■公判傍聴記

 はじめまして。私は元信徒でもサマナでもありませんが、オウム裁判を傍聴していることなどから、元信者さんと知り合うこととなり、そのような経緯からここに傍聴の様子を掲載することとなりました。  どうぞよろしくお願いいたします。

公判傍聴1

 昨年12月9日、井上嘉浩被告の公判に、諜報省「第一次官」であった平田悟被告が証人として出廷し、假谷さん事件について尋問が行われた。

●事件と教義

 検察官「今回の事件は教義と関係しているか」  証人「はい。オウムにはヴァジラヤーナの教えがありました。ヴァジラヤーナは、グルとの合一化をいちばん大切にしています。グルの意志を100 %実践する、つまり、麻原のロボットになるという教えです。それで私たちは麻原の指示はやらざるを得ない状況でした」

 弁護人「修行の目的というのは、あなた自身が解脱するというのも入っていますね」  証人「はい。麻原の言う通りに実践していれば、他の人たちも救済されると確信していたのでやりました」  弁護人「非合法という認識はありました?」  証人「はじめは、ありました」  弁護人「あってもやることが尊師の意志にかなうし救済になると?」  証人「はい」  弁護人「当時、疑問は?」  証人「疑問はありませんでした。毒ガス攻撃を実際受けていましたから……。そう信じていましたから。井上君がやられたり、仲間がやられたりしていたので、絶対に(!)信じていました。

●CHS(諜報省)とは

 弁護人「CHSの人たちの毎日は非常に忙しい?」  証人「まさにそうです」  弁護人「複数のワークを同時並行的にやるということは?」  証人「私の場合もそうだし、井上君は私の1.5 倍、麻原に指示されて達成するようやっていました」  弁護人「徹夜が続くというのは?」  証人「睡眠時間が1、2時間というのはザラでした」  そのほか、 「井上君は愛師長なんですね。他の省庁は大臣はほとんど正悟師で、そうでなくても菩師長が大臣なんですね。だからいつもCHSは後ろのほうに並ばされていました」 「下向したした人を井上君が説得して(CHS)に人材を確保していましたが、確保しても、科学技術省や法皇官房に引き抜かれていくので、CHSはいつも人材不足に悩んでいました」

●松本智津夫被告と井上被告

 証人「井上君は麻原にとっては便利屋でしたから、何でもやらされるんです。私もそれでとばっちりを受けている」  弁護人「麻原は井上君を怒っていた?」  証人「いつも怒られていました」  弁護人「井上君が不満を言っていたことは?」  証人「しょっちゅう言っていました。(今回の事件についても)東信徒庁の仕事なのに何で持ってくるんだ、と言っていました」  弁護人「あなたは何と言いました?」  証人「麻原にペコペコしているからそんなことになるんだ」  弁護人「塩をかけられたナメクジみたいだと井上君は言っていた?」  証人「しょっちゅう、言っていました。井上君が『今日はナメクジになったよ』と言いながら寝袋の中に縮こまるように寝ていたので、あー今日もまたしぼられたんだな、と思っていました」

●逮捕、拘留理由開示手続き、脱会

 弁護人「逮捕されたのはいつですか?」  証人「平成7(1995)年10月19日でした」  弁護人「平成7年10月に井上君の拘留理由開示手続きがあったのは知っている?」  証人「(10月)10日ぐらいだったと思います。逃走時、新聞も取っていたし、テレビも見ていたので記憶にあります」  弁護人「どういうふうに思った?」  証人「出頭しようかな、とは思いました」  弁護人「逮捕後、何か影響は?」  証人「最初は黙秘していましたが、過去を清算するように、ということだったので、過去を清算しようかなと。最終的には全部お話しすることにしました」  弁護人「拘留理由開示のどういうところが心を打った?」  証人「内容ではなくて、井上君が、自分が指示してやったことだから君たちに責任はない、という言い方をしていたので、それを聞いて、ああ自分の信頼していた上司は本当に真剣についていった甲斐はあったかな、と思いました」

 検察官「脱会しましたね?」  証人「はい。決意したのは富田さんのリンチ殺人の状況を聞いてからです」  検察官「その事件をいつ知った?」  証人「平成8(1996)年、逮捕されてから……1月です。麻原がブッダだと思っていたから、慈悲の心を持っていると思っていました。弟子は麻原を信じていて、その弟子をリンチ殺人で殺すとしたら、それが果たしてブッダなのだろうかと思いました」

 平田証人は坊主頭に紺のスーツ上下という恰好で出廷し、ハキハキと証言していました。  平田証人が、井上被告と最初に会ったのは「昭和61(1986)年、夏ごろにあった集中セミナー」で、「一緒に修行したり、お話したりするお友達関係にあ」ったという古い知り合いらしく、二人には信頼関係があるんだな、ということがこの公判から窺えました。  松本智津夫被告も、「自分で指示してやったことだから弟子たちには責任がない」と言えば、法廷でかつての弟子たちから今ほどの批判を受けることはないだろうに、と考えたりしました。

 これからあまり自分の意見を入れずに、公判でどういったやり取りがあったか、主に心の部分とその背景についてお伝えできれば、と考えております。 


公判傍聴2

 昨年(1996年)7月2日に行われた元「大蔵省大臣」石井久子被告(犯人隠避等)と、9月4日に行われたI被告(武器等製造法違反)の公判に、元「科学技術省次官」廣瀬健一被告が証人として出廷しました。それぞれの公判での証言を総合し、整理してみました。

●ヴァジラヤーナとボツリヌス菌

 ヴァジラヤーナの教義について初めて聞いたのは平成元(1989)年4月初めでした。だいたい50人以上の信者がいる中で「これから500 人の商人を殺そうとしている盗賊を殺してよい」という内容を松本(麻原こと松本智津夫被告)が話しました。松本は、救済に際しては強い心構えでいなければいけないということを訴えたかったのだと思います。ここでは、無差別殺人を容認していたのではないと思います。  このころ、上九においてボツリヌス菌を大量に培養してそれを気球を遣い、偏西風に乗せて世界中に撒くというワークをしていました。村井の態度から危険なものと思っていましたし、滝沢が気球を作っていたと知っていましたし、上祐が風の動きを検討していると言っていましたが、無差別殺人を容認する考え方を聞くまではボツリヌス菌だということはわかりませんでした。  無差別殺人を容認する考え方を聞いたのは、平成2(1990)年4月10日です。そこには25人くらいが集められ、松本は「今から話すことはメモを取らないでくれ、録音も他言も無用だ」と言い、私に対して「今、上九で作っているもので何をするかわかるか」と聞いてきました。私は、「上九で作っているものを気球で世界中にばらまくのではないですか。ばらまかれた菌で生命が危機に瀕するのではないですか。今度の石垣島セミナーでは抗体のイニシエーションが与えられるのではないですか」と言いました。松本は、「そうか、わかっていたのか。さすがサンジャヤ(廣瀬証人のホーリーネーム)」と言い、また、「表面上のことはわかっているようだな。内面のことはわかるか」と聞くので、「現代人は悪業を積んでいるので、カルマ落としをするのではないですか」と答えました。松本はそれには何も答えず、「今回の衆院選は、マハーヤーナの救済における私のテスト期間であった。しかし、マハーヤーナでは救済できないとわかった。これからはヴァジラヤーナでいくぞ」と言いました。  ボツリヌス菌のワークについては「精神的・肉体的にきついので、この25名で行う」と言いました。これを聞いて、非常に恐ろしいという気持ちになりました。しかし、この気持ちは自分の煩悩であり、救済をするためには(仕方ないと)あまり意識しないようにしていました。  石垣島セミナー(の目的)は、ボツリヌス菌を偏西風に乗せてばらまくので、日本に飛来するかもしれず、偏西風の通らない石垣島に避難するということでした。しかし、遠藤が製造に失敗し、プラントの設計が悪く、雑菌が繁殖する構造だったため、純粋なものが作れませんでした。  どうして武装化していったかというのは、選挙に負けて、通常の布教方法では教団の勢力が拡大することはないとわかり、武力によって拡大させるんだなと考えました。  その後も、平成2(1990)年10月ぐらいから、ホスゲンという名の毒ガスのプラントや爆薬用の硝酸プラントを作ったり、亀戸異臭事件に使われた炭疽菌の噴霧装置のノズルの製作などをしました。

●ヴァジラヤーナと小銃

 小銃は松本の唱えるヴァジラヤーナの救済のために作っていると思っていました。ヴァジラヤーナの救済とは、通常の教えによるものでは救済できない状態である世の中の人々を、武力による力で権力を握ることにより救済する方法と理解していました。  これには、人を殺害することも含まれていて、そのことは「ポア」と言われていました。「ポア」とは、本来、相手の魂を引き上げるということです。  救済というのは、すべての魂を輪廻転生から来る苦しみから解脱させ、絶対自由、絶対幸福、絶対歓喜と呼ばれる状態にすることと理解していました。  殺された人は、最終解脱者である松本がその人の悪業を背負うため、来世、高い世界に転生し、真理の教えとの結びつきができ、救済されるとされ、殺されなかったら、現世は煩悩的なデータにあふれており、その中で生活せざるを得ない人々は三悪趣という苦界に転生するとされていました。  殺す側は、自分に不利なことをして、他の人の幸せを願うことにより、最も重要な心の成熟が得られると説かれていました。

●ソルジャーと射撃訓練

 平成6(1994)年3月から7月までの間、小銃製造のミーティングの中で、松本が「ソルジャーを1万人つくる」と言っていました。私が「ソルジャーって何ですか」と聞くと、松本は「兵士だ」と言っていました。  (小銃について)とりあえず1000丁ということは、松本が言っていたと思います。小銃の銃口を向けるのは警察や自衛隊、その他の軍隊など武力を持った勢力と思っていました。  松本としては、ハルマゲドンを自分で起こしたいんじゃないか、オウムの王国を創ろうとしていたんじゃないかと思います。  平成6(1994)年9月下旬にロシアへ行きました。いきさつは、外国に行くのでパスポートを渡してくれと言われて、早川から、射撃訓練を受けると説明を受けました。早川の話ですと、今後の適性を判断するために射撃訓練の成績をちゃんとつけておくように言われました。秘密を保持できる者を1万人つくるのは難しいので、私たちのような違法行為をしている者が銃を持つのかなと思いました。

●過激な説法

 今まで最も過激な説法は、平成6(1994)年2月下旬に中国で行われたものです。中国へは研修のため科学技術省のメンバーなど50人くらいが行きました。ヴァジラヤーナに向けて、サマナを強化するという意図があったと思います。  説法では「1997年に私は日本の王になる。2003年には世界の大部分がオウムの勢力になる。オウムに敵対する者はできるだけ早く殺したほうがいい」と言っていました。

 廣瀬証人は1995年8月に脱会し、今では法廷で積極的に真相を語っています。 


公判傍聴3

 3月13日、麻原彰晃こと松本智津夫被告の妻である松本知子被告の公判が開かれ、弁護側の証人として教団「法皇内庁長官」だった中川智正被告が、教団内での知子被告の生活やそれに伴う知子被告の精神状態などについて証言しました。

●中川証人と教祖一家との関係

 中川証人「1990年夏ごろは、日常的には医者としての活動が多かったです。機会があるときには麻原尊師やその家族の健康状態のチェックなどをしていました。94年初めごろは、基本的には医者としての活動を継続しながら、尊師や家族の身の回りの細かいこと、買い物とか、知子さんから頼まれることがありました。他の家族の方にも尊師にも、「これをやってくれ」とか。男手がいるときには私が呼ばれたりしていました。しばしば侍医とか主治医とか聞かれて、そのように言っていましたが、実際のところは、かかりつけの医者と言ったほうが正しいと思います」

●知子被告の精神状態 1

 弁護人「知子さんの診察はしていますか?」  中川証人「まあ……」  弁護人「医師としての守秘義務があると思いますが、本人の承諾があれば証言していただけますか?」

〈弁護人が知子被告に何か話しかけ、知子被告は承諾したように見えました。そして、弁護人が再度尋問を始めると〉

 中川証人「ちょっと、知子さんに関しては、感情を害するということではなく、非常にデリケートな人で、精神的にかなり不具合を生じる可能性があるのではと思うのですが……それを危惧しておるんですが、正直申し上げて……」  と、中川証人は知子被告に配慮してか、証言することを非常にためらっていました。  知子被告はこのとき、泣いているところを中川証人に見せまいとしたのか、顔を隠していました。  その後、弁護人が尋問を進めると中川証人も証言を始めました。

 弁護人「(証人が)入信したころ、知子さんは何をしていましたか?」  証人「88年5月ごろだと思うが、富士山総本部道場で、水中エアタイトサマディという行事があって、一信徒として見に行きました。そのとき知子さんが総本部道場に来ていて、出家した人から『あの人が奥さんなんだよ』と教えてもらいました。当時、教団の信者は白いサテン地の(サマナ服)を着ていましたが、知子さんは普通の服を着ていました。ピンクの長靴を履いて、赤い傘を持っていて、教団の修行者という感じではありませんでした。当時大阪支部長だったOさんに『松本知子さんに会いましたよ。優しそうな人でした』と言うと、『でも、あの人はね、尊師の修行に反対しているんだよ』と」  弁護人「ただその後、知子は修行に参加しているよね?」  証人「竹刀で知子さんを叩いたという話はあります」  弁護人「(知子被告に)おかしな言動はあったか?」  証人「はい。私がはっきり覚えていて時期まで特定できるのは、国土法での強制捜査の後で、それが一つの誘因かなと思っているんですけど。90年も押し迫った年末、(知子被告が)離婚したいと言っていると尊師が言っていました。どういう感じで言っていたかというと、私と知子さん、尊師、村井さんもいたかもしれないが、第1サティアン4階でそういう話があり、『マハーマーヤ(当時の知子被告の教団名)が離婚したがっているんだよ』と(松本智津夫被告が)笑いながら言っていました」  弁護人「知子のほうは?」  証人「『何でそんなこと言うんですか、やめてください』と。(その意味は)何で二人だけで話したことを弟子である村井や中川の前で言うのか、という感じだと思います。その後、知子さんの状態が悪くなりました。特に原因がないのに吐いたりとか、顔面の筋肉が動いてしまうチックとか。91年1月ごろ、(知子被告が)部屋に閉じこもって出てこなくなりました。尊師も最初はいつか出てくるだろうと思っていたのが、まったく出てこなくて、一週間か10日ぐらい飲まず食わずで部屋の鍵を内側からかけて出てこない状態でした。ドアを叩いても応答がなく、尊師と私と村井さんがドアを蹴破って中に入りました。中では布団をひいて寝ていました。何かブツブツ意味のわからないことを唱えている状態で、突然空笑いをしたり、ハハハハッと(いう感じで)。こっちとコミュニケーションを取れない状態でした。何も食べていない飲んでいないとわかったので、脈拍と血圧を測りました。血圧も低く、循環不全、心臓が弱っているなということがわかったので、点滴をしました。あのとき、もし部屋に入っていかなければ、脱水症状で亡くなっていたのではないかと思います」  弁護人「知子さんが自分でそうした、と?」  証人「はい。消極的ではありますが、自殺未遂だと」  弁護人「原因は? あなたとしてはどう思っていましたか?」  証人「その時点では尊師との関係に何かあったんだろうと。何らかの急激なストレスがかかったんだろうと思いました」  弁護人「マハーマーヤというホーリーネームが変わったことは?」  証人「その直後、2月ごろ、ヤソーダラーに変わりました」  弁護人「どういう説明がなされていましたか?」  証人「(私は)直接尊師から聞いたこともありますし、機関誌にも出ていたと思いますが、マハーマーヤというのは釈迦を生んだお母さんで、すぐ死んでしまった人。ヤソーダラーというのは釈迦の出家前の奥さんのことです。そのときに2つの話がありました。1つは、マハーマーヤというホーリーネームでは同じ運命をたどってしまい、このままでは命が短くなる、だから名前を変えなきゃいけないんだよ、と。もう1つは、(元の)ヤソーダラーというのは主人である釈迦、ブッダに対して、夫としての部分が一割、師匠として見る部分が九割あった。しかし、今の知子さんは自分(松本智津夫被告)を九割方夫として見ているので、この状態を直さなければならないんだ、と」  弁護人「妻としてより弟子として見ると?」  証人「そういうことですね」 


公判傍聴4

 前回に引き続き、3月13日に開かれた松本知子被告の公判での中川智正被告の証言です。

●知子被告と夫、家族との関係

 弁護人「名前が変わったころからの麻原の知子に対する態度に変化はあった?」  証人「そのころというのではなく、ずっと前からですが、徐々に厳しくなっていったということはある。知子さんには徐々に圧力をかけていくというか、ストレスをかけていくというか、厳しく接するようになったということですけど」  弁護人「一般のサマナと接するときの違いは?」  証人「一般信徒の前では、やはり立てるというか、プライベートになるとかなりきつく当たられていたのではないでしょうか」  弁護人「あまり知子の言うことを聞かないということ?」  証人「そう……ですね、尊師は人にとって対応を変えるんですね。私がやって褒められることも、知子さんがそれをやったら叱るというか。知子さんはほとんど称賛されないというか、一般信徒の前では(称賛)するけど、近くに行くとよく怒られている」  弁護人「あなたはプライベートを知っているのね?」  証人「はい。いちばんよく知っているのは亡くなった村井さん、家族、遠藤さん、あとちょっと落ちますけど新實さんであるとか」  弁護人「村井はどうして知っているのか?」  証人「村井さんはもう尊師にピッタリくっついている人だったので。物理的にも一緒にいる人だったので」  弁護人「(知子被告の厳しい状況を)一般の人は知らない?」  証人「尊師の奥さんということで、ある種見る目が違うんですよ。説法の中では時には批判もしますが、批判していても見えなかったんじゃないかと思います。いちばんよく覚えているのは92年か93年、知子さんが、子供の予防接種を受けさせたいということで、それを私にどうしてほしいかというと、打ってほしいじゃなくて、そういう提案を尊師にしてほしいと。知子さんが自分じゃ言えないから言ってくれということで、私が言ったら、(松本智津夫被告は)乗り気じゃありませんでしたが、いいということになりました」  弁護人「麻原と子供との関係は?」  証人「いつのことか忘れましたが、通達として、尊師の事もはすべてのサマナの上に置く、ということがありました。家族は、ということじゃなかった。(つまり)知子さんは弟子なんです」  弁護人「そのことで、知子さんが言っていたことは?」  証人「それを尊師が子供に言うもんですから。三女のNちゃんなんかは、あの、他の人もそうですけど、知子さんに対して私より下なんだ、とそういうことを言うわけなんですね。非常にバカにするというか、そういう感じでした」  弁護人「知子さんはどうしていました?」  証人「悔しそうなんですけど、反論できない。悲しそうにしていました。通達以前にもそういう話はあって、私は聞いていました。通達が出たのはかなり遅いんです」

●知子被告の生活

 弁護人「(知子被告が)独房に入れられる、ということはあったのですか?」  証人「よくありました。92年初めごろ、よく入れられて、飲まず食わずで1週間。尊師の口ぶりでは無理をして入れられたんじゃないかなと思います」  弁護人「(以前、知子被告んも公判に出廷し、証言した)井上(嘉浩被告)や杉本(繁郎被告)に聞いたら、知らないと言われたが?」  証人「知子さんの生活というのは独特なんですね。そのへんは申し上げないと理解しづらいのではないかと思う。ほとんど外出しない。部屋からもほとんど出ない」  弁護人「オウムの出版物の編集の仕事をしていたのではないですか?」  証人「ほとんど(部屋に)持ち込みなんです。(他には)育児と瞑想、それ以外に生活ないんです。よく一般の信者で24時間独房に入れられた人いますよね。しかし、話ができますし(教団内に)友達もいるんですよ。ところが知子さんは対等に話せる人が誰もいないんです。買い物にも行かない。ショッピングとかそういうことをすれば気が紛れると思うんですが、そういうこともしない。本も宗教関係しか読まない。外食もしない。部屋から出てこないので、(他の人には)修行しているかどうかわからないんですよ」

●知子被告の精神状態 2

 弁護人「子供の出産について、麻原はどういうふうに言っていたか?」  証人「知子さんとは前生で約束していて、私の子供を産むために生まれてきたんだよと。子供を生むことによって知子さんはカルマを落としているんだと」  弁護人「(知子さんが)教団外で、マンションなどで暮らしたことは?」  証人「あります」  弁護人「教団外で知子さんを暮らさせて、別の女性と行動をともにしていたということは?」  証人「それも私が医者であることから、知っていることだと思うんですよ。医者としての信義があるので答えにくい」  弁護人「91年1月の、それ(消極的な自殺未遂)に続く出来事がありましたね?」  証人「ええ、93年12月だったと思います。尊師に呼ばれまして、第6サティアンへ行くと、知子さんが興奮状態でわめき散らしていて、言っていたことは『忘れさせてほしい』とか、あるいは『離婚してほしい』とか。叫んだりわめいたり、尊師にすがるような感じでした。そのとき尊師から、『人払いをしてくれ』と言われたんですよ。第6サティアンの中から人を全部出して無人にしろということで、他の人を移動させました。どうしてかというと、そういう状態を見せるわけにはいかなかった。わめいたり、もちろん泣いていましたし……。それから3階に知子さんを連れていきました。そこに脳波計があったので(脳波を測定した)」  弁護人「原因は何か?」  証人「この当時は私もかなり事情がわかっていたので。(松本智津夫被告は)長男をヤソーダラーから離そうとしたらこうなったんだと言ってたんですけど。実際は尊師の行動に対して、知子さんが反応したんじゃないのかなと(思いました)」  弁護人「尊師の行動とは女性問題?」  証人「それはちょっと……」

 弁護側の尋問が終わろうとすると、中川被告は補足したいと言って、「知子さんは何をやりたいという人ではなく、尊師のそばにいられればいいという人。(尊師がついたり離れたりするのは)計算づくでやられていたと思う。要するに自殺しちゃいますから。尊師は修行だと考えていたと思う」などと証言しました。