読者の手紙

(30代・女性・一読者)

 3月20日、霞ケ関駅頭で、地下鉄サリン事件の被害者らが冊子「手記集」を配付した。
 春分の日で休みだったが、約700 人もの方が並ばれ、用意した500 部はあっという間になくなった。サリン事件の重大さ、悲惨さと、それを感じていただける多くの方がいることに感動した。
 不足したので、後に滝本から十数通を郵送した。下記はそのご返事としていただいたものであり、ご承諾を得られたので掲載します。

 本日「手記集」が届きました。送っていただいて本当にありがとうございました。
 私は毎号「カナリヤの詩」を楽しみにしている一読者です。地下鉄サリン事件以降、この不気味な社会現象に興味をもち、報道や文献に接するだけでは飽き足らなくなり、月一度は地裁に足を運ぶまでになりました。

 オウム報道については、今では松本智津夫の裁判くらいしか目にすることがなくなりましたが、オウム幹部とほぼ同世代(32歳です)ということもあり、そう簡単に風化してほしくないと思っています。私自身、信者・元信者などの話(報道・文献から)から、入信した経緯などについては理解できる展も数多くありますが、こうした事件は絶対許されない、あってはならない出来事だと思っています。

 私は今、学生時代のことや社会に出てから感じた多くの矛盾、悩んだことなどを思い出し、そうしたドロドロとしたものを抱えながら、なぜ自分はオウムに入らずに、グルに自分を委ねずに生きてこれたのか、考えているところです。自分にとってオウムとは何なのか、いつか決着をつけたいと思っています。

 オウム現象はいろいろな側面から見なければなりません。今までマスコミでも被害者の現状についてはあまり取り上げられてこなかった、ぜひ知りたいと思っていました。

 カナリヤの詩を講読しはじめたころ、何回かFAXを送らせていただいたことがありました。ただ、オウムを知れば知るほど、皆さんのさけびを聞けば聞くほど、自分自身でかけるべき言葉が見つからなくなりました。宗教の次元で教義の矛盾を突いたり、トンデモ・オカルト世界観への批判をしたり、こうした事件の責任の一端はあなたにもあるのだから責任を感じろといまだ罪を認めない教団を非難したところで、部外者の説教にしかならないのかなと思ってしまうからです。私自身直接被害にあったわけではないし、単に報道に接しただけで責任を強調するのもイヤだし……今はカナリヤの皆さんの、そして被害にあわれた方々の悲痛なさけびを素直に聞くことだろうと思っています。

 信者・元信者にかかわらず、被害にあわれた方々の悲痛な叫びもまだまだ世間には知られていないことが手記集を読んでわかりました。こうした声を素直に聞き、どちらの方へも差別・偏見なく接していきたいと考えています。サリン事件は、どちらにとっても決して埋めることができない決定的な溝をつくってしまいました。幸い、サリンを吸わなくて済んだ、つくらなくて済んだ人間として、もっともっと理解したいと思っています。(1997年4月12日)


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