読者の手紙


オウム事件を風化させるなー一男性・読者

1999年5月15日メールにて

5月16日で教祖逮捕から丸4年。教訓は生かされたか?

1995年5月16日、オウム真理教の教祖松本智津夫が逮捕された。

この日はちょうど休日で、私はテレビで逮捕の様子を見ていた。霧の中からワゴン車が出てきて、教祖が乗っていた。混乱は何もなく、妙に静かで異様な雰囲気であったのをよく覚えている。テレビの画面にはいつも建物の横に書かれた「Wellcome To Victory」(勝利へようこそ)という文字が見えた。

信者はみなやせていて、頭に電極を通したヘッドギヤ(PSI)を装着して、白い服を着ていた。その対照が非常にアンバランスなので、私はぞくっと背中に寒いものが走った。それと同時に、私自身の将来についても、深く考えさせられたのである。

私は僧侶である。オウムがテレビに出始めた1989-90年ごろには京都の仏教系の大学にいた。下宿はお寺で朝の掃除や座禅会もある、という生活をしていたせいもあり、宗教には非常に興味を持っていた。

ある日の朝、同輩の部屋に行くと、テレビに麻原教祖が出ていた。家族5人といっしょにオウムの教義について話していたが、私は仏教の勉強をしていたので、すぐにでたらめであることがわかった。同僚に「これは気をつけたほうがいい」と言うと「いいんじゃない?こんなのが一番害がないんだから」と言って笑っていた。

その予感が5年後の地下鉄サリン事件に結びつくのは、ある意味で必然だった。オウムはその後熊本県波野村などへ進出し、強引な勧誘、監禁、拉致、暴力などの手段を用いて、金を集めていったのだ。

そんなことも知らない当時は、ただひたすら仏教を学んでいた。仏教を学ぶにはインドの言葉、中国語、それにチベット語や英語なども必要だったので大変だったが、時代の花形の学問をやっているという誇りを持ってやっていた。この時代はバブル景気の始まりの時代で、日本中がある意味で浮かれていた。それと同時に幸福の科学やその他の新新宗教がブームとなり、心の豊かさを強く求めた時代でもあったのである。

○○大学に麻原教祖が来たのは1993年であったと記憶している。○○○大学やお寺の参道にまで、でかでかとポスターが貼られ、私は内心ひどく怒りを感じたものだ。何でオウムが○○大学の学園祭などに呼ばれて、説教をするのか?学問も地に落ちたものだ、とひどくがっかりしたのを覚えている。このころからバブルがはじけ、それまでの贅沢三昧を反省する論調が聞かれるようになった。

私は大学を卒業してから、○○のとある既成宗教の修業道場へ入った(○○○年の伝統がある古刹)。お寺の跡をとるための資格が必要だったからである。しかしここはめちゃくちゃであった。私はここではじめて「修行とは何だろう?」という問題意識を持つにいたったのである。

20何人かの修行者がいたが、上の者の目も見てはいけない、1日中走りっぱなしでのきつい肉体労働、食い上げと呼ばれる多量の食べ物を食べる修行、そしてガムテープで折れないように巻いた棒で殴ったり、言うことを聞かなければ夜遅くまで叩きこまれる、睡眠時間はほとんどなく、足で頭を蹴られた修行僧や、むちのようなもので叩かれた修行僧もいる。失敗すれば怒鳴り方が普通ではない。殴られ怒鳴られ蹴られして、耐え切れなくなった私はそこを脱走した。

修行とは、いったいなんだろう?私はずっと疑問を持ちつづけた。

まもなく、私は別の修業道場へ入れられた。今度逃げ出せば、もう僧侶の資格はないと言う。そこも前の道場に負けず、と言うよりは比較にならないほどひどいところであった。今となっては思い出したくもない、いやな記憶である。私は2年そこにいた。今でもその後遺症で、対人恐怖のようになっている。だれも信じられないし、人に会うのがいやなのである。

私はそこを出てから、大学に入りなおした。仏教学者になろうと思ったのである。しかし時代は流れ、バブル崩壊後の金融不安やリストラなどが始まっていた。この時代は宗教をめぐるさまざまなトラブルや、宗教人たちの素質の低下、金銭感覚の喪失、などバブルの夢から醒めきれない宗教者たちに対する鋭い批判が、マスコミでも、一般の人たちの間からも聞
こえてくるようになった。それに平行して仏教に対する世間のまなざしは非常に厳しいものになっていたのである。

そして1995年3月20日の地下鉄サリン事件が起こってしまうのである。

一連のオウム事件は私たち1970年代生まれの人間には、とりわけ身近なものを感じさせるはずだ。この事件はバブルという史上最高の好景気から株価の暴落、バブル崩壊という社会情勢を抜きにして考えることは出来ない。社会全体が裕福になったかと思うと、とたんにそれらの価値が崩壊し、前よりもっと悪いことになる、というプロセスを、私たちの世代はもろに体験したはずだ。金を崇拝し、人間の暖かい心を踏みにじっても平気。損をすることは考えない。金や力のある人間の言うことを無批判に、盲目的に受け入れ、善悪の区別もつかなくなっている・・・それが、バブルのもっとも大きな「精神的」後遺症だ。

それが私たち1970年代生まれの人間のこれまでの生きざまではないか。なんと弱々しい、非人間的な、機械的ですらある、悲しい人生観ではないか。

あなた方の子供たちにそんなことを教えるのか?私は教えることが出来ない。そんな悲しい人生の送り方を、教える気がしない。

オウムの事件にかかわったのも、まさに私たちと同年代の若者たちだった。それを40代50代のいわゆる管理社会を叩きこまれた人間たちが、自分達の欲望のままに引っ張ったのである。こんなことは彼らにとって、赤子の手をひねるほど、簡単なことなのである。

この事件だけは決して風化させてはならない。これは管理社会が到達するひとつの極端である。そして、悲しい事件を繰り返さないために、子々孫々、伝えていく必要がある。

最後にいまだにオウムの呪縛から開放されないかわいそうな信者の人達よ。頼むからパソコンを販売したりしないでください。パソコンがあなたに何をしてくれますか?


一読者・男性

1999年3月21日メールにて

はじめまして。

わたしはあの事件のときから、オウム真理教というものに関心をもち、 テレビや本などやインターネットで情報を集めまくっていました。いわゆる  オウマーでしょうね。

オウムと名のつくものなら何でも飛びつきました。本当 に面白かったのです。ほんとうに被害に遭われたかたには悪いのですが、 あれほどひとびとの好奇心をそそったものもないでしょう。

あれほどの 非日常はないでしょうね。恐ろしさと気味悪さと面白さが同居しています。   本当に関心をそそられる自分が嫌になります。 わたしはオウムがやったことは許すことのできないものだし、とんでもない 宗教だと思ってます。

しかし、若い世代が同じようなやり方(まんがやアニメ  やパソコンなどのメディアを通じた)で活動しているのをみると、親近感や 好奇心を押さえられずにはいられないのです。

 それで、いちどオウム信者にあってみよう、と思い(本やグッズも欲しかったし) 電話して、オウムの支部にまでいきました。京都と大阪(京都のほうは支部では  ないそうですが)のに回ほどいきました。書籍とグッズを見せて欲しいというと 見せてくれました。  確かに面白い部分はあります。

しかし、わたしたちがおもしろいと思っているのは この宗教のC級のばからしさであり、とうてい信じれるものとは思っていません。 しかし、彼ら彼女たちは信じ込み、この真理のすばらしさをとうとうと説きつづけました。

わたしはなにか、おぞましさと気分の悪さをかんじ、悪態をついて(メールでですが) 二度とあうことはなくなりました。メールも返事がありません。  本当に嫌気がします。オウムにも、自分にも。

    オウムの悪は許せないし、あんなものは信仰の対象にもなりません。しかし、若い 世代の関心をいろんな意味でそそっていることも事実です。    新しいメディアをオウム以上に活用して、次々とオウムからひとびとを奪い返してください。    応援しております。     


男 性 ・ 一 読 者

1999年5月10日メールにて

久々に、このホームページに来ました。

このGW中は、仕事の関係で東京にいたのですが、至るところで、「絶対幸福・絶対自由・・・」と叫びながらの勧誘パフォーマンスをやっているのを目にして、少しの間パフォーマンスも成りを潜めていたという感じだったのに。「あぁ〜ハルマゲドン近し」の勧誘か?とか、上佑もそろそろ出てくるよなァと思ってしまいました。

山梨・清里にしても、三和町にしても、なんかまんまとオウムの罠にはまったと言う感じで、使った経費以上の回収率というか、まるで波野村のときの事を思い出してしまいます。

私はコンピュータ関係の仕事をしていますが、秋葉をはじめとして激安パソコンショップの台頭も見過ごす事が出来ません。

色々見ていて、「サリン事件」についても、風化していっている気配で、。日本人の「喉元過ぎれば」の感覚は怖いと思います。

いま入信している若者達の多くは、サリン事件を知らなかったり、インターネットでのあのオウムの活躍ブリに、目を引かれている人が多いようです。

このままオウム問題やサリン事件を風化させてしまい、オウムが台頭し、「世間はオウムを認知した」という誤認識を与えてはいけないとおもいます。

ほんと口達者な上佑が現世に戻ってきてしまいます。いまそのための組織固めをしているんだと思います。わたしは「自作自演のハルマゲドン」を危惧しています

この問題は風化させないでください。

風の便りによると、上佑は広島の刑務所にいると聞いたのですが、今のところは、大阪以西では福岡と那覇にしか支部はないようですがまたまた、中国地方にも支部が出きるのではないかと、心配しているのですが・・・。


● 手紙 ーーーーーー 一 読 者 主 婦

1999年3月

はじめまして、大阪府在住の主婦です。

宇宙関連のHPでこのサイトを見付けました。
読み進めて行って、正直苦しくて全部を読めませんでした。
宗教と信仰は違うものです。私には私の中だけに居る創造主が存在します。
それを信じて日々頑張っていますが、たまに主人に向かって説法を説きたくなりやってしまいます。
そうすると、首を掴まれ「オウムにでも入ったのか?」と聞かれます。
情けなくて涙が出ます。

私の信仰は只一つ。自分を知り、自分を信じる事です。
個性の無い私でしたが、最近は我慢をするしないの分別をつけ言わなくてはいけない事ははっきり言う、です。
困っている人を見かけたら、大きな声で声をかける。
何かの宗教に属する事は決して悪い事ではないと思いますが自分自身というのをキチンと持っていれば、何の宗教も必要ありません。自分という、家族という、他人という、
全ての人々に接する事が可能な信仰は、己の中にあるのです。
カナリヤの会の方々の、これからの幸せを心から祈ってます。
雑文ですいません。


●M・E 一般読者

わたしは、麻原の裁判記事をよむたび、頭に来る。あれだけ悪いことをしておいて、自分に 不利な証言をする人の邪魔をする神経が、信じられない。本当に、悪いと反省 してるなら、どんな証言でも、黙って聞きいているべきだと思う。(1998年4月15日)

●F・H 一読者

実は、オウムの事件以来、現実的に何が起こって、両極の方は何を言っているんだろうと、事実を見極めるがごとく、ここのHPとオウムのHPを回覧しておりました オウムに同化するつもりはさらさらないです。

が、しかし、オウムのHPの元気よさはすごいです
どんどんと信者勧誘していますし、現にインターネットの波及効果によって信者は 増えているような気がします。

毎週末、インターネット上で、「終末チャット」と称して、チャト大会をやっていますが、冷やかしを含めたとしても大勢参加しています。

時々、荒木氏は、滝沢さんを馬鹿にし発言もしたりしています。

このほど、プンサ大師こと大内氏が逮捕されましたが、それに関してもでっち上げの不当逮捕だとの書き込みも多いいですし、反響で入信した人もちらほらいるようです 私は、悪いものは悪いとして、あの教団には総括してほしいんですが そういう気配もないですね。

また 脱会者の復帰作戦もしていますし、釈放された逮捕者も戻っているようです。その辺のところ、どう思っているのか、どうなされるつもりなのか・・・。聞きたい 不安ですよ ほんと
もともと、彼ら彼女らも純真であったんだろうにと思うんだけど。

(1998年4月20日)

●S・Tさん「完全な決別、そして宇宙文明時代へ」
(1)教祖は世界一のサギ師
 もし本当に最終解脱に達していたならば、自分の意思の力で、自 分の身体や精神を完全にコントロールできるはずです。したがって、 病気になるはずがありません。(単なる宗教上の話ではありませ ん)。ところが教祖は、病気と称して隠れていました。
 最終解脱が真実なら、病気がウソであり、病気が真実なら、最終 解脱がウソになります。どちらに転んでも、教祖はウソをついてい ると、社会に向かって白状していたことになります。

 しかし、当時、マスコミも含め社会全体が、コロッと教祖のウソ にだまされてしまいました。

(2)真実があるからサギが成立する
 サギ師が100パーセントのウソをついたのでは、容易に見破ら れてしまいます。大多数のウソと、中核部分の真実を巧みに取り混 ぜて、初めてサギが成り立ちます。
 教祖も同じです。真実の部分として、例えば、
  ・超能力の実在
  ・魂や霊界の実在
  ・今の時代の消滅
  ・新時代の誕生
  ・宇宙の根源(宗教で言う神)の実在
などがあります。

(3)『神』が実在するから宗教は誤り
 多くの人々が、水や空気の存在、あるいは人間や地球、宇宙の存 在など、すべては偶然の産物だと思い込んでいます。それは、まっ たくの誤解です。すべて、必然性があります。
 自然現象には、偶然の一致という、「いいかげんな現象」はあり ません。すべて、原因や途中経過があって、初めて結果が生まれま す。
 ただ、我々地球人には、すべての現象について、原因や途中経過 をくまなく把握できるわけではありません。その時、これは偶然の 一致だと、勝手に決めつけているだけです。
 人間を含め宇宙のすべてを、意図を持って造り出し、動かしてい るのが、究極のシステムエンジニア、つまり「宇宙の根源」です。 これは物理的に存在します。ということは、科学的に実在するとい うことです。
 ところが、宗教の世界では、神は科学的な存在ではなく、あくま でも宗教的な存在だとしています。ここに、宗教の根本的な誤りが あります。
 要するに、宗教は初めの第一歩から、すでに真実を完全に取り違 えているのです。

(4)悟りを一番分かっていないのが僧侶
 仏教の僧侶は、みな剃髪しています。しかし、悟りは高度な精神 活動です。剃髪すれば悟れる、しなければ悟れないというものでは ありません。
 にもかかわらず、仏門に入る、つまり悟るためには、剃髪するの が当然だと、頭から思い込んでいます。
 これでは、自分たち僧侶は、悟りのなんたるかが、まったく分か っていないと、宣伝しているようなものです。ここにも、宗教の根 本的な誤りが、はっきりと現れています。
 ところが、宗教を信じない人々も含め、社会全体としては、宗教 の存在自体は、誤りではなく正当だと、思い込んでいます。
 こんないいかげんなことで、「本当の真実」が分かるわけがあり ません。(哲学や在来科学も、宗教同様、誤っています)

(5)人間は永遠に進化するためにある
 人間はなぜ存在するのか、その答えは永遠に謎だと、虚論をたれ 流す人々が後を絶ちません。
 「宇宙の根源」が人類を造りだした時には、その答えはすでに存 在しています。「究極の完全無欠な世界を目指して、永遠に進化発 展を続ける」ことが、人間の存在目的です。
 (正しく表現すれば、少なくともこれが人間の存在目的の一つで あると、私は考えています)。

(6)大人(おとな)人類と子供人類
 一人の人間が、誕生から、幼児、児童、青年へと心身共に成長し て行くように、人類も、宇宙という名の社会に誕生すると、気の遠 くなるような長い年月を経て成長して行きます。それが進化です。
 したがって、幼児期の人類もいれば、壮年期の人類も存在します。 我々地球人類の場合は、義務教育の終了を目前に控えた、少年・少 女期に相当します。つまり、大人の人類ではなく、子供の人類です。

(7)地球文明時代と宇宙文明時代
 戦争や犯罪、病気や家庭内のいざこざなど、世の中には、ありと あらゆる苦しみや悲しみが満ちあふれています。そのため、これが 人間社会本来の姿だと、多くの人々が思い込んでいます。
 しかし、それはまったくの誤解です。このような諸問題が山積し、 解決不能の状況にあるのは、上記(6)のように、我々地球人類が、 子供人類のためです。
 つまり、精神レベルが未熟なため(注・バカという意味ではあり ません)、戦争や犯罪に限らず、ありとあらゆる子供じみた行為を、 悪いと知りつつ、やらないではいられないのです。
 したがって、大人の人類に成長(進化)すれば、おのずから、消 えてなくなります。つまり、精神レベルが所要の段階まで高まれば、 戦争や犯罪などの子供じみた行為は、誰もやりたいとは思わなくな り、結果的に解消して行きます。
 地球が誕生して以来今日までの、幼稚な時代が、「地球文明時 代」であり、戦争や犯罪、その他あらゆる幼稚な行為や現象がまっ たく存在しない、人間本来のあるべき世界が、「宇宙文明時代」の 世界です。

(8)宇宙文明時代は目前
 昨今は、日本だけでなく世界全体が、オウム問題を始めとして、 想像もつかないような出来事が続発する、激動の時代にあります。  それも、人為的な面だけではなく、災害など自然の面でも、激し く揺れ動いています。
 これは、とりもなおさず、地球文明時代がまもなく終わり、まっ たく新しい宇宙文明時代が誕生しようとしている、今が、その境目 であると、示しています。

(9)察知できた人々が増加
 先覚者から一般人に至るまで、日本を含め世界中で、少なからぬ 人々が、これを明確にあるいは無意識に、感じ取っています。
 そして、当然、理解者は時間とともに、増加しています。脱会者 を含め、オウムに加わった人々の何割かも、この一員であることは 明らかです。

(10)だから教祖はサギ師になった
 教祖も、この時代の大きな変化を、敏感に感じ取った一人です。 だからこそ、教団を興し、自分が教祖に納まれば、信者という名の 大勢の『カモ』を、思う存分操り、好きなだけ支配欲や物欲を満た せると見抜き、実行したわけです。

(11)分かっていながら分からないと、カモにされる
 宇宙文明時代の到来を理解するのは、誰でも、すぐできるもので はないのは、明らかです。
 そのほかにも、例えば、超能力の存在、魂や霊界の存在、宇宙の 根源の存在など、「見えざる世界」を正しく理解するのは、見えな いために、多くの困難を伴います。
 したがって、見えざる世界に関心を持った人々に対し、ウソを教 えようと思えば、いくらでも可能です。しかし、その時、教わる側 に適切な理解力や判断力など、真実を見抜く力量があれば、被害に 遭わずにすみます。
 それらが不足していれば、教祖という名の、サギ師のカモになっ てしまいます。(前記(1)が好例です)

(12)見えざる世界は筋の通った世界
 見える世界も、見えざる世界も、同じ宇宙の一員です。同じ宇宙 の法則に立脚しています。したがって、見えざる世界は、わけの分 からぬ不合理な世界ではありません。
 例えば、信者は家族と別れて暮らさなければならないが、教祖は 特別で、家族と好きなように暮らして良いというのは、まったくの でたらめです。
 見えざる世界のすべてを把握するのは、現在の地球人には不可能 です。断片的に、ところどころ、その一部をうかがい知るだけです。 そのため、あたかも非常に不合理な世界であるかのように、思えて しまうのです。

(13)皆様は一人ではありません
 脱会者の皆様も含め、オウムに加わった人々が、教祖に出会う前 に、本当の真実を正しく会得できていれば、悲惨な結果にならずに すんだのは明らかです。
 例えば、ホームページ「サイフォーラム」(注)のように、物理 的事実、つまり科学的事実という見地から、見えざる世界を、まじ めに真剣に探求している多くの人々が存在することを、ぜひご理解 していただきたいと思います。

(14)『常識人』に戻ったら元のもくあみ
 超能力なんてウソである。宇宙の根源なんてウソである。このよ うな誤解に基づいて、オウムから完全に脱却しようとするのは無理 があります。
 「類は友を呼ぶ」、これは単なることわざではなく、宇宙の法則 の一つだそうです。極めて歪んだ形であれ、皆様は宇宙文明時代の 到来を察知したからこそ、一度はオウムに引き寄せられたのです。
 本当の真実と、オウムの虚論は、極めて良く似た部分がたくさん あります。その一部は、前記(2)で述べたとおり、完全に一致し ています。
 したがって、両者の違いを明確に把握できないと、皆様自身、オ ウムの主張になぜか心引かれる心境を、完全に払拭しきれない可能 性があります。そうなると、その心を自分で押さえつける無理を、 一生続けることになります。
 それは、なにかのきっかけで、再びオウムあるいはオウム的なも のに、引き寄せられる危険があるということです。

(以上)(1998年4月27日)


●お手紙(匿名・女性・一読者)

私はこのサイトにアクセスする事はなかったのだけど、見て、ここに何かふしぎな懐かしさやもの哀しさのようなものを感じました。
そして私には一昨年のオウム事件は何か起きるべきして起きたものとしいう印象があったんです。私はそれまで外国に居て、自分の意志や感情やファションを自由に表現出来る外国とは違い、日本は定型通りでなければならず、社会がある種の歪みを生じていると感じました。

ところで、私はオウム草成期の1980年代中盤、霊的指導者を求めて精神世界のグループに顔を出していたからです。だから当然「空中浮遊をする」という麻原さんやケイマ大師など麻原さんのお弟子さんたちの噂は耳に入りました。

そんなこともあり、私はオウム草成期からのメンバーにはなにか「同窓」のような感じがするのです。もちろん私は麻原さんがどうも胡散臭いと感じたので渋谷の麻原さんのところにはいきませんでしたが、しかし私たちといっしょに精神世界に自分の居場所をもとめて一緒に頑張ってきた人たちのなかにはのちにオウムに出家した人もいました。

私が精神世界に入った直接の理由は、それまでブランドモノを身につけ、夜な夜なディスコ通いの生き方に虚しさを感じて、もっと自分を高めたいとか、精神的進化を求めたいという動機からだったかもしれません。

オウムではありませんが、幾つかのグループを渡り歩き、「普遍的で本当の宗教」を捜し求めていました。だから私はオウム事件やとくにオウム草成に関してはある種のノスタルジアとどうじに、どうしてあの人たちは間違ってしまったのだろう・・・とおもい、やはりなにか哀しさを感じました。 あの時、精神世界のグループ二いた人たちで今はアロマテラピーや自然美容などとして、あのころ学んだ事を生かして第一線で活躍している人もいるからです。ただ、精神世界のグルーブからオウムへと行った人たちは一見はとてもおとなしそうで、あまり冗談なんかも通じず、努力家の人でしたね。

魂の救済を求めるのなら、既存のキリスト教や仏教などのよう信仰や心の在り方を考えるだけではなく、肉体を変容させうる知恵が必要であるとか、肉体と心の接点である神経系システムの秘密を解き明かす神秘的な叡智が必要であると感じたものでした。

たしかに、あのころ精神世界系のグルーブにやってきた人たちで、男の人たちはびっりするほど高学歴の人が多かったし、それに対して女の人はいろいろな層の人たちが多かったです。

そんなこともあり、私は毎日新聞社の「冥い祈り」や、江川紹子さんの一連の著作をよんで、何か妙にわたしの事と似ているケースもあり、とてもびっくりしたりしました。

最近になって何気なく石井久子被告の意見陳述を読んで、私はびっくりしました。というのも私が精神世界系のグループの為に一生懸命生きてきて、そして女性指導者のつごうで悪者にされて自分の進むべき道が誤りである事を知り待った暗やみに投出されたときの私の状態を言い表わしているかのように感じたからです。

実は私はいまでも、自分の進むべき道を見失って心が彷徨っている状態なのですが、最近になって、私は家庭環境、とくに母にとても期待を押付けられてきた事に気がつきました。双言えば、私は一昨年のオウム事件のときに、何故か涙が止まらなかったのは警察がオウムのこども達を保護して、警察のバスの中にいる婦警さんたちがオウムの子供を抱いてあやしていた事でした。

ちょうどオウム草成期に精神世界に生きる道、居場所を求めていた私にはどうしてもオウムを作っていった人たちの魂の軌跡、そして暴走して今、悔恨と透明な安堵のなかにいるであろうあの人たちのことはやはり人事ではないように感じてならないのです。私が間違った方向に進んでしまったグルに付いていかなかった事は幸運だったかもしれません。 いまもって、私にはまったくわからない事だらけです。今の私にはここまでしか書けません。

以上、失礼します。 (1997年12月6日)

●お手紙(30代・女性・一読者)

「ポジティブシンキングの落とし穴」

 脳内革命の人気は相変わらずらしい。週刊文春で批判キャンペーンが行われ ていたが、それでも書店のビジネス書のコーナーでは大量に平積みされてい る。
「よけいなことは考えるな」「すべてプラス思考で」「気の持ちようで世界が 変わる」、一見健康書を装いながら(しかし、その医学的知識についてはシ ロートの私にもわかるインチキなものだが)、ところどころに気味の悪いメッ セージに満ち溢れている。バブル崩壊後、不況やリストラの嵐が吹き荒れてい ても、社員が会社への忠誠心を持ちつづけ、これまで以上に働いてくれれば、 経営者にとってこんなうれしいことはない。西洋の個人主義よりも東洋の全体主義、この本には、そうしたいやらしさが滲み出ている。

 人間は悩むときには悩まなければダメだ。そういつでもハイになってばかり はいられない。悲しいときは悲しいし、苦しいときは苦しいのだ。和だけを強 調されては、少数者は困ってしまうのだ。気の持ちようでは解決できない問題 は目の前にいくつも存在する。考えるべき時に考えず、プラス思考で割り切っ てばかりいるとどういうことになるか、オウムが証明してくれたではないか。 こうしたメッセージが多数の人々に刷り込もうとしていると思うと、とても恐 ろしい。

 余談だが、版元のサンマーク出版からは、同じ類の「ポジティブシンキング 本」がかなり出版されている。先日、ある会合に同社の編集者(20代の男性) が出席していて、自分が企画したという本を自信たっぷりに宣伝していた。参 考までに書店で立ち読みしてみたが、やはり同じようなメッセージが散りばめ られていて、読むのをやめてしまった(この類の本は目次を読めば内容がわか るようになっている)。
 おそらく、出版社や編集者に悪意はないのだ。売れればいい、これがホンネ なのだろう。オウム事件であれほどの犠牲者を出しても、何も学んでいないんだなと感じた。

 こういう「ポジティブシンキング」が氾濫している状況に、私はとてもつい ていけない。聞きかじりの医学知識や宗教知識が安っぽさを感じさせるだけ に、企業研修などでサラリーマン達が必死になって読んでいる姿が目に浮かぶ からなのだ。残業もリストラも過労死も、「イヤだ」と思うのはオマエさんが 悪いっていうことなんだろう。企業の論理と安直に結びついたポジティブシン キングを信じている限り、サリンをつくったり撒かれる心配はないから、社会 としてはそれほど危機感を感じないで済む。だからこそ、イヤだ。

 西洋文明の行き詰まりとして、様々な思想が展開されてきた。東洋回帰、近 代の超克、主体の解体、無心など、この際すべてをいっしょくたにしてしまう が、こうした思想を実践しようという動きがあるたびに(例えば宗教など)、 ちょっとした違和感を感じていた。その結果があまりにも、悲惨だったから だ。もちろん、思想そのものに欠陥があるわけではないが、ひょんなところで 歯車が狂い、暴走してゆく。


 だれが、どんな状況で、どんな目的で言葉を発するのかが問題だ。無心を説 く思想は、大切なところがはしょられたり、恣意的にねじまげられたりして、 一歩間違うと専制支配擁護のイデオロギーと化す危険性がある。
 もちろん、こうした思想なり世界観なりをそのまま否定してしまう気は毛頭 ない。一方的な否定は、問題の本質を見えにくくするだけだし、何よりも、そ うした理解のなさこそが新たな疎外を生み出すと思うからだ。私としては、オ ウム問題の思想的事後処理がきちんとなされていないところに、こういうトン デモ本が氾濫している状況が気味悪いと思っているだけだ。無心を解く思想 は、日本の風土と馴染みやすい。だからこそ、トンでもない考えが現れても、 あまり抵抗なく受け入れられるのであるが、そうした危うさにどのようにス トップをかけていくのか、これからの動きを見ていきたいと思っている。 (1997年9月27日)


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