19  特 別 法 に つ い て 

1999年5月26日カナリヤの詩49号から

 増長しているオウム真理教。各政党が、いろんな方策を考え始めた。政府首脳の中では、話が不用意に、コロコロと変わってしまう人もいるが。

 まず、破防法の適用とか、要件を緩和しての再適用とか、なんとも無理なこと言う政治家もいる。調査権のみを強くする改正をしようなどとの動きもあるようだが、
調査だけしたって、何にもならない。
 反省も総括もせずに「危険性はない」なぞと言うオウム集団の話を聞く必要はないが、たしかに「破壊活動をなす明らかな危険性が認められる十分な証拠」
なぞ、ますます認められない。警察がもっと注意すべきは、「最終解脱者」なぞと自称する者が出てきたときの分派だろう。
 破防法で、ビラを配るだけで逮捕され、20日程度だろうが身柄を拘束される。信仰が深まるばかりなのは明白だから、役にもたたない。3年入れたって同じこと。

 任意集団オウム真理教の財産にかかる特別法をつくってもいいのではないか。窓口
は、個人的には、そう思う。
 現在の財産を押さえられないのは、もともと破産法が「固定主義」という破産段階での財産にのみかかることとしているからに過ぎない。
例外的に、その後の財産もおさえられる「膨張主義」という解釈なり立法をしてもいいはずだと思う。

 そもそも、自然人であれば、不法行為による債務と税金の債務などは、破産・免責となっても払っていかなければならない。
それが、たまたま、法人となっていたから法人としての破産となり、その段階の財産のみとなったのである。
 最初から法人格がなかったならば、最初からこの任意集団に対する「特別法」を考えるしかなかったはずだ。そんな破産法の特例法をつくる方法がある。
オウムと名を付けた特別法でもいいし不法行為による賠償義務などの場合一般とした特例法でもよい。
破産業務はまだ終了していないのだから、適用することも可能なはず。

 さらに、窓口としては、オウム集団の財産を国家において没収する特別法を作ることができると思う。没収した財産を処分して、
被害者に更に配当していくこともできる。集団の財産の把握と確保は、破産管財人の力だけでは著しく困難な作業である。

 破産の特例のみとする場合と、没収の違いの主要な点は、次のとおりになろう。

@没収する主体は日本国であり、破産管財人ではない。
A裁判所の判決などにより財産を確保するのではなく、行政処分として没収する。
B今まで収集された任意集団オウムの情報を援用できる。
C不法行為などの債務以上の財産となっても、没収自体は続けることともできる。

 「人権論者」の中からは憲法違反だとかの声が上がるかも知れない。しかし、告知と聴聞の機会を与えて没収し、行政訴訟が可能なのだから、
適正手続きもとられているというべきである。
 「財産権の保障」とか「法の下の平等」といっても、没収するのは個人財産ではなく、実質オウム集団の財産だと証明できる財産だけであり、
それは「化学兵器サリンを使った無差別殺人」をした組織が、その後に作った財産なのである。著しく公共の福祉に反したとして宗教法人を
解散させられた団体である。この理由での法人格の否定は、その団体をも否定した意味なのであり、憲法上、認められる範囲だと思う。

 信教の自由・結社の自由・表現の自由を侵害するとも言われるだろう。なるほど土地、建物、賃借権、金銭、印刷機などが没収されれば、信仰はしにくくなる。
 しかし一人一人が修行することも、集まることも自分なりにビラを作ることも、配ることもそれ自体は可能である。集団としていかなる種類や形にせよ、
財産を集めたときにのみ、没収されるのである。 

集団自体は、著しく違法な団体と認定されているのだから、集団としての信教の自由とか結社の自由は、構成員に対する刑罰ではなく、財産の没収という形
である限りにおいて、もう主張し得ないものである。

 どうせまた「教祖は本当にかえた」なんぞと「真理のための嘘」を言うだろう。麻原さんの教えにしたがっている集団だということを証明する十分な情報がある
国自体でなければ、やりようもあるまい。

 この方法は、組織的な違法集団をつぶす最適な手段であり、かつビラ配りだけ、布施しただけで逮捕されるような破防法に較べれば、信者にはるかに
納得させやすい方法である。
 戦後、議論されてきた「戦う民主主義」の問題かもしれないが、化学兵器サリンまで教祖の指示で使った集団に対するものとして、不可能なはずがないと思うが。

 「北風か太陽か」ではなく、ひきつづき「北風も太陽も」必要である。


18 親御さん達をみてきて。

1999年5月26日カナリヤの詩第50号から

長い間、親御さんたちをみてきた。
1995年3月以降を含めれば、出家者の多くの割合の親が、一度は、弁護団などに相談にきているといってよいでしょう。
いろんな立場の人がいる。

脱会カウンセリングによって戻った子どものいる人、95年3月以降に未成年だとして戻ってきた子どもをもつ親、
遅ればせながら親孝行するよと言う子をもつ親、脱会したけれどやはりうまくいかず子どもがすぐに出て行ってしまった親、
戻ったがまたオウムに行ってしまった子どもの親、

出家者といいながら時に金を無心しにくる子を持つ親、
子どもが読むような手紙をかけるように仏教を勉強する親、
拘置所で何年かぶりに子どもに会い今も面会を続ける親、
刑務所から戻ったがボーッとしている子どものいる親、
拘置所や刑務所から真っ直ぐオウムに戻ってしまった子を持つ親、
いつか重いだろう判決をひかえ今できる限りの面会をする親、
今も面会を拒絶されている親、
そして死んでしまっただろうことが判明しその子の年を数える親。

 せっかくの現世を、せっかくの現世の縁を、信者さんは大切にしない。
「否、輪廻転生の苦の中で、せっかく人間界に生まれて奇跡的にグルと出会い、修行できるからこそしている。もっとも大切にしている」
というのがオウムの模範回答。

 中途半端じゃないのがオウム。
ではなぜ「グル」に値いすると、現世で縁ある人に説明し尽くそうとしないのか。
信者さんは麻原さんの95年4月NHK録画での発言
ー農薬だ心臓病の薬だとかー
を覚えているか。97年4月24日の17件の陳述を知っているか。
思い出すのは怖いのか。オウムでは、「理想の麻原さん」に反すること
はすべて忘れようとしている。

 親も年をとってきた。続けている人で、自ら変化しなかった人はいない。
子どもに対する執着心のみで続くものではないし、自分自身を何度も何度も振り返ってきた。
今、縁ある子どもが、矛盾と人の痛みに目をつぶり哀しい程にエゴイスティックだから、何とかしようとしている、と感じる。

 んで、せっかくの縁なんだから、
●しばらく電話してない人は電話してあげてね。
●2万円出してビジター会員になれば会うよ、なんてセコイことは言わないでね。
●たまには顔を見せてあげたら。
●たまには親に付き合って、互いのすすめる仏教書でも読んだら。
●親がすすめる事件記録やら、仏教者との対論やら、ときには応じてあげれば?

だって、真理は情報を恐れないもの。

麻原さんこと松本智津夫被告にも親がいた。
母親は、麻原さんの逮捕後、一年余りして亡くなってしまった。先年、訪問して線香をあげさせてもらった。
あの世で、母親は、何を言ってあげるのだろうか。

ー以上、ハンドルネイムの別名「小うるさいおじちゃん」でした。


17 「ナサケナイ」

1999年5月26日発行カナリヤの詩第48号から

 この号では、オウム系列の会社の一部を紹介した。それぞれの会社は、恥ずかしいほどにオウム集団の系列であることを隠し脱会していないのに脱会していると言う。
ダミーサークルも花盛りである。「真理のための嘘」だというのでしょう。

 オウム集団の態度は、明らかに増長している。インターネットで聞かれる信者の言葉は、哀しいほどに自己中心的である。たしかに、破壊的カルトにおいては、メンバ
ーはもともと著しい「選良意識」をもち凡夫外道は、導く対象としてしかみない。

 しかし、それにしても、近ごろは「現世は生きずらいんです。ここ雰囲気がいいんです」なぞとインタビューに答えもする。「修行は辛いけれど、衆生を済度するため
にやるんだ」と、個人的には思ってしていただろう以前、同じマインド・コントロールされていたにせよ、自己を鍛えようとしている人もいた以前、そんなときと比較し
て、相手をしていてもナサケナイ。

 率直に言って、この頃は、単純・明快な反抗期の子どもと付き合っているような気分になる。
 そんな人たちが、パソコンを組み立て、ソフトを製作し、ダミー会社をつぎつぎとと作る。各地で不動産を取得し、「権利」なるものを主張して自治体から金をとる。

 今度は9月2日だか3日だかがハルマゲドンかも、ってなことを言って、しかし以前の危機感と異なって、遊んでいる。いくつかあったサバイバル訓練やら
オウムオフ会にしても(正悟師以上は執着がないから肉も食べていい、という論理じゃなかったっけ?)、いかに勧誘対象者を安心させる目的があったにしても、
ナサケナサスギル。

 んでも、悪用されつづけてきたコンテナ車両が搬入され、懲罰部屋にも簡単に転化する核シェルターを作る。ほおっておけば「コロニー・監禁・薬物」とすすむのは明
白。だから、まだまだ相手にしなきゃならんのでしょう。

 古くからの信者の方々、この上佑路線って、どんな感想をもちますか?。


16ー裁 判 と い う も の

1998年1月23日第33号から

 一被告人からの手紙をそのまま掲載しました(手記の中の●被告人からの手紙(20代・男性) )。
自分の体験、認識と獄中で読んだ本から、改めて考えているんだと思う。

 多くの弁護士は、裁判をけっして全面的には信じていない。先入観と偏見が避けきれるものではないし、
神でない以上、限度があると感じている。

まして日本では争う裁判でも「陪審制」をとっていない。裁判官は法令の専門家だが、事実認定の専門家ではないのに。
裁判官は弁護士の名から衆目の一致がえられる人を選ばれるのが少なからぬ国の原則になっているが(法曹一元)
日本では「出世」を前提にしたキャリア裁判官制度である。「合理的な疑いをいれる余地があるときは無罪」という
無罪推定の原則が全うされない危険性が多分にある。

 多く誤解されているのだが、「責任」には何種類もある。刑事責任は有罪・無罪の問題であり無罪の推定がある。
民事責任は損害賠償の義務があるか否かであり、「どちらの証拠が優越しているか」で決める。民事の方がより緩やかである。

また政治責任というのは、政治家などが疑惑を抱かれたり悪政をしてしまったことの責任であって「失脚」ということになる。
道義的責任は、道義に反する行為をしたことそれ自体について非難されることである。
 別の分け方では「故意責任」「過失責任「無過失責任」「結果責任」もある。

 おそらく宗教的には、「神仏の前における責任」というか「良心に照らした責任」というようなものもあるのだろう。
林泰男被告は、「裁判官、検事、弁護士の質問は地獄の閻魔様からの質問と考えて述べますと法廷で言った。目を見張る。

 手記の筆者は、オウム真理教のしてきたこと、自らがそれに所属していたことを直視している。良心に照らした責任は果たしつつ、
自らの刑事責任の判断の実際と捜査の手法について怒りをもっている。
大幹部であり、亀戸炭疽菌事件の首謀者だった上祐被告の態度と、比較するのもばからしい。

 現役の信者に会った多くの人は知っていよう、感じていよう。
いま残る人は、なんら利他心をもつことのないのが証明された人たちであることを。
責任を直視しようとしない赤子(あかご)であることを。
こわくて「アンダーグラウンド」も読めまい。

このままオウムが残っているまま判決となれば、死刑か無期かの被告人は死刑になりやすく、
無期か有期懲役かの人は無期になりやすい。
しょせん人ごとと考えているのだろう。

オウムは、単に軽蔑される破壊的カルトだった。後の世では、人間がいかに弱く利用されやすく、
時におぞましいこともしてしまうものであることを示す格好のエピソードになろう。
事件の内容と、松本被告の態度だけで十分に証明されている。

 信じている方が楽でしょう。でも、軽蔑され、侮られる対象でいてほしくない。


15−ホームページ

1998年1月23日第32号から

 ホームページというのをあちこちのぞいている。

 「何なんだこれは!」というのが素直な感想。
噂にきいたオウムのホームページをのぞけば、勝手に「尊師」の話をつないだ文章がある。
掲示板というところでは、 「滝本弁護士」やら「江川彰晃」やらが議論している。窓口の滝本の情報について全くの嘘も出ている。
おフザケもここまでいくと犯罪。名誉毀損であり、私文書偽造にもなりえる。

 とはいえ、様々な情報を広く安価に提供し、かつ政治学でいう「名もなき群衆」が情報や意見を提供するメディアをもったということは、
限りない発展性をしめす。その中には匿名であるからこそ、ホンネで語った意見と感想がある。
日記ほどではないが、手紙よりも、むしろ裸になった議論ができる場所かも知れない。

 発表の場に関していえば、窓口の滝本はその経緯からマスメディアに発表の場をもっている思われているが、そうではない。
1997年、ようやく作った中央大学の中沢新一教授らへの批判文は、結局、どのメディアも書かせてくれなかった。

 でも吉本隆明などは、将来死んで(死亡率は100%である)10年も立てば、その矛盾と先見性のなさからして誰も読まないこと明白なのに、
どうしてマスメディアは相手にするのか。思想やら知識人に対しては「水に落ちた犬は棒で叩け」というのが正しいと思う。
それだけの責任があるのだから。窓口の知識人論考、いつかカナリヤに出させて下さい。

 窓口が事務局をしているJDCC(日本脱カルト研究会)でホームページを立ち上げようとしている。
破壊的カルト診断の指標、カウンセラーの倫理など様々な議論が多くの人の目に触れることが、破壊的カルトの悲劇をとどめる有効な手段である。

 1997年8月、一人の女性が自ら死んでしまった。とうとう本名は教えてくれず一度だけマントラを数えるカウンターを手にしたままの彼女と会っただけだった。
電話が来るだけだった。ネットサーフィンをしたり、無責任だけど心をいやしたりもするチャットをしていれば良かったのに。力不足だった。会いたい。

どうせ死ぬんです。急ぐ必要はありません。
現世はひょっとしたら地獄かも知れないけれど、地獄の中で蓮の花を咲かそうとするのが「クシティガルヴァ」です。


14−死  刑  求  刑  の  夜

1998年7月8日 第37号から

 今日1998年7月6日、元マハーアングリマーラ大師こと岡崎一明被告に死刑が求刑された。
最初の殺人事件ー田口修二君殺人事件と、坂本堤、都子、龍彦ちゃん殺人事件の実行犯である。

 何で、こんなことになってしまったか、と改めて思う。彼とは、1991年11月に2日にわたって会った。言うまでもなく坂本事件の調査のためである。

 現役信徒の中でも、彼の名前「佐伯一明」は有名だった。
ケイマさんに続く解脱者として、90年2月お金を持って脱走し、後に「悪魔」などと教祖から言われていた人として。
そんなことも知らない新しい現役信徒もいるかもしれないが、それはオウムと麻原さんを知ろうとしない立場だから、モグリである。

 彼は、89年11月3日夜の前後を含めて、いじめられる方で、独房修行に入れられていた、何も知らないと述べていた。それは嘘だった。
横浜に地の利のある人ー横浜支部長のアッサージについてきくと「あいつは何でも自慢げにしゃべる奴だし、
自動車免許の学科試験で20回ぐらい落ちたくらいだから、彼を使うはずがない」といっていた。

他の人の事は、よく喋っていた。麻原さんについては、「以前はボールペン一本まで許可がなければ買えなかった」と言っていた。

自分の半生を長々としゃべっていた。辛酸をなめてきたのは確かだろう。警察からは、その直後、彼をふくめ、
当時会うことを予定していた元大師10人程との面談をとめられた。彼は、私との面談の直後、オウムで結ばれていた妻と離婚した。

その後、警察に遠慮して面談しなかった。悔やまれる。神奈川県警は、その後もろくに彼を監視していなかった。それを恨む。

私は、強固な死刑存置論者である。
青山法廷の陳述を紹介したが、自らの利益のために残虐に何人かの人を殺したとき、原則として死刑にすべきと考えている。
人間の素晴らしさとおぞましさを忘れない為に、人間が神やブッダにはなれないことを確認するために、死刑は必要だと考えている。

 しかし、オウムでのマインド・コントロール下の行動、その強烈さを知れば知る程「死刑は松本智津夫被告、一人でいい」と本音で感じている。
中川法廷で、正面きって述べてきた。

「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」
この松本被告が言った中のただ一つの真実がある時、すべてのオウム事件で、あえて「死刑」にすべきなのは、
そしてしたいのも松本だけである。嘆きながら悲しみながら、松本を死刑としたい。 

岡崎被告の弁護人からは、昨年「情状証人ーマインド・コントロールの説明をして貰いたい」との依頼があった。断わった。
死刑判決が出れば、おそらく上訴するだろう。高等裁判所ではどうすればよいか。

彼は「悪魔」ではない。縁のあった元サマナである。人間だからおぞましい事もする。
現役信徒は「他の苦しみを自己の苦しみ」とする気があるだろうか。


13−真の恐ろしさと今後

1999年2月15日号第47号から

 少ないけれど、今もオウムに入っていく人がいる。

@まだ続けてるって何なんだ、と興味をもって、ビラなど読んでから訪問する。

A信頼する先輩や友人から、まず不安感をあおりたてられ、オウムの表面的な教えを伝えられ、連れられていく。
そして
・ 報道とちがって、いい人ばかり。
・ 私の悩みをちゃんと聞いてくれる。
・ 「修行」もそんなにつらくないみたい
・ 「真理」って断言されると安心できる
という具合で、深入りしていく人がいる感じです。

 1995年3月から、洪水のように流された報道と評論。しかし、当時の中学生や高校生、否、大学生の多くにとって
「テレビの向こうの人ごと」
だったみたい。報道内容も、多くは扇情的か、よくても一面的評論も多くは自分の枠組みでの分析だった。
後に、被告人が、魂からの肉声を出しても、読む気もなくしている人が多くいる。

 努力はしてきたつもりだが、オウム事件の真の怖しさが、どこまで伝わったのだ ろうか。
本来、犯罪とはなんら関係のなかっただろう人が、松本智津夫と彼が作ったマインド・コントロールのシステムにより
ロボットのように敵対者を殺し、状況のおもむくままに無差別殺人をしていく恐怖を 。

「悪意の殺人には限度があるが、善意の殺人には限度がない」
「人は宗教的確信に立つとき程、完璧に、しかも喜んで犯罪をおかす(パスカル)」

 今のオウムでも「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」と詞章を唱える。
しかし、たとえ名目であっても従前のような「衆生を救済する」という言い方もしない。  

今はただ、自らの「解脱」「悟り」を述べ、なんだかコムロだかまでが陰謀団体の手先だとかいい、
戦争の恐怖で人を誘うだけ。そして、自由を放棄し、現世を否定し破壊したがる感覚
ー窓口好みの言葉でいえば「タナトス」ーを刺戟する。

ホームページにも、「覚醒の時」にも、1997年4月24日の麻原さんの17件についての罪状認否さえ出さず、ご都合主義は極まれり。
麻原さんの言いたかった事は何だったのかを知りたいだろう、古くからのサマナの一部は、きっと不満を感じていよう。

上祐氏の出所にあわせて彼をカリスマにしようとする動きが、すでに始まっているいわく彼の予言解釈、彼の修行態度。
唯一の(大人の)正大師。1995年夏、上祐氏は、公安警察と公安調査庁の手先のように動いていた。
今度は、床の間に麻原さんをおいて、さらに居心地の良い教団に戻るだろう。

内部では、これからも心が不安定な一部の信者や麻原さんの子どもらを要素に、そして禁断の木の実「薬物」の魅力に抗しえず、
数々の悲劇が起ころう。監視の必要はある。
そして「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」既に、幹部から腐敗している。
以後は、公安部局のちょうどよい仕事として、教団も、信者ももて遊ばされるのだろうか。


12−中 毒

1999年2月15日号第46号から

 再び禁煙しようかなー、と思っている。24年間吸い続け、軽くはしたが、このところ毎日40本くらい。理屈を考えてみる正面から向き合うために。

@ 健康に悪いじゃないか。ー自分の体だから自分の自由だ。人の死亡率は100%だ。
A 肺ガンになったり、早くに死んだら家族が困るし悲しむ。 ー自分の遺伝的素質からみればガンになる可能性は高くない。
悪いけど、平均年齢からして自分が先に死ぬし、もともと いつ死んだっておかしくない。それなりに生命保険に入っている。
B まわりの人の健康も害するし、迷惑だ 髪も服も臭くて、軽蔑されてることを知らないの?
ー最近の若い人と違って、マナーは十分守ってる。家では室内で吸わない所まで 譲歩した。人がどう思おうと関係がない
C タバコ代ももったいない。 ー生活を圧迫するほどには高くはない。  ギャンブル癖でもできるより、はるかにいいではないか。
税金部分が高いから財政赤字の解消にも役立っている。
D タバコを吸い始める前に戻って考えろ 今の自分を知っていて、タバコを吸い始めたか。中毒を克服しようとしないのか
ーたしかに、今のこんな状態(人に嫌がられ口も服も臭くなり、自分のタバコ言動が矛盾していると疑ってもいる自分)
を知っていれば最初から喫煙しなかった。でもそれは「仮定の質問」だ。ないものねだりだ。あきらめて下さい。
タバコだっていい所もある(考える時間をとれる、ストレス解消になる等)。
中毒だと認めるから、本当に迷惑をかけないように吸うから、いいじゃないか。

 それぞれが屁理屈である理由を述べます。

@は、自分の健康を心配してくれているのに、「カラスの勝手でしょ」と権利を主張する論理。次元を異にしたスリカエです。

@,Aには、肺ガンになる可能性自体は上がること常識なのに、極論にスリカエている。同じ死ぬにしても、家族の悲しみを早くしてよい
というものではない。つまり正面から 答えていない。

Bは、回りの人の迷惑・不安・侮蔑を、自らのこととして考えていない。要は、人の気持をおしはかっていない。

Cは、話すのも恥ずかしい屁理屈。

Dは、逃げの論法。タバコ吸いのメリットなど、実は小さくて代替可能なこと自分で知っている。要は泣き言であり、甘ったれた論法でした。
私は中毒を克服することができるか。克服できなくても、オウム問題とはもちろん関係がない、と思う。

でも、家族は、オウム問題よりも心理的にはるかに軽いはずだからね、と私の逃げ道を塞ぐ。
そんなに追いつめないでくれ。


11−司法の自殺

1999年2月15日第45号から

松本智津夫被告の刑事裁判が混迷している。問題点は、主なもので次のとおり。

@17件も起訴され、時間がかかる。
A月3ないし4回の公判は、きびしすぎる。
B12人の国選弁護人が、事件毎の分担制をとっていない。
C主任弁護人(団長とは別の人)が逮捕されて釈放されず、今後が不明である。
D被告人の証言妨害、威迫が止まらない

@とAは弁護団から、Bは裁判所と検察庁から、C、Dは一般に指摘されている問題点である。
Cは今後どうなるか分からない。強制執行妨害罪ということだが、私として事件の真偽も「弾圧か」の如何も分からない。
ただ、松本裁判を促進したい立場からすれば、メリットのない逮捕・起訴劇である。

しかし、本質的な問題は、「裁判」というものについて本来的に時間制限があると考えるか否か、
それに向けてすべての司法関係者は努力する義務があるか否かだと思う。それ以外の問題は、これを認めるかどうかから判断することができると思う。

言うまでもなく、本件は、組織的かつ代表者である松本被告に絶対的に服従して起こされた事件として起訴されている。
実行犯らの裁判は着々とすすみ、今年にはさらに重大な判決が出る状態である。

松本弁護団は、何十年かかろうと、それは17件を起訴した検察官の責任だという。

しかし、人の寿命には限度がある。処罰を課すか否かの判断の過程で、その寿命を過ぎてしまっては裁判の意味がない。
どんな裁判であろうと、10年程度で確定までもっていくのが、司法の内在的な制約である。

起訴件数が多いという言うが、それだけ起訴できる証拠があるなら起訴するのが原則である。
検察官は、国民がみずから刑事訴追できるという本来的な権利を奪っているのであり、そうそう勝手に起訴いかんを決めていいものではない。
17件の起訴のどこが悪い。

松本被告本人は、97年4月24日、それなりに17件の罪状を認否をした。しかし、弁護団はそれをまったく無視して弁護しつづけるありさまである。
副弁護団長は、過去、3月14日は税金の申告直前だから延期されたいと述べた。
聞いてて恥かしかった。もはや防禦権の濫用である。端的に言えば、「フザケルナ」である。

主任弁護人は、「オウムに死刑を、にどう答えるか」という本(インパクト出版会)の中に掲載されている1995年12月3日の懇談で、率直にも次のとおり述べている。

「……現在の裁判所に死刑違憲判決を期待することは不可能である。
そうすると典型的な死刑が予想されるケースでは、結局長く裁判を継続していく以外に方法はないのではないか。
そういう視点を踏まえて、一審から着々と弁護する必要があるのではないか。
そういうおおよその合意らしきものが形成されたわけですね。
そして最高裁に係属している事件では、最初のうちは、国選から私選に変えるなどの方策をとることによって、
弁論が大幅に延期することができたのです。……」

司法関係者が、「司法の自殺」を招いて、いったいどうするつもりか。


10−観 念

1998年4月11日第39号から

麻原さんもオウム真理教も「観念くずし」とか「それは観念だ」という言い方をよくしてきた。今も、ホームページや宣伝ビラではそんなことを言っている。

なるほど、世の中「観念」だらけだ。「いい大学に入ればいい人生を送れる」とか「A型の人は何々だ」とか「家族を大切にしなければならない」とかだ。

オウムで言うときは「決めつけ」とか「常識」というような意味だった。「社会の常識はオウムの非常識、オウムの常識は社会の非常識」とも言っていた。
そして、オウムでは「グルの指示であれば、たとえ親であっても殺していいのだ、殺さなければならない」と言っていた。

言うだけでなく、実践した。そう「人の命、人の権利を大事にしなければならない(ヒューマニズム)」というのも「観念」だという。

問題は、その「観念」が正しいかどうか、その指標は何かである。「なぜ、人を殺してはいけないか」という質問に答えなければならない。
歴史上、敵を徹底的に殺し尽くすことが「善」だとされた時もあったのだから、「常識です」では済まない。本音での議論を重ねることこそが大事だろう。

知っておくべきことは、何も「観念くずし」をしようと主張するのが、オウムだけではないということ。先月、ある集団がドラスティックに崩壊した。
内部では、教祖の「想念転換」との指示で、リンチを繰り返し、他の者への暴行までしていた。
ある農業系の団体では、「嫌いなもの」も「怒り」も自己に内在するとし、組織の矛盾を見えなくさせ、結局、子どもに高校進学をさせにくくしている。

不思議なことに、それぞれの集団に入った人は、その集団の「観念」については、正しいかどうか、矛盾があるかどうかを考えなくなる。
矛盾を指摘されれば、上の人に相談したり、自分で一所懸命「考えて」、矛盾はないという理屈をつけた気になっている。
破壊的カルトのメンバーの心理状態として、もっとも特徴的な点である。

オウムのホームページでは、地下鉄サリンの袋が「弁当箱」だったという証言がある、おかしいという広報副部長の日記が出ている。
なるほど当初の報道にはそんなのもあった。ではなぜ「アテにならない」と主張していた新聞記事をここでは材料にするのか、
なぜ事件を認める元幹部も多いのに、その傍聴記録をホームページに載せないのか。考えに入れないのか。

なぜ麻原さんも、弟子が事件に関与したことは認めている(自分は無罪だとしているが)ことに言及しないのか。考えないのか。
「麻原さんは最終解脱者である」というのも「観念である」ことに気づくのが怖いからとしか思えないんだけれど、違うかなー。

「素朴な疑問を大事にしよう、自分でできるだけ調べてみよう」というのは、破壊的カルトに対してだけ言うのではない。
あらゆる集団、主義主張の、その「観念」が正しいと言える根拠は何か、と突き詰めていった方がいいのではないか。


9−1 9 9 9 年 7 月

――1998年10月20日第39号から

ハルマゲドン、そうノストラダムスに端を発し、五島勉さんのおかげでメジャーになった概念。
本号では、オウム真理教が、恐怖説得のために作成し、非常に効果があったビデオ「闘いか破滅か」の結末を紹介し、
ホロスコープや、トンデモ本を紹介した。人によっては、このニュースも「怪しげ」になってるなーと感じるかもしれませんが、まあお許し下さい。

「闘いか破滅か」のビデオは、「正直言って、僕は尾崎豊の大ファンというわけでもなかった……そして僕は、尾崎を殺した奴らを見つけた。
彼らの名前は『アメリカ』という。では、なぜアメリカは尾崎を殺したのか、アメリカとは何者なのか、それを明らかにしていきたい」という序章で始まる。
そこで使われるのがトンデモ本であり、著作権を無視した様々な映像だった。

そう、ハルマゲドンが来るかどうかかは分からない。環境、不況はもちろん、人口、食料、エネルギー、不安はいつもついてまわり、
日本列島のうえをミサイルだか人工衛星の発射だかが通れば不安もつのる。大昔のパンゲアだか、恐竜絶滅だか忘れたが、
いつか大隕石も落ちてくるだろう。
でも「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」

であるなら、まずはまず、現世の状況を変えなければならないのではないか。どうして来世とかその後のことばかり考えるのか。
現世で、どうして現実社会を変えようとしないのか。折角、奇跡的に、この現在の、歴史的にも水平的にも自由な日本に生まれたのに。
人類の危機があるなら、飢餓があるなら、どうして、自分自身で対応しようとしないのか。

「私一人では」「私には力がない」ともいう。それは、おじちゃんとして、逃げじゃないかなーと思う。
自らの「解脱」まして信徒に対しても偽りを用いた教祖の「最終解脱」を信じ、現世を過ごすことのどこに利他心があるのか。

まして「アメリカ」をひとくくりに考えたり、こじつけの予言解釈につきあうなんて、辟易する。

多くの若者には、ハルマゲドン願望があろう。信者は尊師の復活を夢見、ハルマゲドンを期待する。
それは単なるタナトスという煩悩じゃなーいかな。


8−オウム真理教は薬物宗教だった。

ー1997年9月22日カナリヤの詩第27号より

94年5月ころ始まったキリストのイニシエーション以降は、文字どおり薬浸け。
麻原さんは過去、LSDなどの薬物を使う宗教や体験は偽者だと、説法で言っていた。
オウム真理教の正当性を強調したかったのだろう。
94年9月キリストのイニシエーションの内容を知った時(弁護団では「オムツのイニシエーション」と名づけた)
行き着くところまで行き着いたと感じた。

本号では、薬物使用の実態を、証拠に基づく冒頭陳述から紹介した。

111.881グラムのLSD、覚醒剤159.156グラム、メスカリン硫酸塩3000.939グラムが発見され、証拠になっている。

出家者のまず全員が投与されたLSDの作用を医学大辞典から報告する。
なお、オウムとは関係がなさそうですが、LSDのうえでの絵が紹介されてますので、リンクしておきます。

http://www.tokyo.xaxon-net.or.jp/~yuugeki/lsd.htm

「生理的作用ー一般に瞳孔散大や紅彩のふるえが起こるが、クロルプロマジンやモルヒネなどで抑制され、中枢性の交感神経興奮作用と解される。
立毛、頻脈、血圧上昇、ふるえ、体温上昇、流涎もよくみられ、悪心、嘔吐、唾液分泌促進、運動不穏、反射亢進を起こす。また非特異性ストレス反応を生じ、
白血球増加、好エオジン細胞現象なども見られる。脳血流や脳の酸素、糖の消費量は変化しない。脳波は覚醒波を示し、α波が消失するが、
これは中枢網様体フ賦活系に作用すると考えられる。睡眠中に夢が増加する。知覚刺激に対する反応時間は延長し、閾値も上昇して鎮痛作用もみられる。

心理学的作用ー精神活動に及ぼす影響は、用量、個人の性格、投与時の状況により異なる。もっとも著明な作用は知覚の変化で色彩に富んだ幻視が特徴で、
残像は延長する。時間、空間の知覚も障害される。錯視も著明であるが、幻聴はまれである。触覚、味覚、嗅覚は視覚の変化ほど著しくない。
異常感覚を体験したり、非現実的なムードに陥る。情動面での変化は陶酔感、陽気な気分から逆に不安、抑鬱、激しい恐怖までいろいろで不安定となる。」

実は、「違法薬物かもしれないけれどいいや」と思って投与されれば、麻薬および向精神薬取締法違反です。
とても立件しきれないので、処罰されなかっただけです。

薬まで使って体験をさせたオウム真理教に、どんな正当性がありますか。
麻原さんを「信じていたい」現役信者の方は、どう考えていますか。どう感じますか。


7−仔山羊の歌

ー1997年6月25日カナリヤの詩第24号から

「愛と愛着は違う」と言っても、子どもは可愛いものだ。「親孝行は3歳までで終了する」なんていう言葉があるが、可愛さは忘れないようにしておこう。
子に執着したくはないけれど、愛着心をもつ。

「愛と愛着は違う」のは、そのとおりと思う。麻原さんは「理解のない親とは縁を切れ、自分で解脱してから救え」という教えをした
(とかいいながら「お金はもってこい」とか、果ては「みぐるみはぐぞ、みぐるみはぐぞ」まで言っていたー矛盾)。

たぶん本来の意味は、「自らの親、子どもに対するのと同じくらいに衆生を愛せよ」ということだと思う。

89年11月から95年9月までも、失踪当時1歳2か月だった龍彦君だけでも何とかならないかと、一縷の望みを持っていた。
でも、もう帰らない。現役信徒の方へ。貴方はその責任をどうとるのか。

龍ぼう
おばあちゃんがお歌をうたってあげるね
トンボのめがねは水色メガネ
青い空をみてたから
みてたから

 

もう一つね
メェーメェー森の仔山羊森の仔山羊
仔山羊走れば小石があたる
あたりゃあんよがあーいたい
そこで仔山羊はメェーと鳴く

 

龍ぼう元気で早く帰っておいで
おばあちゃんがだっこして
また、何回でも何回でも
君の大好きなこの歌
歌ってあげるから

6−オウムの現況

1998年12月4日カナリヤの詩第43号から

1999年を前に、任意集団オウム真理教の動きがめだってきている。
資金の獲得や試行錯誤の活動をしてきたものが、めだつ形で現れてきたという感じです。

まずはビラ配り。バクティーも今は盛んで、人数が少ないだけ一所懸命やっている。やればやるだけ自らの正当性を主張したくなるというもの。
勧誘はあまり成功していない。破戒願望ータナトスーの実現という意味でメジャーになり、それなりに若い人が入るかと思われたが、成功する比率は落ちている感じ。「死んだ後の保険かけないでいいの」という殺し文句があるが、保険料が高すぎると判断できる人が多い。

現役の中には、矛盾もあり事件も認めるが、私は私として賭けてみたいとの通信をくれた人もいる。が、多くは自らの正当性を承認してほしいようで、
さまざまに活動している。もっとも、建前の上でさえ、「衆生を救う」とはあまりに離れ、社会への嫌悪感と危機意識、陰謀論をあおるばかり、

「完全解脱」という新在家信徒のロックグループが、この秋、二度にわたってオウムの歌をロック調でやった。アストラルコンサートとかも先月あった。
あー、マイクロバスを改造したカラオケボックスも、全国の支部を回っている。

日本テレビで、ボーカルのーハンドルネイム☆ひめ☆さんー人が「尊師にいわれれば私もやるかも」と言ってしまった。
破防法に反対していたうちの一部の人が、そんなこと言うなと非難した。「言わざるにしろ」という人達がいるのは困ったもの。

アッサージ正悟師?が力を増したのか、数日または数か月以内に奈良で大地震が起こるとか、北海道、九州が水没するとか予言。
秘密にしているが、そんなテレビ説法を始めれば、話は伝わってくる。
ああ、新実被告の今年春の陳述からでてきた話かもしれなないが、98年もハルマゲドンがないままに終わりそう。
様々な事件を元に危機意識をあおるが、1963年だったかキューバ危機に比べれば、どうっていうことない。
北朝鮮情勢には注目する必要があるけれど、私としてこの冬から来夏までは危機を脱したとみる。どうかなー。

オウムのホームページでは、地下鉄サリン事件について矛盾があるなどという。これは注目すべきこと。
麻原さんは自分の関与こそ否定したが、事件は認めているのだから。
とはいえ、麻原さんの97年4月の認否が゛、そもそもホームページに出していない。しょうもな。
いよいよ、理想型の「麻原尊師」を戴く形になるか。来年末からは上祐ワールドに変化することになろうが、どこまで続くか。

オウム信者の個人のホームページは、5個ぐらい。信者であること隠していることが多いが、見え見え。
オウマーからは、ヤユされている。本部と称する所から、オウマーの掲示板には投稿するなと指示が出る。
ナサケナイ。などつれづれに報告しました。


5−畏れていたこと

(1998年12月4日「カナリヤの詩」第44号より)

死刑判決がでてしまった。マハーアングリマーラこと、岡崎一明被告(佐伯)。1989年初めの田口君殺人と、坂本弁護士一家殺人事件。

果たしてそれでいいのか、と思う。マインド・コントロールは、岡崎被告についても、認められる。
彼の生育歴をみれば、誰かグルに従いたい土壌があったことも、その後の行動もそれなりに理解できる。

窓口の私は、強硬な死刑存置論者である。
日弁連が死刑の執行停止を主張しているのも心よくなく思っている。少数意見なので仕方がないが。
悩むのは、死刑執行人の苦悩と、えん罪の可能性。死刑事件での再審無罪事件が四つもある日本なのだから、真にえん罪を防ぐ手を確保しなければならない。
死刑執行人の苦悩は、強烈なものと思われる。私は、死刑求刑をした検察官、死刑判決をした裁判官の立ち会い、もちろん法務大臣の立ち会いを必要とする法制
にすべきものと思う。国家の象徴的機能であり、執行人とともに苦しみと悲しさを分かち合うべきだから。

しかし、死刑制度自体を廃止することは間違っていると思っている。廃止論者によく聞いてみると、人間は神になるべきとの発想の人が多いが、
それ自体が傲慢だと思う。人間は、底しれず素晴らしい存在であり、同時に底しれずおぞましい存在だと思う。
そんな本質を直視する外ないのではないかと考える。けじめは、つけてもらわなければならない。

しかし、それと松本智津夫被告以外の者を死刑にしていいかどうか、すべきかどうかは別である。
教祖が会わなければ、こんな事件を起こすはずもなかった人たち。マインド・コントロールのテクニックを使われ、自らの転生すべてを握っていると、
巧妙に信じさせられた。その絶対者に指示された行為。
誰でもはまり得ることを、裁判官は理解したか。けじめは、松本智津夫一人でいいのではないか。

私は、坂本堤、龍彦君、都子さん、そして多くの殺された人が生き返るなら、被告人全員の死刑を求める。否、現役の信者全員を殺すことにより
坂本が生き返るならば、ためらわずに全員を殺す。たとえ、一千人を超えても。

しかし、そんな条件関係はない。このままいけば、死刑は、五人を優に超える。

岡崎被告が、死刑になっても、誰も万歳はしない。判決当日、直後は何も言えず、求められ、こんなコメントを出した。

「岡崎被告をほんの少しもゆるさないけれど、死刑にはしないで欲しかった。坂本が救いたかったのは、すべての信者だったと思うから」

岡崎被告は上訴せず、弁護人を上訴した。


4−現世というもの。

(1998年12月4日カナリヤの詩第42号より )

「あーいやじゃいやじゃ」と思うことが、結構ある。思春期に強まる感情だとかいわれるが、そうでもないと思う。
小学生時からそんな感覚を、しばしば経験した人もいようし、年をとってからその極端ー自殺ーに走る人は日本が一番高い。
酒やタバコも、極限の修行も、緩慢なるじさつと言うべきものかもしれない。

いつの頃からか、「いやいや、日常生活を愛そう」「日常生活を愛せるはず」と、ただちに反語を言うようになった。
反抗ばかりになった子どもを見る時、1人自動車を運転しながら歌でも聞く時、食器を洗う時、疲れたが布団に入れた時、この瞬間を愛そうという感覚。

自分が病気に苦しんだり、障害を得てしまったり、子どもが亡くなった時、生活に余裕がないとき、失恋や進学、就職がうまく行かない時、
日常の起居や動作を愛することは、しにくい。自らが死に行くとき、その瞬間を愛する目ことは不可能か。
直接の体験では、病気で全身麻酔をしたあの瞬間は、愛することが出来たけれど。

8月に、仕事で一人の人を見取った。相続人がいないカトリック信者の方で、7年前からいろいろ相談を受けてきた。
リビングウィル(尊厳死宣言)をまっとうするために、自らホスピス病棟を見つけ、痛みを止めるだけの治療とした。
神父さんの司式のもと臨終のミサを受け、聖歌をうたい、聖体を拝受していた。約束どおり献眼し、静かな温かい葬儀を行い、納骨もできた。
資産は各所に寄付できた。
意識のある間、いろいろな話を聞かせてもらえた。既に亡くなった家族や友人のこと、庭の木のこと、信仰のこと、戦争の時のこと、オウム事件で感じたこと。
麻原さんのこと。「ぜいたくな話をする人たちよね」なんて言っていた。

この人は、文字どおり日常生活を愛してきたんだ、と感じた。そして死に行く自分の今も、愛しているんだ。
こういうのが「解脱」って言うんじゃないかなーと感じた。

「いやじゃいやじゃ」と言おうが言うまいが、日常生活は過ぎていき、明日または何十年か以内には死ぬ。これ真理。

いったい衆生を苦しめて、衆生を悲しませて、何に執着しているのか。現役の方。


3−無責任な人たち

(1998年4月11日「カナリヤの詩」第35号より)

映画「A」が上映され始めた。率直に言えば「殺意を覚えた」。
今年の初め頃だったか、家族の会の代表の方に見てもらいたい、意見をほしいという誘いがあり、滝本も同道してみて試写を見た。

@長かった、

A警察とマスメディアの問題は描かれていた。

Bオウムはまったく描かれていなかった。

C広報副部長を中心にしていたが、結局、底が浅かった。単に故郷を写しただけで、分かるものでもない。

Dいかにオウムが「他に苦しみを与えたか」は、描かれていなかった。

上記を述べた。嫌嫌ながらでも聞くことはし、反論はなかった。反論するのが、馬鹿らしいとのことではなく、反論できないという風情だった。上映を中止してもらいたいと要請した。

@被害者の痛みをなんら考えていない。

A効果としてオウムへの支援になることは間違いない。

B彼の5年後、10年後を考えていない。彼は発言を重ねれば、重ねるほど、現世に戻りにくくなる。

Cマインド・コントロールされた本人の承諾だけで上映してよいものではない。

D不当逮捕だと主張している信者は、執行猶予でおわった事件の被害者に何も謝罪していない、のだと述べた。

でも、この人たちは上映を止めないだろうと思った。「無責任な人たち」は、大勢いる。オウムの無責任を助長するだけだ。
最後に、「今まで、どんな映画を撮ったのですか」と聞いた。少し誇らしげに「ゆきゆきて神軍」と答えた。
アーナルホドネと思った。高校生の頃だったか、見ていた。太平洋戦争中の、上官のやり方の残虐さ醜さから、戦後その上官を殺しにいく映画だった。
これは実際にあったことで、そして殺されたのは、その上官の息子だったと思う。(昨年その元受刑囚が釈放されて一部で話題になった)それを淡々ととっていた。
若かった自分も、勝手な「思い込み映画」だと思った。

じっくり考えてもらいたく、「カナリヤの詩」を送った。でも上映を始めた。実費だけで数百万かかったという。オウムに経済的な利益がないとしても、同罪。

 

口直しに、ワオーとおもった本を紹介しておきます。

@ トンデモ超常現象99の真相(と学会著、洋泉社、1500円)−これは読みやすい。とくに「この本自体を疑って」という後書きがいい。

A洗脳の楽園(米本和広、洋泉社、2200)−ヤマギシズムの実態。オウムとヤマギシズムの類似性に驚く、「執着心をとる」と「無我執」、よく似ている。
外部と内部の情報が閉ざされ、かつ関心がないか。ソックリではないか。

B予言がはずれるとき(L. フェスティンガー外、水野博介訳、けい草書房)−アメリカのある集団のことを「観察」した恐ろしくも具体的な記述。
現役信者がなぜ聞く耳をもたない、改めて認識される。迷っている人に読んで欲しいように思う。社会心理学的には「認知的不協和の理論」というのだという。

ではまた。


2−社会から

 地下鉄サリン事件は、オウム真理教の象微になった。この事件により、世界はオウム真理教というものを知った。
私は、当初、この事件が「象徴」になってしまうのは嫌だった。事件にかかわったのは信徒のごく一部だからである。
松本サリン事件もあるし、1989年初めの田口君事件以降、多くの人が亡くなった。
そして「事件」に焦点を当てるとき、信徒の一人一人も、被害者の一人一人も姿をなくしてしまうからである。

 しかし、今、一人一人の顔が見えてきた。被告人、証人は泣き、声を上げ、あるいは面を被ったままでいる。
教祖も「保釈はどうなったか」「私は殺されようとしている」と彼なりの顔を見せる。

 先日、現役に冊子「カナリヤの詩」を渡しながら「麻原さん、深いお考えがあるかな、もうそう思えないけど一」と言った。
「私には分かりません」と言いながらも「カルマ交換」を厭がらなかった。

被害者の方々の顔も見えてきた。「手記集」からば遠慮がちながら一人一人の被害者・家族の顔が見える。
アンダーグラウンド(講談社、村上春樹著)からは生の声が聞こえてくる。
地下鉄サリンは「無差別殺人」として、オウム真理教の教義に則ったものである。
表面的な教義である「十戒」ではなく、松本智津夫の発想と感情そのもの一という教義一が具現したものだからである。

地下鉄サリン事件を、オウム真理教の象徴に据えるべきは、理の当然であった。現役信徒は、知らぬフリはできない。
知ることを畏れる者は「真理」をつかもうとする者ではない。貴方にも、現世での責任をとってもらわねばならない。

現役信徒は、遺族の方の前で言ってみれぱ良い、「ご家族が尊師によって殺されて良かったですね」と。

それを言って、しかし一方で心の底にやましさ、悲しさを感じるならば、貴方にとっても、オウムは真理ではない。


1−はじめに

1995年3月22日、ようやくオウム真理教に強制捜査が入り、さまざまな事件とおぞましく悲しい実態が明らかになり始めてきた。
だが、最後まで残るだろう課題は、一人ひとりの信徒が、松本智津夫の桎梏から離れられるか、立ち直れるかにあった。
オウム真理教は、数々の極悪非道の行為をした。重大な犯罪までしたのは出家者の3〜4%、全信徒で言えぱ0.5%というごく一部だったが、
信徒・元信徒への視線は冷たかった。他人事だと考える人も多い。

そんな時、元出家者が集まり「カナリヤの会」ができた。初めの数回はポアされる危険があるので、警察に守られながら集まった。
参加すると大抵は知り合いがいる。コンテナで一緒だった人、イニシェーションで手錠をした人とされた人、「尊師」の矛盾を見てしまった人。
今の気持や神秘体験とは? なんて話しながら、「現世」の人は理解してくれるだろうか、残る法友だった人に早く戻ってきで欲しいと考えてきた。

この『カナリヤの詩(うた)』は、現役信徒・元信徒そして社会の人に向けた情報の提供と、一人ひとりの心、それ自体だった。
この「豊かな社会」に現われた破壊的カルト集団「オウム真埋教」の実態、そこから戻る人達の苦渋に満ちた生の記録として資料的な価値も大きいと思われる。

麻原彰晃こと松本智津夫は、今カルパ(宇宙の創造・椎持・破壊の時間)最後の最終解脱者だと言い、自分に遇えたことば「奇跡」だという。
最終解脱者の証明はされていないが、「奇跡」はこの現世にしかも人間としてこの地球に生まれたこと自体にある。
宇宙のひとカケラの自分、でもここまで変遷した。精子と卵子の数からする奇跡、それなりに食べ思考できる現在の環境。それを知っている自分、
言いかえれば自分の中に宇宙がある。
これ以上の「奇跡」があるだろうか。

社会はまだまだ矛盾だらけだし、厭なことも多い。自分も本日、または 100年もしないうちに死ぬ。地球もやがて太陽に呑みこまれる。
宇宙にも終わりが来るし、また始まるだろう。すべてが幻影だと言いたくもなる。
でも、食事をし排泄をしなければそのまま死ぬことも確かである。
だからこそ、奇跡のこの命を大切にしようよ、人の命も、衆生も、地球も、宇宙も大切にしようよ、そんな気持で一人またひとり旅立っている。

オウム真理教は、松本智津夫の逮捕の後、多くの方々の努力で理想的な崩壊の仕方をしている。それでも何人かが自殺してしまった。
破壊活動防止法の適用は有害無益の混乱を起こす。
たとえ時間がかかっても、全員が「現世」に戻り、自分の声で自分の詩を歌いはじめますように。これまでのご支援に深く感謝致します。
今後とも見守ってやって下さい。     

1997年1月

カ ナ リ ヤ の 会  窓口  滝本太郎  


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