裁判傍聴記

第三回、第四回破防法弁明手続きに関して  

 尊師はいかにも楽しそうに弁明をしていたそうですね。
久しぶりに自分ペースで話が進められるのですから、本当に楽しかったのでし
ょう。
 私の第一印象は、尊師は破防法を望んでいる、ということです。
 教団に破防法がかかれば、彼は歴史に名を残す人物になれる。選挙での見事
なまでの惨敗(全く相手にされなかった、という方が正確でしょうか)に彼の
プライドは痛く傷ついたはずです。しかし、破防法が適用になれば100年後、
あの選挙すら「弾圧によるものだったのだ」と、解釈されるのかも知れない。
彼が英雄になるには、その可能性にかけるしかありません。よもや彼も生きて
出られるとは思っていないでしょうし、破防法が適用にされようがされまいが、
どのみち彼自身には何の変わりも無いのですから、彼にしてみればゲームを楽
しんでいるようなものでしょう。獄中説法と併せて考えても、破防法を待って
いると考えたほうが自然でしょう。
 そもそも、彼が「破壊活動を行うことが決してない」といくらいったところ
で誰が信用するでしょうか。自分の責任逃れに終始し、開き直って自分を信じ
てついてきた弟子達に罪を着せるような人の言葉を……。
 仮にも1万人を率いてきた教団の教祖です。明らかに、彼は自分の言葉が信
用されないことを見越して言っているのです。
 また尊師は、タントラ・ヴァジラヤーナについて、あくまで「神の法則」で
あり、「他人に理解しろというのは無理」と述べました。私が久しぶりに聞く
事の出来た真理です。まさしくタントラ・ヴァジラヤーナは大乗にようやく入
った正大師ですら行えない事なのです。つまり、教団でタントラ・ヴァジラヤ
ーナを実践出来るのは、「最終解脱者」たる尊師ただ一人であり、尊師ただ一
人が行っていたならば、これ程多くの人が苦しむことはなかったのです。 
この言葉を犯罪に手を染めざるを得なかった人々はどのように聞くのでしょう
か。
 現役信者は、尊師が何を言おうと肯定的に受け止めるでしょうが、それにし
てもこの言葉は多少の人々には影響を与えるのではないでしょうか。
 一つ気になったのは、「これまで通り、教団の指示、通達に従って欲しい」
という言葉です。通達が弁明で読み上げられたもののみだとは到底思えません
。「これまで通り」とは「今のまま頑張れ」という意味ではないのでしょうか。
 それにしても、と嘆息してしまうのは代理人のことです。
 破防法を防ごうという意気込みは感じられるのですが、ある面では、教団の
言いなりになっているようにも見受けられます。せめて現役信者への身の振り
方の具体的な指示、これからの教団がどのような社会的位置を占めるべきか、
精神論ではなく具体的に聞くことをするべきだったのではないでしょうか。
不満が残ります。もっとも尊師は「具体的に」は答えないでしょうけれど……。
 一方公安調査庁の証拠にも随分無理があるようです。
 まず、政治目的について古い説法ばかりを証拠に挙げていますが、落選後、
彼の方向性が変わっていることはその後の説法を見れば明らかなことです。
何よりも彼の選挙演説自体が政治目的と呼ぶにはお粗末すぎました。
それはあの得票数からしても、有識者の人々がそのことを最も理解していたと
いうことではないのでしょうか。
 証拠としての元信者の供述の疑わしさは教団側も指摘している通りです。
 まして問題を感じるのは、教団の現況として、去年の十一月の信者数を挙げ
ていることです。去年の十一月は教団内部でも魔の月と言われ、脱会者が続出
した月です。十一月初頭としても、サマナ800人、在家7500人以上とい
うのは鯖を読むにも程があると言いたくなる数字ですが、このように事態が進
展していく中で、半年も前のものを「現在」の証拠として出してくるなど噴飯
もの。あまりにも意図が見え透きすぎです。
 証拠として挙げられたウッタマー正悟師の言葉にもある通り、オウム真理教
は「麻原尊師を抜きにしては宗教上の意味は無い」のです。つまり、マイトレ
ーヤ正大師が釈放されようが、マハー・ケイマ正大師が出てこようが、尊師を
バックとしない言葉には何の力もないのです。
 大卒の人間が何人いようが、このウッタマー正悟師の言葉こそ、残されたオ
ウム真理教の無力を物語るものであると私は思っています。 
                                         (20代、女性元サマナ)

   麻原彰晃こと松本智津夫(以下「尊師」と、あくまで鉤かっこ付きで呼ぶ)
とオウム真理教を巡る諸問題に対して、これまで膨大な時間を割いて考えてき
た。まさに「執着は苦なり」を、どうしようもなく感じつつも、一サマナだっ
た者として、脱会した後も誠実に、この問題を考えざるを得なかった。
「尊師」は何を考えていたのか?
「尊師」は何を目的に一連の事件を引き起こしてしまったのか?
 初公判や破防法の弁明を聞く限りでは、それは結局、不透明なままだった。 
「尊師」を批判することは容易い。されど、「尊師」を正確に理解することは容
易いことではない。極悪非道の刑事被告人として、彼を批判することは容易い。
けれども、僕は彼ほど聖と俗が奇妙に入り混じった存在を知らない。それは、
大ペテン師、希代の詐欺師として、片付けられてしまう類いものでは、結果的に
なくなってしまったと思う。
 尊師に対する信と帰依を今も培い続けるサマナ・信徒には事件の真相よりも
「深層」を見ようとする嫌いがあるだろう。それは、自己保全の心の働き、
ないしは、尊師擁護の心の働きに基づくものが多く、非常に問題のある恣意的
な見方が多いだろう。結局、その「深層」の部分は、「尊師」が語ろうとしな
い以上、「尊師」という存在には恣意的な読みをいかようにも可能とする、
不可解な部分が残ってしまう。
「尊師」にはそれを自覚的にやっているのではないかという薄気味悪さを感じ
る。
                                        (20代、男性元サマナ)