滝 本 コ メ ン ト  58〜60


 

60 ●−オ ウ ム 集 団 の 現 況−2008.6.2

 

1 概要

 オウム真理教は、1995年5月、教祖麻原が逮捕されて以来、いくつかの分派に分かれつつ、未だ残存している。これらは教祖に100%の服従を誓った出家者と、他の一般の仕事をしつつ道場に通うなど信仰している在家とに分れる。1995年当時の出家者は3000人だったが現在は各派あわせて340人ほどであり、在家者は15000人だったが現在各派あわせて1000人ほどだと思われる。大半が地下鉄サリン事件以前に入信した麻原への絶対的帰依心の強固な者である。また、別にロシアには当時信者が3−5万人いたが少なくとも数十人が残存していると思われる。

 

 刑事事件としては、1995年3月以前の事件による主要幹部の逮捕・裁判のほか、その後の薬事法違反、労働者派遣法違反、詐欺罪などで随時、逮捕・裁判がなされている。

また、破壊活動防止法の解散命令は棄却されたが、新たに団体規制法が成立してその観察処分がされている。宗教法人としては解散決定がされており、また破産決定もされている。破産による人身被害者への配当は、破産決定時の財産に加えて、後の教団から賠償させて40%ほどとなって2008年終結予定。2008年6月、約20%の金額を国が補償する法律が成立予定である。

 

2 1995年3月以降の経過概要

1995年3月〜 主要幹部、教祖らが逮捕される。教祖らは長く接見禁止

1995年10月30日 裁判所が宗教法人として解散決定、1996年1月30日確定

1995年12月 公安調査庁が破壊活動防止話法の適用を申請

1996年3月28日 裁判所が、法人につき破産宣告

1996年6月 教団は、長男(3歳)と次男(2歳)を教祖とし、これ以降その姉らによる説法・修行を行う。

1997年1月31日 公安審査委員会が、破壊活動防止法の解散命令の適用を棄却。この頃までは、教祖から教団に対して獄中指令があった。

1998年4月24日 オウム真理教に係る破産手続における国の債権に関する特例に関する法律が成立した。人身被害者への賠償を税金などより優先させる。

1999年4月 各地域の住民、自治体による排斥運動、自治体は「オウム真理教対策関係市町村連絡会」を結成

 教団は、東京都内の繁華街等で街頭パフォーマンスを行い復活をアピール

1999年9月 教団が休眠宣言

1999年12月3日 「特定破産法人の破産財団に属すべき財産の回復に関する特別措置法」と「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」が成立。前者は破産決定後の教団財産から賠償させるためのもの、後者は「観察処分」と「再発防止処分」。再発防止処分は、報告に偽りがあったときなどに6ヶ月間、完全に活動を禁止するもの。

1999年12月17日 政府の省庁連絡会議において、「オウム真理教信者等に対する社会復帰対策の推進について」が定められる。

1999年12月 上祐史浩が出所。

2000年1月 上祐提案による名称変更案、上祐方針(下記の7)

2000年1月 教祖の娘らが弟ら奪取事件により逮捕され、弟らも児童相談所に保護される。数ヶ月で終了。長男、次男を教祖とはしなくなる。

だが、教祖の家族らには「お付の人」らがつく。脱会したとの名目にしている。

この頃から二宮幹部グループが独立性を高める。

2000年2月1日 団体規制法に基づく観察処分が効力発生、以後3年ごとに更新されている。再発防止処分はまだ使われていない。

2000年2月4日 教団は、名称を「宗教団体・アレフ」として再編。

2000年7月1日 ロシアで松本智津夫の武力奪還・対日テロを図ったオウム信者逮捕(シガチョフ事件)

2002年1月 教団は、上祐史浩を代表とする。

2002年10月 教祖の妻が出所し、教団運営に関与してくる。

2003年2月 教団は、名称を「宗教団体・アーレフ」と改称。

2004年2月27日 教祖に死刑判決が下される。2006年9月15日に確定。

2007年3月2日 上祐派が「ひかりの輪」として独立。

2008年5月20日 「アーレフ」から「アレフ」「Aleph」に名称を変更。

 

3 教祖の動向

 裁判においては、1996年4月の第一回公判では宗教的なことを述べたが、元信者から不利益な証言が出た後には証言妨害をするようになった。裁判官が交代したときの罪状認否においては、1件を除いて、自分の関与は否定しつつ、事件にオウム真理教が関与したことを認めていた。後に、弁護団が教祖の主張をそのまま述べないことから、弁護団とも面会拒否もするようになった。2004年2月の死刑判決の後は、高等裁判所での弁護団と全く会わなくなった。弁護団は、意思疎通ができない被告人に訴訟能力はないとして、裁判所に出すべき書類を出さず、それを理由に2006年9月15日死刑判決が確定した。

 教祖は、1996年の破壊活動防止法での審査においては、教祖は宗教的な言説や妄想のようなことを、好きなだけ述べていた。

 家族や弁護士以外は面会禁止である。しかし教祖本人が面会を拒否している。2005年秋以降、出家者であった者が新たに弁護士資格を取って一人で面会したとのことである。

 

4 その他刑事裁判被告人、出所者の動向

 弟子の12人が死刑判決を受けているが、全員そのまま確定するかもしれない。無期懲役は5人。その多くが精神的にも脱会しており、現役の信者らに手紙で働きかけをしてくれてきた。なお、未だ逃亡している者が3人いる。

 微罪を除く事件での出所者は、数十名であり、一部は教団に戻っている。

 

5 教祖家族の動向

 教祖は正妻との間に子供が6人いる。正妻と子どものうち4人は、教団からの金銭及びお付として脱会者名目にしている10人ほどの収入により生活している。子どもらには事件内容を知らせず、また教祖の関与を否定する気養育が施されている。長女は精神異常となって入通院し、かつ生活保護を受けて独立している。19歳の4女は事件内容を知って独立している。

他に認知はしていないが、1人の女性との間に3人の子、1人の女性との間に2人の子、1人の女性との間に1人の子がある。その一部は教団の金銭で生活し、信者の一部が利用しようとしている。

 

6 分派の動向−まず少数分派から

1996年頃、「中田グループ」ができた。元ヤクザだが信者であった中田が中心となっている。破壊活動防止法の適用を回避するためであろうが、代表と養子縁組を多くした。土産物屋や民宿を経営している。マスメディアに対して「脱会者」と称しているが、信仰を残しアレフとも人の交流がある。

1999年頃、「ケロヨンクラブ」ができた。在家の女性信者が「私の胸の中に教祖がいる」などとして代表になったものである。経済的には子どもがいる女性信者らに生活保護を受給させて、そこから布施させていた。棒で叩かれて女性1人が死亡した。子どもは酒を飲まされる、火傷させられるなどの修行させられた。刑事裁判中に代表が病気により崩壊しつつある。

 2000年頃以降、アーレフ幹部である二ノ宮耕一が、独立採算制で「二宮グループ」を形成している。仏具などを輸入販売しており、10人前後。アーレフに説法に来ることもあり、完全な分派とはなっていない。

 2007年、アーレフの幹部であった杉浦兄弟が脱会し、一軒家に10人以下で居住している。詳細は不明。

 その他、占い、健康食品販売、マッサージ業などを、元信者らが集って始めているものもあるが、それぞれどの程度信仰を残しているかは不明。

 

7 分派の動向−「ひかりの輪」

 代表の上祐は、偽証罪などで刑務所に入っていたが1999年12月末に出所してきた。2000年1月から教団の実権を次第に握り、2002年1月に代表となる。同年10月教祖の妻が出所してきて、二女、三女とともに、次第に教団に関与しはじめ、上祐は、2003年10月から教団内で活動を阻害される。

2006年7月、独立志向を明らかにして経済分離、2007年3月に脱会、5月独立。当初の専従会員57名、その他会員106名。なお、毎年1000−2000万円は賠償に尽くすとしている。

上祐は、麻原のすべての説法を使わないとし、麻原をすべて放棄するとしている。日本各地の神社を巡るなどしており、上祐が行くところには虹が出る、流の形の雲が出るなどとしている。収入源は主に、説法、修行、旅行企画への参加料である。朝日新聞など一部のマスメディアがオウム真理教とは別のものだと判断したために取り上げており、またインターネットなども使って勧誘活動が盛んである。

しかし、滝本は、これは観察処分を逃れるための「麻原隠し」に過ぎず、単なる分派であって、アレフが麻原を隠せない「子どもの過激派」であるのに対して、「大人の過激派」であると考えている。その理由は、「ひかりの輪」においては、オウム真理教での宗教的階層をそのまま使ってその者らが組織しており、以下に転載する2000年1月の上祐方針がもともと「麻原隠し」にあるからである。この点に、注意を要する。

 

 2000年1月16日頃の会議内容ー上祐提案の改革案

−1 「宗教団体アレフ」にする。

・組織の性格は、教団を拡大して尊師の死刑を止める。

・そして再開を可能にする。

・表向き、教祖や子どもなど麻原家を、外す。

−2 新たな布教活動として

・「21世紀サイバー教団」として、インターネットで布教活動をする。

・「アクエリアス教団」として、科学と宗教が合致した超人を育成する。

・「ホワイトフリーメーソン」として、オウム色を出さずに救済活動をする。企業活動の基盤をつくる。

・グローバル教団になるべく、イギリス・ロシアで、インターネットを活用して、布教、経済活動をする。

−3 声明では、麻原尊師の指示、関与を認める。

・謝罪し、被害補償活動を行う。

・被害者を「守護者」と呼ぶ。

・発表することで、マスコミを味方につける。

−4 観察処分について。

・立入り検査を逆利用して、危険性なしのアッピールをする。

・職権濫用の告訴、国家賠償請求の前提として、証拠の保全に努める。

・大日本帝国に似ているとして、国民を味方につける。

−5 立入り検査に対する「対策マニュアル」

・法務部名で出す。

・訴訟、懲戒免職を求めるために、氏名・役職を確認し、写真を撮る。

・問題がないものはある程度見せるが、焦らしながら見せること。

・金庫や机は、鍵をかける。自分の机じゃないという。パソコンは、立ち上げを求められても、自分のパソコンじゃないのでバスワードを知らないと。

・人の調査に対しては、立入り検査は設備や帳簿の調査が対象でしょう、という

・個人的に使用している者、団体に無関係などと対応する。

 

8 本流の動向−「Aleph」

1995年の後、47度Cほどでの湯に入っての修行による死亡、で冬の富士山に一人で無謀に登っての死亡などがあった。これら遺体を撮影して「死を考える」修行などをしている。

上祐が離れた後にも、2007年アーレフの幹部であった杉浦兄弟が脱会し、村岡も幹部から降りている。その理由は、社会に対して教祖の妻や三女などの関与を隠し続けることの矛盾、その妻や三女が男性信者と男女関係を持っているなど宗教上の矛盾に耐えられないことにあると思われる。

そこで、従来の下層幹部が幹部となりつつ、教祖の妻らが実権を握っていると見られる。残っているもともとの幹部である野田は、疎外されている。同じく幹部の二宮は独立採算制で、たまに説法に来るだけである。

 2008年5月20日、共同代表を上田竜也、松下孝壽としている。出家者派284名、在家信者は600名ほどだと思われる。収入源はセミナーなどの参加料のほか、在家からの寄附、出家者を外に働きにいかせての収奪である。麻原説法のうち、目的の為には手段を選ばないという「ヴァジラヤーナ」説法は封印するとし、また毎年数千万円は賠償に尽くすとしている。

しかし、同日、「アーレフ」から、教祖がもともと獄中から指示した「アレフ」に名称を戻しており、麻原説法もビデオを含めてすべて使っている。「グルを語る会」や会場の照明を落とし大音量で麻原の説法などの映像を長時間連続視聴させる「特別ビデオ教学セミナー」などを実施している。また、施設の祭壇に掲げられている絵画の使用料の名目で,麻原の妻に対する経済的支援を継続している。親からの面会要請も容易に実現できない状態である。

 

9 真実の脱会者

日本における脱会者は、出家者で2500人以上、その他の信者で2万人ほど要ることとなる。破壊活動防止法の解散命令は適用されなかったから、脱会者に対しては法的な差別は許されないこととなっている。脱会者は、みな精神的な不安定を経験していると思われ、滝本の知るだけで十数人の自殺者がいる。

滝本は、1995年6月、「カナリヤの会」を作った。滝本のみが全員の住所を知っている。集まるのは元出家者のみとし、合計150名ほどが一度は来ている。末端から大幹部、刑務所からの出所者、麻原の子どもまでいる。現在まで、会報は400部配布で156号まで、集まりは毎回10人前後、計62回。

この集まりに来るまでの心境の変化があれば、もはや教団に戻ることはないし自殺も止められる。しかし、誰でも数年間は、精神的に不安定であり、その後も社会復帰に精神的にも経済的にも苦労している。

脱会者の中には、許容できる範囲での占いなどで生活している者もあり、脱会者と信者との境界は、外側からは不鮮明になってきている。滝本は、組織から離れたかどうかが問題ではなく、麻原をグルとしているか信仰しているかどうか、の問題と捉えている。

 

10 まとめ

オウム真理教は、破壊的カルトであると同時に、宗教でもあった。現段階では、諸官庁の監視と社会からの厳しい目によって、破壊的カルトの度合いを下げている。

しかし、私は、「アレフ」はグルへの帰依を公言する「子どもの過激派」であり、「ひかりの輪」はグルを当面隠して観察処分を逃れる為の「大人の過激派である」と判断している。社会が、この教団の自由を許容するようになれば、再びカルトの度合いを高めると確信する。

オウム教団の完全な崩壊こそ、社会の為にも真実の脱会者の為にも、そして一人一人の現役メンバーのためにも必要だと考える。

以 上

資料1−インターネットなど

 

英語−滝本の原稿「オウム裁判の10年」は、下記

http://www.jscpr.org/other/Aum_10years_E.pdf

英語−松本被告の死刑判決確定に伴うJSCPRの要請は、下記

http://www.jscpr.org/other/statement20060915e.htm

日本語−脱会者のサイトは下記であり、

http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/

英語−そのうち幾つかを、不完全だが英語にした。資料2とする。

http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/shuki/3-9.htm

英語−観察処分の結果などは、下記の公安調査庁のホームページ

http://www.moj.go.jp/ENGLISH/PSIA/psia03-03.html#01

日本語−滝本太郎ブログは下記である。オウム情報など。

http://sky.ap.teacup.com/takitaro/

日本語−アレフのホームページは、下記の本部他がある。

http://www.aleph.to/

日本語−ひかりの輪のホームページは、下記の本部他がある。

http://www.joyus.jp/hikarinowa/

 

 

59 ●−補充 オウム裁判の10年−2008.6.2

 

1 第3記載のうち高裁で死刑となっている被告の上訴審結果などにつき、補充します。高裁段階のままであれば、教祖を別として12人が死刑となる。

2の宮前一明被告−2005年4月7日最高裁は上告棄却、死刑確定。獄中ではボールペン画を描き各種展覧会で入選するなどしている。

3の横山真人被告−2007年7月20日最高裁は上告棄却、死刑確定。

6の井上嘉浩被告−最高裁で審理中である。

7の林泰男被告−2008年2月15日最高裁は上告棄却、死刑確定。

8の廣瀬健一被告−最高裁で審理中である。

9の豊田亨被告−最高裁で審理中である。

11の端本悟被告−2007年10月26日最高裁は上告棄却、死刑確定。

12の早川紀代秀被告−最高裁で審理中である。

14の新実智光被告−2006 年3 月15日高裁で地裁と同じく死刑判決を受け、最高裁で審理中である。

15の遠藤誠一被告−2007年5月31日高裁で地裁と同じく死刑判決を受け、最高裁で審理中である。

16の中川智生被告−2007年7月13日高裁で地裁と同じく死刑判決を受け、最高裁で審理中である。

17の土谷正実被告−2006年8月18日高裁で地裁と同じく死刑判決を受け、最高裁で審理中である。

教祖の松本智津夫被告−2006 年3 月27 日東京高裁は控訴を棄却した。これは、弁護人が2005 年8月31 日までに出すべき控訴趣意書を出さなかったことによる。弁護人は、松本被告が訴訟を受ける能力がなくなっていると主張したが、裁判所は認めなかった。2006年5月29日高裁は申し立てられていた異議を棄却、同年9月15日最高裁は特別抗告を棄却、死刑が確定。なお、高裁弁護人の2人が控訴趣意書を出さなかったことにつき、同年9月25日に筆者、後に一市民、東京高裁事務局長の順に所属弁護士会に懲戒請求が出された。仙台弁護士会の綱紀委員会は懲戒相当とし、同懲戒委員会で審理中。第2東京弁護士会綱紀委員会はいまだ審理中。

 

2 筆者である滝本太郎の紹介。

1957年1月17日生。早稲田大学法学部を卒業後、1983年4月から横浜弁護士会所属の弁護士。1989年11月4日未明、友人の坂本堤弁護士が妻子とともに行方不明になり(1995年9月惨殺されていたことが判明)、オウム真理教被害対策弁護団(事務局長小野毅)に入る。訴訟のみならず1993年8月から脱会カウンセリング活動を始め30人余りが脱会した。自らも「空中浮揚」の写真をとっている。教祖は、自分の空中浮揚の写真こそが最終解脱者の証明としていた。ために滝本はオウム集団からたびたび攻撃される。1994年5月9日、滝本が運転する直前の自動車の空気吸入口付近に化学兵器サリンをかけられたが、偶然、縮瞳現象のみで生存。1995年11月から、日本脱カルト協会理事兼事務局。共著に「マインドコントロールから逃れて」、「宗教トラブル110番」、「オウムをやめた私たち」、「異議あり!奇跡の詩人-ドーマン法、FCの真実」。

 

3 関連するホームページ

日本脱カルト協会http://www.jscpr.org/−The Japan Society for Cult Prevention and Recovery のホームページである。

無限回廊 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/aum.htm−事件被告人概要、刑事裁判判決結果などが逐次でている

カナリヤの詩 http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/−オウム真理教脱会者の集まりである「カナリヤの会」のホームページである。筆者が主催している。

 

 

58 ●−オウム裁判の10年−2005.3.31、2005.9.26訂正版

第1 判決の概要

 ここでいうオウム事件は、1995年3月22日に始まった強制捜査によって発覚した一連の、世界を震撼させたオウム事件の趣旨である。

これ以前、熊本地裁では同県波野村での国土利用計画法違反事件、文書偽造などの事件が審理され続けた事件また自動車のナンバープレートを組織的に変えていた道路運送車両法違反事件などもあった。またここ数年、薬事法違反事件、詐欺事件、団体規制法上の検査忌避事件、温熱修行にからむ死亡事件、分派であるケロヨンクラブにおいて竹刀で多数回叩いての傷害致死事件などがあるが、ここでは記述しない。

さて、起訴された事件のうち殺人事件で死亡した人が26人、逮捕監禁致死が1人であるが、その他立件されなかった内部での傷害致死などがいくつもあり、死亡した人数は50人前後だと思われる。未だ戸籍上は生きている人もいる。このお一人ひとりに名前があり人生があった。

VX事件、サリン事件で生き残った人らの一部には、麻痺、痙攣、視力障害また心理的障害(PTSD)といった後遺症が残っている。両サリン事件の各1人が今も寝たきりである。

総逮捕者は500名近くで、うち189人が起訴された。うち1人が無罪、1人が一部無罪となった外は有罪であった。有期懲役刑となった中には、既に服役を終えて出所した者も多い。無期懲役刑は5人のうち3人が確定している。死刑判決は教祖松本智津夫被告を含めれば地裁で12人に言い渡された。井上嘉浩被告は地裁で無期懲役だったが高裁では破棄され死刑判決となった。結局、死刑判決は現在13人である。うち宮前一明被告(旧姓佐伯、岡崎)の審理が最も進んでおり、最高裁での2005年2月17日の弁論を経て同年中にも確定してしまう可能性がある。

なお、異例のことであるが、審理促進のため、松本被告外数名に対する薬物密造の4件の起訴が取り下げられ、また両サリン事件のうち死亡・重傷者以外の被害者分も取り下げられている。また当会から代表理事浅見定雄以下、何人もの者が証人として諸法廷に出ているが、その詳細は各人の報告に任せる。

第2 オウム事件の概要と周辺事情

時系列に重要な点をまとめておく。事件とオウム集団の特質を知るために必須の情報だからである。

 

19889月、富士山総本部道場で、集中修行中の在家信者が水死させられる。ドラム缶内の石油で焼いて精進湖に遺棄、死亡1

1989.2.上旬 同道場近くのコンテナで田口修二さん殺害、死体遺棄、死亡1

1989.11.4 坂本堤弁護士一家3人殺害事件、死亡3名

1990.2.18 衆議院総選挙。「真理党」の25人全員落選。住民票の不正異動

1990.4.  石垣島セミナー −この期間と数ヶ月後の2回、国会周辺などにボツリヌス菌毒素(未完成だったが完成していると思っていた)を撒布

1990.10.22から 熊本県波野村の国土利用計画法違反、私文書偽造などで逮捕起訴、以後同所で裁判が続く。

1990.12.7 教団は、母とともに出家した少年等についての非信者である父から申し立てられた人身保護請求事件で大阪地裁に続き最高裁でも敗訴

1992.3 ロシア救済ツァー。最高会議議長や副大統領と面談、日本向けラジオ放送など、

1992.9 社長が信者の会社を乗っ取り、精密工作機器を教団に持ち込む

1993.2 ロシアで自動小銃の製造工程を見学、AK47一丁と銃弾を入手

1993.6.6 越智直紀君の逆吊り死亡、死体遺棄事件、死亡1

1993.12 東京都八王子市の創価学会施設にて、サリン散布

1993.6-7 建設中の東京亀戸本部で2回にわたり異臭騒ぎ。たんそ菌を噴霧

1994.5 PSI(頭に教祖と同じ波長の電気を流すという)を開始、100万円1週間コース、1000万円永遠コース

1994.1.30 落田耕太郎さんリンチ殺害事件、死亡1

1994.3 宮崎県の資産家を東京・上九一色村まで拉致する事件の始まり。

1994.5.9 弁護士滝本太郎サリン殺人未遂事件

1994.6  旧ソ連製大型ヘリが富士宮に到着

1994.6  LSDや覚醒剤を使ったイニシエーション開始、死亡者続く。10名弱と思われる。

1994.6.27 松本サリン事件、死亡7名

1994.7 2度にわたり、上九一色村の第7サティアン付近で異臭。

1994.7.10 冨田俊男君リンチ殺害事件、死亡1

1994.7.15 出家者男性の温熱刑50度の傷害致死事件、死亡1

1994.8.24 上九一色村の竹内宅、公民館などから盗聴器が発見される。

1994.9 宮崎資産家拉致事件−家族・弁護団の努力で奪回して告訴

1994.9 滝本−内部で薬物使用が始まっていることを警察に通報

1994.9.20 江川紹子ホスゲンガス襲撃事件(不起訴)

1994.10.5頃から1年−江川、滝本宅の警備

1994.10 滝本VX事件(不起訴)

1994.10 警察が上九一色村の土を採取

1994.10.末 看護婦脱走−死亡事件・薬物使用の実際を警察に通報、監禁事件の被害者でもある。

1994.11.4 滝本、富士宮の旅館でのボツリヌス菌事件

1994.11 電気ショックで記憶を消す「ニューナルコ」を開始。

1994.11 上九一色村の土地からサリンの副生成物検出される。

1994.12.2 東京−水野昇VX襲撃事件

1994.12.5 出家者女性の長女を路上拉致

1994.12.9 信者であるピアニストの監禁事件の始まり−1995.3現行犯逮捕

1994.12.12 大阪−浜口忠仁VX殺害事件、死亡1

1994.12 漫画家小林よしのりへのVX殺人予備事件(不起訴)

1994.12末 全国警察会議−強制捜査の決定

1995.1.1 『読売新聞』一面に上九一色村でサリン副生成物報道

1995.1.4 被害者の会永岡弘行会長VX襲撃事件、重症1

1995.1.17 阪神淡路大震災)

1995.1 出家者の息子を小学校から拉致

1995.2 出家者女性の長女を薬物で拉致

1995.2.28 假谷清志さん拉致監禁、3.1致死、死亡1

1995.3.15 霞ヶ関駅アタッシュケース事件−−ボツリヌス菌毒素

1995.3.19 大学生拉致事件で教団大阪支部長らが逮捕、捜索

1995.3.19 宗教学者元マンション爆弾、自作自演の本部火炎瓶投込み事件

1995.3.20 地下鉄サリン事件、死亡12名

1995.3.22 全国の教団施設の強制捜査開始

1995.3.30 警察庁長官銃撃事件)

1995.4.23 教団「科学技術省」大臣の村井秀夫が刺殺される)

1995.5.5 新宿駅地下トイレ青酸ガス事件。 4.305.3も試みていた。

1995.5.16 麻原彰晃こと松本智津夫が逮捕される。

1995.5.16 東京都庁で小包爆弾破裂。秘書1名が重傷

 

第3 判決内容と各被告人の態度

   被告人は189名ほどの多数にのぼるので、その正確な態度を区分することはできない。だが、筆者自身がしたいくつかの弁護活動、面会、証人出廷、報道、出所後の面談によりある程度は分かる。

 以下、松本被告以外の、死刑判決と無期懲役判決を受けている被告人17名について概要を述べ、そのうえで、第4の責任能力や期待可能性、そしてマインド・コントロールについて述べる。

1 林郁夫被告 地下鉄サリン事件の撒布役、当時は48歳。慶應大医学部卒業後、有能な心臓外科医。43歳で家族とともに出家。
 1998年5月26日地裁で無期懲役を言い渡されて確定。地下鉄サリン事件で自ら実行犯であることを含め、松本被告らの関与も述べてこれが事件解明と更なる事件の防止に役立ち、反省も顕著として、求刑も無期懲役だった。
 筆者は、1994年11月、同被告と赤ん坊のみが出家しているという異様な状態解決のために長時間かけて交渉したが、同人もまさに嵌っている状態であり、その親を取り戻すためには、当日筆者にボツリヌス菌を飲ませるなど、騙してでも薬物を使ってでもしようとしていた。すでに内部での薬物使用の主犯格でありサリンの製造も知っていた。一方、刑確定後の証人尋問においても、オウム集団は他の勢力からサリン攻撃を受けていると思っていたと叙述している。
 同人は、筆者とも協議していた捜査官において宗教論議をせず超能力もいたずらに否定せず「先生」呼ばわりまでし、やさしく現実を見つめさせようとする取調べの中、地下鉄サリン事件をも話し始めた。
 弁護人は親が拠出した私選弁護人であった。弁護人がついた起訴後の段階では、すでに「麻原彰晃」の矛盾と欺瞞を理解している。すなわち、麻原彰晃=真我=全宇宙を大前提とするオウム真理教のビリーフシステムを崩壊させており、心配なのは、その後のアイデンティティが崩壊した状態、強烈な自己嫌悪からする自殺であった。拘置所において、同被告人の自殺防止に多大な努力を重ねたことは関係者の知るところである。
 同被告人は、後に「オウムと私」(文藝春秋社、1998年、2001年文庫化)という本を著しており、オウム事件の検討には必須である。  

2 宮前一明被告(旧姓佐伯、岡崎) 坂本一家殺人事件の実行犯。当時は29歳。経済的にも、養父との関係においても恵まれぬ家庭環境に育った。高校卒業後、建設会社に就職したが、転職を繰り返し25歳で出家。事件の翌年1990年2月にオウム集団から脱走した。1998年10月23日地裁で死刑判決が言い渡され、2001年12月13日高裁でも維持された。
 同人は、1995年の強制捜査開始後、自ら警察に連絡をとったが、坂本事件についての自分の関与を一部しか認めず、週刊誌の取材も受け、結婚のために一時期訪中するなどしていた。法廷で反省を述べるが、現実感をもったものかが疑われた。
 一審では、精神医学者小田晋と刑事法学の土本武司の共同での「心理鑑定」がなされた。「宗教心理的学的に被告人が麻原の命令に従って本件犯行を行うこと以外の行動を期待することは、実際上多少の困難を伴うか、少なくともそれを制約された状態にあった」「松本智津夫の言葉はすべて真理であり、同人と精神的に一体化することが自分の生きる道であると確信していて、松本の命令に従って本件犯行を行うこと以外の行動を期待することは困難であると認められる」などとされている。数ヶ月にのぼる暗闇の独房での感覚遮断、飢餓などによる心理操作が確認されている。
 控訴審では、証人として筆者が採用されたので面談して聴取した。脱走後も、麻原彰晃への恐怖心・帰依心を残していたことが判明した。2億円ほどを持って脱走し結局830万円ほどを教組から渡されたのだが、その後もいつかオウムの地元支部を作って戻ろうとも考えていたのであり、麻原彰晃から渡された宗教具(真我を示すというプルシャと言うバッジ)を逮捕まで持っていた。
 麻原彰晃に対して、親に対する畏怖心と甘えとを求めていたという感を持つ。

3 横山真人被告 地下鉄サリン事件の撒布役(自らの撒布自体によっては死亡者は出ていない)、武器等製造法違反など。東海大学工学部卒業後、企業勤務。同事件当時は31歳。1999年9月30日地裁で死刑判決、2003年5月19日高裁で同じ。
 同被告人は、法廷においてもきわめて無口である。オウム集団で曜日も時間感覚もなくした作業をしていたことが明白に認められ、また逮捕後取調官からひどい暴言、暴行を受けたという。事実関係や動機、教組の関与について詳細に述べないままだが、一審の最終意見で「いくらお詫びしても、償いができるわけではない思いから悩んできました」とか細い声で述べた。いったん脱会を表明したが、公判の最終局面において撤回し、また差し入れてもらっていた物理の専門書を読みふけっているという。
 地裁判決では、「松本被告の指示を絶対視して実行犯になった」「その動機は狂信的、独善的」と述べた程度であった。
 取り調べ方法が稚拙だったことが悔やまれる。同被告人が撒いたサリンによっては死亡者が出ていない。

4 北村浩一被告 地下鉄サリン事件の撒布者の搬送役。1999年11月12日地裁で無期懲役判決、2002年1月29日高裁、2004年10月14日最高裁で同じく確定。

5 外崎清隆被告 地下鉄サリン事件の撒布者の搬送役。2000年2月17日地裁で無期懲役判決が言い渡され、2001年12月26日高裁、2004年2月9日最高裁で確定。

6 井上嘉浩被告 地下鉄サリン事件の連絡または現場責任者ほか、当時は25歳。高校1年で阿含宗に入信、さらにオウム集団に入信、「修行の達人」「導きの達人」と言われる。大学1年の夏休みに出家。2000年6月6日地裁で無期懲役判決が言い渡されたが、2004年5月28日高裁で死刑判決。
 同被告人には、刑事弁護人として新たな方法を模索する弁護士がついた。筆者から言わせれば「刑事訴訟法を弁護するのではなく、まさに被告人を弁護する正しい弁護方法」であり、たとえば弁護人から本来は勾留の違法性を主張する場である「勾留理由開示」の法廷をつかって、事件を公の場で認めかつ現役信者らに対して「麻原彰晃」の欺瞞と限界を指摘して脱会を促すための場とした。被告人との接見も当初は、ほとんど毎朝いく状態であり、その中から真摯な反省がされてきた。
 だが、その反省は当初、現実感の薄いものと外からは思えるものであって、被害者らの耳にも空虚に感じるところがあった。麻原彰晃は否定できたものの、宗教的見地から被害者のよりよい冥福を祈る、また反省することを真摯に目指すとして努力するというものであった。その心理状態は、当会の理事西田公昭が心理鑑定人となり証言した内容に詳細に示されている。その後、当会の代表理事浅見定雄らが証人となるために面会が許されるようになり、市井の一人ひとりの命の尊さを、たとえば藤沢周平の著作を読むことを薦められ何度も面会を重ねるうち、現実感をもった反省にいたることができた。
 一審判決の折、裁判長から「決して宗教に逃げ込むことなく」と説示されたのはかような背景に基づく。死刑求刑に対して無期懲役の判決としたのは、地下鉄サリン事件の事実認定において「現場連絡役に止まる」と認定したこと、家庭環境の桎梏や高校生時代という不安定な時期に巧妙に「嵌められた」ことを考慮したのだが、しかし、かような真摯な反省を見ることができたからなしえた判決であった。
 しかし、控訴審判決においては、検察側の有力な反証も活動もないままに、事実認定において現場指揮役に近いものと認定して、死刑判決とした。多くの事件にいわば積極的にかかわっていること、オウム集団において相当の地位にあったことを重視して、最初から死刑判決と決めていたとしか感じられないものであり、量刑判断の緻密性と真摯な態度は、一審に比較して明らかに劣っている。 

7 林泰男被告 松本サリン事件の実行犯、地下鉄サリン事件の撒布役、当時は37歳。工学院大(2部)卒業、外国放浪などをしていた。2000年6月29日地裁で死刑判決、2003年12月5日高裁でも同じ。
 同被告人において特徴的なのは、オウム集団の多くの幹部が下の者から陰口を言われていたところ同人について悪くいう者はまずいなかったということ、地下鉄サリン事件において他の撒布役は2つのサリンが入った袋を手にしただけであるのに、最後に残った1つを少しの沈黙の後自らとって撒布したことである。同人は筆者との面会において「どうしてか、やはり言いようがない」と述べた。地裁の判決文でも上長らから仕向けられたことが認定されている。同人は、この3つ目のサリン袋を受領した時、上司である故村井秀夫から「誰がとるか尊師と賭けていた、当たった」などと言われたことから相当の疑念を持つに至っている。しかし、地下鉄車中で3つの袋に穴を開けて撒布し、その行為により8人を殺している。状況の拘束力、既成事実の重さと言うほかないのであろうか。
 同人は、事件後、男女関係に至った女性信者とともに1996年12月3日まで逃亡していたが、驚くべきはこの1年半の逃亡中、報道によってさらに教えに疑念を持ちつつも、やはり「麻原彰晃」=「真我」を示すプルシャのバッジは持っていた、ということである。
 同人への一審判決は死刑であったが、同時に判決文は「麻原および教団とのかかわりを捨象して、被告人を一個の人間としてみるかぎり、被告人の資質ないし人間性それ自体を取り立てて非難することはできない。およそ師を誤まるほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまた、不幸かつ不運であったと言える」と述べている。死刑判決の中にかような文脈があるのは、まさに異例中の異例である。
 まさに、オウム事件が「良い人が良いことをするつもりでした途方もない極悪非道の事件をした」「悪意の殺人は限度があるが善意の殺人は限度がない」「地獄への道は善意の敷石が敷かれている」という空恐ろしい本質をもっていることを理解したうえでの判決であった。

8 廣瀬健一被告 地下鉄サリン事件の撒布役ほか、当時は30歳。早稲田大学理工学部応用物理学科を首席で卒業、修士課程を修了。企業に内定していたが出家。同人も他の多くの被告人と同じく、信者になる前「クンダリニーの覚醒」という体験(尾骶骨に眠るエネルギーが熱となって登頂に上がってくる感覚であり、これが解脱に必要でありまた空中浮揚の能力をもつ根拠となる)をして、オウムの教えを真理と考えて、指導教授から空中浮揚の非科学性を指摘されながらも、出家していく。2000年7月17日地裁で死刑判決、2004年7月28日高裁でも同じ。
 同被告人は、裁判中の1999年4月ころから半年ほど、精神に変調をきたし、法廷も休止せざるを得ない状態となった。同被告人は、話すときにはどの法廷でもきわめて正確かつ詳細に、驚くべき記憶力で述べている。

9 豊田亨被告 地下鉄サリン事件の撒布役ほか、当時は27歳。東大理学部、修士卒。博士課程へ進学したが1ヶ月経たないうちに出家。2000年7月17日地裁で死刑判決、2004年7月28日高裁でも同じ。
 同被告人は、最初の法廷での意見陳述で 「罪の意識というもの」が「日々おもたくなる」「犯罪の重さは、日に日に自分にのしかかってくる」と表現しており、その現実感ある態度からすると、早い段階でマインド・コントロールを脱していることが推察できる。同人はいわゆる神秘体験をしていないとのことであり、それが影響していたのかもしれない。
 豊田被告、広瀬被告及び杉本被告は、共に進行するに統一公判となっている。うち豊田被告と廣瀬被告については、当会の前代表理事である高橋紳吾医師が証人となり、感応性精神病類似の症状や解離性障害に陥っていたことを証言している。
 同被告は、地裁での最終意見陳述で「‥‥生きていること自体が申し訳なく、また浅ましいことのように思われます。‥‥それに加えて、教団の関与した数多くの犯罪行為のうち、自分の関係していないものについても、もちろん当時は知らなかったわけですが、正直なところ、指示されていたら、やらなかっただろう、といえるものはひとつもありません。‥」と述べている。
 オウムの諸事件において、実行犯になるもならないも「紙一重」だったことを示す発言である。

10 杉本繁郎被告 地下鉄サリン事件の撒布者の搬送役ほか。2000年7月17日地裁で無期懲役判決、2004年7月28日高裁でも同じ。
 同人はまた、富田さんリンチ殺人事件にも関与している。松本被告がスパイだと言ったがゆえに、新実被告ともどもリンチのうえロープで絞殺するまでをしたのだが、新実被告から爪の間に待ち針を多数刺すように言われてもできず、熱した火かき棒を強く押し当てることができず、ロープの絞め方も手緩かった。
 弁護人いわく、起訴後の弁護に入ったときにはマインド・コントロールはもう解けていたということである。思うに、現実感ある立場での事件を起こした者ほど、また被害実態を知らされるなどの現実に直面せざるえない調べ方をされた者ほど、マインド・コントロールは解けやすいのではないだろうか。
 たとえば、坂本弁護士一家殺人事件の実行犯では、未だ正当性を主張しているのは新実被告だけでありまた同人とて事実自体は認めている。一方、サリン事件の製造役であった遠藤被告は自らの責任を認めるに不十分、土谷被告にあっては撒かれたサリンは自分たちが作ったものではないのではないか、などとの妄想をするまでに至っている。
 「殺す」という現実感ある行為をしている者ほど、直面する課題が眼前に迫るのではないか、と思われる。

11 端本悟被告 坂本一家殺人事件、松本サリン事件の実行犯ほか。坂本事件当時22歳。早大法学部を3年で中退して出家。2000年7月25日地裁で死刑判決、2003年9月18日高裁でも同じ。
 同人は、出家して約一年後、武道大会で優勝したことから、坂本弁護士を最初に殴打するだけの役目だと聞かされて、坂本一家殺人事件への関与を始めた。結局アパート内で3人を殺害するという現実感ある事件を起こしたにかかわらず、後に松本サリン事件にも関与した。
 この機序を理解するには、もともと、オウム集団においては、あらゆる途方もないことがグルの指示によるのであり、多くは失敗に終わっていることを見逃せない。同人はたしかに坂本事件に関与した。が翌年4月の国会周辺へのボツリヌス菌撒布などはなんら効果がなく、やがて水中都市をつくるための潜水艦実験の被験者となりドラム缶をつなげた潜水艦が沼津港に落ち、洗面器の下から海水を見て危うく死にそうな事態とまでなっている。松本サリン事件で実際に死亡者が出たことの驚きは本人の言うとおりだとも思われる。
 つまり、空飛ぶ座布団、飛行船、ミニブラックホール、水中都市、レーザー兵器、ウラン鉱石から始める核兵器開発と同じ位相で、化学兵器も薬物も開発・製造されたのであり、その多くは失敗に終わっていて、オウム集団がそこまでできるとは幹部らも容易に納得できなかったのではないか、と思われる。そんな中、端本被告は、麻原彰晃に対する疑念も認識も早くのうちから持っていた。
 では問題は、どうして早くに脱会しなかったのか、少なくとも坂本事件以降の事件に関与しないようにできなかったのか、である。実は、同人は1990年春、家族の会らで富士山総本部まで呼びかけ行動をした折、母親と話すまでできており、後に分かったことだが実家近くまで何度も来てもいた。だが「もう帰れない」と思ったとのことである。坂本事件に関与したことがルビコンの川を渡ったしまったとしか言いようがない。

12 早川紀代秀被告 坂本一家殺人事件の実行犯ほか、当時40歳。神戸大農学部を卒業後、企業に勤務し出家。2000年7月28日地裁で死刑判決、2004年5月14日高裁でも同じ。
 同被告は、主要な被告人の中でグルである松本被告より唯一年長であることが注目され、ロシアにも何度も行き来していたことから「非合法活動の最高責任者」などと言われた。だが、裁判の過程で同被告人も、松本被告を「最終解脱者」と信じその「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」が利他心に基づくものだと信じきって、不動産などすべての財産を処分して妻ともども出家したことが明らかになっている。
 注目すべきは、同人は、1995年5月16日の松本被告の逮捕の日に脱会し、半年後、「事件を歴然たる事実として現役信者も見つめるよう」法廷でも述べていたが、真実すっきりとしたのは、1999年7月のいわゆるハルマゲドン(日本では五島勉氏が著書で喧伝した世界最終戦争)が、結局なかった段階だということである。筆者もまた、少年のころ、43歳である1999年には死ぬのであろうと考えていたことを、同人と面談して聴きながら思い出した。
 同人はまた、一部の陰謀論者がいうところでは「オウム真理教は北朝鮮の先兵・傀儡として動いた」などという根拠としての北朝鮮に何度も往復した者とされているので、付言する。同人は、それはまったく間違いだと法廷でも明言し、筆者との面談でも同様である。いまさらそんなことで嘘を言う必要がないでしょう、滝本さんまで聞かないでください、ということであった。
 同人は年長であること、多くの事件にかかわったことから、当初から死刑判決を受けることを覚悟して逮捕されたものでもあった。同人の弁護人が法廷できわめてざっくばらんに被告人質問をし、外部に対するオウム事件では多く変装をして犯し、逃亡の際も女装までして逃亡したことなどのおろかさ加減を指摘すると、恥じ入る状態であった。
 同人の法廷で、松本被告が証言を拒否して退廷させられたときの被告人の号泣こそは、オウム事件の信者である実行犯たちの立場を象徴するものであった。

13 中村昇被告 松本サリン事件の実行犯ほか。2001年5月30日地裁で無期懲役判決、2004年9月25日高裁で同じ。

14 新実智光被告 内部でのリンチ殺人事件の主犯格、坂本一家殺人事件の実行犯、地下鉄サリン事件の実行犯搬送役ほか、坂本事件当時25歳。愛知学院大法学部の4年生の時入信、就職後半年で出家。2002年6月26日地裁で死刑判決
 同被告人はオウム本の営業などを指導した宮前被告に言わせれば「言葉を話すドーベルマン」である。しかし、オウム内部では必ずしも軽蔑されていたのではないし怖がられていたばかりでもなかった。ふざけて話すことも少なくなくあったと聞く。同人は教団の書籍の中で自らの口唇裂と手術跡の悩みを教祖に癒されたことを述べている。同人は、1993年の八王子の創価学会施設サリン事件にて自ら重体になりながら、両サリン事件にあたかも気軽に関与できたのであり、やはり不可思議である。
 同人は、長い間法廷でも完全黙秘を重ねてきたが、やがて事件自体も松本智津夫被告の指示も認めるようになる。それも「麻原彰晃」への帰依を明言したまま、ヴァジラヤーナという宗教殺人の実践としての殺人を認めるようになる。法的にはこれは松本被告を有罪と認定するきわめて有力な証言であり、いわば駄目押しであった。
 同人は、地裁での弁護側立証に入った後の意見で次のように述べている。「‥私自身は、千年王国、弥勒の世のためには、捨て石でも、捨て駒でも地獄へでも至ろうと決意したのです。‥‥ですから、いま、このような形で「死刑」に処せられようとも、なんら後悔すべきことはありません‥なお、「シャンバラ化計画」が失敗したことによって、父、母、親族、知人、友人、被害者の方々、教団のサマナや信徒、宗教関係者、そして日本国民ほかにご迷惑をおかけしたことを謝罪します‥」と。
 同人は、教団の費用で私選弁護人をつけてきたが、弁護方針は、一連の事件はすべて「内乱罪」の一環なのであるからこれに吸収され、死刑は刑法にあるとおり首謀者のみである、というにある。マインド・コントロールを含め、松本被告の指示に従ってきた心理的機序については、主張立証することがない。

15 遠藤誠一被告 サリン製造ほか、当時34歳。帯広畜産大獣医学科、同修士を終了後、京都大学医学研究科博士課程の際、入信して中退後出家。2002年10月11日地裁で死刑判決
 同人は、1990年以降、ボツリヌス菌から毒素を取り出すなどの裏ワークに没頭することとなるが、能力不足のために成功しないままであった。後に出家してきた土谷被告が、サリン、ソマン、タブン、イペリット、LSD、覚せい剤、チオペンタールナトリウムなどを製造できた、わけてもサリンの大量製造計画を作るまでしたこととの比較が、もっとも弁護材料となる。
 しかし、同被告人も、主観的には松本被告のいう「救済」のために努力したのであって、地下鉄サリン事件で使われたサリンは、土谷被告に指導されながら同人が作っている。
 同被告人は、当初は「すべて認める、罪一等減じられたい」という私選弁護人の指導で事件を認めたが、弁護人解任、黙秘、そして改めて話し始めるという経緯をたどる。当初の弁護人が、通例の「ともかく死刑になりたくない」という被告と同様に考えたのではないか、マインド・コントロールを解く作業をなんらしなかったのではないか、オウム事件の特徴をなんら理解していなかったのではないか、と気になる。
 同被告人は、地裁での最後の被告人質問において「‥在家時代、犯罪への関与前後を含めて、自分自身の神秘体験、修行体験は貴重と思っている。だからそういう体験を麻原さんに言われて体験した以上、麻原彰晃さんの弟子と言える。ただし帰依している状況では今ありません」というのであり、オウムでのもろもろの体験を解決しないままに裁判を受けているという外はない。

16 中川智正被告 坂本一家殺人事件の実行犯、サリン製造ほか、坂本事件当時27歳。京都府立医科大の6年生のとき、友人の入信を止めようとして麻原彰晃に感化されて入信。医師となった後の1989年8月末に恋人とともに出家。2003年10月29日地裁で死刑判決
 同被告人は、出家後わずか2ヶ月あまりで坂本弁護士一家殺人事件に加担したことが注目される。同人に特異なことは、幼いころからさまざま「神秘体験」をしてきておりこれが不安のままに成長してきたところ、麻原彰晃に出会ってしまったということであった。被告人としては、実際に前生の自分を見ていて、日常的に物理的に麻原彰晃が光っており、麻原彰晃を見ると心臓が喜び同心円状に体に広がっていった、と言うのである。
 宗教現象上の「巫病体質」と表現するものだと指摘する人もいる。これを抱えた被告人を絡めとるのは、松本被告にとって容易だったろうと思う。同人は、坂本事件の実行の際、全宇宙=真我=麻原彰晃を示すバッチであるプルシャを着用しており、これを殺人現場に落として発見されたがオウムに強制捜査が入らなかったことから更に深く麻原彰晃の能力すなわち絶対性を確信している。この影響は、裁判中も大いに影を落としている。同人は「消えてしまいたい」と言いつつ、だが法廷で麻原を見るとやはり光り輝いて見えると言うのである。
 およそ宗教では「神秘体験」の位置づけが大切であるが、カルト宗教でも神秘体験はもちろん認められ、これを利用されたとき人をよりロボットのような存在になしうるのだと思える。
 筆者は、筆者へのサリン事件の被告人でもあるので検察側証人に出たが、その際、現実感を戻すべく下記のとおり述べた。その時の大きく震えた同人の短い指は、忘れられない。「あなたの手をみせて下さい」「あなたはその手で多くの罪を犯した。あなたは、1989年11月4日未明、その手で坂本龍彦ちゃんの鼻をふさいで殺した」
 同人も、坂本堤弁護士が救いたかった出家者だった。

17 土谷正実被告 サリン製造ほか、地下鉄サリン事件当時30歳。筑波大学大学院有機物理学を専攻しているときに入信、24歳で出家。2004年1月30日地裁で死刑判決
 同被告人については、新実被告と同じく一貫してオウム側が資金を拠出する私選弁護人がついてきた。その内容は、サリン事件などについて自ら作ったサリンが使われた認識はなかったというに止まらず、弟子の暴走だった、自分が作ったサリンとは違うなどと主張するまでに至っている。
 同人は証人に出た松本被告公判で、最後に詞章として「‥すべての魂がマハー・ニルヴァーナに安住出来るようになるまで何卒お導きを、偉大なる完全なるグルに帰依し奉ります‥私の功徳によってすべての魂が高い世界へポアされますように」と述べた。
 一連のオウム事件が、松本被告にとっては格別、その他の者にとっては明確に宗教殺人であったことを示すものである。 

第4 マインド・コントロール−「責任能力」と「期待可能性」について。

 1 構成要件該当性、違法性、責任について。
 刑法理論では、有罪のためには上記の3つが必要である。殺人であれば殺人として、窃盗であれば窃盗の実行行為が必要である。既遂のためには、結果の発生と、実行行為との間の因果関係(条件的因果関係で足りるとするのが判例である)が必要であり、これらをあわせて構成要件該当性という。人のものだと思って自分の忘れ物を横領しても無罪である、実行行為性がないからである。人を殺そうとしたが怪我にとどまって入院し病院が火事となって死亡したときは、因果関係が断絶したとして殺人未遂に止まる。
 有罪のためには違法性が必要である。ボクシング試合で死亡させてしまったときは、傷害致死の構成要件に該当するが審判にしたがって行動した限りでは正当業務行為であって違法性がなく無罪である。急迫不正の侵害に対して反撃して死なせたときは正当防衛として無罪であり、ただ過剰に防衛していれば減刑されるにとどまる。船が沈没して1枚の板に2人でつかまると沈むとき、蹴飛ばし落として死なせても無罪である(カルネアデスの舟板)。
 有罪のためには、責任が必要である。責任とは近代刑法では「非難可能性」のことを言い、犯行当時、行為者を非難することができる状態が必要だということである。刑罰は行為者の危険性を除去しようとすること自体、社会から隔絶しようとすること自体を目的とするのではなく、行為に対する非難の一形態として処罰を与えるものだからである。
 なお、この責任主義を採らず、社会からの防衛のための刑罰だということを徹底すれば、「危険な人物」を事前に隔離するいわゆる「保安処分」の位置づけは、本質的に刑罰との違いをもたないこととなる。
 また同居の親族間の窃盗であれば処罰できず、親告罪なのに告訴がなければ処罰にはできない。これらは処罰できないとする特則にすぎず、有罪ではある。

2 責任能力と期待可能性について。

責任が認められるためには、現行刑法上「責任能力」があることが必要でありさらに「適法行為の期待可能性」が必要である。その上で、責任の度合いには被害の内容、程度、犯行態様、被告人の関与度合、動機、犯行に至る経緯など実にさまざまなことが考慮される。
 責任能力については、刑法39条で「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」と規定している。精神異常に完全に陥っていて犯行当時、自分のしていることの意味をなんら理解していなかったり(見当識を欠く状態)、頭で理解していても自分の手足を止められない状態であるならば、その犯人をその行為をした者として非難することができず無罪となる。
 筆者の経験した例では精神異常の状態での行為なので不起訴となったもの、鑑定したところ前頭葉広範壊死の状態であって複雑酩酊に陥ることが判明して心神耗弱とされたものがある。
 ここにいう心神喪失や心神耗弱は、精神科医らの鑑定などを大いに参考にするが、あくまで法律上の概念であり裁判所が判断する。判例上は「心神喪失は、精神の障害によって事物の理非善悪を弁識する能力がなくまたは弁識に従って行動する能力がない状態をいい、心神耗弱はその弁識能力又は行動能力が著しく減退している状態をいう」とされている。精神の障害には、統合失調症のときの一部の状態などのほか、病的酩酊、覚せい剤での見当識を完全に失った場合なども含む。
 が、責任の本質を他行為可能性、法的非難可能性と理解するならば、むしろ端的に行為時における弁識能力、制御能力の有無・程度こそが重要であって、「精神の障害」と言う生物学的要素を必然とする理由は自明ではないとの批判がある。
 一方、「適法行為の期待可能性」は、条文にはないが通説判例上、必要とされることとなった概念である。伝統的には絶対的強制下の行為や軍隊での上官の違法命令に従った場合などが例に挙げられる。また「ああ無情」のジャンバルジャンのように飢えに苦しんでいるときの食物の窃盗のような場合も「期待可能性」の問題とされる。
 ただ、前記の責任能力について、制御能力の有無・程度こそが重要という立場をとるときは、責任能力の存否・程度の違いと期待可能性の問題は、本質的な違いを持たないものとなる。
 ちなみに、殺すことによって被害者を天界に導けるのだなどと確信して実行した「宗教殺人」であるとき、それがゆえに責任能力や期待可能性がないとか減退しているという立場を、裁判所は絶対に採らない。これらは、単に革命のためには拳銃強盗もすべきだなどとして罪を犯した場合と同じく「確信犯」だというに止まり、再犯の可能性もあるから刑を重くする根拠でありこそすれ軽くしたり、無罪にする根拠ではない。この点を誤解している弁論も一部見られた。

3 マインド・コントロール

マインド・コントロールは、さまざまな心理操作の手法を有機的にかつ集積して使われ、睡眠不足、栄養不足、情報の隔絶のもとで、ビリーフシステムを変容させられてしまうものであった。
 その結果、統一協会でいえば、壷や絵画などを多額で売る相手方から「万物復帰」させて罪を清めるためであるとまさに信じて激しい恐怖感を与えて売り込むのであり、オウム真理教であれば後に地獄に落ちないように「ポア=殺してあげる」こととなる。
 しかし、本人らは、現行法に違反していることを自覚して行動しているから見当識を欠く状態とは容易に言えないし、自ら行動しているから手足になっていたとも容易にいえない。筆者らの多くは元信者の話を聞き実行犯らから直接詳しく聴取することにより、むしろ「何も考えておらず思考停止していた状態=ロボットだった、ロボットでも障害物は避けるのだ」とまでの感想を交換しているのであるが、裁判所は容易に理解しない。
 マインド・コントールは、先の「責任能力」「期待可能性」の理論の中で、判例に従えば期待可能性の問題と量刑の一般事情に止まるが、責任能力について「精神の障害」と言う生物学的要素を必然とする理由は自明ではないとの有力な批判に従えば「責任能力」の問題でもある。
 では、オウム事件の判決の中で、オウムでの心理操作の手法はどのように事実認定され、「マインド・コントロール」はどのように評価されたであろうか。

 結論から言えば、マインド・コントロールを理由として、責任能力がないとか、期待可能性がないとして無罪にした判決文はないし、量刑に多くが影響したものでもなかった。
 だが、2000年6月6日言渡しの井上被告に対する東京地裁で判決のように、実質上マインド・コントロールを認め、その他情状とあわせ死刑判決を避けたものが見られる。これと類似する判示は、1999年7月22日の富永昌宏被告に対する東京地方裁判所判決での「本来は純粋な宗教心から教団に入信し、出家したものであるが、それを松本や井上らから逆手に取られて利用された側面も否定できないこと」として量刑に影響を与えたと見られるものや、重大事件であって自ら撒いたサリンで8人が死亡していることもあって裁判官の悩みを吐露しつつ死刑判決としたが、異例の判決文を書いた林泰男被告に対する判決文も見られる。
 井上被告に対する地裁判決は、次の通り判示している(なお、高裁判決は前記のとおり格別の判断をしない欠陥判決であった)。これが、現在の裁判所におけるマインド・コントール理解の到達点だと考えられる。

「しかし、被告人は、高校二年の一六歳の時にオウム真理教に入信し、高校を卒業直後に出家をし、大学一年の夏休み前まで教団施設から大学に通ったのみで、その後は、専ら教団内で生活し、一般の社会人としての経験は全くない。そして、被告人は、もともと解脱、悟りを早く得たいとの強い欲求があり、入信後は、できるだけ早く解脱、悟りに達し、社会を救済したいと考え、Dを信じて、人一倍熱心に修行に励んでいた。被告人が入信し、さらに出家した当時のオウム真理教は、まだ武装化など反社会的性格を顕著に示してはおらず、被告人が、当初Dを信じ、Dに従っていたことを一方的に強く非難することはできない。その後、Dを信じていた被告人は、オウム真理教が武装化を始め、反社会的集団に変貌していく中で、自己に課されるワークの内容や修行内容に対して、疑問を持ったり、教義と自己の価値判断等との間で葛藤しながらも、結局は、Dを信じ、Dに従ってきたのであるが、被告人がこのような葛藤の中で、Dを否定することは、入信や出家までの間にそれなりの社会経験を有し、社会的地位や家庭を築いてきた者と比較すれば、より困難であったことは否めないところである。被告人にとっては、高校卒業後に修行者となることを選択して出家し、両親の下を離れて以来、修行、生活の場としていた教団こそが、被告人が社会経験を積み、人間的に成長して行く世界となったはずだったのである。このような被告人が、Dやそれまでの自己の修行を否定することは、自分の社会経験をすべて否定することにつながり、必ずしも容易なことではなかったであろうことは、率直に認めざるを得ない。
 そうすると、このようなDの影響下から離脱することの困難性は通常の者と比較して程度問題に過ぎないから、それをもって責任能力や期待可能性の存否に影響を与えるまでのものではないことはもとよりであるが、本件各犯行当時、被告人が置かれていた状況や心理状態は、被告人にとって有利な情状の一つとして、決して過大視はできないものの、それなりに評価することが相当である。
」と。

付言するに、どの法廷においてもオウム集団において1994年6月以降使用されたLSDと覚せい剤の影響についての審理が不十分であったと言う外ない。ベトナム戦争で米軍人に覚せい剤が使われたことは広く知られているし、そもそも覚せい剤は日本で喘息治療薬を開発する中で製造され、日本軍の特攻隊も覚せい剤を摂取した上で投与されたうえで飛び立ったのであり、戦後のヒロポン(覚せい剤)乱用も軍部から流出した結果であった。
 通例できないことをさせるためには、物理的な強制力ある軍隊においてさえ、薬物の作用とその後の影響を利用したのである。さらにLSDは、強烈に色彩豊かな幻視を引き起こすのであるが、「麻原彰晃」の写真を部屋内に掲示してその幻視の中から「救ってくれる人」という宗教設定が結びつくとき、絶対的な支配が著しく増幅すると思われるのである。

ことは死刑や無期懲役にすべきかどうかの重大な問題である。マインド・コントロールと薬物の影響について精緻な審理と判断をしないまま、どうして判決を出せるのであろうか。

第5 オウム真理教被害対策弁護団について

オウム真理教被害対策弁護団では、強制捜査開始の後、オウム信者の弁護活動についてどのようなスタンスに立つか悩むこととなった。二律背反の立場に立ったからである。

つまり、一方では、それ以前からオウム集団のしていた加害について対応し告訴告発し、また当時マスメディアを通じてオウム集団の実態や本質を説明して国民に理解を求め、またサリン事件の被害者らからも相談が来た。しかし、弁護団はもともと「オウム真理教被害者の会」の顧問弁護士であり、出家者らのご家族やマインド・コントロールされていた本人らも被害者であった。

その究極は、まさにその被害者の会に所属するご家族の息子らが、弁護団を作った代表である坂本弁護士一家殺人事件の犯人だったところにある。同弁護士も弁護団も、もともとオウムに絡めとられた子どもらを救済することを目的としていたのだった。これほどの矛盾に直面した弁護団は初めてだったろう。

また、後に筆者に対するサリン殺人未遂事件が判明したが、この際も被害者自身がそのうちの一部の被疑者を弁護していいものかという悩みにまでなったのであった。

結局、議論のうえ、3つの要件をクリアーした場合のみ、弁護人となることを了解することとした。「人を殺すまでの重大事件ではないこと」「オウムから離れる傾向にあること」「大幹部ではないこと」である。

その弁護活動はまずもって麻原彰晃というものを見つめなおし、現実感を取り戻すためのさまざまな工夫をすることとなった。実例として、林郁夫被告とともに出家した看護婦の弁護活動において、本人に現実感を取り戻させ、オウムの本質と桎梏から離れる辛さを明らかにできるという成果があった。オウム集団でのマインド・コントロールされた状態を最も知る弁護士は被害対策弁護団の弁護士であり、その方策も研究していたからできたことであった。その上で争うべきところ、多くは分断統治されていたオウムの実態から容易に推測されるように当該犯罪の認識・故意の部分を争った。その他、捜査段階では何人もの弁護活動がなされた。
 その後、数百人に上った国選弁護人のうち重大事件の被告人について弁護士計10人前後の方が、オウムの実態と心情の理解、対応策を知るために助力を求めてこられ、これに対応することにより一定の成果があった。

だが、前記の方針が正しかったかは、今も分からない。死刑や無期を求刑されるだろう被疑者・被告人らに対して、それこそ、もともと「被害者」と設定した者についての行動ができなくなったからである。もともと坂本が救いたかったのは、そんな後に被告人となった若者の一人ひとりだったのだから。サリン被害者などのいわば純粋な被害者に対してはまったく別の弁護士が対応すべきであり、被害対策弁護団こそが弁護活動の先頭に立つべきだったという声もある。
 後に地下鉄サリン被害者弁護団などが別途でき、また弁護団中二人は友人である坂本事件などの民事訴訟の代理人にさえ、後のために名を連ねずにいた。そのうえでこれも大激論の上ではあったが、地裁や高裁での弁護側での申請でも証人として出ることができ、また筆者が重大事件の被告人らとの接見もしているのは、このような工夫に基づく。

この点を、後世のために記述した。 

 

第6 いわゆる「麻原法廷」について

 1 松本智津夫被告の態度

麻原彰晃こと松本智津夫被告人の裁判は迷走の一途をたどっている。後世のために記述しておく。

同人が逮捕されたのは1995年5月16日である。上九一色村の第6サティアン3階の天井に急遽作られた隠れ部屋の中から830万円近い金銭とともに発見された。同人はそれ以前、肝臓ガンであるとかQ熱リケッチアであるとか述べていたが、至極健康体であった。
 同人は、同年10月に最初の公判を予定されたが、それ以前、刑事弁護において著名な遠藤誠弁護士に面会してもらったが自己の責任を認めないとして拒否され、金2000万円を支払って横山弁護士(後に別件で弁護士会除名)に依頼し「責任能力がないとして無罪になるのはどうしたらよいか」と問うなどしたが、他の弁護士の助言により一端解任してまた選任し、さらにこの弁護士が公判前日にオウム信者運転の自動車に乗っていて不自然な自動車事故により怪我をして出頭できないとして、公判は延期された。

 

結局、1996年4月24日に第一回公判が開かれ、12人の国選弁護団が罪状認否を保留する一方、同人はオウム流の四無量心の説法をした。注目されるべきは、その上で裁判長が「聖慈愛、聖哀れみ、聖賞賛の実践」にかけて「心の実践として行ったということですか」と問うに、ウッと詰まった被告人を助けるように、安田主任弁護士が「あなたはこれ以上言う意思ありますか」と不規則発言をしたことだった。裁判長はさらに「被告人に聞いているのです」と述べたが、もはや果たせなかった。黙秘権の告知は罪状認否の前にもちろんしていた。筆者は、この主任弁護人の許されざる関与が、ボタンの掛け違いの始まりだと考える。
 同人は、同年5月から始まった破壊活動防止法の団体解散処分の対象団体代表者として弁明した。自らのしかし事件指示は一切認めない主張を縷々述べた。そして、同人は、井上嘉浩被告の証言を皮切りに数々の証人に対して「地獄に落ちるぞ」などと証言妨害を続ける有様となり、退廷を何度も命じられる状態になっていった。
 同人は、前記破防法の処分が認められなかった後である1997年4月24日、改めて意見陳述をした。このとき、起訴された順さえ間違えず驚異的な記憶力で罪状認否をした。その内容は「空母エンタープライズの上での裁判だ」としたり拙い英語(オウムでは悪魔の言葉としていた)で話すなど噴飯物ではあった。しかし、法律的にはオウム真理教が両サリン事件を起こしたこと自体、また筆者へのサリン撒布を指示したこと自体は認めてしまったものであった。また証人への威迫などの態度とあいまって、実行犯らの同人への帰依は、ますますゆるがせられる結果となった。
 同人は、やがて自らの法廷では何も話さなくなり、他の被告人の法廷においても、唯一自ら宣誓書全文を書いた広瀬ら被告の法廷で事実を一部認める証言をしただけであり、弁護団との面会も拒否するようになってきた。
 そして、弁護団とは意思疎通を回復しないまま、論告求刑・弁論となり、最終の被告人意見陳述ではついに何も述べず、2004年2月27日死刑判決を受けた。
 控訴審では、従前の国選弁護団は絶対に受けないとし、被告人の娘らが選任した子どもら後見人ともなった弁護士が就いたが、引き続き接見を拒否しているとのことである。

2 検察の論告

2003年4月24日、東京地裁において、検察は「首謀者であり、最も重い責任を負う」「わが国犯罪史上、最も凶悪な犯罪者」とのA4で285ページにのぼる論告を述べたが、きわめて重要な点がすっかり1つ抜けていた。すなわち、実行犯らへの指示した言葉や事件後の「3人殺せば死刑だな」とか「ポアされて良かったね」などの言葉は示したものの、なぜ被告人が実行犯らにこのようなことをさせ得たのか、その心理的機序について論及することがなかったのである。
 おそらく、これを述べるときにはマインド・コントロールで表現されるさまざまな心理操作の手法と、LSDや覚せい剤まで使った洗脳の実態を示さなければならず、それは他の実行犯被告人らにとって有利になるからであろう。
 オウム事件において知るべききわめて重要な一面を抜かしたのは後世の批判に耐ええない。思い出してみれば、1995年初夏、東京地方検察庁次席検事は記者会見の中で「マインド・コントロールによって調べは困難を極めたが、ようやく供述を得ることができた」と述べていた。被疑者の調べでは、筆者が1995年2月に提供していた「心覚え」なども利用したことが後に明らかになっており、取調官としても、実行犯信者らのそんな心理状態が率直な印象だったはずである。マインド・コントロールが大変な心理的拘束力を持つものであってそれこそが松本被告の責任をよりますものであった。
 しかし裁判が始まってついに論告でも、これをとんと述べていないのであり、検察側もご都合主義と批判されるほかない。

3 国選弁護団の弁論

一方で、弁護団の弁論は814ページにも上る大部のものであったが、予想どおり、弟子の暴走だとするなど荒唐無稽であり説得力を欠くものであった。弁護団は、筆者が証人となったおり「麻原さんは霊性が高いという学者もいるがどう考えるか」とまで聞いてきた。およそ裁判で宗教論議自体をするなど愚の骨頂である。「語りえぬものには沈黙しなければならない」からである。筆者として「霊性というものを持って出してください、そうすれば高いか低いか言います」と述べるべきところ、「何を言っているんですか、後ろにいる現役信者を喜ばせるだけです」などと述べるに止まったのは残念至極である。
 すなわち、弁論では、被告人が内外の宗教家、宗教学者からも高い評価を受けていたとして(後にその人たちが言辞を撤回したことは頬かむり)宗教家としてすぐれていたとした。そして、そのような「本物の宗教者」である被告人が事件を指示するはずはない。一方で実行犯となった高弟たちは、被告人の言うところの一部を抽出したり都合のいいように解釈したりして行動したのであり、弟子たちが自らの判断であるいは被告人の意思を勝手に忖度して暴走した犯罪だった、というのである。
 これらは、多くの実行犯たちの様々な証言、わけても未だ同被告人に帰依している新実被告の証言にさえ矛盾する弁論であるが、もっとも問題なのは、弁護団においては「宗教者」であれば罪を犯さないという論理に立っていたことであった。
 たしかに、1995年のオウム事件が広く知られた当時、少なくない宗教家は「オウムは宗教ではない」などと言っていたから、宗教家かどうかを問題としたい向きもあろう。
 しかしオウム真理教も、超自然的・超人的な存在を信じて畏敬・崇拝するのであるから宗教であることは明白である。それは違法行為を重ねる統一協会の信者において、その代表をイエスキリストにも勝るものであると信じるのと同様である。
 問題は、破壊的カルトであるかどうか、どの程度のカルト性をもっていたか、であった。破壊的カルトとは「代表者または特定の主義主張に絶対的に服従させるべく、メンバーないしメンバー候補者の思考能力・思考意欲を停止ないし著しく減退させ、目的のためには違法行為(刑事民事行政上の)も繰り返してする集団」である。これと宗教であることとは矛盾しない。たとえれば、破壊的カルトかどうかは1sか10kgかの問題であり、宗教かどうかは1mか10mかの問題なのである。
 さらに、伝統宗教であっても、信教の自由や政教分離原則のなかった成立発展時の社会体制や情勢によっては、さまざまな非道の行為をしてきた歴史があった。
 これらのいわば基本的な常識を知るならば、およそ「本物の宗教家であるから犯罪を指示していない」などという論法を取れるはずもなかった。
 同弁論は、歴史に残る荒唐無稽なものだったと考える。

4 一審判決と今後

一審判決は、2004年2月27日に下された。被告人は、最後の死刑宣告の際、起立するよう言われたが立ち上がらず、裁判長の手の合図で刑務官数名が両手をもって立ち上がらせようとしたが腰を落として抵抗し、引きずられて正面にようやく立った状態だった。
 判決では、詳細な事実認定がなされた。被告人が「本物の宗教家かどうか」については明言せずに「悪質極まりない空想虚言のもたらしたもの」「あさましく愚かしく、極限とも言うべき非難に値する」とした。
 だが、なぜ実行犯らにそこまでさせ得ることができたかについては、教祖と弟子の関係などというにとどまった。不十分至極であり、事件の重要な本質を示さないままだった。
 控訴審では新たに私選弁護人が就いたが、被告人は接見に応じない。弁護人は言葉も話さないとのことであるから裁判を受ける能力がないとして、裁判の停止またそのための鑑定をなすべきとした。が、高等裁判所はうけいれず、単に控訴趣意書の提出期限を2005年1月11日から8月31日に延ばしただけだった。
 思うに、被告人の法廷での態度が以前から前記のとおりだったことからすると、今回も詐病である蓋然性がある。が、高裁でこのまま実質的な審理がないままに判決が確定していく可能性があり、それでは歴史の検証に耐えられない。何らかの実際的な対応が求められる。

第7 まとめ
 破壊的カルトにかかわる裁判は、何もオウム裁判だけではない。
 統一協会でいえば教祖の指示による合同結婚の無効にかかる人事訴訟、詐欺の民事裁判、不当勧誘にかかわる慰謝料請求の裁判があり、その行動と勧誘の異常性、心理操作の手法が認定されている。また、時に発生するいわゆる「遺体カルト」(十数人から数十人での集団生活をする中での代表の指示による暴行死、遺体の放置)にかかるいくつもの刑事裁判では、代表の絶対性が認定されるときもある。米国では、新聞王の孫の女性が19歳で誘拐されたが洗脳され自ら強盗までするに至ったハースト事件、「白人と黒人の最終戦争」なる妄想に取り付かれて殺人を繰り返したマンソンファミリー事件があった。
 しかし、米国の裁判は陪審で行われたからそう長くできない審理であり、かつ「有罪・無罪」と量刑結果があるだけだった。洗脳やマインド・コントロールについて十分な検討できず、事件や団体の実態の記録も十分には残らない。
 信者らを死刑にするかどうかまで視野に入れての裁判は、オウム裁判こそが世界で初めてである。これらのことからすれば、オウム事件の上訴審では改めて「麻原彰晃はなぜ少なくない信者らにここまで犯罪をさせえたのか」を、正面から問う審理と判決が要請されるのである。
 それによって、破壊的カルト集団の実態とそこでの心理操作の機序が判明し、サリンまで撒かずとも類似の事件が起こることを事前に察知でき、そのような団体の監視方法とメンバーに嵌められることの有効な予防策が立てられるのである。
 今、実行犯らについて、すでに確定した無期懲役3人を初め、次々と重罪の被告人らの判決も確定してきている。オウム裁判を真に意義あるものとするためには、裁判所は初心に帰って審理しなければならない。まして、絶対者である麻原彰晃こと松本智津夫被告よりも先に死刑判決を確定させたり、先に死刑を執行してはならない。

参考文献(主要なもの)
・ オウム「教祖」法廷全記録 全8冊 毎日新聞社会部編 現代書館
・ オウム法廷 全15冊  降幡賢一 朝日文庫
・ オウム法廷連続傍聴記 全2冊 佐木隆三 小学館
・ オウム真理教裁判傍聴記 全2冊  江川紹子 文芸春秋
・ オウムをやめた私たち カナリヤの会編 岩波書店 2000年
・ マインド・コントロールから逃れて 滝本太郎・永岡辰哉編著 
    恒友出版 1995年 
・ オウム裁判傍笑記 青沼陽一郎 新潮社2004年
・ オウム真理教大辞典 西村雅史・宮口浩之 東京キララ社 2003年

 ホームページ 無限回廊  http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/aum.htm
 ホームページ カナリヤの詩 http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/

補充−オウム裁判の10年    2006.6.22

1 筆者である滝本太郎の紹介。
 1957年1月17日生。早稲田大学法学部を卒業後、1983年4月から横浜弁護士会所属の弁護士。1989年11月4日未明、友人の坂本堤弁護士が妻子とともに行方不明になり(1995年9月惨殺されていたことが判明)、オウム真理教被害対策弁護団に入る。
 訴訟のみならず、1993年8月から脱会カウンセリング活動を始めて次々と脱会に成功した。また自らの「空中浮揚」の写真をとっている。そのため松本被告に憎悪され、たびたび攻撃される。1994年5月9日、滝本が運転する直前の自動車の空気吸入口付近に化学兵器サリンをかけられたが、偶然、縮瞳現象のみで生存。
 1995年11月から、JSCPR理事兼事務局。共著に「マインドコントロールから逃れて」、「宗教トラブル110番」、「オウムをやめた私たち」、「異議あり!奇跡の詩人-ドーマン法、FCの真実」。

2 関連するホームページ
日本脱カルト協会 http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/
The Japan Society for Cult Prevention and Recoveryのホームページである。
無限回廊 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/aum.htm
−事件や被告人の概要と、刑事裁判の判決結果などが逐次でている。
カナリヤの http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/
−オウム真理教脱会者の集まりである「カナリヤの会」のホームページである。滝本が主催している。

3 文章についての補充

第3の2記載の宮前被告は2005年4月7日、最高裁で死刑が確定したが、執行はまだされていない。第3の14記載の新実被告は、2006315日高裁で地裁と同じく死刑判決を受け、最高裁で審理中である。教祖の松本被告に対しては、2006327日、高裁が控訴を棄却した。これは、弁護人が2005831日までに出すべき書類を出さなかったことによる。弁護人は、松本被告が訴訟を受ける能力がなくなっていると主張したが、鑑定の結果、裁判所は認めなかった。最高裁で審理中だが、2006年末までには死刑が確定する可能性が高い。                              以 上


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