間違った判断をさせるのが麻原さんの作戦である。間違った決断とはオウムに入会することであり、オウムを脱会しないことなのだ。つまり、恐怖で頭がおかしくなっている人がオウム真理教を選択する。このことを認識していたから、麻原さんはくりかえしくりかえし「人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けられない」と語ったのである。

 死は人間にとって最大の謎であり、かつ最大の恐怖でもある。だから人間が常に死について考えているわけではないことは、きわめて正常な「死に対する態度」といえる。誰にも文句をいわれる筋あいはありません。「死を思え(メメント・モリ)」などと強要するのは余計なお節介である、といわざるをえない。

 死を考えるより、生を考えるべきだ。誰が何といおうと、われわれが今、ここに生きているという事実は絶対ゆらぐことはありません。これ以上の真理が必要なのか?すべてはありありと明らかに現然しているではないか。この生を考えずして、いったい何を考えろというのか。生とは何か。よく生きるとは何か。私は今、ここで何をなすべきであり、何をなすべきではないのか?

 生に対して、死はあまりにも不可解である。たしかに生きている以上、いつか死ぬことになろう。しかしそれ以上のことは誰にもはっきりしたことはいえないはずだ。結局死はよくわからないものなのだ。人間の思考や言葉は「生きること」に対応しているのだから、これは当然の結果なのである。

 臨死体験や瞑想体験をいくら重ねたとしても、死についてはわかるはずもない。なぜなら臨死体験や瞑想体験は「生」の体験だからである。死の一歩手前は生だ。ほんの一歩なのだけれど、生と死の間には無限の距離が横たわっている。だら死は不可解なのである。死は人間にとってあまりに近くまた遠い
-----こういうわかったような、わからんようなことでもほざくしかないのである!

 魂や輪廻を実体験することで、死についてわかったつもりになる人も多い。こういうお方は「死」についても「魂」についても「輪廻」についても何もわかっちゃいないはずである。そのわからないものどうしをつなげても、死についてわかるはずないことは明らかではありませんか。彼らは「自分は何がわかったのか、わかっていない」と思います。もう一度、魂と輪廻についてよ〜く考えてみてほしい。そしたら、「自分はわかっていないとわかる」かもしれませんよ。

 人は死がわからない。必ずわからない。絶対わからない。死は避けられないことはわかるけれども、死そのものはわからない。なぜならわれわれは生きてしまっているからである。
そしてその生すらよくわかっていないからだ。孔子いわく「生もわからんのに、なんで死がわかるのや」そのとおり。イギナシ!(イギアリの方はおられますか?)

 そのわけのわからない死を土台とし、生を築いたとする。その生もまた、わけのわからないものになることは必至である。「砂上の楼閣」という言葉があるが、「死上の生」は、砂の上の建物よりさらに転倒しやすいのである。
 これがオウム信者の生き方なのではないか。「オウムの成就者は死を知っており<死後の導き(ポア)>ができる」という砂の上に、「死後、信者は救われる」という楼閣を建てている。土台がグラグラだから、盲信というセメントで固められているが、小さな地震でもあろうものなら、生き方が根本からひっくりかえってしまうのである。


 話を反転させますが、死について考えるべきだ。ただし条件がある。「死について考えることができる人のみが、死について考えることができる」同語反復だけれど、ちゃんと意味はあります。死を直視してもたじろがない、これくらい強い心の持ち主のみが、死に対してアプローチする資格があるということである。「死」ときいただけで怖がったり、心が動揺する人は、その資格がない。

 心の強い人が死について考えれば、そこから多くの利益を得ることができるだろう。
 死は人生のゴールである(とされている)。たとえばマラソン選手は、ゴールをはっきり意識しているからこそ、42.195kmという長い道のりを「よりよく走る」ことができるのである。同じように、死というゴールを意識することは、われわれを「よりよき生」へと向かわせる原動力となるはずだ。このように「死について考えることが自然と、よりよき生を考えることにつながっていく」場合にのみ、「死を思え」の教えはわれわれにとって有益となるわけである。

 つまり「死を思え」には前段階があり、それは「死を直視できるくらい、心を強くせよ」という要請なのだ。「死を思え」と簡単にいうが、実行することがいかに難しいかについて、まず考えよう。死について考える資格があるかどうかは、自分で決めなくてはならないのである。

 心がすごく弱いくせに「死を思う」人がいる。実はこの人は全然死について考えていないことを説明しよう。 たとえば「死」ときいただけで、条件反射的に怖がってしまう。そして頭がおかしくなって、手ゴロなところにある「宗教」に逃げこんでしまう。そして彼は「私は死ぬけど、死後救われる」と信じることで、死について考えなくなってしまうのだ。彼はそのコンビニ宗教を手放したら死に直面しなければならなくなる。だから一生、そのコンビニ宗教にしばられてしまう。これが宗教的(盲信的)「死を思え」の実体である。

 あるいは「死」ときいただけで、「こわい」と反応してしまう。それで「魂」だの「輪廻」だのの思想にすがりつく。そして彼は「私は死ぬけど、魂は生きつづける。輪廻転生するのだ」と考えることで、死について考えなくなってしまう。彼は死というものをなめているのだ。くりかえしになるが、「死を思う」ことがいかに難しいかを思い出していただきたい。「魂」だの「輪廻」だの、頭の中の概念操作だけで、死についてわかるはずないのである。彼はいろいろな概念をもてあそんでいるだけで、死そのものについては考えたくないのだな。だって怖いんだもん。これが思想的(妄想的)「死を思え」なのである。

 さて、オウム信者諸君は「死」について考えたことがあるのだろうか。本当に「死を思え」を実行できている信者はどれくらいいらっしゃることか。 したがって私は、信者諸君に次のフレーズを投げかえしたい。

 「人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けられない。」

 宗教に逃げこんだ人も死ぬ。臨死体験や瞑想体験を重ねた人もいつか本当に死んでしまう。魂だの輪廻だの、わかったようなことをほざいている人も死ぬ。だとしたら、どうすれ
ばよいのか。死を直視できるくらい、強い心をつくりあげること。悔いが残らないように生を生きることである。

 オウムの修行は誤魔化しが多いから、どんどん心は弱くなるばかりだ。その証拠に、信者は死を直視できない。このようなチャランポランな生は、きっと悔いが残ると私は思うの
だが、信者諸君はどうお考えになられますか?

(注)死をなめてはいけない。本気でないのに、ちょっかいをかけるべきではない。死に見いられたら、ひどいことになるからね。本手記で私がいいたかったのは、「オウムの『死を思え』は間違っとる」ということです。「死を思え」といって、それは入信させようとしとるだけや。「死を思え」といっとる信者かて、死から逃げとるやないか。とこのようにご理解いただきたいと思います。


追加70 ● アレフからメール配信−ミラレパさんの判決を聞いて

第85号から。2002.11.9発行。−−元サマナ、男性、30代

● アレフからメール配信が有りました。久しぶりに見たら「千歳烏山国民対話室」の事が話題になっていました。相変わらず末端の方々は「形だけの穏やかな心」を主張する様にゴキブリを殺さない様子とか、いろんな事を言われた事に穏やかに答えていました。

● 新実の判決はニュースで見ました。
彼は口の傷に対するコンプレックスをきっかけとしてオウムにのめり込んだ様にマスコミでは報道されています。口の傷が無くても何かのコンプレックスはあり、たどる道は似ていたのでは無いかと思いますが。
報道内容からの憶測にしか過ぎませんが彼のプライドは相当高そうですし、人に対する嫌悪感も感じます。これは彼を見る事で私の心と共鳴している部分なのかもしれません。

彼も完璧主義な部分が有るのでしょう。オウムを完璧と信じて止まない心がそこまで突進させるものなのでしょうか。私にはまだ彼について何も知らない事を知りました…。

● 新実の判決に関してずっと考えていました。
私の行動が1つのきっかけになっていた事件もありました。
新実は最後の最後、自分の様な高僧は救われるとでも思っていたと思います。
マハームドラとして、考えるとすれば、それだけの人の苦しみを直に背負い、一生考えさせるべきだと思う。
松本について行くだけが生き甲斐だった彼にとっては現世は余りにつまらないし、余りに煩悩的過ぎると思っている事でしょう。そしてその煩悩に生きている人々を卑下して見ている。きっと、松本と一緒に出られる日を妄想していたのだと思いますし、今もそうかもしれません。

彼には無期懲役になっていつか外に出られる日を期待させる事は出来ないとも思いますが、果たしてそれが死刑でいいのだろうか。
私は今回の判決にはやはり問題を感じます。人の心は時間と共に変化するものです。アメリカの様に懲役に1000年とか設定すべきだと思います。(知識は余り無いのですが)。

今は、無期懲役と死刑の刑の重さの隔たりを感じます。なぜ誰もそれを口にしないのでしょうか。それとも私だけが無知なのでしょうか?
人は生きていれば考え方も変わってくる。寿命まで考え抜いて、体だけ拘束しても他の人達と何かで交流していれば、自分のした事は何だったのかを理解するのではないでしょうか?
人が人の寿命を決めていいわけがない。「気にくわない態度」だからと「更生しそうにないから」と寿命を故意に縮めるのは傲慢だと思える。

被害を受けた親族や関係者の方々は、当然一生その傷を癒しながら寿命まで生きて行きます。新実を死刑にする事で本当にいいのでしょうか?
死刑では得るものが無いと私は確信しますし、野蛮過ぎます。
彼は懲役1000年とか2000年にするのがいいのではないでしょうか。

勿論、私がこんな事を言ってもどうにもなりません。生かす経費の問題や危険性を考えれば、当局も動かないでしょうね。そういう意味では人は動物に少し毛が生えた程度のレベルでしか無いのかもしれません。

滝本さんや、弁護士の方々はどの様に考えているのでしょうか。
江川さんもテレビでは、「仕方ない」様な事を言っています。

● 私は今付き合っている彼女には元オウムである事は伝えていません。
それは、伝えられる方にも気力がいるからです。また、自分の気持ちを楽にする為に話す事は絶対に出来ません。その気持ちが彼女に移るからです。少しオウム的かもしれませんが、自分の中で考えを整理しておかないと相手も混乱しますし変な気を遣わせる結果になりかねませんから。今私自身もまだ逃避したりして考えがまとまってはいませんし、思い出すと心が乱れます。

オウムに共に出家した女性を思い出すだけでもそうなるのですから。勿論、面と向かって話す時には強がったり現世的な事や冗談を言ったりと何も気にしていない風には振る舞いますが、単に壁を作って傷には触らない様にしているだけです。だからいい車に乗ってみたり収入に拘ったり年代の違う女性やタイプの違う女性とつきあってみたりして自分をごまかしているのです。

自分を見失っている事を常に感じます…。

●最後に。
今後も、私がした事については、ゆっくりと考えて行きたいと思っています。また、機会を作って行きたいと考えています。
インターネットが今の様に普及している状態ですから、HPをメールサーバーの様にしてメール配信をしてみては如何でしょうか?
カナリヤの詩を送って頂く事の出来ない私の様な人でも、メールであれば、随時送って頂けますし、考えていく事が出来ます。

長くなってしまい済みませんでした。 それでは、お体に気をつけて下さい。