教祖が、なぜ、あれほど強烈なことをしたのか、それから「救済者と信じていたのか」と、聞かれることがあります。
私の、こんなことを 言っていいのかどうか分かりませんが、教祖は本当に、予言を信じ、自分を「救済者」だと思って、したのだと思います。
最も記憶に残っているのが、とあるクンダリニーヨーガも成就したサマナと教祖とのことです。
私は、自動車を交代で運転しているのですが、とある編集担当の人が、その頃、常に同乗していました。その人は、いつも「予言を解読した」というパソコンをもって、それを読んで教祖に読み上げていました。 すると、教祖は、
「そうかっ、すごい」
とか言っていました。
それまでも、「松の字」とか「片目」とか、「筋肉隆々」とか、ノストラダムスの予言で言われていると聞いていたので、聞いている自分も、そうかっ、「尊師はやっぱり救済者なんだ」と思いました。
私は、出家してもう5年もたっていたし、「救済」の最後まで見届けようと考えました。
また、毒ガス攻撃については、こんなこともありました。
今、死刑判決を受けてしまっている人ですが、朝、自動車に教祖が乗りに来たとき、教祖に「黄色い粉がボンネットに乗っています」「毒、撒かれました」 と言っていました。その時は、私は、見るからに花粉だと思ったので、おかしなことを言っているなぁと は思ったが、何もいいませんでした。
思えば、あの頃は、みんな毒ガス攻撃を信じてはいたけれど、側近の中には、過剰にこじつけて教祖に言う人がおり、一方で一歩、離れて、どこか疑いを残していた人がいたと思います。その違いは何だったのかなぁ、とも考えます。
その時、少し疑問を残していた人は結局、重い事件に使われず、死刑や無期懲役になった人も少ない、と思います。1994年に脱走したラーフラさん、クラさんや、最後の段階で使われなかった私にしても、どこか疑問を残していた人でした。
また、人をすぐスパイと疑ったり、毒ガス攻撃を内部の人がしていると言ったりしてきた人がいて、教祖は、ますます疑心暗鬼になっていったように思います。
そんなことからすると、オウム事件は、教祖の責任だけでなく、予言を都合のいいようにあえて解読した側近や、被害妄想やグルが喜ぶような情報を与えた側近などにも、相応の責任があると思います。
私にも、歯車一つとしての責任がもちろんありますが。
今、グルを囲んでの、貧しいけれど熱心な修行集団の夢を見ることがあります。
そんなイメージでずっといられれば良かったのに、と被害者・遺族には申し訳ないですけれど、正直なところ思います。 以 上
あれは1994年頃だったと思います。私が、自治省で警備・運転をしているときのことでした。
その頃、わたしは、 教祖の自動車を運転していました。キャンピングカーのようなワゴン自動車で、そこに寝泊りしました。
教祖は、毒ガス攻撃を受けていると言って、 私が運転者となって、教祖の家族ともども、千葉近辺を、何ヶ月間も寝泊りしていました。リゾートマンションを借りて、教祖の家族全員がそこに住むこともあました。
私の役目は、家族がそのマンションについたら、まず窓戸という窓、ドア、換気扇などにすべて目張りをして、毒ガスが入らないようにすることでした。
教祖と私などは、ご家族をマンションにおいて、3日に一回程度は、富士の向かいました。食事や水の修法のためです(今、思えばダーキニーたちと会うためもあったのだと思います。)。
その途中、私は、何度か、教祖と柔道の練習をしたことがありました。
海岸に近づくと、 教祖は降りようといって、柔道を始めようとします。私や外の警備の4−5人に、柔道を教えるというのです。私も武道が好きなほうでした。
教祖にそう言われることは名誉なことですし、体を接触させることは喜びでした。1つのイニシエーションという感じでした。
教祖は、占め技が好きでした。砂浜の上で、私を倒した後に、腕ひしぎとか、三角締めとか、いろいろ教わりました。
私は、1995年の秋ぐらいに脱会しましたから、6年間ぐらいオウム真理教にいたことになります。教祖のそばには、合計4−5年いたのでした。
率直言って、 教祖に悪い思いはなかったです。
そんなことをしている時、ヘリコプターが頭上を飛んでいることが何回かありました。すると、教祖は
「くさいっ」
「ああ、ガス撒かれている」
と言うのです。そして、急げー、と言って、すぐに自動車に戻って、出発するのです。
当時、私は、松本サリン事件を知っていました。サティアン内に、新聞のコピーが張られていて、特別な「公安」が、サリンを撒いたと思っていたのです。教祖も、説法でたびたび言っていたし、サマナたちも、そういいあっていたので、私も信じていました。ですから、私も砂浜で、サリンを撒かれている、と感じました。
パーキングで、たまたまベンツを運転していたときでした。窓を 長女が開けました。すると、教祖が突然怒り出して、
「なに開けているんだぁ」
と怒鳴りました。教祖は、長女に厳しいところがあり、ポロクソでした。
今思えば、松本サリンも、オウム真理教がしたものでした。
でも、今でも、あの頃の教祖は、サリンを作る一方で、自分も毒ガス攻撃を受けていると思っていたと思います。 以 上
あれは、地下鉄サリン事件の前、キリストやPSIも始まる前でしたから、1993年頃だったのではないか、と思います。
「破戒カルマ破壊」という集中修行を、富士山総本部道場の2階でやってました。通達が突然に出て、サマナの名前も掲示されていました。
その中に私の名前も、越智君の名前も入っていました。
行ってみると、足を縛って蓮華座を長時間組む修行でした。大変な痛みでした。最初は30分でしたが、最後は24時間、連続して蓮華座を組めるように、足を紐で縛っていました。一週間程度でなく、数ヶ月続いた感じでした。途中で終わった人もいましたが。
睡眠時間はありませんでした。正確に言えば、「究境の瞑想」という蓮華座をしたまま、監督されなくなる1時間の瞑想が、一日3回あるだけでした。食事は一日一回、その場でしました。 男女半々ぐらい、 計2−30人いました。
その中に、越智君もいました。越智君はよく居眠りしていて、しばしば起されていました。でも、その時は起きるのですがまた眠りに入ってしまうのでした。それで、上の人から「越智君、あっち」と言われました。
あっち、と言うのは同じ道場の2階の前の横の方にある、逆さ吊りの設備です。 上から鉤型のフックがついているチェーンがあります。滑車でガチャガチャと動かして、「逆さつり」されるのです。この設備が4つぐらいあったと思います。
逆さつりを見るのは、私は、初めてでした。時間の感覚はよく分からないのですが、しばらく挙げて、下ろして縛ったまま休ませて、また釣るのです。これを数回から何回もされるのです。足のすね辺りを縛られてつるされるのですが、やっている人たちは「足が引きちぎれそう」だといっていました。監督の師の人に「もう引きちぎれそうです、下ろしてっ」と叫ぶ声も聞こえました。
これが始まったのは、集中修行が始まって、何日かしてからです。5−6人はされたと思います。
何人目かの人でした。越智君も、逆さつりをされることになりました。それも何日間か続きました。
越智君は、他の人もしていたのですが、足の痛みをなくくす為に、腹筋をつかって、しばしば逆さづりのまま、起き上がって手を足の方にもっていったりしていました。
その途中、越智君は、休まされているときにトイレに行き、トイレから脱走を図ったこともありました。すぐつかまったようで、戻されていました。
しばらく後に教祖が来て、越智君に
「お前のために何人動いていると思っているんだよっ」、 教祖は弟子に
「しっかり監督するように」 とも言っていました。
ある日、逆さつりをしていた越智君に異常がおきました。
越智君が、逆さつりをいったん降ろされて横になっていました。すると、修行していた他のサマナが目をのぞき込んで、
「越智君が死んでいるっ」
と言い出したのです。
越智君は、カッーと目を見開いているということでした。私は蓮華座を組んだままでした。
上の人が来て、棒のようになっている越智君を、抱えて連れて行きました。
しばらくしてある正大師が来て、
「みんな動揺しているみたいだけれど、 越智君は大丈夫だから」
と言っていました。
「越智君また逃げ出しちゃったみたいね、医務室で意識が戻ったらまた逃げ出しちゃった」
と、蓮華座をしている私たちに言いました。ある師は
「越智君、しょがねえなぁ」
とも言っていました。
「ああそうなのか」と思いました。その後も、逆さつりをされることは続いていました。
それが、越智君のことについて、私が知っているすべてです。 以上
麻原裁判の判決日を前にして、教祖のことや、事件のいきさつを振り返るドキュメント番組が放映されていました。
元教団の信者としては、よく再現された教団内部の映像を見て 「ああ、なつかしい」 と思ったり、
教団の修行風景を見て 「そこまで狂信的ではないぞ! でも一般の人はこのようにとらえているんだろうな」
と感慨にふけったり、出演している信者役の俳優を見て、「こんなのわかる人が見ないとわからないのに、髪形やら風貌やらをよくぞ、ここまでマニアックに似せたもんだ」と関心したり等々色々な思いをはせながら見ていました。
そして、教祖逮捕の場面、せっかく巧妙に隠し部屋を作ったのに、そこの壁に空気孔を取り付ける作業をわざわざ外で監視している警官の目の前でしていたことがきっかけとなって、教祖発見・・・
自分の所属していた教団の極限までの間抜けさにあらためて愕然とさせられました。 そして画面のテロップには
「松本智津夫(40歳)逮捕」
えー40歳だったの!!
ということは自分が出家したときは34歳!
今の自分よりも1歳年下で、数百人の出家信者をかかえ、数千人の在家信者がいたということ!!!
不謹慎ながら思わず
「すげー!」
と叫んでしまいました。
今の自分の会社は従業員さん5人。これだけの人数でさえ、仕事を回していくのに常日頃ものすごいプレッシャーがかかっているというのに・・・きっとそんな自分の何十倍もの重責を感じつつ、信者を教化し、お金を稼ぎ、数々の新しい課題に取り組んでいたんでしょうね。そのやり口は別として・・・教祖が実際どういう生活をしていたかはよく知りませんが、教団にいたおかげで、
・ 色々と新しいことに挑戦でき、色んな成功、失敗を経験させてもらったこと、
・ 自分に限界をもたないこと=やればできるという前向きな発想を身につけることができたこと、
・ 前向きに自分を成長させようとする気構え、
・ 常に空いた時間を利用して勉学に励む習慣等
を得ることができ、その点では教団に所属していた時期は無駄ではなかったと思っています。
この時期、教祖・教団を非難する文章が多く寄せられてくるでしょうから、1つくらい教団にいて良かったことを主題とした文章があってもいいかな? 以上
麻原彰晃こと松本智津夫被告に死刑判決が出ました。
教祖は事件の真相を何も語らずに、判決になってしまった。
何を考え、信者を使って事件を起こしたのか知りたかった。
教祖には現役信者の心の鎖を解き放って欲しかった。
期待はしていなかったけど、やっぱりがっかりした。
逮捕から長い時間がかかって判決が出た。
私が連れて出家した子どもは当時 2歳だったが、今は11歳になった。いつかは子どもにオウムのこと、私が出家して体験したことを話さなくては…と思って9年が経った。オウムが起こした事件の残虐さ、子どもを連れて逃げられず教団に残してきたこと、色々なことを考えると子どもがショックを受けることが心配でした。
事件がどんどん風化していく中で、オウムは名前だけ変えて存在している。
カルトの恐ろしさも人々の心の中から薄れていく。
事件が起こった頃と、本質的には何も変わっていない。
子どもにはきちんと話していかなければ…と思った。
昨年の夏頃から子どもには、『お母さんはある宗教(教団)に騙されて、沢山の人に悲しい思いをさせてしまった。嘘をついて人を宗教に誘い、色々な人に迷惑を掛けたり、悲しい思いをさせる宗教は本当の宗教ではないんだよ。その宗教に入るまでお母さんは何の宗教も信じていなかった。それまでは自分は絶対に騙されないと思っていた。でも、ちょっとした心の隙間に入ってきて、いつの間にか心に鎖がついていて、離れることができなくなったんだよ。』
ということを話していました。
教祖の判決に際して、オウム関係の報道が多くなり、子どもに話す良い機会かな…という気持ちと、今、理解できるだろうか…、どう思うだろうという気持ちがあり、複雑でした。私はナーバスになって、ずっとみていなかったオウムの夢を見たりして、どうしようか迷いました。
夫も元信者なので、夫に取材の申し込みが来ていました。子どもたちのことを考えて、顔を出さずにテレビの取材を受けたつもりが、テレビ局との行き違いから、夫の顔・名前がテレビに出てしまった。
テレビを見た母や妹から電話が来て、「何を考えているの。学校でいじめられたらどうするの。近所の人も見ていたらどうするの。あんたが思っているほど社会は甘くはない・・」と非難轟々・・
ごもっとも、ごもっとも。 私自身、オウムのことを風化させたくなくて、別のテレビ局の取材に顔を出さずに受けたなんて、とても言い出せない状態・・・
「わかってる、わかってる。充分良くわかっている。」と私は母に言いながら、
あ〜、これで私がテレビに出たら、烈火のごとく怒るだろうな・・と気持ちはブルー。
これもオウムを信じた私の自業自得・・
夫は仕事で私が休めない時、子どもの授業参観に行ったり、下の子の保育園の送り迎えをほぼ毎日しているので、子ども関係の父母・先生と顔見知りが多い。もしかしたら、他人の口から子どもが真実を知るかもしれない…と思った時、やっぱり、今が話す機会だと決心。
そして、教祖の死刑判決が出た夜、布団の中で子どもに全てを話しました。
・ 麻原彰晃こと松本智津夫被告が教祖であるオウム真理教という教団にお母さんと離婚したお父さんは出家していたこと。
・ 教団が数々の残虐な事件を起こして、教祖に死刑判決がでたこと。
・ お母さんとお父さんがどうして出家したのか。
・ お母さんは教団との心の鎖が切れずに、5回、教団を逃げ出したこと。
・ 逃げては連れ戻され、独房やコンテナに監禁されて、3ヶ月間、子どもと離れていたこと。
・ 子どもに会いたくて、会いたくて、何度も夢にみて、何度も泣いたこと。
・ 子どもを連れて逃げられず、教団から子どもを連れ戻すために、滝本弁護士さんや上九一色村の人たちが力を貸してくれたこと。
・ 滝本弁護士さんや上九一色村の人たちが、お母さんの心の鎖を切ってくれたから、オウムに殺されずにすんだこと。
何時間もかかって話しました。
子どもは驚いて、「何だか本当のことじゃないみたい。夢みたい」と何度も言って、「ぼくは何も覚えていないよ」とも言っていました。
子どもが「お母さん、もしオウムに行かなければどうなってた?」と聞きました。
私は子どもに、「お母さんは何度も、もしも…って考えたけど、どうにもならなかっ
たよ。間違えてしまったことを忘れないで、今を、これからを生きていくことを考えようと思ったよ。」と答えました。
教祖の判決の日は、私にとって一つの節目になった日でした。
最後に、A君へ伝えたいこと (カナリヤの会を通して知り合ったA君は、オウムの起こした事件に関わり、現在、服役しています。)
A君のことを忘れずに待っているから、A君が今できることを頑張ってやってね。
ペンネーム:海
昨年、まあ脱会したような感じの男性が興味ぶかいことを言っておられたので、転載します。窓口
> 入信したての頃、たっきぃは信徒を無理矢理脳神経外科の
>病院に入院させて、頭にチップを埋め込んで脱会させると
>とある人から聞いて、本気で信じていた頃がさらに懐かしい
>(爆)
> いつだったか、とある信徒が、「凄いことに気づきました。
>本当の真のグルはたっきぃだったんです。・・・・
>(以下その説明が1000文字くらい続く)」と
>いうメールをいきなり送ってきたことがありました(笑)
>なんでも、夢にたっきぃが出てきたんだそうな。
>魔境という言葉はあんまり信じないきくりんですが、
>初めて魔境を信じた一瞬だった(爆)
窓 口
うーん、なるほど、と。1994.6から、オウムが、LSD、そして覚せい剤、チオペンタールナトリウムなどを使い始めたのは、話し合いの結果次々と脱会していくのが、麻原さんとして怖かったから。
うーん、信徒用決意5(次のページを参照)にも、ここまでは出ていなかった。
いろいろな笑い話があるものです
2003.4.25
松本の裁判のニュースを見て僕はただ騙されていただけではなく、地下鉄サリン事件にも資金援助という形でマハーポーシャで働き、極限のお布施を教団にしていたことは被害者の方々に対して誠に申し訳ないでは済まされないことをしていたんだと痛感しました。
いまだに、後遺症で苦しみつつ日々一生懸命生きている被害者の方々を見て涙が止まりませんでした。
マインドコントロールされ松本にどれだけの献金をしたことやら、お金だけではなく20代をずっとAUMの信者でいたことを振り返ると、そこで得たものは多少あったにせよそれとひきかえに失った時間とお金と青春はもう返ってこないのです。
坂本弁護士一家殺人事件の当事者の体験談を本屋で少し立ち読みして、格闘家だった信者が顔面にヒットしたとか、奥さんからの子供だけはどうか見逃してという懇願も無視して撲殺したと。
この現実を知って僕自身、衝撃を覚えました。「なんじゃこりゃ〜!」と。
でも松本や上祐にしてみればこれら全てカルマだと、高い世界へポアしてあげたんだとそう思っているのでしょう。
少しでも、罪悪感のかけらがあれば今日の公判で、無言で通すこともしないだろうし、アレーフを維持することもないと思います。
こんな残酷極まりないことが裏で行われていた教団に帰依をし、修行し、お布施をしていた自分はいったい何だったのかと僕自身ショックを感じるとともに松本に対する憎しみの炎がメラメラと燃えてきました。
これからは、この悲しみを胸に刻み込んで一社会人として精一杯生きてゆこうと思います。
そして、現役さんが一人でも多くかつ早く脱会をし、教団の運営が出来なくなる日が来ることを祈っています。