読者の手紙


●手紙(30代・女性・一読者)

 坂本弁護士事件が起こり、疑惑の目がオウムに向けられたとき、言葉では言い表せないほどのショックを受けたのを覚えている。メンバーはほぼ自分と同世代である。育った背景も受けた教育も触れた文化も、それほど大差はない。情報だけは氾濫しているが、リアリティが失われている時代。一見多様性がありながら、すべて一つに収斂されていく時代。進学も就職も結婚もすべてシステム化されている社会。みんな同じように閉塞状況を生きている。オウムは、そうした社会に対する唯一の反抗の砦だったんだろうと感じた。大学を卒業しても、企業社会への夢などとうてい抱けなかった私としては、ちょっと安心した。私にも「仲間」がいたんだな、と。

 小さいころ、たしか小学校へ上がる前のことだったと思う。晴れた日の午後2時ごろだったろうか。自宅の裏の田んぼで一人で遊んでいたとき、ふと「来年の今日、この時間に、ここでこんなふうに遊べるかなあ」と思った。すでに幼稚園では、小学生になる準備が進められており、すぐ隣にある学校へ見学へ行ったりしていた。これが、とても憂鬱だった。とりたてて集団生活が苦手だったわけではないのだが、一日中同じ場所にいなくてはならないかと思うととてもイヤだった。家に戻って親に来年の今日は何曜日か聞いたが、そんなことわからないという。でも、多分、日曜日じゃないよ。ああ、ダメだ、学校にいなくちゃいけない。再来年も翌年もずっと、これまでのように平日の2時ごろ遊んでいるなんて、できないんだろうなあ。社会を取り巻いているシステムの存在を意識したのは、この時だったのだと思う(ちょっと大げさですね)。誰一人、その外部に出ることはできない(もちろん、登校拒否というテはあったけど)。もう一人で外でボーッとしていることは許されない(当時、私はとにかくボーッとしていて、一人で遊んでいるのが好きで、何をやるにもトロかった。当然、親は心配して、どこか病気なんじゃないかと言っていた)。

 大学はパラダイスだった。すでに、レジャーランド化していて、受験勉強に疲れた大学生達は、ここぞとばかりに遊び呆けていたが、皆、卒業後のことはきちんと考えていた。4年生になると、5月ぐらいからリクルート姿で会社訪問。遊んでいたヤツほど要領よく、いくつも内定をもらってくる。私や仲のよかったヤツらは、かなりひねくれていて、しかもマジメではなかったので、こうした動きにはついていけなかった。同じゼミの間で、4年次できちんと就職活動をして今でも働いているヤツは数えるほどだ。みんな大学院へ行ったり、留年をしたり、何のあてもなく海外へ行ってしまったり、劇団をやりながらバイト生活をしたり、みんなハミ出ていたのだ(それでも今はきちんと働いている)。

 既存の社会システムからハミ出る同世代の人間がいるのは、識者や世間が騒ぎ立てるほどおかしいことではなかった。信者には親しみすら感じた。しかし、である。テレビでオウムと被害対策弁護団のやり取りを聞いていると、高額なお布施も信者の拉致・監禁も、すべて事実のように思われた。そして、その集団は、教祖を頂点とするピラミッド型の構造で、全体主義的イデオロギーに支配されているように感じた(だって、なんであんなに紋切り型の答えなのだろうか。青山弁護士の表情は能面のようだったし、活き活きとした姿とはほど遠かったが)。
 何よりも、一番引っ掛かったのが「宗教と科学の合一」という教義だった。松本智津夫の血液のDNAに秘密があり、これを飲むと修行が飛躍的に進むと報じられたとき、「ウチではヨソと違っていい商品を提供してまっせ」という現世と同じ商業主義のニオイを感じた。まあ、「修行」や「解脱」、「悟り」を科学で証明しようという姿勢はあってもかまわないだろう(正直に言うととってもイヤなのだが)。しかし、なぜ飛躍的に進める必要があるんだろうか。修行や解脱、悟りで問われるのは、自分の態度如何なのに、なぜ科学に頼ろうとするのか。これではまるで解脱産業だ。
 やはり、集団内部では、こちら側と同じようにすべてをシステム化しているように思えた。修行過程の序列化もなされているだろうし、みんなよけいなことは考えず、ひたすら、よい転生を願って修行に、ワークに勤しむのだろう。だからこそ、よけい歯がゆかった。なぜ、そちらへ行ったのか? なぜ、同じ構造にからめ捕られてしまったのか? たしかに、からめ捕られたままのほうが楽だけど、それでは奴隷と同じじゃないの? もっとも本人達は意識してないんだろうが。

 地下鉄サリン事件が起こって再びオウムと向き合うことになり、彼らとの隔たりをずっと考えていた。結論として言えるのは、精神世界やニューエイジという思想に対する距離の起き方だったと思う。
 すでに私が大学にいたころから、ニューエイジや精神世界はブームとなっていたが、正直に言ってあんまり興味を持てないでいた。「私が変われば世界が変わる」と言われても、私が変わっただけでは世界はビクともしないだろうし、「すべての原因は自分の心にある」と言われても、そういう考えこそ体制側に都合よく利用されちゃうんじゃないだろうかと思っていた。いかに生きるかについてはそれなりに考えもしたが、なぜ生きるかを考えるのはバカらしかった(だって、生まれてきちゃったんだからしょうがないよ)。
 まあ、今から考えるとずいぶん思い上がっていたものだが、要するに、当時は(というか今でもだが)精神世界を必要としなくても生きていけたし、そういう世界にハマってしまうことを恐れていたということだろう。もともとノーテンキで鈍感だったため、高橋英利さんの手記で語られた「実存的な不安」や、カナリヤの詩の手記に見られるような「生きる意味を求めていた」という繊細な心とは無縁だったとも言える。だが、一方で、同世代の人間たちが内在的な不安を抱えざるを得ない時代状況については、空気として感じ取ってはいたし、心の救いを求める人々が多数いることもわかっていた。だからこそ、そちら側へ行ってしまうのが弱さの現れのような気がして、このまま踏ん張っていようと意地になっていたのだろう。

 学生時代、私は社会学を専攻していたが、この選択も、超越的な思想にハマりたくないという気持ちと無縁ではなかった(もっとも、そんなに勉強しなかったし、今ではその内容もほとんど忘れているのであるが)。例えば、社会学のある理論では、「自己」とは「役割によって規定される」としている。年齢、性別、職業、集団での役割など様々な属性によって、自分が出来上がる(ということは、「自分」とは社会の産物で、「永久不変の自分」なんてありはしないのだ)。「本来の自分」や「自己の確立」とかいう立派な考えや、「自分」だけに囚われるのがイヤだった私には、とてもしっくり馴染んだ。それにまた、したり顔して流行や文化を分析して冷静な態度を示していれば、少なくも「当事者性」から逃れられるんじゃないか、という嫌らしい気持ちも働いていた。ハマった人を見て、あれこれ考えるのは好きだったが、自分ではハマりたくなかった。けっこうイヤなヤツだったなあ。
 そんなこんなで学生時代も過ぎ、とりあえず働いてみることにした。もちろん、就職に夢や希望があったわけではない。当時、親とは戦争状態にあったので、社会人として自立している姿を見せる必要があったのだ。
 働いてからは、仕事に夢中で怒濤のように時間が過ぎていった。将来について悩み、転職もした(そして、編集というわけのわからない世界へ行っちゃって、現在に至るのだが)。興味の関心は、より現実的な方面へと移っていった。仕事だけが人生ではないと思っていたが、女性の場合は男性の倍働いてようやく一人前と認められるのが現実で、会社、仕事、結婚、目の前につきつけられた問題を理解するのに、精一杯だった。折しも、自己開発セミナーが花盛りだったのだが、自分の性格が変わるだけで、世の中がバラ色に見えるなんてウソくさいと、ますますガードを固めていった。
 今から振り返ってみると、あの当時は目の前のことしか考えられなかったんだろう。若かったせいもあるが、自分自身納得できる生き方をするためには、まず仕事で収入を得なければならなかった。決して企業の奴隷とならないためには、自分のいる場所を冷静に見極めておく必要もあったのだ。

 様々なオウム信者へのインタビュー報道に接して驚いたのは、彼らがこういう目の前の現実を一気に飛び越えてしまったことだ。私には、とりあえず現世しか行き場がなかった(というか、今はまだ現世のことしか考えられない)わけだが、彼らは来世に期待をかけることができた。実社会での経験がない学生だけでなく、30代、40代、そして家族ぐるみの出家もあったわけだから、ずいぶんとフットワークが軽くなってきたんだなあと思った。
 出家に際して、悩みに悩んだ人もいただろうが、スルっと飛び込んできた人も目につく。80年代後半、バブル経済華やかな頃、空前の転職ブームだった。私もその時、OLから零細編集プロダクションへと180 度の転職を遂げたのであるが、このような従来から転職者だけで成り立っていた業種だけでなく、以前では考えられもしなかった大手企業も中途採用に踏み切ることになった。巷では、「とらば〜ゆする」とか「デューダする」という言葉が使われだしたように、これまで胡散臭く見られていた転職をガラッと変えてしまった。「自分にふさわしい仕事」が「自己実現」へとつながる。そのためには、才能や能力を最大限発揮できる職場を探す。これも「自分探し」と言えるだろう。私が転職したのが、1990年だったから、オウムがクローズアップされた頃と重なる。
 オウムへ出家した人も、私のように「転職」したようなものだと考えている。もちろん、人それぞれだと思うのだが、同世代の人間を見ていると、たまたま転職した先がオウムと考えたほうが、先で述べたフットワークの軽さを説明できるような気がする。都沢和子さんのインタビューでも、上祐氏の出家に際して、「ヨガのベンチャービジネス企業の専従職員になるような感じ」として捉えていたというし、法務省のキャリア組だったヴァジラカドガさんの手記からは
「オウム真理教というところへ出家でもしてみようか」という軽いノリが伝わってくる。
 オウムという場所は、ヴァジラヤーナワークに関わらなかった人達にとっては、結構居心地がよかったんじゃないかと思う。ワークはすべて思想信条に則っている。組織運営に直接タッチでき、責任ある仕事が任せられる。現世では大企業と呼ばれるところほど、若いうちは重要な仕事が回ってこない。OLをしていたとき、「何でオレがこんなことしなきゃいけないんだよ」と言いながら、宴会で裸踊りをさせられ、吐くまで飲まされた新入社員(東大卒で当然幹部候補生です)がいたが、会社側はこういうエリート達に「お前たちは何にもできないんだから、今は言われた通りにやれ!」と答える。裸踊りや吐くまで飲むのが重要な責任ある仕事とはとても思えないが、こういうのが若手社員の仕事とくれば、誰だって会社になんかいたくない。それに比べて、オウムではわずらわしい人間関係もないし、ひたすら好きなことに熱中できる。ちょっとうらやましい気がする。

 今、オウムの女性信者の心に興味がある。すでにカナリヤの詩でも手記が紹介されているし、与那原恵が数名の女性信者を取材していて、そこから窺い知れることも多いのだが、もうちょっと知りたいと思っている。男性信者が、比較的エリートが多いのに対して、女性信者は実に様々で年齢層も幅広い。先のように「転職した」人から子育てに悩んでいた人まで、入信動機もさまざまなものがある。この社会が女に与えるプレッシャーを、少しは感じ取っている私としては、おおいに興味があるところだ。

(1997年9月27日)

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